三重(読み)サンジュウ

デジタル大辞泉 「三重」の意味・読み・例文・類語

さん‐じゅう〔‐ヂユウ〕【三重】

三つ重なること。「二重三重に防護する」「三重衝突」
日本音楽で用いる語。
声明しょうみょうで、音域を三つに分けたうちの最高の高さの音域。
平曲で、美文調の韻文による詠嘆的な場面に使う高い音域の曲節。
義太夫節で、一段の最初や最後または場面の変わり目などに用いる旋律。
長唄常磐津清元など歌舞伎舞踊音楽で、場面転換などに用いる曲節。2㋒を取り入れたもの。
歌舞伎下座音楽で、唄を伴わない三味線曲。特定の演出と結びついた効果音楽として用いる。

みえ【三重】[地名]

近畿地方東部の県。県庁所在地津市。もとの伊勢志摩伊賀の3国と紀伊の一部。人口185.5万(2010)。

み‐え〔‐ヘ〕【三重】

三つかさなっていること。また、そのもの。さんじゅう。
3色の色糸で模様を織り出すこと。また、その織物。

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精選版 日本国語大辞典 「三重」の意味・読み・例文・類語

さん‐じゅう‥ヂュウ【三重】

  1. 〘 名詞 〙
  2. [ 一 ] 物、事柄などが三つかさなっていること。三段階になっていること。また、そのもの。みかさね。みえ。三層。三段。「三重の衝突」「三重の苦しみ」
    1. [初出の実例]「発弘願、令三重小塔一百万基」(出典:続日本紀‐宝亀元年(770)四月戊午)
    2. 「心を二重三重になせにはあらずと書給へり」(出典:ささめごと(1463‐64頃)下)
  3. [ 二 ] 音の高さや、奏法にいう語。
    1. 仏教音楽の声明(しょうみょう)で、音域を三つにわけた最高の高さの音域。初重、二重、三重と高くなる。
    2. 平家琵琶の曲節の一つ。美しく詠嘆的なところに用い、速度はもっとも遅く、音域はもっとも高い。平曲中の聞かせどころとなる。三重のもっとも高い部分を三重の甲(かん)という。
      1. [初出の実例]「真都(しんいち)三重(ヂウ)の甲を上れば、覚一初重の乙に収(をさめ)て歌ひすましたりければ」(出典:太平記(14C後)二一)
    3. 三味線楽の旋律型の一つ。浄瑠璃や長唄などで、一曲の最初や最後、または、場面の変わり目などに用いる。義太夫節には、大(おお)三重、キオイ三重、引取三重など、種類が多い。本来は高い音域の部分という意味からの名称。
      1. [初出の実例]「すごすご帰る有様は 目も当て、られぬ 三重」(出典:浄瑠璃・曾根崎心中(1703))
    4. 歌舞伎の下座音楽で用いる効果音楽としての三味線。唄は伴わない三味線曲で、まれに鳴物を伴う。曾我の対面の場に使う「対面三重」など。
      1. [初出の実例]「『おのれ化け物、いづくまでも』と三重(さんヂウ)になり、新左衛門追ひ駈けて向うへ入る」(出典:歌舞伎・時桔梗出世請状(1808)二幕)

み‐え‥へ【三重】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 三つ重なっていること。また、その重なっているもの。
      1. [初出の実例]「玉の緒を腐して、三重に手に纏かし」(出典:古事記(712)中)
      2. 「二つなき恋をしすれば常の帯を三重(みへ)結ぶべく我が身はなりぬ」(出典:万葉集(8C後)一三・三二七三)
    2. 三色の色糸で模様を織り出した織物。〔讚岐典侍(1108頃)〕
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 三重県北部の郡名。明治二九年(一八九六)の郡統合以前には、三重・朝明(あさけ)の二郡に分かれていた。
    2. [ 二 ]みえけん(三重県)」の略。

みつ‐がさね【三重】

  1. 〘 名詞 〙 杯・重箱・衣服などで、三つ重ねて一組としたもの。三枚重ね。三つ組。みえがさね。
    1. [初出の実例]「みつがさねの袴・扇まで、いみじくせさせ給へり」(出典:栄花物語(1028‐92頃)若水)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三重」の意味・わかりやすい解説

三重(県)
みえ

日本列島のほぼ中央、本州の太平洋側に位置し、紀伊半島の東側を占める県。東は伊勢(いせ)湾と熊野灘(なだ)に面して長い海岸線をもち、北は養老山地と揖斐(いび)川、長良(ながら)川、木曽(きそ)川、鍋田(なべた)川の河川を境に岐阜・愛知両県と接し、北西は鈴鹿(すずか)山脈を隔てて滋賀県に、西は京都府に、南西は高見(たかみ)山地・大台ヶ原(おおだいがはら)山系を境に奈良県に、南端は熊野川で和歌山県にそれぞれ接している。古代から近世まで、伊勢、伊賀、志摩、紀伊(一部)の4国に分かれていた所で、地理的統一性はあまりよくない。したがって地域経済の中心となるべき都市が育ちにくく、県庁所在地の津市が、2006年(平成18)の2市6町2村による合併以前は、県下では四日市市、鈴鹿市に次いで人口数第3位に、合併後も第2位に甘んじているなど特異な県ではある。しかし、人口、面積、産業規模、県民所得などでは全国の中位である。面積5774.49平方キロメートル。人口177万0254(2020)。

 古くから伊勢神宮が祀(まつ)られるなど歴史は古く、とくに畿内(きない)とのつながりが濃く、現在も市民文化や言語は関西系に属している。しかし近代になって、尾張(おわり)国と伊勢国との間の地形的障害をなしていた木曽三川(さんせん)に橋が架けられ、鉄道と道路が通じてから急速に名古屋とのつながりが深まった。とくに県人口の過半が住む伊勢平野は名古屋に便利な交通体系を有しているところから、三重県経済は中京経済圏の支配下にあるのが実情である。ただ、上野盆地は大阪に便利で、名張(なばり)市などは大阪の遠郊住宅都市としての性格が強く、大阪圏に属している。総じて三重県は東西文化・経済圏の接点にあるといえるだろう。行政上の管轄区では林野庁の近畿中国森林管理局(大阪)および国交省の近畿地方整備局(大阪。木津川上流河川事務所)を除いて、他の省庁はすべて名古屋にある出先機関の管轄下に置かれている。

 三重の県名は、1872年(明治5)3月17日安濃津(あのつ)県の県庁を津から三重郡四日市に移したとき、郡名にちなんで命名された。県庁は翌年12月10日にふたたび津へ移されたが、県名はそのままとなった。三重の地名は『古事記』に初見されるが、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征のおり、足が三重に曲がるほど疲れていたという伝説による。

 2020年(令和2)10月現在、14市7郡15町からなる。

[伊藤達雄]

自然

地形

県のほぼ中央、伊勢湾口から櫛田(くしだ)川の谷に沿って、日本列島西部を内帯と外帯に分ける大断層の中央構造線が東西に横断して走り、地形はその南北で大きく異なる。北部では、南北に連なる鈴鹿山脈、布引山地(ぬのびきさんち)の地塁を中心に東に伊勢平野、西に上野盆地がモザイク状に並ぶ。鈴鹿山脈、布引山地は東西両側を断層で切られ、しかも東に急傾斜をなす傾動地塊で、山頂部には地形原面の平坦(へいたん)地が残っており、北の養老山地とともに断層地形の典型として有名。伊勢平野は大部分が更新世(洪積世)の丘陵、台地、扇状地などで小起伏に富み、その間を北から員弁(いなべ)、朝明(あさけ)、鈴鹿、安濃(あのう)、雲出(くもず)などの河川が伊勢湾に注ぎ、海岸や河口に肥沃(ひよく)な沖積平野を形づくっている。海岸は平滑な砂泥質海岸で、志摩半島以南のリアス海岸とは著しい対照をなしている。布引山地と笠置(かさぎ)山地に挟まれる上野盆地は地溝性構造盆地で、周辺には古琵琶(こびわ)湖層群の発達がみられ、かつて古琵琶湖の一部であったことが知られる。全域木津(きづ)川の流域で、水は西流して大阪湾に入る。

 一方、中央構造線の南は、紀伊山地の東端が海岸に迫り、平地は櫛田川、宮川の谷底や海岸に限られ、山がちの地形である。その海岸も、熊野市木本(きのもと)から熊野川河口までの間の七里御浜(しちりみはま)とよばれる砂礫(されき)海岸のほかは、出入りが激しい日本でも有数のリアス海岸である。とくに的矢(まとや)、英虞(あご)、五ヶ所(ごかしょ)などの湾入は水産養殖業や観光地として有名である。志摩半島の南半、先(さき)志摩は隆起海食台地(海成台地)として日本最大の広さをもち、緩やかな起伏の続く景観は雄大で美しく、伊勢志摩国立公園の主要部をなしている。一方、七里御浜や瀞八丁(どろはっちょう)(特別名勝・天然記念物)などがある奈良・和歌山県境一帯は吉野熊野国立公園に、北部の鈴鹿山脈は鈴鹿国定公園に、県央の布引山地、高見山地は室生(むろう)赤目青山国定公園に指定されており、県立自然公園には赤目一志(いちし)峡、伊勢の海、香肌(かはだ)峡、水郷(すいごう)、奥伊勢宮川峡の五つがある。

[伊藤達雄]

気候

南北に細長く、地形も複雑なだけに気候も多様である。気候型としては、北部の養老山地・鈴鹿山地の日本海型、伊勢平野の東海型、上野盆地の内陸型、熊野灘沿岸の南海型の四つのタイプがある。つまり日本海と太平洋の両側の気候がみられるのである。鈴鹿山脈北端は本州の中央地峡部にあたり、敦賀(つるが)湾から60キロメートル弱の距離にあり、冬の季節風は日本海から員弁川の谷に沿って伊勢湾へ吹き抜け、四日市あたりまでかなりの雪をもたらす。御在所(ございしょ)山がこの地域では珍しいスキー場として知られるのはこのためである。一方、黒潮洗う熊野灘は年中温暖で、1月の平均最低気温も2℃で、氷が張ることは珍しい。紀州ミカンの産地で、ハマユウが自生するなど、暖帯性植物群落も多い。尾鷲(おわせ)は年降水量が4000ミリメートルを超える日本でも多雨地帯として知られる。その中間に伊勢湾岸の温和な気候区が存在する。この伊勢の地が神の強い気を鎮めるにふさわしいとして神宮の鎮座が決まったという伝説もうなずける。

[伊藤達雄]

歴史

先史・古代

伊勢湾を眼下に見下ろす丘陵、扇状地、河岸段丘の末端には先史時代の遺跡が多い。もっとも古いものでは近畿地方には珍しく中央山岳地帯に発達した先土器時代の剥片(はくへん)石器が発見されている。これらは、いなべ市大安(だいあん)町地区、多気(たき)町色太(しきぶと)など北勢(県北部)から中勢(県中部)にかけて分布している。縄文時代になると、初期のものから末期までほとんど全県下に遺跡が広がる。農耕の始まった弥生(やよい)時代の遺跡はさらに沖積地一帯に分布し、志摩市志摩町白浜(しらはま)ではこの時代のものとしては全国的に珍しい人骨も出土している。古墳時代に入って支配階級が生まれると、その中心は上野盆地と中勢に形成されたと推定され、ここに多くの古墳群が集中する。古墳時代前期(4世紀ごろ)の前方後円墳としては伊賀市車塚古墳(くるまづかこふん)と石山古墳、前方後円墳は大和(やまと)から伊賀を通って伊勢への出口にあたる松阪市嬉野一志(うれしのいちし)町の筒野古墳などが保存もよい。筒野古墳からは中国渡来の三角縁(さんかくぶち)神獣鏡2面が出土しているが、この鏡と同じ鋳型からつくられたとみられる鏡が滋賀、大分、奈良の各県で発見されており、大和政権との関係を示唆するものとして貴重である。1996年(平成8)櫛田川左岸の松阪市粥見井尻遺跡(かゆみいじりいせき)(縄文草創期)から、当時日本最古の土偶がほぼ完全な形で出土して話題となった。また、2000年には松阪市の宝塚古墳(5世紀初め)で日本最大といわれる大形の船形埴輪(はにわ)が発掘されている。

 古代史は伊勢神宮の鎮座とともに始まる。『日本書紀』によると、皇祖天照大神(あまてらすおおみかみ)の霊は宮中に祀(まつ)られていたが、崇神(すじん)天皇6年、神の威光を遠ざけるため、大和(奈良)の笠縫邑(かさぬいのむら)に移し、垂仁(すいにん)天皇25年に皇女倭姫命(やまとひめのみこと)に永久鎮座の地を探させ、近江(おうみ)(滋賀)、美濃(みの)(岐阜)などを遍歴したすえ、現在地の五十鈴(いすず)川中流に定めたという。その後、雄略(ゆうりゃく)天皇22年に丹波(たんば)(京都)から豊受(とようけ)大神を移して外宮(げくう)とした。これが神宮の起源である。

 大化改新後、しだいに国郡の制が整うが、三重県では680年(天武天皇9)ごろになって伊勢、伊賀、志摩の3国が分立した。『延喜式(えんぎしき)』によると、伊勢には桑名、員弁(いなべ)、朝明(あさけ)、三重、河曲(かわわ)、鈴鹿、奄芸(あむへ)、安濃(あの)、壱志(いちし)、飯高(いいだか)、飯野(いいの)、多気(たけ)、度会(わたらい)の13郡、伊賀に阿拝(あへ)、山田、伊賀、名張(なばり)の4郡、志摩に答志(とうし)、英虞(あご)の2郡があった。このうち度会、多気、飯野は神宮領で、のち、平安初期には員弁、三重、安濃、朝明、飯高が加わって神八(じんぱち)郡とよばれた。国府は、伊賀は伊賀市、伊勢は鈴鹿市、志摩は志摩市に置かれた。いまも伊勢、伊賀の平坦(へいたん)部には当時の条里制が残っている。

[伊藤達雄]

中世

律令(りつりょう)制が崩れると各地に荘園(しょうえん)が発生した。伊賀では東大寺領荘園、伊勢、志摩では神宮領荘園が勢力を占めた。そのころ伊勢では、平朝臣(たいらのあそん)の姓を賜り地方官として土着していた桓武(かんむ)天皇の子孫がしだいに武士として力をつけ、桓武天皇から6代目の維衡(これひら)が初めて伊勢守(かみ)となり(1006)、その後清盛(きよもり)の父忠盛(ただもり)の代まで続いた。伊勢は平氏起源の地として、今日も各地に平氏ゆかりの遺跡や伝説が多い。『三国地誌』に平忠盛は津市街西郊の産品(うぶしな)に生まれたとあり、胞衣(えな)塚が現存する。南北朝時代、北畠顕能(きたばたけあきよし)が1335年(建武2)伊勢国司に任ぜられていたので、南朝の形勢が傾いたとき、顕能の父親房(ちかふさ)は宗良(むねなが)親王を奉じて伊勢へ下った(1336)。以後、伊勢は南朝の勢力下に置かれ、北畠氏の力は北勢や熊野にも及んだ。室町幕府の下でも北畠氏は霧山城(津市美杉町上多気・下多気)を拠点に代々伊勢国司を勤めたが、織田信長の勢力が伊勢全土に及び、1576年(天正4)8代具教(とものり)が信長に謀殺されて滅んだ。

 戦国時代、北畠氏のほか、亀山城の関氏、神戸(かんべ)城(鈴鹿市)の神戸氏、安濃津城(津市)の長野氏が北勢三家とよばれていたが、いずれも織田信長によって滅ぼされた。伊賀は在地領主らの連合支配下にあったが、1581年信長の伊賀攻めの大軍によって制せられた。一方、熊野では熊野海賊らが水軍を率いてしばしば戦国の戦いを左右していた。なかでも九木(くき)浦の九鬼嘉隆(くきよしたか)は鳥羽(とば)へ進出して城を築き、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(1592~1598)の朝鮮出兵には日本丸を建造して参加した。関ヶ原の戦い(1600)では西軍に属し、戦後自刃した。これより先、本能寺の変(1582)後、伊勢は信長の次男織田信雄(のぶかつ)の勢力下にあり、信雄は1584年反秀吉の兵をあげたが、秀吉はこれを平定し、北勢の長島城に甥(おい)の秀次を、松ヶ島城に蒲生氏郷(がもううじさと)を、安濃津城に富田知信を、伊賀城に筒井定次を、神戸城に生駒親正(いこまちかまさ)をそれぞれ配して国替を行った。蒲生氏郷は松ヶ島城を廃して松坂城を築いて城下町を計画し、前任地の近江日野から商人を移住させ、楽市(らくいち)制を敷くなどした。

[伊藤達雄]

近世

江戸幕府の成立当時、三重県下は東西両陣営が混在したため複雑な大名配置がなされた。1813年(文化10)ごろの県下の藩と大名の配置は次のようであった。長嶋(ながしま)藩(増山(ましやま)氏2万石)、桑名藩(松平氏10万石)、八田(はった)藩(加納氏1万石)、菰野(こもの)藩(土方(ひじかた)氏1万1000石)、亀山藩(石川氏6万石)、神戸藩(本多氏1万5000石)、津藩(藤堂(とうどう)氏32万3000石)、津藩の支藩久居(ひさい)藩(5万石)、鳥羽藩(稲垣氏3万石)。ほかに東紀州の紀伊藩を加えて全部で10藩であった。さらに天領、神宮領、寺社領などが入り組み、神宮には山田奉行(ぶぎょう)が置かれた。

 江戸時代を通じて県下には東海道五十三次のうち、桑名、四日市、石薬師、庄野(しょうの)、亀山、関、坂下(さかのした)の7宿が置かれ、とくに海路との接点をなした桑名、四日市、鈴鹿峠にかかる坂下は栄えた。また四日市の追分(おいわけ)で東海道と分岐して伊勢(いせ)神宮へ向かう参宮街道(伊勢路)、関で分岐して津へ向かう参宮別街道などは、神宮信仰が庶民の間に浸透するにしたがってにぎわった。1705年(宝永2)、1771年(明和8)、1830年(天保1)にはお陰参りとよばれる集団的な伊勢参りが全国的に流行した。本居宣長(もとおりのりなが)は「宝永(ほうえい)2年4月9日からの50日間で392万人が松坂を通過した」と『玉勝間(たまかつま)』に記している。

[伊藤達雄]

近・現代

明治維新後の廃藩置県(1871)では、今日の北勢、中勢、伊賀の地域が安濃津(あのつ)県、南勢、志摩、紀伊の地域からなる度会(わたらい)県が成立、それぞれ県庁を津(一時、四日市)と宇治山田(現、伊勢市)に置いた。1872年(明治5)安濃津県は三重県と改称、1876年度会県と合併して今日の県域が定まった。明治以降の三重県は、東海道本線が関ヶ原経由となったため幹線軸から外れ、伊勢神宮も国体の象徴として神宮司庁の下に置かれ、お伊勢参りも庶民の信仰、慰楽の対象ではなくなった。こうした情勢に危機感を抱いて、四日市では地元財界が結集して1888年に関西鉄道会社を設立、1895年には名古屋―草津間を開業させた(1907年国鉄に買収され関西本線となる)。また稲葉三右衛門(いなばさんえもん)は私財を投じて四日市港の修築を行い、伊勢湾ではもっとも早く開港場に指定(1899)される基礎をつくった。四日市港はその後も国際貿易港として修築が重ねられ、とくに日本最大の羊毛輸入港として中京繊維工業発展に貢献した。

 第二次世界大戦の末期、四日市に第二海軍燃料廠(しょう)がつくられたのをはじめ、鈴鹿海軍工廠、津海軍工廠が設立され、民間工場も軍需工場への転換や新設が図られた。1944年(昭和19)12月におこった東南海地震は県下でも死者・行方不明者259人、倒壊・流失家屋約7000戸に及ぶ被害を受けた。1945年には四日市、津両市を中心に米軍機による空襲が続き多大の被害を被った。また1959年(昭和34)9月、伊勢湾台風は県下北部に大被害を与え、死者・行方不明者1281人に達し、被害総額は1826億円に上った。

[伊藤達雄]

産業

農業

温暖な気候と京阪神・中京の大消費地に近い地理的条件に恵まれ、生産額では全国中位で、生産品目の多い農業県である。地域別には、伊勢平野で米を中心に野菜、施設イチゴ、トマト等が、鈴鹿山麓(すずかさんろく)や南勢地域で茶が、鈴鹿・津地域で花卉(かき)花木が、南勢・紀州地域で柑橘類が、松阪・伊賀地域で肉用牛が、それぞれ特産品となっている。耕地面積は6万1300ヘクタール(2011)で、うち水田4万6100ヘクタール、畑1万5200ヘクタール。畑のうち約4割が樹園地である。いずれも1990年代に入り安定的微減状態が続いている。産出額は1096億円で、部門別シェアは畜産31.5%、米27.7%、野菜15.4%、果実7.3%などとなっている。三重の米は早場米として知られ、作付けの7割以上がコシヒカリでその生産量は西日本一。生産額の高い畜産では松阪牛・伊賀牛が有名で、220戸の農家が2万6500頭の肉用牛を飼育している。そのほかでは、古くから伊勢茶とよばれる茶の生産が全国第3位。さつき・つつじ類の生産は全国第1位で、公園・道路・住宅の緑化とともに成長産業となっている。農家戸数は4万5990(2004)、うち専業農家は15.9%で全国の20.4%を下回り、兼業化率が高い。

[伊藤達雄]

林業

県土の64.5%を占める森林面積は37万2529ヘクタール(2009)と広く、しかも人工林率が62.4%と高い。櫛田(くしだ)川・宮川の流域は吉野林業の、尾鷲(おわせ)地域は紀州林業のそれぞれ伝統を継ぐ優良材生産の先進地で、尾鷲・松阪は古くから木材の集散・製材地として栄えた。人工林面積のうちヒノキ47.4%、スギ44.2%で、ヒノキ素材生産は全国第5位を占める。

[伊藤達雄]

水産業

三重県は長い海岸線をもつとともに、内湾性の伊勢湾、リアス地形の志摩半島沿岸、外洋性の熊野灘(なだ)の、特色ある海域を有し、遠洋・沖合・沿岸・養殖・海女(あま)など多様な漁業がみられる。伊勢湾でのイワシ・イカナゴ船引網、ノリ養殖、志摩海岸でのアワビ・サザエ海女漁、真珠・ハマチ・タイ養殖、熊野灘でのブリ定置網、カツオ・マグロ巻網・敷網、カツオ一本釣り、マグロ延縄(はえなわ)などである。総生産量は20万2904トン、628億円(2002)で、全国の6位である。特産としては真珠(全国の21%、第2位)、マダイ(13%、第2位)、カキ(9%、第4位)などがあり、また英虞(あご)湾は御木本幸吉(みきもとこうきち)が初めて真珠養殖に成功したところとして名高い。

[伊藤達雄]

鉱工業

鉱業は、鈴鹿山脈藤原岳の石灰岩がセメント原料に利用されているほかにはみるべきものはない。しかし、かつては、平安から室町期に大量の水銀を産した丹生(にゅう)鉱山(多気町)、江戸期に銀・銅山として栄えた治田(はった)鉱山(いなべ市)、1978年まで硫化鉱・銅鉱を産した紀州鉱山(熊野市)などが知られた。

 三重県の工業は、事業所数4714、従業者数19万0764、製造品出荷額9兆5644億円、付加価値額2兆5327億円(従業者4人以上、2011)で、製造品出荷額でみると全国第9位に位置する。最近の推移は、1991年をピークに事業所数・従業者数は微減傾向を続けているが、生産額等には大きな変化はみられない。主要業種を出荷額構成比でみると、輸送(23.6%)、電子(14.7%)、化学(12.0%)、電気(7.3%)、石油(6.7%)などである。県内を北勢、中南勢、伊勢志摩、伊賀、東紀州の5地域に分け、出荷額で比較すると、北勢(67.6%)が群を抜いて高く、中南勢(18.1%)、伊賀(8.8%)、伊勢志摩(4.7%)、東紀州(0.8%)の順となり、南へ下るにつれて低くなる。四日市・桑名・鈴鹿・亀山の各市を含む北勢地域は、中京工業地帯の一角を担い、四日市港を擁して、第二次世界大戦前から繊維、食品、鋳物、陶器などの集積があった。戦後、四日市港の海軍燃料廠跡に三菱(みつびし)系資本が石油化学コンビナートを建設して以来、この地域の工業構造は大きく変わった。コンビナートは第一期(塩浜地区、1958年完成)、第二期(午起(うまおこし)地区、1961年完成)、第三期(霞(かすみ)地区、1970年完成)と拡張を続け、日本を代表する大規模石油化学コンビナートの一つとして、高度経済成長に貢献した。しかし一方、操業開始直後から周辺住民の間に四日市喘息(ぜんそく)とよばれた呼吸器系疾患が発生し、その公害裁判(1967~1972)は四大公害裁判の一つといわれ、多くの教訓を残した。1991年、通産省(現、経済産業省)認可の公益法人として四日市桜地区に設置された(財)国際環境技術移転研究センター(ICETT)は、途上国に公害防止の経験と技術を伝えるための施設で、多くの国から研修生が訪れている。

 化学工業は長く県工業の首位を占めてきたが、1970年代初めの高度成長の終わりとともにその座を輸送機械・電気機械に譲って今日に至っている。鈴鹿に立地した本田技研、北勢内陸のデンソー(旧、日本電装)、富士通、さらに国道1号や名阪自動車道に沿って上野盆地や中勢地域にも各種の工場立地が広がっている。三重の伝統工業としては、鈴鹿の伊勢型(形)紙と墨、四日市の万古(ばんこ)焼、伊賀の伊賀焼と組紐(くみひも)(以上、国の伝統的工芸品に指定)、松阪の木綿などが、工芸品としても貴重である。

[伊藤達雄]

交通

県内の鉄道には、JRの関西本線・紀勢本線(きせいほんせん)・参宮線(さんぐうせん)・名松線(めいしょうせん)・草津線、近畿日本鉄道の大阪線・名古屋線・山田線・鈴鹿線・湯の山線・志摩線・鳥羽線、三岐鉄道(さんぎてつどう)の三岐線・北勢線、養老鉄道の養老線、伊賀鉄道の伊賀線、第三セクターが運営する伊勢鉄道の伊勢線、四日市あすなろう鉄道の内部(うつべ)線、同八王子線があり、全県の主要都市を結んでいる。これらの鉄道を利用する県内客の総数は年間8874万人(2009年度)で、うちJRの利用客は13.4%にすぎず、大部分が近鉄を利用する。県庁所在市の津から近鉄特急で名古屋へ50分、大阪へ90分で到達できる。

 道路では、名阪国道が大阪と名古屋へ、近畿自動車道伊勢線(伊勢自動車道)が亀山から伊勢へ通じ、伊勢湾岸自動車道、東名阪自動車道、新名神高速道路も県内区間は開通し、伊勢自動車道から分岐する近畿自動車道尾鷲多気線(紀勢自動車道)一部区間を除いて開通している。ほかに、国道1号(東海道)、23号(参宮街道)、25号、42号(熊野街道)などが県内の幹線である。また、構想中のリニア中央新幹線は三重県北部を通過する。

 海上交通では、鳥羽からフェリーが渥美半島先端の伊良湖(いらご)へ60分で結び、観光ルートの一つとなっている。港湾では国際拠点港湾の四日市港、重要港湾の津松阪港、尾鷲港と、ほかに地方港湾17港がある。なかでも四日市港は1899年(明治32)伊勢湾で最初の開港場に指定された由緒ある港で、名古屋港とともに中京大都市圏の海外貿易の玄関口となっている。

 県内に空港はなく、最寄りの国際空港は、伊勢湾を挟んで対岸の愛知県常滑(とこなめ)市沖にある中部国際空港である。津、松阪と空港は高速船で結ばれている。

[伊藤達雄]

観光

三重県には、伊勢志摩、吉野熊野の二つの国立公園、鈴鹿、室生赤目青山の二つの国定公園のほか、五つの県立自然公園がある。とくに伊勢志摩は、阪神・中京大都市圏から近く、古代から民間信仰の対象となった伊勢神宮、風光明媚(めいび)なリアス海岸と隆起海成台地、民俗色豊かな風物と海の幸に恵まれ、国内外から訪れる人の多い日本の代表的観光地で、1987年(昭和62)成立のリゾート法(総合保養地域整備法)ではその第一号指定(1988年)を受けた。県も観光立県を目ざして1994年(平成6)に「まつり博」を開催した。同年、近鉄がホテルを併設したテーマ・パーク「志摩スペイン村」を開園し、1995年には伊勢神宮の式年遷宮もあって、県全体で4555万人の入り込み客があった。その後は若干減少し、2003年の入り込み客は4307万人、2010年には3562万人である。

[伊藤達雄]

社会・文化

教育文化

東海道と参宮街道を多くの人々や物資や情報が通過する三重県は日本の先進地であった。国学者として著名な松坂の本居宣長(もとおりのりなが)、津の谷川士清(ことすが)、上野の生んだ俳人松尾芭蕉(ばしょう)など日本の文化史上、重要な業績を残した人々が育ったのも先進的文化風土のゆえであろう。

 津藩の藩校有造(ゆうぞう)館が創設されたのは1820年(文政3)で、初代督学には津坂孝綽(こうしゃく)がなり、学問と政治の一体化を唱え、腐敗した儒学に対して「真儒」を説いた。3代督学斎藤拙堂(せつどう)は蘭学(らんがく)研究のための洋学館を設け、長崎に伝習生を送るなど藩校の発展に尽くした。拙堂の尽力により津藩では庶民の子弟の教育機関修文(しゅうぶん)館もつくられた。このほか、桑名藩の立教館、長島藩の文礼館、亀山藩の明倫(めいりん)館、神戸(かんべ)藩の教倫(きょうりん)堂、菰野(こもの)藩の修文館、鳥羽藩の尚志(しょうし)館、久居(ひさい)藩の句読(くとう)所などの藩校があった。

 2008年(平成20)の時点で、高等教育機関では、4年制大学として、国立の三重大、県立の看護大、私立の皇学館大、四日市大、鈴鹿医療科学技術大、鈴鹿大、四日市看護医療大学の7大学、短期大学として、津市立の三重短大、私立の高田短大、鈴鹿短大、ユマニテク短大の4短大があり、高等専門学校として、国立の鈴鹿工業高専・鳥羽商船高専、私立の近畿大学工業高専の3校がある。

 新聞は、中央紙のほかは名古屋に本社を置く『中日新聞』のほぼ独占的支配下にある。ラジオ・テレビも、上野盆地が大阪系に属するほかは、名古屋系放送網の勢力圏内にある。県内を対象とする地方新聞(日刊)では、ほぼ県下全域をカバーする『伊勢新聞』(本社津市)が最大で、ほかに『南海日日』(尾鷲市)、『吉野熊野新聞』(熊野市)などがそれぞれの地域でミニコミ紙的に読まれている。放送関係ではNHKのほか三重テレビ放送(津市)と三重エフエム放送(津市)の2社がある。

[伊藤達雄]

生活文化

志摩の漁村は長く民俗学の宝庫といわれたが、古い風習は急速に消えつつある。志摩市阿児(あご)町国府(こう)で近年まで一般的であった屋敷内に別棟を建てて老夫婦が別居する隠居制もいまはほとんどみられない。わずかに正月や祭りの行事に昔の生活や風習をしのぶしきたりが続いているだけといえよう。元旦(がんたん)、紀北(きほく)町海山(みやま)区白浦(しろうら)では潮水をくんで船にかけ船の魂を清める。正月11日、志摩市志摩町和具(わぐ)では海女が餅(もち)や供え物を浜辺に並べて海水をまき、豊漁を祈る。鳥羽市神島ではアワビの豊漁を祈って6月10日に船から海中に米をアワビの種に見立ててばらまく、など漁業に関する風習は根強く残っている。一方、農村では機械化と兼業化が進み、農薬が普及してからは「虫送り」行事も行われなくなった。

 三重県の伝統芸能のうち古くから伊勢神宮に奉納されてきた神楽(かぐら)は、中世から近世末までは御師(おし)の屋敷でも奉納された。桑名市に残る伊勢太神楽(いせだいかぐら)(国の重要無形民俗文化財)は御師と結んで発展したといわれる。また志摩市磯部(いそべ)町にある神宮の別宮伊雑宮(いざわのみや)にはお田植神事「磯部の御神田(おみた)」(国の重要無形民俗文化財)が伝えられる。このほか神事芸能には鈴鹿市の椿大神社(つばきおおかみやしろ)や伊奈富(いのう)神社で演じられる獅子(しし)神楽、伊勢市御薗(みその)町の御頭(おかしら)神事(国指定重要無形民俗文化財)などがある。県下各地に伝えられる羯鼓踊(かんこおどり)は、羯鼓とよばれる締太鼓(しめだいこ)を胸に吊(つ)り下げ、それを打ち鳴らしながら踊るもので、雨乞(あまご)いや病気平癒を目的とする。志摩市阿児町の「安乗(あのり)の人形芝居」(国の重要無形民俗文化財)は、近世末、九鬼(くき)水軍が八幡宮に人形を奉納したことに始まるという。また、鳥羽市の志摩加茂五郷の盆祭行事、四日市市富田の鳥出(とりで)神社の鯨船行事、伊賀市の上野天神祭のダンジリ行事も国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 神宮が20年ごとに行う式年遷宮祭は、7世紀に始まり、2013年(平成25)には第62回が行われた。神宮に関する祭りと、志摩の漁村で豊漁と安全を祈る独特の行事が三重の祭りの特色であるが、一般に知られる祭りや年中行事には次のものがある。鳥羽市神島のゲーター祭(1月)、伊勢市二見町夫婦岩(めおといわ)の大注連縄張(おおしめなわはり)神事(5月5日、9月5日、12月中旬の土・日曜日)、尾鷲市のヤーヤー祭(2月)、熊野市の花の窟(いわや)祭(2月、10月の2日)、松阪市継承寺の初午(はつうま)(3月)、神宮の神楽祭(4月、9月)、桑名市多度町の多度大社例祭(5月)、伊勢市猿田彦(さるたひこ)神社の御田植祭(5月)、菅島(すがしま)のしろんご祭(7月)、桑名市の石採(いしとり)祭(8月)、四日市市鳥出神社の富田鯨船祭(8月)、志摩市大王町波切(なきり)わらじ祭(旧暦8月申(さる)の日)、四日市祭(10月)、上野天神祭(10月)など。

[伊藤達雄]

文化財

伊勢神宮所蔵の書跡「玉篇(ぎょくへん)巻第二十二」1巻、津市専修(せんじゅ)寺の親鸞(しんらん)直筆の書2点、伊勢市金剛証寺の朝熊山経ヶ峯(あさまやまきょうがみね)経塚出土品は国宝に指定されている。以下、国指定重要文化財のうちおもなものを列挙する。建築物では、室町時代のものとして鳥羽市庫蔵(こぞう)寺本堂、関町地蔵院本堂・愛染堂・鐘楼、伊賀市猿田(さるた)神社本殿、伊賀市観菩提(かんぼだい)寺本堂・楼門、桃山時代のものに伊勢市金剛證寺本堂、伊賀市大村神社宝殿、伊賀市高倉神社本殿など、江戸時代のものに専修寺御影(みえい)堂・如来(にょらい)堂、伊賀市の町井家住宅などがある。仏像彫刻も多いが、とくに亀山市慈恩寺の阿弥陀(あみだ)如来は平安時代の優品である。

 特別史跡には、松阪市の本居宣長旧宅・同宅跡がある。国指定史跡には御墓山(おはかやま)古墳、伊勢国分寺跡、伊賀国分寺跡、長楽山廃寺跡、旧豊宮崎文庫、斎宮跡など。国指定名勝に北畠(きたばたけ)氏館跡庭園など、国指定天然記念物に九木神社樹叢(じゅそう)、大島暖地性植物群落、大杉谷などがある。亀山市関町の関宿は東海道の宿場町として重要伝統的建造物群保存地区となっている。

[伊藤達雄]

伝説

渡鹿野(わたかの)島に「夜泣き松」の伝説がある。かつて志摩の海に浮かぶ小島には多くの船が寄港し、天候不順のときは幾日でも日和(ひより)待ちをした。港には船乗り相手のハシリカネとよばれる遊女がおり、その1人が赤崎の老松の根元に産み落としたばかりの赤子を埋めた。以来、月夜に赤子の泣き声が聞こえるようになったという。弘法(こうぼう)伝説も多い。熊野市大吹(おおぶき)峠にある「弘法栗(ぐり)」、松阪市西蓮寺(さいれんじ)の「弘法柿(がき)」のほか、弘法大師(だいし)が杖(つえ)を立てた土地から水が湧(わ)き出たという「弘法清水」の伝説が各地にあり、志摩市阿児町志島(しじま)の弘法井戸は「杖跡水」とよばれ、大師の石像が祀(まつ)られている。鳥羽市の正徳(しょうとく)院にも弘法井戸があり、松阪市丹生寺(にゅうてら)町の子安井戸も弘法水で、身重の女が飲むと安産をすると伝えている。

 桑名市多度町多度大社の境内に「大楠(おおくすのき)」がそびえていたが、織田信長の武将滝川一益(かずます)が長島城の門扉(もんぴ)をつくるために伐(き)り倒させた。それが別宮の一目連(いちもくれん)神社の荒神(あらがみ)の怒りに触れ、城は焼かれ、楠を伐った中江清十郎一家は滅亡したという。熊野には中国秦(しん)の徐福(じょふく)の伝説が根づいている。徐福は始皇帝に仕えた道士で神仙の術に秀で、帝の命令で不老不死の仙薬を探すために来朝した。その船が漂着したのが熊野市波田須(はだす)の浜だったと伝える。徐福は仙薬を探しあぐねてついに日本の土に帰したという。芭蕉(ばしょう)が「月の夜に何を阿漕(あこぎ)に鳴く千鳥(ちどり)」の句を詠んだ「阿漕塚」は津市柳山(やなぎやま)にある。この塚は、禁断の珍魚ヤガラを病母のためにとったが、それが露顕して死刑になった漁師阿漕の平治の霊を弔うために建てられたという。この伝説はのちに謡曲や浄瑠璃(じょうるり)の素材になり有名になった。平安時代末期に大盗といわれた「熊坂長範(くまさかちょうはん)」の伝説は各地に残るが、いなべ市藤原町に熊坂という地があり、彼が潜んでいたと伝える岩窟(がんくつ)もある。

 亀山市関町と滋賀県甲賀市の境にある鈴鹿(すずか)峠は、平安時代には阿須波(あすは)道とよばれていた。峠の鏡岩(かがみいわ)に「鬼女立烏帽子(たてえぼし)」という名の女賊が住み着き、旅人を脅かしたが、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)により退治された。南伊勢町には竈(かま)の字のつく集落が8か所ある。八ヶ竈(やつがかま)とよばれ、いずれも海に面した入り江にある。平家滅亡後、平維盛(これもり)の妾腹(しょうふく)の子が一族を連れて落ちてきた地と伝えている。平地がなくて農耕ができず、一族は生業(なりわい)に塩を焼いてきたという。

[武田静澄]

『『三重県史』(1964・三重県)』『堀田吉雄著『日本の民俗 三重』(1972・第一法規出版)』『西垣晴次・松島博著『三重県の歴史』(1974・山川出版社)』『駒敏郎・花岡大学著『伊勢・志摩の伝説』(1979・角川書店)』『平松令三編『郷土史事典 三重県』(1981・昌平社)』『『日本歴史地名大系24 三重県の地名』(1983・平凡社)』『『角川日本地名大辞典 三重県』(1983・角川書店)』『『三重県史』全36冊(1987~ ・三重県)』『稲本紀昭他著『三重県の歴史』(2000・山川出版社)』



三重(旧町名)
みえ

大分県南部、大野郡にあった旧町名(三重町(まち))。現在は豊後大野市(ぶんごおおのし)の南西部にあたる地域。旧三重町は1902年(明治35)町制施行。1951年(昭和26)菅尾(すがお)、百枝(ももえだ)、新田(あらた)の3村と合併。2005年(平成17)清川(きよかわ)村、緒方(おがた)町、朝地(あさじ)町、大野町、千歳(ちとせ)村、犬飼(いぬかい)町と合併して市制施行、豊後大野市となった。旧町名は古代の郷(ごう)名にちなむ。JR豊肥(ほうひ)本線と国道326号、502号が通じる。三重町駅付近の市場(いちば)は2、7の日に市(いち)が立つ市場町で、町・郡の中心。大野川支流の三重川沿岸低地の米作、周辺火山灰台地のタバコなどの畑作が主産業だが、工場も立地している。シイタケや牛の生産も多い。内山観音(うちやまかんのん)は真名野(まなの)長者の創建、百済(くだら)の蓮城(れんじょう)法師の開山(554)と伝え、石造宝塔や仏像が多く、三国峠(みくにとうげ)は標高約600メートルで展望よく、ともに桜の名所。菅尾石仏は平安後期の作とみられ、国指定史跡。稲積水中鍾乳洞(いなづみすいちゅうしょうにゅうどう)は1977年オープンした。

[兼子俊一]

『『三重町誌 沿革篇』(1966・三重町)』



三重(音楽用語)
さんじゅう

日本音楽用語。本来は声明(しょうみょう)の用語で、のち他の分野にも取り入れられた。

 声明では音高構造を示すのに用い、宮商角徴羽(きゅうしょうかくちう)の五音が属する音域を、低いほうから順に初重、二重、三重といい、三重は高音域をさす。また高音域内の類型化された旋律をもいう。

 平曲では曲節名の一つで、場面の雰囲気を盛り上げる部分に用いることが多く、聞かせどころとなっている。冒頭は平曲中の最高音域で語られ、優美で詠嘆的な曲調を特徴とする。

 義太夫節(ぎだゆうぶし)では節章(ふししょう)に現れる基本的な旋律型をさす。舞台装置が転換し、太夫と三味線が交替するとき、前の場の最後と次の場の冒頭で語られる。場の終わりにはウレイ三重、キオイ三重、サグリ三重、大(おお)三重など、場の始まりには三重返し、上三重、下三重などが奏される。また場の途中で特殊な効果を出すために用いられることもある。三重の三味線の旋律は2本の糸を同時に鳴らす重音奏法に特徴がある。

 歌舞伎(かぶき)では陰囃子(かげばやし)の曲種、または長唄(ながうた)、常磐津節(ときわずぶし)など舞踊音楽の曲節をさす。前者は特定の演出と結び付いた三味線だけの効果音楽で、忍び三重、愁(うれ)い三重などがある。後者は場面転換に使われ、場面の冒頭や終結部、楽節の末尾などに奏される。

[卜田隆嗣]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「三重」の意味・わかりやすい解説

三重[県] (みえ)

基本情報
面積=5777.27km2(全国25位) 
人口(2010)=185万4724人(全国22位) 
人口密度(2010)=321.0人/km2(全国20位) 
市町村(2011.10)=14市15町0村 
県庁所在地=津市(人口=28万5746人) 
県花ハナショウブ 
県木神宮スギ 
県鳥=シロチドリ

近畿地方の東部にある県。南北に細長く,北東は伊勢湾,南東は熊野灘に臨む。愛知県,岐阜県,滋賀県,京都府,奈良県,和歌山県に隣接する。

県域はかつての伊勢国,志摩国,伊賀国の全域と紀伊国の一部にあたる。江戸時代末期には藤堂氏32万石の津藩のほか,亀山藩,桑名藩,長島藩,神戸(かんべ)藩,菰野(こもの)藩,久居藩,鳥羽藩が置かれており,紀伊国から伊勢の南部を中心に紀州藩領が広がっていた。さらに山田奉行などの支配する天領や伊勢神宮領をはじめとする寺社領,飛地なども入り組んでいた。1868年(明治1)旧天領,神宮領を管轄する度会(わたらい)府が置かれ,翌年度会県と改称された。71年の廃藩置県によって藩はそれぞれ県となり,次いで伊勢国の一志・安濃両郡を境として南北2県に統合され,伊賀国を含む北部は安濃津(あのつ)県に,志摩国を含む南部の度会,久居,鳥羽の3県と紀伊国の熊野川以東,北山川以南の和歌山・新宮(旧紀州藩付家老水野氏領)両県域が度会県となった。翌72年安濃津県は三重県と改称,さらに76年度会県を併合して現在の県域が確定した。

贄(にえ)遺跡(鳥羽市)は鳥羽湾南東部の二地(ふたじ)浦に南面した海岸にあり,縄文時代中期から鎌倉時代にわたる遺跡。縄文時代後期と思われる竪穴住居址4,奈良時代以降の製塩址などがあり,各時代の土器をはじめ縄文~弥生時代の石鏃,石錘,銅鏃,銅釧(どうくしろ)などと,奈良時代以降では金銅製銙帯金具や和銅開珎,〈美濃国〉の刻印をもつ須恵器,緑釉陶器などが出土している。一般的集落址というより祭祀的色彩が強い。

 上箕田(かみみだ)遺跡(鈴鹿市)は弥生時代前期~鎌倉時代の集落址。弥生時代では溝址,土壙,杭列に伴って木製の台付椀,鋤,袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸形土製品のほか,コガネムシなど昆虫の鞘翅,桃,ヒョウタンなどの果実・種子,炭化米も出土した。平安時代では緑釉陶器片も発見されている。

 筒野古墳(松阪市)は古墳時代前期前半,全長39.5mの前方後方墳,三角縁神獣鏡などの鏡,石釧,玉類などが出土している。石山古墳(伊賀市)はその名のごとく全面に葺石(ふきいし)を備えた全長120mの前方後円墳。埴輪を数段めぐらし,後円部には3個の木棺があり,粘土で包む。多数の碧玉製品や石製模造品を伴い,4世紀末のものであろう。伊賀地方最大規模の古墳群といわれる美旗(みはた)古墳群(名張市)は,殿塚,女郎塚など前方後円墳5,方墳6,それに円墳多数から成っていたが,現在,多くの円墳と方墳は消滅した。前方後円墳のなかで全長142mの馬塚古墳はこの地域最大の前方後円墳であり,円墳のなかでは赤井塚古墳が玄室長5.5mと伊賀地方最大の横穴式石室をもつ。御墓山(みはかやま)古墳(伊賀市)は全長160mの前期後半の前方後円墳。葺石,円筒埴輪をめぐらす。神前山(かんざきやま)古墳(多気郡明和町)は5世紀後半代の帆立貝形前方後円墳で,全長38m。葺石,埴輪をめぐらし,画文帯神獣鏡3のほか各種𤭯(はそう)などの須恵器多数が出土している。井田川茶臼山古墳(亀山市)と保子里(ほこり)車塚古墳(鈴鹿市)はいずれも横穴式石室をもつこの地方の代表的後期古墳である。伊勢神宮外宮の後ろ,標高116mの高倉山頂にある高倉山古墳(伊勢市)は径32mの円墳で,巨大な横穴式石室をもつ。神宮の起源にも関係すると思われるが,古くから開口していて副葬品などは不明。

 歴史時代では,斎宮(さいぐう)跡(多気郡明和町)で掘立柱建物群などが検出され,須恵器など多量の遺物が出土している。柚井(ゆい)遺跡(桑名市)は平安時代の集落址で,木簡,木器,墨書のある陶器類などの出土をみる。付近には貝塚もある。朝熊山(あさまやま)経塚(伊勢市)は金剛証寺の裏山にあたる標高540mの経ヶ峰頂上にある平安時代末~鎌倉時代の経塚群。経筒,経巻,鏡など多数の埋納品が発見されている。
伊賀国 →伊勢国 →紀伊国 →志摩国
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西側の県境に連なる標高1000~1500mの鈴鹿山脈,笠置山地,大台ヶ原山などは,古代以来畿内と伊勢国ほか現在の三重県域との隔壁をなしてきた。一方,北東側の県境には標高600m前後の養老山地があるだけで,伊勢平野から木曾三川(木曾川,揖斐(いび)川,長良川)の三角州を経て濃尾平野へ移行している。伊勢神宮をもつ伊勢国は,西側の山地を鈴鹿峠(357m),加太(かぶと)越(約350m),長野峠(約500m)などの峠で越えて東海道,大和街道,伊賀街道などが通じ,伊勢湾沿いには伊勢参宮街道が通じて,畿内と東国との懸橋的な役割を果たしてきた。また中世以降発達した海上交通でも,伊勢湾沿岸の桑名,四日市,安濃津(現,津市),大湊(現,伊勢市)などの港が栄え,尾張国をはじめ各国と結ばれていた。このような自然環境,歴史的背景にある三重県は自動車交通の発達した現代においても,近畿地方にありながら中部圏開発整備法(1966制定)の範囲に含まれるなど,中部地方とくに名古屋市との関連が強く,通常東海地方の一県として扱われる。

県央の櫛田川の渓谷に沿って中央構造線が東西に走る。北部の西南日本内帯はなだらかな地形の伊勢平野上野盆地(伊賀盆地),南部の外帯は急峻な山地が海岸近くまでせまり,志摩半島と東紀州のリアス海岸が続いている。北部では鈴鹿山脈および布引・高見両山地が分水嶺をなす。この東側には第三紀,第四紀の台地が階段状に発達し,ここを流れる鈴鹿川,雲出(くもず)川,櫛田川,宮川などが伊勢半島を形成し,また県域北東端では木曾三川が河口部に三角州を形成して伊勢湾に注いでいる。一方,西側の上野盆地の中央を西流する柘植(つげ)川,服部川などは,木津川を経て淀川となって大阪湾に注ぐ。南部の志摩半島と東紀州は,北は朝熊(あさま)山地,西は紀伊山地の一部である台高山脈によって限られ,これらに源を発する加茂川,伊勢路川などいくつかの渓流と熊野川(新宮川)が急斜面を南東流して熊野灘に注いでいる。

 気候区は地形区とほぼ一致している。伊勢平野は温和な東海型で津市の年平均気温は15.0℃,年降水量は約1700mmである。上野盆地は寒暑の差の激しい内陸型で,降水量が不足がちである。これと対照的に志摩半島と東紀州は温暖多湿の南海型で,尾鷲市付近は年降水量4100mm以上と,日本の最多雨地域となっている。

 第1次産業人口は県全体の就業者の6.5%(1995)を占める。三重県では水田に適した平地が北半部に集中し,水田率が79%(1995)と高く,近畿地方の米作では兵庫県,滋賀県に次ぐ産額をあげている。明治・大正期には水田裏作のナタネと,畑作地域での桑の栽培が盛んであったが,第2次大戦後,北部では茶や花卉の栽培,南部ではミカン栽培に転じた。近世から続く伊勢いもや伊勢たくあん用のダイコン栽培,戦後の伊勢茶,三重サツキ,洋ラン,ニュー南紀ミカンが県を代表する特産物として知られる。ほかに北勢・中勢地方は鶏卵,豚の特産地指定を受けており,松阪牛,伊賀牛の肥育も盛んである。農畜産物の出荷先は京阪神市場が多く,名古屋市場,東京市場がこれに次いでいる。林業は近世以来,東紀州の熊野市の杉,尾鷲市のヒノキを中心に盛んで,近年はシイタケ,ヒラタケの生産も増加している。

 海岸線の長い三重県では,昭和20年代までは水産業が県の中核産業をなしていたが,近年は相対的地位が低下している。志摩半島の真珠および伊勢湾のノリの養殖,東紀州のカツオ漁業とハマチ養殖は今日でも全国各県の上位を占めている。

県内の幹線鉄道は東海道本線からそれたため,1890年四日市~草津間に開通した関西鉄道が最初で,95年には草津~名古屋間が全通し,のちのJR草津線,関西本線となった。紀勢本線は紀勢東線,紀勢西線が別々に建設され,1968年ようやく全通した。私鉄は近鉄各線で大阪市,名古屋市などと結ばれるほか,鈴鹿山脈北部の藤原岳の石灰石搬出のためにひかれた三岐(さんぎ)鉄道があり,旅客も扱う。道路は国道1号線(東海道),名阪国道,名四国道などが通じる。

 近代産業は,三重郡川島村(現,四日市市)に1880年三重紡績(のちの東洋紡績)が設立されたのが初めで,89年四日市港が特別輸出港,99年開港場に指定されたことなどにより,県内主要都市に羊毛,綿紡,絹糸などの工場が多数立地した。第2次大戦中には四日市市に海軍燃料厰,鈴鹿市に海軍工厰が置かれ,戦後もその跡地利用によって県北の工業化に貢献した。1995年現在,第2次産業は就業者人口の37%,県内純生産の43%を占める。県の製造品出荷額は近畿地方では大阪府,兵庫県に次ぐが,兵庫県の5割(1995)にすぎない。県北は工業化が進み,県南は第1次産業の比重が高い産業構造が特徴である。県内には自動車工業,石油化学工業や造船業が鈴鹿市,四日市市,津市周辺に立地し,中京工業地帯につづく内陸工業地帯を形成している。また,大阪市への近接性を生かして,上野盆地に機械工業の進出がみられる。地場産業では,桑名市の鋳物,四日市市の万古(ばんこ)焼,亀山市の美術ろうそく,鈴鹿市白子の伊勢型紙,伊賀市の旧上野市の組紐と伊賀焼,南勢と東紀州の造船,水産加工品などがある。鉱業は藤原岳一帯から石灰石の切出しが行われ,東麓のいなべ市の旧藤原町にセメント工業が立地している。多気町の旧勢和村丹生(にゆう)の水銀鉱山と熊野市の旧紀和町の銅鉱山は,盛時には全国有数の鉱山であったが,それぞれ1973年,78年に閉山した。県南の豊富な水を利用して電源開発が進み,熊野川水系のくちすぼダム(1961)と七色ダム(1962),淀川水系の青蓮寺(しようれんじ)ダム(1969)が完成,中里ダムを利用する三重用水事業,蓮(はちす)ダムを利用する櫛田川用水事業,君ヶ野ダムの中勢用水事業,長良川河口堰などの事業が完成した。

 第3次産業は就業者人口の55%をこえ,県内純生産の57%を占める(いずれも1995)。近世以来商業が盛んで,伊勢商人の発祥の地である松阪市をはじめ,各地で駅前再開発や大型店の出店がみられる。県内には伊勢志摩,吉野熊野の2国立公園,鈴鹿,室生赤目青山の2国定公園のほか,和歌山・奈良県境の瀞八丁(どろはつちよう)(特名・天,瀞峡)などの景勝地が多く,観光産業が発展している。

県内は自然条件と歴史的背景のちがいから,伊勢志摩地方と東紀州地方,伊賀地方の三つに大別されるが,伊勢志摩地方は中心となる都市と周辺の町村との結びつきからさらに北勢・中勢地方と南勢・志摩地方とに分けられる。

(1)北勢・中勢地方 かつての伊勢国の北部と中部にあたる。伊勢平野と周辺の山地からなり,県庁所在地の津市を中心に四日市,松阪,桑名,鈴鹿,亀山,いなべの7市と周辺の町が含まれる。県域の51%の面積に69%(1995,以下同)近くの人口が集中し,県の行政・産業・文化の中心をなしている。鈴鹿・亀山両市以北の北勢地方は,近世に東海道が尾張国へ通じたため,宿駅として重要であった桑名,四日市市が栄えた。明治以後,四日市が開港場に指定され,国道1号線が全国道路交通の幹線として利用されたことなどからこの地方に紡績,醸造,鋳物,万古焼などの工業が集中した。第2次大戦中に四日市市と鈴鹿市に置かれた軍施設の跡地が石油化学コンビナートや自動車工業に転用され,一大工業地帯を形成している。特産しぐれ蛤(はまぐり)で知られる桑名市は,名古屋市のベッドタウンとなっている。伊勢平氏の根拠地であった中勢地方は,真宗高田派の本山である一身田(いしんでん)の専修(せんしゆう)寺の寺内町,近世には藤堂氏の城下町,明治になって県庁所在地となった津市とその近郊が含まれ,政治・文化の中枢をなしてきた。伊勢平野中央部を占め,早くから稲作を中心とする農業と漁業が盛んで,現在は野菜の施設園芸とノリ養殖に特色がある。工業は近世の伊勢木綿,松阪木綿の伝統を受け継ぐタオル工業が明治以降盛んになり,第2次大戦後は造船,工作機械工業などが発達しつつある。中勢南部の経済活動の中心をなす松阪市は,かつては松阪木綿や櫛田川上流の木材と水銀などの集散地であったが,現在は雲出川と櫛田川にはさまれた地域での松阪牛の肥育で有名。多気郡明和町には伊勢神宮の斎宮(さいぐう)の跡(斎宮跡)があり,その発掘調査が行われている。

(2)南勢・志摩地方 かつての伊勢国南部と志摩国にあたる。志摩半島と伊勢平野最南部および周辺の山地からなり,伊勢市を中心に鳥羽市,志摩市ほか周辺の町が含まれる。面積は県域の19%,人口は全体の15%強を占める。伊勢神宮とともに発展してきた南勢・志摩地方は平安時代以降,神宮への参詣の鳥居前町として栄えた宇治(内宮)と山田(外宮)が発展し,のちの伊勢市となった。外宮の外港であった大湊(伊勢市)では近世以来の造船業が盛んである。アワビ,タイ,ワカメなどの好漁場をなすリアス海岸が発達し,一方では平地が乏しく,水も不足がちで農業は立地しにくい。御木本幸吉が明治中ごろに成功し,企業化した真珠養殖が英虞(あご)湾,五ヶ所湾を中心に盛んで,養殖真珠に関する全工程を公開している真珠島(鳥羽市)には観光客が多い。

(3)東紀州地方 尾鷲市,熊野市と周辺の町からなり,面積は県域の17%強を占めるが,人口は5%強にすぎない。熊野灘に面するこの地方は大台ヶ原山系の山地が広く,温暖多雨の気候は豊かな水資源をダムに供給し,また山腹では杉,ヒノキの美林を育成している。山麓の傾斜地にはかんきつ類が植えられ,リアス海岸はブリ,カツオ,ハマチなどの好漁場となっている。

(4)伊賀地方 上野盆地と周辺の山地からなり,伊賀市,名張市が含まれる。面積は県域の12%,人口は9%を占める。淀川水系の上流にあたるこの地方は,近畿地方建設局の管内にあって,三重県が近畿地方にも中部地方にもかかわっている複雑な事情を知る一例である。ここは内陸型気候のため,夏季は高温少雨で農業用水が不足し,冬季は酷寒に見舞われ結氷降霜が著しい。農業は米作への依存度が高いが,近年ハクサイ,キュウリ,洋ランの加温栽培,観光農業としてのブドウ栽培が盛んである。伊賀牛で知られるこの地方の畜産は,肉牛のほか乳牛や豚の飼育も盛んでハム工場が立地する。伝統工業には伊賀焼,組紐,日本酒,ペン先,唐傘製造などがある。伊賀上野城や忍者屋敷,松尾芭蕉に関する史跡が観光の中心をなす。近年は大阪市のベッドタウンとなりつつあり,機械工業などの分散立地が進んでいる。
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三重 (さんじゅう)

日本音楽の理論用語。声明(しようみよう)に発し,ほかのいくつかの分野に採り入れられた。まず声明では,低,中,高の三つの音域を区別して,初重,二重,三重という。たとえば,3オクターブに及ぶ五音(ごいん)の並びについて,宮~羽をひとまとまりとして,もっとも高い音域のものを三重といい,また,同一詞章による短い旋律を,段階的に音高と気分を高揚させながら3度唱える場合の3度目をいう。後者の三重は,初重,二重との音程関係が確定している場合と,していない場合とがある。その三重がさらに発展した例は,講式にみることができる。すなわち初重と称する旋律と似たものでありながら,高い音域でゆっくりした速度によって朗々と唱え,詞章の内容とあいまって曲のクライマックスを形成する部分をいうのである。平曲では,抒情的な内容の曲によく用いられて,一曲のクライマックスになる三重という旋律がある。やはり高い音域とゆったりした速度によって演唱され,優美で詠嘆的な曲調を特徴とする。その前奏として奏される琵琶の手も三重と称し,4本の弦を一気に弾くアルペジオふうの技法を多用する。

 義太夫節には,〈なになに三重〉と称する旋律型があり,いずれも一つの段の中での比較的大きな段落に用いられる。その用法がオクリと似ているために,しばしばオクリと対比される。すなわち,一つの段の途中で床(ゆか)の太夫と三味線が交代するときに,前の場面の最後と次の場面の冒頭で奏されるのであるが,オクリが同一場面で局面だけが変わるときに用いられるのに対し,三重は大道具も変わってしまうときに用いられる。オクリの場合と同じく,詞章の切れ目の少し前のところを締めくくりの三重としてしまい,残りの詞章は新しい演奏者によって,次の場面の冒頭で演唱される。その旋律はほかの三味線音楽にも採り入れられている。長唄には大薩摩四十八手と称する一群の技法があるが,そこに三重四手が含まれ,一曲の前奏,途中の場面転換,曲の終結などに使い分けられる。なお四十八手の一つの引上序(ひきあげじよ)をも長唄では三重という。歌舞伎音楽では,合方の中に〈対面三重〉〈送り三重〉〈愁三重〉〈忍三重〉など,〈なになに三重〉と称する手が多くあり,舞台効果をいっそう高めている。以上の三味線音楽の各種の三重にほぼ共通している音楽的特徴としては,音域が高いことよりむしろ,撥数(ばちかず)が多いこと,同時に2本の弦を奏する技法が多いこと,などをあげることができる。それに対し,同じ三味線音楽でも,半太夫節(はんだゆうぶし)や河東節(かとうぶし)の三重は,三味線にも特殊な旋律があるが,それよりも高い音域の浄瑠璃を聞かせる方に主眼があり,その点でやや異なる性格であるといえる。この三重は,山田流箏曲にも採り入れられている。これら近世邦楽では初重,二重という用語は用いられない。
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三重(旧町) (みえ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三重」の意味・わかりやすい解説

三重
さんじゅう

日本音楽の用語。音域名称から,楽曲構成部分名称または旋律形態名称として用いられる。 (1) 声明 本来は初重より1オクターブ高い音域を二重,2オクターブ高い音域を三重といったが,実際に1人の演奏者の声域が3オクターブにわたることは少いので,その間隔も自然せばめられ,現行の講式などでは,初重の完全4度から5度高い音域をいっている。 (2) 平曲 楽曲構成部分名称として用いられ,最高音域で,テンポも最緩で,最も旋律的な部分をいう。詞章のうえでも詠嘆的な叙景部分が多く,前奏にはやはり三重と称される琵琶の器楽的な序奏がある。主要音の違いによって甲 (かん) ,上の区別があり,甲上甲上と繰返され,そのあとにはたいてい,下りという中音と同音域の部分がある。特殊なものに「走り三重」という短いものがある。 (3) 三味線音楽 特に義太夫節では,原則として1段のなかの場面転換 (主として舞台装置が変る場合) に用いられる曲節と,これに伴う三味線の旋律。したがってその転換する前の場面の終りと,例外はあるが次の場面の最初にも用いられることになる。1段の終りでは,三重と段切りの曲節が複合されたものとなる。なお旋律の違いによって大三重,愁 (うれい) 三重,錣 (しころ) 三重などいろいろの名称がある。豊後系浄瑠璃,長唄などにも応用され,半太夫節,河東節でも旋律形態名称として用いられている。 (4) 歌舞伎陰囃子 合方の一種としての三味線の旋律。忍び三重,送り三重,幽霊三重などいろいろな種類がある。

三重
みえ

大分県南西部,豊後大野市東部の旧町域。大野川中流右岸にある。 1902年町制。 1951年百枝村,新田村,菅尾村の3村と合体。 2005年朝地町,犬飼町,大野町,緒方町,清川村,千歳村と合体し,豊後大野市となる。中心集落の市場は古くから日向街道の要地で,市場町,宿場町として発達。周辺地域の農林産物を集散する。国の重要文化財および史跡の菅尾石仏,サクラの名所三国峠のほか,景勝地白山渓谷,1977年開洞された稲積鍾乳洞などがある。一部は祖母傾県立自然公園に属する。

三重
みえ

長崎県南部,長崎市北西部の旧村域。 1973年長崎市に編入。五島灘に臨む畝刈湾 (あぜかりわん) に面した小型揚繰網漁業の基地。 1989年住宅,水産物加工の設備をもつ大規模な新長崎漁港が開港した。

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世界大百科事典(旧版)内の三重の言及

【平曲】より

…拾イ類の曲節を多く含む句が〈拾イ物〉とよばれる。(5)フシ類(三重(さんじゆう)・中音(ちゆうおん)・初重(しよじゆう)など) ユリをたっぷりきかせ,最も旋律的な曲節。美文調の部分に多く用いられる。…

【近畿地方】より

…本州中央部よりやや西寄りに位置する地方。京都,大阪の2府と,兵庫,奈良,三重,滋賀,和歌山の5県からなる。面積は3万3097km2で全国の約9%を占める。…

※「三重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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