中ロ関係(読み)ちゅうろかんけい

共同通信ニュース用語解説 「中ロ関係」の解説

中ロ関係

冷戦時代にイデオロギー論争や国境紛争で対立した中国とソ連は、1989年のゴルバチョフソ連共産党書記長の訪中で和解。ソ連崩壊後は、「戦略的パートナーシップ」をうたい、米国の「一極支配」をけん制するなど関係が拡大。2001年には中ロを中心に上海協力機構を設立し、中ロ善隣友好協力条約にも調印。懸案の国境画定問題も決着し、エネルギー、貿易分野でも関係を強化。首脳の定期的な相互訪問を行っている。(共同)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中ロ関係」の意味・わかりやすい解説

中ロ関係
ちゅうろかんけい

中国とソ連およびソ連崩壊後のロシアとの国際関係で、歴史的な露清(ろしん)関係(帝政ロシアと清との関係)から現在の中華人民共和国とソ連邦およびロシア連邦との関係までを含むが、現代国際関係のうえでは、1950年代の中ソ社会主義両大国の「一枚岩の団結」の時期、60年代の「中ソ論争」から「中ソ対立」に至る時期、70年代の「中ソ冷戦」の時期、80年代の中ソ関係修復の時期、90年代以降のソ連崩壊後の中ロ関係の時期にほぼ区分できる。

中嶋嶺雄

歴史的背景

中ロ関係を歴史的に展望するならば、広大なユーラシア大陸の東岸から内陸の中央アジアに至るまで、7600キロメートルになんなんとする国境を連ねて、二つの巨大な国家が相対峙(たいじ)してきたという地政学的現実を顧みただけでも、この特殊な国際関係の歴史的位置はただならぬものであるといわなければならない。この場合、ユーラシア大陸を縦断して、二つの巨大な民族が存在し、しかも両者の中間には、一種の「中間地帯」として広大なモンゴル民族の居住空間が存在してきたことが、この「中間地帯」をめぐる攻防となって、ロシア民族と漢民族の対立をさらに増幅してきたように思われる。漢民族もロシア民族も、いずれか一方が他方を完全に制圧したことはなかったが、漢民族にとっては、頑強なロシア民族国家の存在が、モンゴル帝国のイメージとダブった「北からの脅威」としてつねに感ぜられ、ロシア民族にとっては、「南東からの脅威」を避けるために、強固に統一された漢民族国家の存在を欲しないという感情を伝統的にかき立ててきたといえよう。それだけに、ロシア民族と漢民族という、いずれも他民族を統合・同化しようとする衝動の強い二つの民族の近300年余の出会いの歴史は、1689年のネルチンスク条約の締結以来のさまざまな事実が示すように、きわめて摩擦の多いものであった。そのような両民族が現代に至ってともに社会主義革命国家を形成したことは、両者の一致と団結よりも、競合と対立をおのずからもたらしたと考えるほうが自然であるのかもしれない。

[中嶋嶺雄]

重層的な対立要因

両者の国家間の対立関係は、国境や領土をめぐる対立として、1689年のネルチンスク条約以来、和解しがたく歴史的に存続してきたのであり、それは、ロシア革命の成功ののち「カラハン宣言」(第一次宣言―1919年、第二次宣言―1920年)として示された国際主義の精神と立場を押し流して貫徹してきた。やがて一方におけるスターリン主義の形成と他方における毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)主義の台頭は、相互のナショナリズムないしは国家エゴイズムをイデオロギーによって裏打ちすることとなり、この対立はさらに排他的な性格のものになった。

 こうして中ソ関係は、ソ連共産党と中国共産党の対立関係へと進展した。それは、1956年のソ連共産党第20回大会に端を発して以来のイデオロギー対立から、その後の中ソ両共産党間の関係に至る状況をさすものであるが、中ソ両共産党間のこのレベルの対立関係には、状況の変化によって和解への復原力がしばしば働いてきたことも忘れるわけにはいかない。毛沢東以後の中国内政の変化がこのレベルの中ソ関係に反映したがゆえに、毛沢東死後の中ソ和解への動きが生じたのだといえよう。

 中ソ(ロ)の政府間関係は、党のリーダーシップの交替や変遷に従って当然変動しうるばかりか、当面の国際関係の推移いかんによっても変化する部分だと考えねばならない。それゆえ、この場合には、国際関係がもたらす強いインパクト――たとえば米中関係がきわめて悪化するというような状況――が存在すれば、このレベルの範囲内で中ソ(ロ)関係が変化することも当然考えうるところである。

 中ソ関係は、以上のように、(1)民族と民族の関係、(2)国家と国家の関係、(3)党と党の関係、(4)政府と政府の関係の四つの関係の総体として形成されてきたのであるが、いわゆる中ソ対立は、中ソ両民族の歴史的角逐に加えて、スターリンの中国政策、毛沢東の強烈な対ソ民族意識を基軸にして歴史的に形成されたものであり、以上の四つのレベルの対立関係が重層的に一体化していた状況だと理解することができる。

 しかも、ここでの中ソ対立は、第二次世界大戦後のアジアの新しい国際秩序の形成過程において、また同時に中国革命の勝利と中華人民共和国の生成の過程において、中ソの友好と一枚岩的団結の神話を表層としながら角逐し、曲折し、あるいは接近と離反そして反発の相互作用を繰り返してきた歴史的過程であり、きわめて壮大な歴史のドラマを構成してきたのであった。

[中嶋嶺雄]

「中間地帯」の問題

イデオロギー上の中ソ対立は、非スターリン化が開始された1956年以降、潜在的に深化し、早くも58年夏には台湾海峡危機と核兵器をめぐる軍事戦略抗争として中ソ両国政府間の亀裂(きれつ)をもたらしたが、国家的対立、さらには宿命的な民族的対立という点では、中華人民共和国成立以降はもとより、現代中国の国民形成の過程、つまり辛亥(しんがい)革命を含む広い意味での中国革命の全過程において、その当初からさまざまな問題をはらんでいたことにさかのぼらざるをえない。しかも、モンゴル、東北(「満州」)、新疆(しんきょう/シンチヤン)といった両民族の接触地域ないしはこれら地域の少数民族の動向とも絡んで、これらの地域はしばしば中ソ双方のナショナリズムの激突の舞台となり、攻防の対象としての「中間地帯」になってきたのであった。

[中嶋嶺雄]

モンゴル

近現代モンゴル(とくに外モンゴル)は、中ソ両国の谷間に存在する「中間地帯」であったばかりか、歴史的にもその境界さえきわめて流動的なこの地域こそ、あたかも漢民族という巨人とロシア民族という巨人の間に広げられた一枚のじゅうたんのような存在であり続けてきたのであり、このじゅうたんを、ソ連が自己の側に完全に引き寄せてしまっていたがゆえに、中国の反発はまた深まってきたともいえるのである。だが、ともかくモンゴルに関しては、モンゴル人民共和国自身がソ連の影響下に社会主義国家を徐々に建設し始めて以来、その影響下に外モンゴルを収めた1920年代初頭以降、今日のモンゴル国に至るまで、実際の国境線はほぼ確定してきたのであった。

[中嶋嶺雄]

東北・新疆

これに対して、東北と新疆とは、依然として中ソ両国にとっての重要な「中間地帯」であり続けたのである。少なくともソ連側はそのようにみなしてきたし、中国側は、そのようなソ連の意図に対して不安を抱き続けてきたように思われる。この点でも注目に値するのは、毛沢東自身が1958年の時点で、1950年のスターリンとの中ソ交渉を回想しつつ、当時は、「まだ二つの“植民地”があり、すなわち東北と新疆だが、第三の勢力(ソ連人以外の外国人)はそこに住むことを許されていなかった。現在は取り消された」と語っていたことである。まさに毛沢東にとって東北と新疆とは、主権を回復すべき「植民地」として中ソ間に存在していたのであった。

 そのような東北が中ソ抗争のもっとも重要な歴史的舞台であり続けたことについては、とくに指摘しなければならない。スターリン時代のソ連は、1945年のヤルタ協定と中ソ友好同盟条約(スターリンと蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー))、50年の中ソ友好同盟相互援助条約(スターリンと毛沢東)を通じ、そこに不凍港(旅順口、大連)と鉄道(東支鉄道と南満州鉄道、後の中国長春鉄道)をあくまでも求め続けたのであり、蒋介石も毛沢東もソ連のこのような要求に対する抗争と屈辱を余儀なくされたのであった。

 それだけに東北の防衛と確保、具体的には第二次世界大戦後の東北からのソ連の撤退への要求と朝鮮戦争期のソ連軍の東北再進出への懸念が中国にとっていかに切実なものであったかについては明瞭(めいりょう)であり、中華人民共和国にとって東北は、国内的にも対外的にもまさに重要な戦略的拠点でなければならなかった。

 一方、中ソ国境紛争の磁場ともなった新疆は、20世紀に入ってもそこに居住するイスラム教徒少数民族の向背や、彼らと漢民族との宗教的違和を源泉とする反乱とその平定のたびごとに、中ソ両国の間で利害の衝突を繰り返してきたのである。中華人民共和国成立直後の1950年2月にソ連は「新疆における中ソ石油株式会社設立に関する協定」「新疆における中ソ有色および稀少(きしょう)金属株式会社設立に関する協定」を中国側と結んで、中ソ合弁会社の設立による新疆での利権と影響力の確保に成功し、中国側は、スターリン死後の54年10月にようやくその解消をかちとったのであった。今日でも中国領の新疆ウイグル自治区における民族反乱(漢民族支配に対するウイグル族などの反抗)が、中ロ関係にさまざまな影響を与えている。

 以上のようにみてくるとき、ユーラシア大陸の広大な東部内陸において、まさに漢民族とロシア民族との「中間地帯」をめぐる歴史的な攻防と競合、そして相互浸透のダイナミズムが作動してきたことを再認識せざるをえない。

[中嶋嶺雄]

緩衝地帯としての朝鮮半島

モンゴル、東北、新疆が「中間地帯」であったのに対して、朝鮮半島は、中ソ両国にとっての一種の緩衝地帯であったとみなすことができよう。もとより、朝鮮半島の地政学的位置に関しては、従来からそこが日・中(清)・ソ(ロ)の国際的競争の対象としての緩衝国であり、伝統的にこれら三国間抗争の戦場となってきたという見方は、すでに一般に受け入れられているところである。

 同時に朝鮮半島は、中ソ両国間において、モンゴル、東北、新疆が「中間地帯」であったことに比し、まさに中ソ両国間の緩衝地帯であったところにこそ、朝鮮半島のもつ地政学的位置のより重要な意味があったといえよう。

 だが、周知のように、緩衝地帯は、ひとたび状況が変化して周囲の均衡が崩れ、内部的に流動化するや、まさに戦略抗争の場として徹底的な犠牲に供されるものである。ある意味で朝鮮戦争は、あたかもこのような文脈において発生し、現に朝鮮半島は血みどろの戦場となったのである。ソ連が38度線を、ヤルタ協定で承認された満州における権益を守る線であると考えたとするならば、中国はまさに、ソ連のそのような形での東北への干渉を排除するためにこそ、多大の代償を覚悟で自らこの戦争に不本意な全面介入を強いられたものと思われる。

[中嶋嶺雄]

中ソ団結神話の形成と崩壊

ところで、以上にみたような歴史的土壌において培われてきた中ソ関係は、それ自身きわめてダイナミックな歴史的さらには戦略的な衝動をもつ国際関係であると同時に、第二次世界大戦後アジアの国際環境を決定したもっとも重要な要因であった。いわゆるヤルタ体制といわれるアジアの戦後国際秩序が、結局はスターリンないしはソ連の極東認識とくに中国認識を源泉として形成されたものであることを思うとき、このことはより明白であり、またそうであるがゆえに、中ソ友好・一枚岩的団結の神話によって、中ソ間の対立・抗争の歴史的衝動をカムフラージュする必要があったといえなくもない。当時においては、中ソ対立の必然性について一定の歴史的洞察をその内部に有していたアメリカでさえ、結局はそうした神話にとらわれてしまったのである。1949年の中華人民共和国成立以降、毛沢東中国の「向ソ一辺倒」宣言や双方の「中ソ友好」のスローガンがあまりにも華々しく喧伝(けんでん)されたがゆえに、社会主義陣営の団結という虚構が、あたかも真実であるかのようにみなされ、中ソの一枚岩的団結という「神話」が形成されて、外部世界を含むほとんどすべての人々がこの神話に取り憑(つ)かれてきたのであった。

 しかし、神話はしょせん、ついえ去るものである。いわゆる「スターリン批判」を敢行した1956年2月のソ連共産党第20回大会は、両体制間の平和共存、世界戦争の可避・不可避、社会主義への移行の多様性という命題や、スターリン個人崇拝の問題をめぐって中ソ両共産党間のイデオロギー的・理論的不和をもたらす発端となり、やがて潜在的な中ソ論争の過程を経て、60年以降には中ソ論争が公然化し、中ソの一枚岩的団結という神話も音をたてて崩壊してしまった。しかも、歴史的事実としては、中ソ関係は早くも1958年の台湾海峡危機前後の時期に、一方では中ソ間の深刻な利害対立としての中国の核保有をめぐる軍事防衛抗争を通じ、他方では、中国内部の人民公社、「大躍進」政策をめぐって、深刻な決裂をみていたことが明らかになった。

[中嶋嶺雄]

国際政治のなかの中ソ冷戦

やがて中ソ関係は、周知のように1960年以降の中ソ論争の公然化から、63年夏のモスクワにおける中ソ両党会談決裂による中ソ対立へ、ついで69年春のウスリー川上の中州、珍宝島=ダマンスキー島の領有権をめぐる軍事衝突、同年夏の新疆ウイグル自治区テレクチ地区をめぐる軍事衝突と、二度にわたる中ソ軍事衝突へと進展し、さらに70年代に入るや、他方における米中接近の到来に比して、まさに「中ソ冷戦」ともみなしうるグローバルな国際政治上の抗争となっていった。中国はソ連を社会帝国主義、覇権主義と規定して対ソ対決を呼号し、ソ連は中国を米中軍事同盟による反ソ戦略の担い手として非難した。こうして中ソ対立は、現代史における重要な一章としての歴史的過程を形成してきたが、中ソ関係は、その特異な位相によって、それがしばしば双方の、とくに中国側の国内政治過程に組み込まれるがゆえに、中ソ関係のダイナミズムは、いきおい動態的たらざるをえなかったといえよう。

 このような中ソ論争から中ソ対立へ、そして「中ソ冷戦」へという歩みは、単に中ソ両国関係のみならず、いわゆる冷戦サブ・システムとしての中ソ関係の転換によって国際政治の流動化をさらに促進し、中越関係やソ越関係にみられるように、とくにアジアの国際環境を大きく変動させたのであった。だが「中ソ冷戦」が極限に達し、中国における非毛沢東化の進展によって、中ソ対立をもたらした要因が解消するにつれ、中ソ和解の可能性に注目せざるをえなくなった。非毛沢東化の進展という中国内政との関連でその後の中ソ関係をみる限り、政府間関係はもとより党と党との関係においても、中ソ関係が改善されうる要因が成熟しつつあったことに着目しなければならない。しかも、毛沢東以後の中国内政の変化は、もはや元に戻ることのできない地点(point of no return)を越えたものとしての本質的な社会的・歴史的背景をもっていただけに、実質的な非毛沢東化の著しい進行とともに、鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)らに象徴的に代表されている旧実権派勢力の路線が強化された。この点でも旧実権派の対ソ認識・対ソ態度が、毛沢東の対ソ認識・対ソ態度とは根本的に異なっていたことに注目せざるをえない。中国の対外姿勢は内政の変化を反映して自律的に動くのであり、内政要因は国際政治のパワー・ポリティックスの要因よりも強いとみてよいであろう。

 かつての中ソ一枚岩の団結という神話が崩壊したあとに、今度は永遠の中ソ対立という「新しい神話」が生まれたが、そのような神話に呪縛(じゅばく)されてしまうのは、正しくはなかった。

[中嶋嶺雄]

中ソ関係の緩和と和解

現に中ソ関係は、中国が毛沢東モデルを脱して経済改革を進め始めた1980年代初頭より大きく変化し始め、さまざまな分野の中ソ交流がふたたび回復した。毛沢東の内政方針が否定されるにしたがって、対ソ対決という毛沢東の世界戦略も否定され始めたことは、非毛沢東化という歴史の流れの必然であった。

 こうした状況のなかで、ソ連共産党の書記長ブレジネフは、その最晩年の1982年3月、タシケントで中ソ和解の呼びかけを行った。このブレジネフ演説は、中国側もこれを積極的に受け止める姿勢を示すとともに、やがて、中ソ関係改善にとっての「三大障害」、すなわち
(1)中ソ国境・中蒙(ちゅうもう)国境におけるソ連軍の駐留
(2)ベトナムのカンボジア侵攻へのソ連の支持
(3)アフガニスタンのソ連軍駐留
という条件を提起し、三大障害が存在する限り中ソ関係改善は進まないという立場を示した。しかし、この「三大障害」という条件は、中ソ和解を恐れる西側諸国を安堵(あんど)させるためのものであったとも思われ、中国内部における「親ソ派」「知ソ派」勢力の存在もあって、1984年末には中ソ間に長期貿易取決め、科学技術協力協定などが久々に結ばれるなど、中ソ和解への歩みはさらに進んだ。

 こうして中ソ関係は着実に改善されつつあったが、そのようなときソ連共産党のニュー・リーダーで書記長のゴルバチョフは1986年7月、ウラジオストクでよりいっそうの中ソ関係の改善を求めた演説を行い、中国側の主張する「三大障害」についても、モンゴルやアフガニスタンからの撤兵計画を示すなど、きわめて積極的な方針を提起した。こうして中ソ関係が改善されるにしたがって、中蒙関係や中越関係といった中ソ対立によって副次的に生じた中国の国際関係の緊張も大幅に修復され始めた。

 次いで1989年5月、ゴルバチョフが訪中、鄧小平、趙紫陽(ちょうしよう/チャオズーヤン)ら中国首脳との会談が30年ぶりで行われ、中ソ関係の正常化が図られたばかりか、中ソ国境地帯を新たな経済圏として発展させることなどにも合意し、モンゴル駐留ソ連軍の撤兵も決まった。この「世紀のサミット」ともいえる中ソ首脳会談は、時あたかも民主化運動が高揚しつつあった北京の天安門広場を興奮させ、ゴルバチョフが「ペレストロイカの旗手」として大歓迎された半面、鄧小平の「人治」への大衆的な批判へと連なり、同年6月4日の血の天安門事件(第二次天安門事件)を招来した。

[中嶋嶺雄]

ソ連崩壊後の中ロの関係

ゴルバチョフ訪中への答礼として1990年4月、首相李鵬(りほう/リーポン)が訪ソ、次いで91年5月には中国共産党総書記江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)が訪ソし、中ソ間の東部国境協定に調印した。同年末のソ連邦解体は、東欧の一連の政変とともに中国に深刻な衝撃を与えたが、中国側は政治・軍事の強権化と経済の「改革開放」で対処しながら、中ロ関係を発展させ、92年12月のロシア大統領エリツィンの訪中、93年秋の中ロ軍事協力協定の締結、94年9月の国家主席江沢民訪ロによる西部国境協定の調印へと進展した。その後、両国間で国境の画定作業が進められ、97年11月に北京で行われた江沢民・エリツィン首脳会談で東部国境(約4300キロメートル)の画定作業の終了が宣言され、98年11月には西部国境(約55キロメートル)の画定作業終了が宣言された。こうして中ロ間の国境は、帰属が未確定のまま残されていた、ハバロフスクに近い黒瞎子(こくかっし)島(ロシア名、大ウスリー島)など3島を除いて全面的に画定した。なお、この3島とは、アムール川とウスリー川の合流点に位置する大ウスリー島とタラバロフ島、アルグン川上流にあるボリショイ島の3島であるが、中国では2島(大ウスリー島とタラバロフ島を合わせて黒瞎子島という一つの島として扱い標記しているため)と認識している。また、97年11月の首脳会談では、中ロ国境地帯での経済協力が合意され、中ロのパートナーシップが強調された。今日では東シベリア地域への中国からの労働力や資本の導入も進みつつあり、また、中国へのロシアの武器輸出も増大している。この間、2001年6、7、10月と3回の首脳会談を行った。江沢民訪ロの7月首脳会談では、1980年に失効した中ソ友好同盟相互援助条約にかわる中ロ善隣友好協力条約に調印した。本条約は、両国のいずれかが有事に直面した場合協議する、と規定。安全保障面での協力を明文化することで、両国の関係を強固にした。その後、2004年には、未解決となっていた中ロ東部国境の3島の帰属問題に関する国境協定(東部国境補足協定)を締結、2005年に批准された。

[中嶋嶺雄]

『菊地昌典・袴田茂樹・宍戸寛・矢吹晋著『中ソ対立』(1976・有斐閣)』『中嶋嶺雄著『中ソ対立と現代――戦後アジアの再考察』(1978・中央公論社)』『前田哲男・手嶋龍一著『中ソ国境――国際政治の空白地帯』(1986・日本放送出版協会)』『中嶋嶺雄著『中ソの戦略・日本の選択』(1988・PHP研究所)』『宮本信生著『中ソ対立の史的構造』(1989・日本国際問題研究所)』『香島明雄著『中ソ外交史研究 1937~1946』(1990・世界思想社)』『石井明著『中ソ関係史 1945~1950』(1990・東京大学出版会)』『中嶋嶺雄著『国際関係論』(1992・中央公論社)』『近藤邦康・和田春樹著『ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較分析』(1993・東京大学出版会)』

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