上野国(読み)コウズケノクニ

デジタル大辞泉 「上野国」の意味・読み・例文・類語

こうずけ‐の‐くに〔かうづけ‐〕【上野国】

上野

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日本歴史地名大系 「上野国」の解説

上野国
こうずけのくに

東は下野国、北は陸奥国越後国、西は信濃国、南は武蔵国と接する。近世には武蔵との国境東部はほぼ利根川を境にしたため、洪水による流路変更などで度々境相論が起こっている。また西部元禄国絵図に国境線が落ちていたために一時帰属不明となり、元禄一五年(一七〇二)神流かんな川南の峰切で画定される。同川下流も国境線となっていたため、流路変更に伴う境相論が起こっている。

古代

〔上毛野君〕

北関東一帯は古くはケ(毛)、ケヌ(毛野)の国といわれた。「国造本紀」には仁徳天皇の頃に毛野国を上・下二ヵ国に分けたとある。古名については蝦夷の住んだ地とか、「魏志倭人伝」に伝える狗奴くぬ国にあてる説がある。上毛野国を統括したのは上毛野君である。「日本書紀」には祖先について次のように載せる。崇神天皇の皇子豊城命に東国を治めさせ、上毛野君・下毛野君の始祖となった(崇神天皇四八年条)。その子八綱田を遠祖とする(垂仁天皇五年条)。その子彦狭島王を東山道一五国の都督に任命したが、赴任の途中病死したため、東国の百姓がその屍を盗み上野国に葬った(景行天皇五五年条)翌年に御諸別王は父業を継ぐため東国を治め、蝦夷を鎮定してその子孫は東国に繁栄している。さらに上毛野君の祖荒田別・鹿我別は、将軍として朝鮮半島に渡り新羅を破り、百済を服属させ(神功皇后四九年条)、また、荒田別らは百済に派遣され王仁を連帰っている(応神天皇一五年条)。上毛野君の祖竹葉瀬(荒田別の子)は新羅の欠貢の問責使に派遣されたが、途中白鹿を捕らえて天皇に献上、日を改め弟田道を同行させ新羅を破って四邑の民を連帰り(仁徳天皇五三年条)、引続き田道は蝦夷と戦い敗れ戦死した。

これら上毛野君の祖先に関する記述は、仁徳天皇以前のこととされ、人名の上に上毛野君の始祖・遠祖・祖と付記されている。その後安閑天皇元年条まで上毛野君に関する記事は見当らない。初めに表れるのは上毛野君小熊で、次いで上毛野君形名である。形名は蝦夷平定に赴き、妻の機転で敗戦を逆転させている(舒明天皇九年条)。天智天皇二年(六六三)条では上毛野君稚子が前将軍として兵二万七千を率いて新羅に出兵し、戦功をたてている。天武天皇一〇年(六八一)には、川島皇子らに国史編纂事業を命じているが、臣下の筆頭に上毛野君三千の名がみえる。天武天皇一三年に八色姓が制定されるが、上毛野氏一族のもの六名が朝臣を賜姓されている。六世紀後半から七世紀前半にかけて、各氏族が系図や氏族の歴史編集の傾向に応じて、上毛野君も始祖豊城命、崇敬神赤城を求めだし、崇神天皇と結びつけたものと思われる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上野国」の意味・わかりやすい解説

上野国
こうずけのくに

群馬県域の古代国名。俗称は上州(じょうしゅう)、上毛(じょうもう)。北関東一帯は古く「け」または「けぬ」とよばれていたが、5世紀ごろ「かみつけぬ」(上毛野)、「しもつけぬ」(下毛野)に分かれたという。大化改新の国司制のあと、国名は2字に統一されて「上野」と書き、音便で「こうづ(ず)け」となった。国内には旧石器文化発見の端緒となった岩宿(いわじゅく)遺跡のほか、縄文、弥生(やよい)文化にも特色がみられるが、古墳は約1万基の存在が推定され、その規模、副葬品などから古代東国文化の中枢であったことが知られる。上毛野(かみつけぬ)氏の一族が栄え、律令(りつりょう)制下には碓氷(うすい)、吾妻(あがつま)、利根(とね)、勢多(せた)、群馬(くるま)、片岡、多胡(たご)、緑野(みどの)、甘楽(かんら)、山田、那波(なは)、佐位(さい)、新田(にゅうた)、邑楽(おはらき)の14郡を管する上国(のち親王任国、大国)で、東山道に属し、官牧9を数え、蝦夷(えぞ)政策の前進拠点であった。国府は前橋市元総社町付近と推定され、近くに国分寺跡、総社神社がある。式内一宮(いちのみや)は貫前(ぬきさき)神社、建郡記念の多胡碑(たごひ)など上野三碑が有名。10世紀前後からは律令(りつりょう)制の緩みに乗じて各地に武装集団が興り、下総(しもうさ)の平将門(まさかど)は上野国府に入って新皇と称した。これを鎮定した藤原秀郷(ひでさと)や奥州平定に功をあげた源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)父子以来、上野国は関東武士の拠点となり、とくに義家の孫義重(よししげ)は新田荘(にったのしょう)を開いて新田氏を称し、その一族はもっとも有力であった。本統から出た義貞(よしさだ)は建武新政に活躍したが、その後一族は分裂し、岩松(いわまつ)氏だけが金山(かなやま)城(太田市)によって伝領した。室町時代の上野は関東管領(かんれい)上杉(うえすぎ)氏の守護国で、白井(しろい)城(渋川市)の長尾(ながお)氏が守護代であったが、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)に次いで、15世紀以降は永享(えいきょう)の乱、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱など足利一族の抗争や上杉氏、長尾氏の対立、離反が相次ぎ、関東動乱の渦中に入った。こうして16世紀なかば上杉憲政(のりまさ)が越後(えちご)(新潟県)に追われたあと、上野国は北条、武田、上杉3氏の攻防の焦点となったが、一時織田の部将滝川一益(たきがわかずます)の厩橋(うまやばし)(前橋)入城を経て、北条氏にほぼ制圧された。しかし北条氏も沼田真田(さなだ)氏との領域協定を破ったため、1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉に攻められて滅び、ようやく関東の動乱が終わった。

 近世に入ると上野国は江戸城北辺の守りとして、井伊(いい)(高崎)、榊原(さかきばら)(館林)、酒井(前橋)など譜代(ふだい)の重臣が配備された。徳川家康が新田一族(徳川氏)の後裔(こうえい)と称したことから、太田に大光院(義重の菩提(ぼだい)寺)を開き、世良田(せらた)(新田郡尾島町)の長楽寺(開山栄西(えいさい))を復興した。藩はその後変転して幕末には前橋(17万石)、高崎(8万2000石)など9藩となったが、大半は譜代小藩で、それに天領、旗本領が交錯していた。元禄(げんろく)期(1688~1704)の総石高は約60万石。生業は畑作が主で、とくに養蚕業は古い伝統をもち、桐生(きりゅう)のほか伊勢崎(いせさき)、藤岡の絹織物が有名であった。安政(あんせい)の開港(1854)後は輸出生糸が空前の活況を呈した。そのほか煙草(たばこ)、麻、硫黄(いおう)、砥石(といし)などが特産であった。江戸を控えて国内には中山道(なかせんどう)、三国(みくに)街道などのほか脇(わき)往還も多く、利根(とね)川も廻米(かいまい)、商荷の輸送動脈であった。大被害を受けた天明(てんめい)の浅間焼け(1783)前後から農村の疲弊が進み、絹運上反対騒動や世直し一揆(いっき)が各地に起こった。幕末には各藩とも借財を抱え、幕府への去就に苦しんだが、1867年(慶応3)東山道総督の東下に服し、戊辰(ぼしん)の年には小栗忠順(おぐりただまさ)の処刑、三国、戸倉での対会津戦などの悲劇があった。大政奉還後、9藩のほか、旧幕府領をあわせて岩鼻県が置かれたが、1871年(明治4)廃藩置県で第一次群馬県(東毛三郡を除く)が誕生、ついで1873年熊谷(くまがや)県となり、さらに1876年旧上野国を県域として現群馬県が成立した。県庁は当初高崎、のち前橋となった。

[山田武麿]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上野国」の意味・わかりやすい解説

上野国
こうずけのくに

現在の群馬県東山道の一国。もと下野国とともに毛野国と称したが,のち上下に分かれ,上毛野 (かみつけぬ。上毛とも略する) となり,さらに「こうずけ」となった。古墳群の多いことから,大きな政治勢力のあったことが知られ,また上野三碑などから,高度な文化をもっていたことがわかる。朝廷も東国経営の要地として重視し,平安時代には親王任国であった。国府は前橋市元総社町,国分寺は高崎市東国分である。『延喜式』には碓氷郡,片岡郡,甘楽郡,多胡郡,緑野郡,那波郡,群馬郡,吾妻郡,利根郡,勢多郡,佐位郡,新田郡,山田郡,邑楽郡の 14郡とあり,『和名抄』には郷 102,田3万 937町とある。平安時代後期,源義家の子孫が新田荘にあって勢力を伸ばし,新田氏を称して鎌倉時代にも栄え,南北朝時代には新田義貞が出て活躍した。室町時代には上杉氏が守護となり,戦国時代には長尾氏,後北条氏 (→北条氏 ) ,武田氏がその支配をめぐって争った。江戸時代には館林に秋元氏6万石,伊勢崎に酒井氏 2万石,高崎に松平氏7万 2000石,安中に板倉氏3万石,小幡に松平氏 2万石,沼田に土岐氏 3万 5000石,吉井に松平 (吉井) 氏1万石 (→吉井藩 ) などがあり,大藩はなかった。徳川氏は新田氏の子孫を称したため天領も多く,幕府の厚い保護を受けた寺院もあった。明治4 (1871) 年の廃藩置県により7月に藩は県となったが,10月には群馬県に統一された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「上野国」の解説

こうずけのくに【上野国】

現在の群馬県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の前橋市元総社(もとそうじゃ)町、国分寺は高崎市と前橋市の境におかれていた。当地の岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で、日本初の旧石器時代遺跡が発見された。1108年(天仁(てんにん)1)の浅間山(あさまやま)の噴火による火山灰で田畑が荒廃したが、再開発され新田荘(にったのしょう)など多くの荘園(しょうえん)が成立した。鎌倉時代末期には新田義貞(よしさだ)の地盤となった。南北朝時代以後は上杉氏守護となったが、戦国時代には上杉氏、武田(たけだ)氏、後北条(ごほうじょう)氏らの争いの地となった。江戸時代は幕府直轄領、譜代領、旗本領などが入り交じり、末期には9藩が分立していた。1871年(明治4)の廃藩置県により群馬県と栃木県となり、1873年(明治6)に群馬県は入間(いるま)県と合併し熊谷(くまがや)県となった。ついで、1876年(明治9)に栃木県より旧上野地域を編入、入間県の旧地を埼玉県に移管、県名を群馬県に戻した。◇上州(じょうしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「上野国」の意味・わかりやすい解説

上野国【こうずけのくに】

旧国名。上州とも。東山道の一国。今の群馬県。もと毛野(けぬ)国,のち上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)両国に分かつ。壮大な古墳多く,《延喜式》に大国,14郡。中世の大豪族に新田氏。守護は鎌倉時代に安達・北条,室町時代に上杉氏。戦国時代には長尾(上杉)・武田・小田原北条氏らが進出。近世,譜代の諸藩に分封。→前橋藩高崎藩上野三碑
→関連項目板鼻岩鼻関東地方群馬[県]新田荘沼田藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上野国」の解説

上野国
こうずけのくに

東山道の国。現在の群馬県。「先代旧事(くじ)本紀」国造本紀によれば,仁徳朝に毛野(けの)国から上毛野(かみつけぬ)国が分立,8世紀初めから上野国と表記(多胡(たご)碑など)。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では碓氷(うすい)・片岡・甘楽(かんら)・多胡・緑野(みどの)・群馬(くるま)・勢多・利根・吾妻(あがつま)・那波(なは)・佐位・新田・山田・邑楽(おあらき)の14郡からなる。国府は群馬郡(推定地は現,前橋市)。国分寺と国分尼寺は群馬郡(現,高崎市)におかれた。一宮は甘楽郡の貫前(ぬきさき)神社(現,富岡市)。「和名抄」所載田数は3万937町余。「延喜式」では調庸は絁(あしぎぬ)・布などで,中男作物は麻・蓆(むしろ)・漆・紙・紅花。東日本最大の太田天神山古墳(現,太田市)など多くの古墳が県南部を中心に広く分布。826年(天長3)以降は親王任国。939年(天慶2)平将門(まさかど)が国府を占拠。12世紀には新田荘が設置され,新田氏の拠点となる。室町中期は上杉氏が守護となり,守護代の長尾氏が勢力をはった。戦国期には上杉氏・武田氏・後北条氏が覇を競った。江戸時代には多くの譜代藩がおかれ,幕領・旗本領もあった。1869年(明治2)幕領・旗本領は岩鼻県とされ,71年の廃藩置県の後,群馬県となる。

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世界大百科事典 第2版 「上野国」の意味・わかりやすい解説

こうずけのくに【上野国】

旧国名。上州。現在の群馬県のほぼ全域。
【古代】
 東山道に属する大国(《延喜式》)。かつて関東平野北西部は毛野(けぬ)と呼ばれていたが,古代国家の形成される中で渡良瀬川を境に上・下に分けられて西部が上毛野(かみつけぬ)と称されるようになり,律令制の施行に伴い上野国と表記されるようになった。官道の東山道は信濃国から碓氷坂を下って関東平野に入り,当国から東進して下野国を経て陸奥国に至る。つまり畿内と蝦夷の地域を結ぶ要路の関東平野への出入口を扼(やく)する位置にあった。

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世界大百科事典内の上野国の言及

【両毛地方】より

…関東地方北西部の地域名。広義には古代に毛野(けぬ)と呼ばれた範囲を指し,現在の群馬県全域と栃木県南部にあたる。この地域はのちに上毛野国(奈良時代以降の上野(こうずけ)国),下毛野国(下野(しもつけ)国)に分かれたことから,両毛地方の名が使われるようになった。狭義には群馬県南東部から栃木県南西部にかけての東西に長い地域を漠然と指し,JR両毛線とこれに連絡する東武鉄道各線の沿線一帯にあたり,現在ではこの使い方が一般的である。…

※「上野国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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