世良親王(読み)よよししんのう

朝日日本歴史人物事典 「世良親王」の解説

世良親王

没年:元徳2.9.17(1330.10.29)
生年:生年不詳
後醍醐天皇皇子。母は参議西園寺実俊の娘。大宰帥になったので「帥の御子」という。すぐれた資質の持ち主であったらしく,父後醍醐の期待を一身に受けた。また亀山上皇の皇女昭慶門院憙子に愛育され,同女院の遺領18カ所を譲与された。世良は元徳2(1330)年9月に病没し,周囲を嘆かせた。行年は20歳前後と思われるが,没する直前,自分の住居「河端別業」を禅院となし,所領を寄進することを遺言した。この遺志は父後醍醐天皇によって聞きいれられ,洛西の臨川寺が開かれた。世良が没すると,その乳父の北畠親房出家。なお『太平記』に世良は登場しない。<参考文献>森茂暁『皇子たちの南北朝

(森茂暁)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「世良親王」の解説

世良親王 ときよししんのう

?-1330 鎌倉時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
母は西園寺(橋本)実俊(さねとし)の娘。亀山天皇の皇女昭慶門院に養育され,北畠親房(ちかふさ)が傅(めのと)をつとめる。大宰帥(だざいのそち),上野(こうずけの)太守。賢明で父から期待されたが,元徳2年9月18日早世。遺言で親王邸宅に臨川(りんせん)寺がひらかれた。名は「よよし」「つぎなが」ともよむ。

世良親王 よよししんのう

ときよししんのう

世良親王 つぎながしんのう

ときよししんのう

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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