静岡県、伊豆半島の南東端にある市。南伊豆の中心地で、商業・観光業が盛ん。1971年(昭和46)市制施行。伊豆急行線、国道135号、136号、414号が通じる。稲生沢川(いのうざわがわ)によって形成された沖積地が稲生沢・稲梓(いなずさ)地区に開け、その河口部に下田港、市街地が広がり、南は丘陵地。周辺の海岸線は複雑で、テングサと白砂の海岸で知られる白浜、下田湾を抱くように相模灘(さがみなだ)に突き出た須崎(すざき)、白砂の美しい吉佐美(きさみ)、アワビ・サザエの豊かな田牛(とうじ)などがあり、民宿業が盛んである。下田港は相模灘を控え、須崎半島に抱かれて波静かな伊豆半島第一の良港で、近世以後、東西交通の要港として江戸と上方(かみがた)向けの物資廻送(かいそう)船舶の避難港として繁栄してきた。1616年(元和2)江戸幕府は下田に奉行(ぶぎょう)所を設置して海上交通を取り締まった。1854年(安政1)の黒船来航とともに、下田は開港場として全国にその名を知られ、日本最初のアメリカ領事館が置かれ、ハリスが滞在するなど、日米外交の舞台として脚光を浴びた。
気候は温暖多雨の海洋性で、イスノキ、ハマオモトなど南方系の植物が多い。温暖な気候を利用して柑橘(かんきつ)、野菜、花卉(かき)栽培が盛ん。漁業では長い海岸線を利用してのテングサ、アワビ、サザエ、イセエビなどの沿岸漁業、下田港を中心としたカツオ、キンメダイなどの近海漁業が行われている。漁獲物は京浜方面に出荷される。自然の美しさに加え、白浜・吉佐美の海水浴場、蓮台寺(れんだいじ)温泉、幕末開港の史跡など観光資源に富む。とくに伊豆急の開通(1961)以後、下田市を訪れる観光客は急増したが、現在は停滞気味。国指定史跡に、日本最初の領事館を置いた玉泉寺(ぎょくせんじ)、下田条約を締結した了仙寺(りょうせんじ)、神子元島灯台(みこもとじまとうだい)があり、県指定史跡に吉田松陰の隠れ家がある。また、木造阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(田牛長谷寺(ちょうこくじ))、木造大日如来坐像(天神神社)は国指定重要文化財。そのほか、スイセンの群生地がある爪木(つめき)崎、柿崎弁天(かきさきべんてん)島、鵜島城跡の下田公園などや、文化施設の下田海中水族館、下田開国博物館なども知られる。市街地東部の寝姿山(ねすがたやま)の山頂に至るロープウェーや下田港遊覧船もある。5月の黒船祭(第3土曜日を挟んだ3日間)は幕末の開国の港下田を象徴するものとして有名。面積104.38平方キロメートル、人口2万0183(2020)。
[川崎文昭]
『『伊豆下田』(1962・明治大学地方史研究所)』▽『『図説下田市史』(1988・下田市)』
新潟県中央部、南蒲原郡(みなみかんばらぐん)にあった旧村名(下田村(むら))。2005年(平成17)三条(さんじょう)市に合併し、現在は三条市の中南東部を占める地域。旧村域は新潟・福島県境、五十嵐(いからし)川上流盆地にある下田郷の山村。中世は下田保(しただのほ)とよばれ、豪族五十嵐氏の所領であった。近世は村松藩の森町組に属し、会津御蔵入郷(あいづおくらいりごう)に通ずる八十里越(ごえ)の通り道で、また大谷地紙(おおやちがみ)や三条金物の鍛冶炭(かじたん)の産地としても知られた。
第二次世界大戦後は五十嵐川上流の大谷川筋に県営の電源開発が進み、笠堀(かさぼり)ダム、五十嵐川ダム(現、大谷ダム)などが建設された。奇勝八木鼻(やぎはな)や越後(えちご)長野温泉もあり、県境山地はカモシカの群生地で、笠堀のカモシカ生息地は国指定天然記念物。
[山崎久雄]
『『下田村史』(1971・下田村)』
青森県南東部、上北郡(かみきたぐん)にあった旧町名(下田町(まち))。現在はおいらせ町の西部を占める地域。1969年(昭和44)町制施行。2006年(平成18)上北郡百石(ももいし)町と合併しておいらせ町となった。第三セクター青い森鉄道(旧、JR東北本線)、国道45号が通じる。中世末から南部家の重臣下田氏の所領。旧町域の大部分は丘陵地にあり、古くから南部駒(なんぶこま)の放牧地であった。南部を流れる奥入瀬(おいらせ)川流域に水田が広がる。農業が主産業であるが、八戸(はちのへ)地区新産業都市指定に伴い企業が進出し、農工併進の地となった。
[横山 弘]
『『下田町誌』(1979・下田町)』
高知県南西部、四万十(しまんと)市南部(旧、中村市)の一地区。旧下田町。四万十川河口左岸に位置する。戦国期、一条氏が中村に居館を置いて以来、その外港として発達。遣明船(けんみんせん)の南海路の寄港地ともなった。また近世から昭和初頭まで、四万十川水運により山間の物資の集散地となり、その積出し港として栄え、問屋などの集積もみた。
[大脇保彦]
静岡県,伊豆半島南東部にある市。1971年市制。人口2万5013(2010)。下田の地名の由来は,本郷(旧稲生沢(いのうざわ))に対して下手の海辺にあたり,〈低田〉の意味から〈下田〉になったといわれる。稲生沢川河口の下田港は江戸と大坂を結ぶ航路の要衝にあり,廻船の風待港,避難港として重視され,江戸時代には下田奉行所が置かれた。1854年(安政1)日米和親条約の締結によって開港場となり,59年の閉鎖まで下田は日本外交の中心となった。また周辺は江戸城の築城に用いられた伊豆石の産地で,幕末には品川の台場の築造に使われるなど大正期まで下田の主要産業であった。1961年伊東~下田間の伊豆急行の開通により南伊豆の観光基地として大きく発展した。現在は観光と結びついた商業・サービス業などの従業者が就業人口の約7割を占める。大旅館は下田,蓮台寺,柿崎に,民宿は白浜,須崎,田牛(とうじ)に多い。市内各地区の温泉旅館に湯を供給する蓮台寺温泉は泉温54℃の単純泉で,源泉数は河内地区も含め55である。水産業は沿岸・沖合漁業でサバなどの水揚げが多く,農業はミカン,花卉などが中心である。《延喜式》の名神大社伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)(白浜)神社,下田条約締結の舞台となった了仙寺(史),長楽寺,アメリカ総領事館が置かれた玉泉寺(史),唐人お吉の墓がある宝福寺など史跡が多い。
執筆者:塩川 亮
江戸~大坂間の海上交通の要地として発展した。地名の初出は1399年(応永6)。戦国期は後北条氏の支配下にあり,1588年(天正16)豊臣秀吉の進攻に備え築城された。90年後北条氏滅亡,徳川家康関東入部により戸田忠次の知行となった。1616年(元和2)下田奉行が置かれ,海の関所として栄えるが,1720年(享保5)浦賀に移されたため,飢人2000人余を出すなど衰微した。一方海防の急が叫ばれるに従い脚光を浴び,開国にともない,1854年開港場となり,アメリカ領事館の設置,下田条約の締結など欧米諸国との外交交渉の地となった。これも横浜開港により鎖港。下田町は18ヵ町からなり,1760年(宝暦10)には高279石余,家数805,人別2895。1837年(天保8)は家数831,人別3485であった。
執筆者:高橋 敏
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…斗代の決定は,田畑の優劣によって上,中,下,下々などに位付けし,上田と見立てた場所2~3ヵ所で1坪(約3.3m2)ごとの坪刈りをし,もし坪当り平均籾1升(約1.8l)があれば1反(約991.7m2)で3石(約541.2l)あり,それを五分摺りすれば玄米1石5斗を得るから,1斗(約18l)の15倍ということで〈15の盛〉または〈1石5斗代〉といった。中田以下は二つ下りで中田は13,下田は11,下々田は9,畑は上畑が12,以下二つ下り,屋敷地は12の盛とするのが普通であった。太閤検地段階ではまだ斗代はかなり多様で,1594年(文禄3)の島津分国検地では,同じ上田でも1石6斗代から1石代まで村によって4段階の差があり,屋敷地も1石3斗代と1石代との2種があった。…
…高知県高岡郡東津野村北部の不入(いらず)山(1336m)の東斜面に源流部をもち,中村市下田で土佐湾に注ぐ川。幹川流路延長196km,全流域面積2270km2。…
※「下田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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