日本書道史上の、優れた3人の能書家。普通、単に三筆といえば、平安初期の空海(くうかい)(弘法(こうぼう)大師)、嵯峨(さが)天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)をさすが、この初見は江戸中期、貝原益軒編の『和漢名数』である。空海と逸勢は、783年(延暦2)留学生(るがくしょう)として入唐(にっとう)。唐文化と書法の修得に努め、多くの法帖(ほうじょう)を将来して、それらを嵯峨天皇に献上している。この三筆の個性あふれる書の根底には、中国書法、とくに王羲之(おうぎし)の影響が強くみられ、日本書道史の基盤を築いた点で重要な存在である。このほか、各時代ごとに能書家3人を選んで「三筆」とよぶ習わしがある。
[神崎充晴]
江戸初期の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、近衛信尹(このえのぶただ)(三藐院(さんみゃくいん))、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)(滝本坊(たきもとぼう))をいう。この3人は、室町時代までの型にはまった書に対し、上代様(じょうだいよう)の古典に立脚した新書風を展開し、一時代を築いた。
[神崎充晴]
江戸幕府の儒学奨励のもと、黄檗(おうばく)宗をもたらした明(みん)の僧隠元(いんげん)に、木庵(もくあん)、即非(そくひ)を加えてよぶ。彼らは明の書法に基づき、雄渾(ゆうこん)な特色を打ち出して世に黄檗流の一派をなし、唐様(からよう)発展の端緒となった。
[神崎充晴]
江戸末期に活躍した市河米庵(いちかわべいあん)、貫名海屋(ぬきなかいおく)、巻菱湖(まきりょうこ)の3人。いずれも職業書家として一家をなし、江戸の唐様を代表する能書家である。
[神崎充晴]
日本の書道史上の3人の能筆家。平安初期の嵯峨天皇,空海,橘逸勢(はやなり)の3人を指す。3人を特に三筆と称するようになったのがいつごろか明らかでないが,そう古くにはさかのぼらない。ほかには江戸時代に日本へ渡った黄檗(おうばく)宗の3僧,隠元,木庵(もくあん)(1611-84),即非(そくひ)(1616-71。諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦,松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。また巻菱湖(まきりようこ),市河米庵,貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))の3人を〈幕末の三筆〉という。
→三蹟
執筆者:栗原 治夫
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平安初期,能書として尊重された空海・嵯峨天皇・橘逸勢(はやなり)の3人。唐文化の追随・模倣の当時にあって,空海・逸勢らが唐から将来した顔真卿(がんしんけい)などの書の影響をうけ,高度な書道文化が築かれた。嵯峨天皇はこれを庇護・推進し,みずからも空海に書を学んだ。三筆の呼称を明記した最初の文献は,貝原益軒の「和漢名数」(1689刊)である。
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出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…書も唐風から和風への萌芽を見せ始めて,王羲之を主流とした伝統的書風の中に温雅な風韻を持ちつつあった。その頂点に三筆(嵯峨天皇,空海,橘逸勢(はやなり))が位置する。空海はその代表で,入唐以前の24歳のときの筆になる《聾瞽指帰(ろうこしいき)》は,王羲之そのままの筆法を踏襲しながらも,若さと日本的な柔和な筆触が表れており,さらに帰朝後の書状《風信帖》になると,唐風を脱した日本人としての自覚的書風を創り始めている。…
※「三筆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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