百科事典マイペディア 「上杉氏」の意味・わかりやすい解説
上杉氏【うえすぎうじ】
→関連項目足利荘|安国寺|上杉清子|上杉憲顕|小山田荘|鎌倉公方|鎌倉府|川越城|高家|信太荘|新潟[県]|平井城|船木田荘|山内荘
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鎌倉~江戸時代の武家。勧修寺流(かじゅうじりゅう)藤原氏。勧修寺高藤(たかふじ)13代の庶流重房(しげふさ)が丹波国(たんばのくに)何鹿(いかるが)郡上杉荘(うえすぎのしょう)(京都府綾部(あやべ)市)を与えられて以来、上杉氏を称する。重房は1252年(建長4)宗尊(むねたか)親王が鎌倉幕府6代将軍として下向するのに従い鎌倉に定住、その後関東の名族足利(あしかが)氏と婚姻を結び、しだいに発展していった。重房の子頼重(よりしげ)の長男重顕(しげあき)は扇谷(おうぎがやつ)家を開き、頼重の三男で家督を継いだ憲房(のりふさ)の子の代に至り、養子重能(しげよし)が詫間(たくま)家、次男憲藤(のりふじ)が犬懸(いぬかけ)家を開き、長男憲顕(のりあき)は山内(やまのうち)を称して4家となった。頼重の娘清子(きよこ)が足利貞氏(さだうじ)に嫁して尊氏(たかうじ)、直義(ただよし)を生んだことから足利氏に重用され、重顕の子朝定(ともさだ)(扇谷)は丹後(たんご)守護、尊氏の執事となり、憲顕(のりあき)は伊豆、上野(こうずけ)、越後(えちご)3国の守護に任じ、足利基氏(もとうじ)が鎌倉府を開くに及びその執事となった。以後、上杉諸家は交互に関東執事(のち管領(かんれい))を務めた。
憲顕の子憲栄(のりひで)の流は越後国守護となり越後上杉と称したが、定実(さだざね)に至り嗣子(しし)のないままに断絶した。詫間は早く衰え、犬懸も氏憲(禅秀(ぜんしゅう))の代に関東公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)、山内憲基(のりもと)に敵対し、1417年(応永24)滅亡した。のち関東の実権を握った山内、扇谷両上杉は、文明(ぶんめい)末年(15世紀末)ころから相互に抗争を続け、永正(えいしょう)年間(1504~21)北条氏が興るに及んで協力してこれに対抗したが、1546年(天文15)山内憲政(のりまさ)、扇谷朝定(ともさだ)(朝興(ともおき)の子)が北条氏康(うじやす)と武蔵(むさし)河越(かわごえ)城に戦い、朝定の敗死によって扇谷家は滅亡した。憲政もまた北条氏に抗しえず越後に走り、1561年(永禄4)関東管領職と上杉姓を越後守護代長尾景虎(ながおかげとら)(謙信(けんしん))に譲った。上杉氏を継いだ謙信は北陸から関東に及ぶ領土を築き、その跡を受けた甥(おい)景勝(かげかつ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従って五大老に列し、1598年(慶長3)会津120万石を与えられて春日山(かすがやま)から若松に移った。1600年徳川家康に抗し関ヶ原の戦いの口火を切ったが敗れ、翌年出羽(でわ)米沢(よねざわ)30万石に移され、1664年(寛文4)綱勝(つなかつ)の末期(まつご)養子を許されて綱憲(つなのり)(吉良義央(きらよしなか)の長男)が襲封するに際し15万石に削封され、以後幕末に及ぶ。明治期に伯爵を授けられた。
[小林清治]
中世~近世の武家。勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏。重房のとき,丹波国上杉荘(現,京都府綾部市)を支配して上杉氏を称した。1252年(建長4)宗尊(むねたか)親王に従って鎌倉に下ったといわれる。重房の孫清子は足利貞氏に嫁いで尊氏・直義(ただよし)を生み,以来足利氏に重んじられ,室町幕府下では関東管領(かんれい)家として繁栄。一族は山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)・犬懸(いぬかけ)・宅間(たくま)の4家にわかれた。宅間家はまもなく衰退,犬懸家も15世紀初めの上杉禅秀の乱により滅亡。同世紀半ば頃から扇谷家が台頭して宗家の山内家と対立。争乱をくり返すなか,両家は新興の後北条氏によってしだいに圧迫された。1546年(天文15)山内憲政・扇谷朝定(ともさだ)連合軍は武蔵国河越で北条氏康軍に敗れ,朝定は戦死,扇谷家は滅亡した。憲政も52年越後国へ逃亡,61年(永禄4)関東管領職と上杉姓を長尾景虎(上杉謙信)に譲り,山内家も滅んだ。謙信は越後国春日山城(現,新潟県上越市)を本拠に北陸の有力戦国大名となり,関東・信濃方面にもしばしば出兵。その死後,養子景勝は豊臣秀吉に従い,五大老となった。会津若松120万石を領有したが,関ケ原の戦で西軍に加わり,米沢藩30万石に減封。1664年(寛文4)さらに15万石に半減された。維新後,伯爵。「上杉家文書」を伝える。
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…憲顕はまた,越後守護職にも任じられ,その子孫が越後守護を継いだので,室町期を通じて越後は関東と深い関係をもち続けた。上杉氏の越後支配は,まず越後支配の中心である国府の掌握,国衙支配機構の掌握をてことして,鎌倉以来の守護領に加えて,南北朝内乱にさいして南朝方に立った武士の所領を没収したほか,国中に拡散していた国衙領を守護領にし,これをよりどころに,一国支配にのりだした。千屋(魚沼)郡国衙職,西古志三島之国衙,国衙内蒲原津および五十嵐保など,守護領のおおかたは国衙領であった。…
…この関東管領二人制は,当時の幕府内部の尊氏と直義による二頭政治の地方的反映であった。高氏と上杉氏の関東管領二人制は,その後義詮に代わって基氏が鎌倉公方となっても続いた。観応の擾乱(じようらん)で直義勢力が滅亡し,その後将軍尊氏が鎌倉に居住したが,その間関東管領は設置されなかった。…
…幕府に代わった後醍醐天皇の建武政府の中で,新田義貞は上野,播磨,越後の国司(守護兼帯)となり,六波羅探題を滅ぼした足利尊氏とともに,二大勢力の一方を形成したが,やがて尊氏と後醍醐天皇との対立が明確になると,天皇方(南朝)に属して各地を転戦し,38年(延元3∥暦応1)に越前藤島で戦死する。これに先んじて上野を制圧した足利方は,上杉憲房を上野守護に任じ,多くの武士は上杉氏に服し,義貞なき新田荘は新田義兼の女と足利義純の間に生まれた時兼を祖とする新田岩松氏によって継承された。一方,南北朝内乱の初期において,足利方の優位が決定的となった14世紀中葉に,足利氏内部に尊氏と直義を二つの頂点とする勢力の対立が起こり,51年(正平6∥観応2)観応の擾乱(じようらん)が起こる。…
…鎌倉時代の武家政権の本拠地鎌倉には義詮がおかれ,関東10ヵ国(室町以降12ヵ国となる)を管轄する地方機関鎌倉府が成立した。相模国は政庁の所在地として重要視され,鎌倉公方足利氏と信頼関係にある上杉氏,三浦氏,一色氏等が守護をつとめた。永享の乱(1438‐39)で鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に討伐されたあと,相模国に勢力を張ったのは上杉氏であった。…
…なお小県郡の一土豪であった真田氏は,武田氏被官となり武田氏の領土拡大に伴い,小戦国大名として成長した。 武田氏の信濃制圧は越後の上杉氏にとっても脅威となり,53年以降上杉謙信の信濃国出陣が開始され,武田信玄との数度にわたる川中島の戦がおこった。61年(永禄4)の甲越両軍の総力戦は互角とされるが,合戦後謙信の信濃における根拠は飯山城(飯山市)周辺のみとなり,北信の大部分も武田氏の支配となった。…
…宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。 これに准ずる大名,領地高の多い大名は,伊達氏(陸奥仙台62万石余),細川氏(肥後熊本54万石),鍋島氏(肥前佐賀35万石余),藤堂氏(伊勢安濃津32万石余),松平氏(越前福井32万石),有馬氏(筑後久留米21万石),佐竹氏(出羽秋田20万石余),松平氏(出雲松江18万石余),柳沢氏(大和郡山15万石余),上杉氏(出羽米沢15万石)の10家で,合計20家の国主大名が存在した。 ただし1ヵ国を領有する酒井氏(若狭12万石余で小浜に住する),松浦氏(壱岐等6万石余,肥前平戸),稲垣氏(志摩等3万石,鳥羽)の3家は,領地高が多くないので国主としない。…
…中世に長井氏の築城によって開け,戦国期には伊達氏の領国の中心地として城下町の原型が形成された。1601年(慶長6)上杉景勝が会津から移封されて以後明治まで約270年間にわたる上杉氏の統治が続いた。江戸中期の10代藩主上杉治憲(鷹山)が藩政改革の一環として藩士に奨励した織物業は,米沢城下在住の下級家臣による家内工業として発展し,明治以降〈米織〉の名で知られるようになった。…
※「上杉氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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