中国国民党(読み)チュウゴクコクミントウ(その他表記)Zhōng guó guó mín dǎng

デジタル大辞泉 「中国国民党」の意味・読み・例文・類語

ちゅうごく‐こくみんとう〔‐コクミンタウ〕【中国国民党】

1919年、孫文を指導者として結成された中国の政党。中国革命同盟会中華革命党が前身。1928年、蒋介石の指導下に国民政府を南京に樹立したが、第二次大戦後中国共産党との内戦に敗れ、1949年、台湾に逃れた。以降、2000年まで台湾で政権を維持。現在も自党による台中再統一を目指すが、事実上、台湾の政党として活動。国民党。

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精選版 日本国語大辞典 「中国国民党」の意味・読み・例文・類語

ちゅうごく‐こくみんとう‥コクミンタウ【中国国民党】

  1. 一九一九年に結成された中華民国の政党。前身は中国同盟会、中華革命党。初代党首は孫文。政綱は三民主義。二四年に第一次国共合作を行ない、孫文の死後二六年から蒋介石が北伐を実行、二七年南京政府を樹立。国共分裂後西安事件を契機に第二次国共合作が成った。第二次世界大戦後は共産党との内戦に敗れ、蒋介石派は台湾に逃れた。

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改訂新版 世界大百科事典 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

中国国民党 (ちゅうごくこくみんとう)
Zhōng guó guó mín dǎng

中国現代史上,共産党と並ぶ最大の政党。指導理念は三民主義青天白日旗を党旗とする。その前身は19世紀末にさかのぼるが,1919年10月,孫文を指導者として成立した。孫文の死後,蔣介石が党内反共右派に支持されてしだいに党の実権を握り,以後国民党は,75年台湾で蔣介石が死去するまで,その指導下にあった。この間,49年の中華人民共和国成立にいたる人民解放戦争によって国民党は大陸における存立基盤を失うが,党内の反蔣左派によって創立された中国国民党革命委員会(民革と略称)は,中華人民共和国の民主諸党派の一つとして今日も活動している。蔣介石亡きあとの台湾の国民党は,蔣介石の息子の蔣経国が中央委員会主席となり,ついで李登輝が同主席となった。

国民党の前身は,1894年(光緒20)11月,孫文がホノルルで創立した革命団体興中会に始まる。清朝という満州族の皇帝を戴く王朝を倒し,共和政府を樹立することを目ざした興中会は,1905年,華興会,光復会など他の革命団体と連合して,東京で中国同盟会を結成,11年辛亥革命を実現する。孫文を臨時大総統とする南京の中華民国臨時政府が袁世凱に権力を移譲した後,同盟会を基礎に他のいくつかの小党派と連合して12年8月国民党を創立,孫文が理事長となった。第二革命失敗後,国民党は解散させられるが,孫文は14年,東京で中華革命党を組織し,反袁革命活動を続けた。19年,五・四運動がおこり,知識人,民族ブルジョア階級,労農大衆の間に反帝反軍閥の気運が高まる中で,中華革命党は大衆的基盤を持つ公然の政党に発展すべく中国国民党と改称,孫文を総理とし,〈共和を強化し,三民主義を実行する〉ことを宗旨とした。
辛亥革命

成立当時の国民党は,指導理念である三民主義の内容も,組織も,新しい時代の革命を指導する党としては十分に明確でなかったが,大衆運動の高揚,中国共産党の成立とコミンテルンの働きかけなどの影響を受けて,孫文の三民主義の内容,および建国と建党の方略は大きく前進した。21年11月コミンテルン代表マーリンと会見,さらに22年8月ソ連特命全権大使ヨッフェおよび中国共産党指導者李大釗(りたいしよう)と会見した孫文は,中国の国民革命の活路を見いだすのに,ソ連および共産党との連携の重要性を認めるにいたる。翌23年1月,孫文は〈国民党宣言〉および〈孫文=ヨッフェ共同声明〉を発表,さらに11月〈改組宣言〉を発し,翌月,ソ連共産党ボロジンを国民党顧問として迎えた。こうして,24年1月,歴史的な国民党第1回全国代表大会(1全大会)が広州で開かれることになった。

 この大会には165名の代表が参加,すでに国民党に入党していた多くの共産党員も参加した。大会は,〈大会宣言〉および党の〈総章〉〈政綱〉等を採択,その中で〈連ソ・容共・労農援助〉の三大政策(この名辞はのちに提唱されたものだが)を確立し,国民党の主義として三民主義に新しい内容を与えた。すなわち,反帝国主義と民族自決・国内各民族平等を内容とする民族主義,平民が自由と権利を享有し売国奴・軍閥の自由と権利を認めない民権主義,地権平均・資本節制を実行し労働者・農民への援助と彼ら自身の奮闘によって彼らの生活の保障と解放をめざす民生主義,である。この大会はまた,民主集中制の原則にもとづく党組織の改組を行い,廖仲愷(りようちゆうがい)を大本営秘書長とし,中央執行委員(24名)には胡漢民,張人傑らがなった。李大釗,譚平山,毛沢東ら10名の共産党員も中央執行委員または候補委員(17名)となり,中央党部の要職を占めた。また,党軍=国民革命軍の編成と農民運動指導者の養成機関設立も決め,同年,黄埔軍官学校(校長蔣介石)と農民運動講習所が開設された。国民党はこのようにして,ブルジョア革命政党から,民族ブルジョア階級,都市小ブルジョア階級,労働者,農民を基盤とする反帝反封建革命のための大衆政党として生まれ変わり,国共合作(第1次)を基礎に広範な統一戦線が形成され,反帝反軍閥闘争の推進に大きな役割を果たすことになった。25年3月このような国民党を築いて孫文は死去した。

孫文の死後,1全大会の方針を継承する党内実力者は左派の廖仲愷であったが,8月,暗殺された。また,1全大会の方針策定過程で当初より共産党との合作に反対であり,またその手続きにも批判を持つ右派すなわち中央執行委員の林森,張継,鄒魯らは,25年11月~12月,北京の西山で会議(いわゆる西山会議)を行い,共産党員排除を決議した。しかし全国で燃えさかる反帝反軍閥の大衆の闘争の中で,26年1月に広州で開かれた2全大会は,共産党員呉玉章が大会秘書長となり,共産党と左派が連合して右派の攻撃を破り,1全大会の方針をいっそう固め,大衆運動を喚起するための多くの重要な決議を採択した。蔣介石は廖仲愷暗殺を機に胡漢民を抑え,左派に同調して地位を強化した。一方,蔣介石は共産党勢力の排除を企図し,26年3月,中山艦事件を機に左派の汪兆銘を中央からしりぞけ,ソ連共産党顧問を解任,さらに5月の2期2中全会で〈党務整理案〉を上程して,国民党内における共産党員の活動を制限した。蔣介石はこのとき,中執常務委員会主席,組織部長,国民革命軍総司令などを兼任し,党と党軍の実権を掌握した。6月,国民革命軍の北伐が臨時中央委員会で可決され,7月から進撃を開始,破竹の勢いで攻めのぼり,またたく間に長江(揚子江)流域に進出した。27年1月,国民政府は武漢に移り,4月に帰国した汪兆銘を首とする左派が指導権をにぎった。3月に漢口で開かれた2期3中全会では,共産党員と左派は共同で三大政策を擁護したが,地主土地没収策をめぐって両者の対立はしだいに深刻化した。

 一方,北伐軍の総司令として北上した蔣介石は,とくに3月の南京事件による帝国主義の威嚇を機に帝国主義との妥協と反共反左派の道の選択を決意,4月2日の国民党中央監察委員会での共産党員検挙決議,10日の国民革命軍総政治部の解散に続き,12日,上海でいわゆる〈全面清党〉を実行するにいたった。すなわち共産党員と大衆の積極分子の大量殺害を行った四・一二クーデタである。4月18日,国民政府を南京に組織した蔣介石は〈清党〉と南京政府支持を呼びかけた。〈清党〉という反共テロは広東,湖南などにも広がり,ついに7月15日,左派の汪兆銘も武漢で共産党との決裂を宣言し,共産党を弾圧した。国共はこれによって完全に分裂,のち武漢政府は南京政府と合体し,28年2月,南京における2期4中全会は〈中央党部改組案〉〈共産党陰謀制止案〉などを採択し,反共方針を明確にした。28年4月~6月,国民党とその政府により第2次北伐が行われ,この年12月に東三省の実力者張学良が帰順したことによって,軍閥を抱え込んでいるとはいえ統一政府が成立,共産党の革命根拠地を除けば,蔣介石を中心とする国民党の全国支配が実現した。しかし,このときの国民党は,1全大会当時の国民党とは異なり,共産党とその指導下にある労働者・農民大衆を弾圧して帝国主義,封建勢力,買辦・官僚資本の利益を擁護する党に変わっていたが,内戦と革命による混乱をおそれる中間層やリベラルな中間派の支持をも取りつけていった。ただ宋慶齢を代表とする少数の一部左派グループは,国民党員の資格で蔣介石らの反動支配を糾弾し,合流を拒んで闘争を続けた。
国民革命 →北伐

蔣介石は,28年10月,〈訓政綱領〉を発表,孫文の《建国大綱》に基づく訓政時期の開始を宣し,五院制国民政府を成立させ,みずから主席に就任した。翌29年1月,国軍編遣会議で,蔣介石が旧軍閥の地方割拠基盤をくずし,みずからの指導権を強化しようと図ると,それを機に党内に反蔣運動がおこり,旧軍閥,党内左派と蔣介石国民党中央すなわち〈新軍閥〉との抗争と妥協,離合集散が繰り返されることになった。しかし,29年3月の3中全会は,〈訓政綱領〉を追認して蔣介石の独裁体制を擁護,張学良の擁蔣によって大勢は決まった。それを基礎に30年11月の3期4中全会で〈勦匪(そうひ)案〉すなわち共産党指導下のソビエト区包囲攻撃を決議,本格的な解放区攻撃を開始した。翌31年9月,〈九・一八事変〉で日本の東北侵略が開始された直後の11月の4全大会は,対外宣言を発して国際連盟に呼びかけ,〈国難会議組織案〉等を採択するが,翌32年6月,蔣介石は勦匪会議の席上,〈外敵を攘(はら)うにはまず国内を安定させねばならない(攘外必先安内)〉という政策を発表,国民党中央は西安事件に至るまでこの政策を変更しなかった。

 33年,国民党員李済深,陳銘枢らと十九路軍の反蔣抗日の福建人民革命政府を武力で弾圧,34年,瑞金の共産党指導下の中央ソビエト政府を〈長征〉に追い込むと,蔣介石を中心とする国民党は国内建設に力を入れ,儒教精神にもとづく新生活運動を提唱,幣制改革を含む各種経済建設運動を行った。経済建設は,米英資本との結合を強め,四大家族を中心とする官僚独占資本を強化するものであったが,北洋軍閥の時代に比べれば疑いもなく大きな成果をあげ,多くの産業分野で解放前のピークを達成した。他方,国民党独裁に反対し,抗日と民主を主張する人びとへの徹底した弾圧とテロを実行し,藍衣社,CC団など悪名高いファッショ機関がその手足となった。35年11月の5全大会で決定された〈憲法草案〉は翌年5月に公布されたが施行にはいたらず,訓政時期が続いた。この時期には,東北を植民地化し,さらに華北に迫る日本帝国主義の侵略の拡大に対し,国民党内にも,大衆の動きに押された一致抗日を主張する蔣介石批判勢力が増大した。しかし国民党独裁の確立を救国の前提とする蔣介石は,36年11月,中華全国各界救国聯合会の幹部を逮捕し,陝甘のソビエト区包囲攻撃を督戦するなど,あいかわらず〈攘外必先安内〉の策を固守したので,ついに〈兵諫(へいかん)〉という非常手段をとって抗日を迫る勢力が国民党軍の中から現れた。張学良,楊虎城の起こした西安事件がそれである。

西安事件が起こると国民党中央常務委員会は張学良の処罰を決定,親日派何応欽らは西安を攻撃して党の実権を握ろうとした。しかし周恩来ら共産党の調停もあり,蔣介石が国民党とその政府を改組して親日派を駆逐し,抗日人士を入れること,一致抗日することなどを約束して,ことは結着した。翌37年2月,国民党は5期3中全会を開き,共産党の提案した抗日合作のための〈五項要求四項保証〉を容れて〈赤禍根絶案〉を採択,以後,共産党との交渉を通じて,七・七日中全面戦争開始後の9月に第2次国共合作が成立した。37年12月,中央党部は国民政府とともに重慶に移ったが,政府と軍の重要な機関を置く武漢に辦事処を設置,38年3~4月,ここで臨時全国代表大会を開き,〈抗戦建国綱領〉を採択して抗戦体制を固めた。この大会では〈改進党務案〉を採択して総裁制に改め,〈総理〉は孫文の尊称とし,蔣介石が総裁となった。また共産党その他の諸党派を含む〈国民参政会〉の組織を決定し,政府の最高諮問機関とするとしたが,200余名の参政員は普通選挙によるのではなく,4分の3は国民党員で占められた。国民参政会の第1期第1回会議は,38年7月に武漢で開かれた。

 この年の10月,武漢が日本軍に占領され,重慶に中央党部を移して以後,国民党は再び抗日に消極的,反共に積極的となり,蔣介石ら中央党部は,39年以後,国民政府に〈異党活動制限法〉などを公布せしめて共産党の活動を制限,さらに数次にわたって武力攻撃をかけるにいたった。この間,汪兆銘ら党内親日派は公然と日本の侵略を擁護するにいたり,40年3月,南京で日本の傀儡(かいらい)政府=〈国民政府〉を成立させ,さらに国民党投降部隊を改編して〈平和建国軍〉をつくり,日本軍に協力したが,汪兆銘政権を〈偽組織〉とした国民党も,一方で〈抗日〉をかかげつつ,他方,一部の軍隊・官員を日本に投降させ,日本軍とともに抗日根拠地攻撃に当たらせ,これを〈曲線救国〉と称した。国民参政会には,41年以後共産党は国民党の反共政策に抗議して出席を拒否,43年蔣介石は《中国の命運》を著してその反共主義を公然と宣伝し,国民党の共産党との合作は,ほとんど名目のみになっていった。41年3月の5期8中全会以後,国民党は実際の抗戦よりも中央財政強化のための経済政策と党の拡大に力を入れていた。45年5月6全大会が重慶で開かれ,戦闘力強化の問題,対共産党問題,国民大会の召集と憲政実施の問題および工業建設・土地政策など経済問題について決議を行い,抗戦勝利後の体制の準備にとりかかった。
抗日戦争

45年8月,日本帝国主義は敗北し,中国は抗戦に勝利を収めた。国民党にとって,共産党対策は国共合作体制の抗戦中においても実際上最大の課題であったが,抗戦の実績と人心の掌握において,今や国共両党の力関係には,抗戦前に比べ明らかに重大な変化が生じていた。国民党にとっては,この共産党勢力を抑え,独裁体制をいかに維持するかが抗戦勝利後の最大の難問であった。頼む後ろだてはアメリカ帝国主義であった。蔣介石は,45年8月14日以後,3回にわたって毛沢東に打電し,平和交渉をよびかけ,内戦の準備をしつつ,交渉によって共産党との関係を有利に導こうとした。こうして開かれた〈重慶交渉〉とその結果である〈双十協定〉は,内戦を避ける保障にはならなかった。反内戦・反飢餓を訴える学生や都市住民の運動が高まる中で,46年1月,アメリカ大統領の特使マーシャルの調停でさらに〈停戦協定〉が結ばれた。同じ1月,国民党,共産党,民主同盟その他の政党政派が代表を送って,重慶において中国政治協商会議が開催され,抗戦勝利後の建国方針の協議がなされた。この会議での共産党その他の民主諸党派の平和と民主の要求によって,国民党独裁体制は逆に孤立化を深めたため,3月の国民党の6期2中全会では,政協の協議の貫徹をうたいながらも違背する内容の決定を行い,共産党や民主同盟に対するテロ事件も頻発した。

 46年3月,国民党軍はソ連軍の残留する東北の要地の攻撃を開始,ついで6月,国民党軍は30万の兵力で湖北の中原解放区を攻撃,全国各地で国共の全面的内戦が始まった。国民党中央党部は,この前月5月に南京にもどっていたが,内戦が国民党の優勢の下に展開されていた11月,南京において憲法制定のための国民大会を一方的に召集した。共産党,民主同盟等民主諸党派と民主人士は参加を拒否,代表の85%は国民党員によって占められた。翌12月,36年の国民党の憲法草案修正案を基礎に,〈中華民国憲法〉を決定した。しかし,内戦は47年6月ごろから共産党側が戦略的進攻に転じ,国民党軍は敗北を重ねはじめ,10月,中国人民解放軍は〈宣言〉を発して,蔣介石の打倒と全中国の解放をよびかけた。人民解放軍の総反攻によって国民党は各地で敗走,農村部では土地改革の嵐が国民党の基盤である地主制を打倒しはじめ,都市部においても,飢餓とインフレ,内戦,国民党のファッショ的弾圧の政策に反対する学生・労働者・民主人士の愛国民主運動がいたるところで高まり,国民党独裁体制は,党の存立基盤から根こそぎ崩されていった。前年,憲政移行とともに第一任の総統府総統となった蔣介石は,49年1月にははやくも総統職の引退を表明,総統代行となった李宗仁はやがて香港からアメリカに出国してしまうなど,党上層部の動揺が激しくなった。2月中央党部は広州に移り,7月中央非常委員会を党の最高機関として成立させ,蔣介石が主席となり,翌8月,〈反共救国案〉を採択するが,12月11日,中央党部はついに台北への移転を余儀なくされた。21年にわたる国民党支配の時代は終わり,台湾省を除く中国の全土で,国民党勢力は崩壊した。

49年10月,中華人民共和国が成立すると,台湾にのがれた国民党は,アメリカの支援の下に〈大陸光復〉を呼号して,中国の正統政府〈中華民国〉を名のり,総統府総統には蔣介石が復帰した。50年8月,国民党は中央改造委員会を成立させて中央委員会の職権を代行させた。改造委員は,陳誠以下16名。また,党の元老からなる中央評議委員に改造を監督指導させた。この党改造工作は,52年10月に完成した。同じ10月に,台北で7全大会が開かれ,蔣介石総裁が〈反共抗ソ基本論〉を発表,党の基本理論として反共理論を打ちたてた。この7全大会で,改造委員に代わって中央委員が選出されたが,評議委員会は存続することになった。57年の8全大会は,副総裁制を採用,陳誠(1955年3月没)を副総裁に決定した。このころ金門島における砲撃事件が起こり,59年5月の8期2中全会で大陸反攻の諸決議がなされるなど,58,59年はアメリカ・日本の中国包囲政策とも関連して中華人民共和国との緊張が高まった。

 9全大会は63年11月に開かれ,〈国民党党章(規約)〉改正案,〈国民党政綱〉などを採択,〈中華民国反共建国連盟〉の組織を決定した。69年3~4月,10全大会が開かれるが,70年代に入って以後,台湾の国民党は,国際情勢の急展開によって新たな試練に立たされる。すなわち,71年6~7月にアメリカのニクソン大統領の特別補佐官キッシンジャーが中華人民共和国を訪問し,以後同年10月国連における中華人民共和国承認と台湾の代表権喪失,72年2月のニクソン訪中,同年9月の日中国交回復と日本・台湾の国交消滅などアメリカ・日本をはじめとする西側世界と中華人民共和国の関係の改善が,国民党とその中国を代表とする唯一の正統政府〈中華民国〉の,世界における政治的地位を大きく変えたことである。75年4月,蔣介石総裁は89歳で病没,党中央委主席は蔣経国が継ぎ,〈総裁〉職は蔣介石を記念して保留されることになった。

1988年1月の蔣経国の死以後主席代理となった台湾出身の李登輝が正式に党中央委主席に選出されたのは,同年7月の13全大会であった。

 92年12月の立法委員全面改選は台湾史上初の総選挙であったが,民進党が躍進して国民党は議席を減らした。この変化の結果,外省人を多数とする国民党非主流派の若手議員が脱党して〈新党〉を結成(93年8月)する事態も起こったが,これらの政党の力関係はその後も流動的である。明確なことは,国民党が常に多数を占めるという保障はなくなったことであり,通常の〈民主政党〉の一つとなったということである。

 96年4月に実施された総統の直接選挙は,総統の権限の基盤を直接国民=住民に求めるものであり,総統と総統候補を指名する党との関係をいっそう相対的なものにした。
中華民国 →中国共産党
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

辛亥革命後の1919年、広州で革命諸派が連合して結成した革命政党。略称KMT(Kuomintang)。英語表記はChinese Nationalist Party。1921年革命派の有力指導者であった孫文(そんぶん/スンウェン)が大総統に就任し、共産党との協力(第一次国共合作)を決定した。1925年孫文が病死後、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が指導者となり、1928年全国を統一して独裁政党となった。しかし抗日戦後、共産党との内戦に敗れ、台湾に移動した。2000年の総選挙で民進党に敗れ野党となるが、2008年に与党に復活した。孫文が唱えた三民主義(民族・民権・民生)を党綱領としている。

[辻 康吾]

中華民国期(1912~1949年)

1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)で最後の王朝清(しん)が倒れ、翌1912年中華民国が成立した。革命運動の有力指導者であった孫文が臨時大総統に就任したが、実力者であった袁世凱(えんせいがい/ユアンシーカイ)に敗れ、南下して広東で革命政権を樹立し、1921年大統領に就任した。1924年中国共産党と合作(第一次国共合作)し、ソ連の援助を得て軍事力を強化した。1925年の孫文の死去以後、蒋介石を指導者として北伐を開始し、その途上1927年に反共クーデターで共産党を弾圧、共産党は地方に逃れ、根拠地を建設し抵抗を続けた。国民党軍は全国統一を完成させ、南京(ナンキン)に首都を置き、独裁体制をとった。しかし共産党を含め、地方勢力との抗争が続く一方、日本の侵出が進み、1936年西安(せいあん/シーアン)事件が発生した。日本軍に東北(満州)を追われた張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)が蒋介石を軟禁し、内戦の中止と抗日統一戦線の結成を迫った。翌1937年の盧溝橋(ろこうきょう/ルーコウチアオ)事件の勃発(ぼっぱつ)で日中全面戦争が始まり、国民党は共産党とふたたび合作した(第二次国共合作)。日本軍に追われた国民党政権は重慶(じゅうけい/チョンチン)に撤退し、抗戦を続けた。1945年日本が敗北すると、国共両党は重慶で会談するが両党間の内戦が再発し、1949年までに国民党軍は共産党軍に敗れ、台湾に移動した。

[辻 康吾]

台湾統治期(1946~2000年)

台湾に移動後も蒋介石は大陸反攻を掲げて中華人民共和国との対決を続け、独裁体制を強化した。しかし独裁体制や政権の腐敗によって大陸から移動してきた「外省人」と「本省人」(台湾省人)の対立が激化し、1947年2月28日大規模なデモが発生し、これを武力鎮圧する「二・二八事件」によって大量の犠牲者(3万人ともいわれる)が出た。1952年蒋介石は大規模な党改革を行い、独裁体制を維持しつつ経済発展を目ざした。台湾海峡ではその後も緊張が続いていたが、1958年人民解放軍の金門島作戦が失敗し、1961年には砲撃戦も中止となり、台湾海峡での攻防は膠着(こうちゃく)状態となった。1972年行政院長に就任した蒋経国(しょうけいこく/チヤンチンクオ)(蒋介石の長男)は、経済発展に力を入れ成功を収めたが、同時に1971年の国連代表権の喪失、1972年の米中接近、日中国交正常化など国際的に孤立化を深めた。1975年蒋介石が死去すると、蒋経国が党首となり、1978年には総統に就任した。

 蒋経国は台湾の民主化を図り、また1984年には台湾出身の李登輝(りとうき/リートンホイ)を副総統に就任させるなど「台湾本省人」への依存を深めた。またアメリカの圧力もあり、1987年からは野党の結成を認め、新聞統制を解除し、台湾への移動後続けられていた戒厳令を解除、民間新聞の発行を許可するなど独裁体制の変革に努めた。1988年蒋経国が死去し、李登輝が台湾出身者として初めての総統となり、国民党主席に就任した。李登輝も台湾のいっそうの民主化を進め、1994年には総統の直接選挙制を敷いた。中国は、李登輝を台湾独立論者として1996年の総選挙を前に大規模な軍事演習やミサイル実験などでさまざまな圧力を加えたが、李登輝が中華民国初の民選総統に選出された。当選後の李登輝は独立色を強め、台湾の主権国家論などを示唆した。

[辻 康吾]

多党制時代(2000年~ )

2000年の総統選挙では国民党の分裂もあり、民主進歩党(民進党)の陳水扁(ちんすいへん/チェンシュイピェン)が当選した。民進党は在野時代には台湾独立を掲げたが、与党となった以後は表現を改め、なお独立も模索した。ともあれこれで名実ともに大陸、台湾の独裁政党であった国民党は野党化し、台湾の民主化が完成した。しかし中国は陳水扁を台湾独立派として圧力を強め、大陸との関係は緊張が激化した。2004年の選挙でふたたび民進党が勝利したが、党内および陳水扁一族のスキャンダルが暴露され、2008年の総選挙で国民党に惨敗した。2005年に国民党主席に選出されていた馬英九(ばえいきゅう/マーインチウ)が総統に就任したが、国民党は独裁政党として復活することなく、政権与党として政権を運営している。中国共産党はかつての国共合作の前例もあり国民党を支持し馬政権の台湾との接触を深めている。馬英九も2008年から大陸との直行航空便の開設など「通商・通航・通郵」などのいわゆる「三通」政策を実現させ、大陸との実務関係の緊密化を図っている。だが同時に「統一、台湾の独立、武力行使」のいずれも行わないとするいわゆる「三不政策」をとり、またアメリカから武器を輸入するなど現状維持を続けている。

[辻 康吾]

『野村浩一著『蒋介石と毛沢東』(1997・岩波書店)』『孫文著、安藤彦太郎訳『三民主義』上下(岩波文庫)』

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百科事典マイペディア 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

中国国民党【ちゅうごくこくみんとう】

1912年―1913年の国民党と1919年以降現存の中国国民党がある。前者は民国成立後,中国同盟会を改組し宋教仁らを中心に再編したが,袁政権の弾圧を受け解散。後者は亡命した孫文が1914年組織した秘密結社中華革命党を1919年10月10日改称し大衆政党としたもの。1924年党を改組し第1次国共合作を行い,孫文死後の北伐過程で1927年国共分裂。蒋介石は総統独裁の反共的な中国国民政府とした。1937年抗日戦勃発(ぼっぱつ)により第2次国共合作がなった。戦後中国共産党との内戦に敗退。台湾で党を再建,蒋介石とその子息の蒋経国が二代にわたって国民党主席・中華民国総統の座にあり,事実上一党独裁の体制を築いた。1987年,蒋経国は長期戒厳令を解除し,政党結成の自由化を宣言,その死去にともなって,1988年李登輝が主席・総統代行に就任した(1991年総統就任)。1996年初めての総統直接選挙で党主席の李登輝が当選を果たし,2000年に李登輝の後任として党主席に選出された連戦が民進党陳水扁に敗れるまで,国民党が政権を担当した。2004年の総統選挙でも連戦は陳水扁に敗れ,2005年党主席を辞し後任に馬英九が選出された。2008年の総統選で馬英九が勝利し民進党から政権を奪還,2012年の選挙でも馬英九が再選され2期連続政権を担当することとなった。2005年,連戦が北京で胡錦濤・中国共産党総書記と会談,60年ぶりの国共トップ会談を果たした。連戦・馬英九の国民党は,中国との両岸経済協力関係の推進に軸足の一つを置きつつ,米国・日本・東南アジアとの良好な経済・外交関係を築くことで中国を牽制するという方針を維持している。しかし国民党は,2014年11月の統一地方選では5市長選で敗北。全体で22ある県市長ポストでも,当選は6県にとどまり惨敗。全体の得票率も民進党に水をあけられており,次期総統選に不安を残す結果となっている。→中華民国中国国民政府
→関連項目汪兆銘抗日戦争CC団対華白書中華人民共和国中国共産党中国人民政治協商会議中国民主同盟陳毅陳誠南京国民政府二五減租馮玉祥藍衣社李済深李石曾李宗仁廖承志

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知恵蔵 「中国国民党」の解説

中国国民党

中国革命が勝利し、中華人民共和国が1949年10月に成立したため、台湾に逃れた中華民国の指導政党。孫文の三民主義(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)を綱領とし、孫文らが1894年に結成した興中会が起源。その後、中国革命同盟会(1905年)、国民党(12年)、中華革命党(14年)と変遷した後、19年に中国国民党として新発足した。24年の第1次国共合作、26年の北伐開始を経て、28年に中国全土を統治することとなり、36年に第2次国共合作を行って抗日戦争に勝利したが、戦後の国共内戦に敗れ、台湾島に逃れた。台湾では蒋介石独裁体制、蒋経国権威主義体制を経て、李登輝(リー・トンホイ)民主体制へと政治発展を遂げ、従来の中国国民党のイメージを一新した。88年1月に蒋経国総統が死去すると、台湾人(本省人)の李登輝副総統が昇格、同年7月の中国国民党第13回大会で李総統を国民党主席に選出した。国民党中央常務委員には若手改革派が多数登用され、しかも本省人と外省人(大陸からの移住者・子孫)の比率も逆転するなど、新生国民党への強い意欲がうかがわれた。同年8月の国民党第14回大会では4人の副主席が置かれることとなり、党規約から「大陸光復」の文字が削除され、4年ごとの党大会も2年ごとに開かれることとなった。民主化・台湾化を図る李総統の強い意向で、総統直接選挙制を96年から導入した。96年3月に実施された総統選挙では、中国当局が3次にわたるミサイル実射演習などの「文攻武嚇(ぶかく)」(文書による攻撃と武力による威嚇)の圧力を加えたにもかかわらず、李登輝総統・連戦(リエン・チャン)副総統が圧倒的多数で選ばれた。97年8月の国民党第15回大会でも、李総統は党員代表の93%の支持を獲得して、3期目をスタートさせた。同年9月、連戦行政院長は副総統専任となり、後任には蕭万長(シアオ・ワンチャン)が就任したが、同年末の地方選挙では野党の民主進歩党に敗北。98年末の台北市長選挙では、陳水扁(チェン・ショイピエン)市長を破って国民党の馬英九(マー・インチウ)市長が当選したものの、2000年3月の総統選挙では連戦候補を立てた国民党が敗北し、野党の民主進歩党の陳水扁総統・呂秀蓮(リュイ・シウリエン)副総統が勝利して国民党の歴史に1つの幕が下りた。同月、李登輝総統は国民党主席を辞し、同年5月には歴史的な政権交代が実現した。連戦主席となった国民党は、01年末の立法院選挙に先立ち、台湾団結連盟(台連)を結成した李登輝・前主席を除名した。05年4月には連戦主席が大陸を訪問、中国の胡錦涛(フー・チンタオ)共産党総書記と会談し、60年ぶりの「国共」トップ会談が実現した。05年6月、連戦の後任に馬英九台北市長が選ばれた。現在の主席は呉伯雄(ウ・ボシオン)・元総統府諮政、馬英九は総統候補として台湾の「現状維持」を唱えている。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「中国国民党」の解説

中国国民党(ちゅうごくこくみんとう)

1919年孫文の指導下に中華革命党を改組,改称してできた政党。五・四運動以後国民党は新三民主義を提唱し,中国共産党,ソ連,コミンテルンに接近していった。24年国共合作が成立した。孫文が死去したのち,汪兆銘(おうちょうめい)らが党の指導にあたったが,やがて蒋介石(しょうかいせき)と共産党との対立が激化した。27年には武漢と南京に二つの対立する国民政府ができ,国共合作は崩壊した。党内で指導権を獲得した蒋介石は28年北伐を完成,軍閥支配を終わらせ,ひとまず全国を統一して国民政府を樹立した。31年満洲事変が勃発すると,国民党は日本に対して「一面抵抗,一面交渉」の態度で臨むとともに,「安内攘外」政策によって共産党を弾圧した。しかし,抗日の気運が高まるなかで36年西安事件が勃発,37年の盧溝橋(ろこうきょう)事件をとおして国民党は再度共産党と合作した。国民党は戦争初期において日本軍と戦いつつも,やがて共産党弾圧を強化した。日本と協力した汪兆銘の南京政府を斥けて45年抗日戦争に勝利したものの,以後国民党は共産党との内戦に敗れ,49年台湾へ撤退した。台湾で蒋介石は一党独裁を確立したが,80年代末より蒋経国(しょうけいこく)李登輝(りとうき)の時代に,国民党・台湾の政治が民主化されることになった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう
Zhong-guo guo-min-dang

中国共産党と並ぶ近代中国の主要政党。五・四運動後の 1919年 10月に孫文が三民主義を理論的基礎としてそれまで指導してきた興中会,中国同盟会,国民党を再建したもの。 24年1月の一全大会で「以党治国」の方針を打出し,27年南京に統一的国民政府を樹立した。以後蒋介石一派が実権を掌握し,31年9月の満州事変に始り日中戦争を経て太平洋戦争にいたる一連の抗日戦の間に,共産党の討伐,国共合作,財政近代化,通貨統一,新生活運動などを展開して政権の維持と蒋独裁制を確立した。第2次世界大戦後再び国共内戦が起り,党内の腐敗と反動化で大衆が離反し,軍事的にも共産党に敗れて台湾に移った。 63年第 10回全国大会で蒋介石を総裁に6選した。 78年4月蒋介石が死去,翌5月には長男の蒋経国が総統に就任。以後,党の若返りと本省人の登用を進めていった。 88年1月の蒋経国死亡後,李登輝が本省人として初めて主席に就任,90年には総統となった。李登輝は,民主化と「1国2政府」路線を打出し,96年からは総統の直接選挙制度を実施。 98年 12月の総選挙では過半数を上回る 123議席を獲得したが,2000年に実施された総統選挙で民主進歩党の陳水扁候補に敗れ,下野。 1971年国連から脱退を余儀なくされて国際的には孤立化したものの,経済力を背景に外交関係をもつ国は 98年現在 28ヵ国に及ぶ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「中国国民党」の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

中国同盟会・国民党・中華革命党を前身として1919年に孫文を総裁として結成された政党
ロシア革命の経験を採用して1923年改組宣言を発表。1924年広州で第1回全国代表者大会を開催し,新三民主義にもとづく政綱を決定,「連ソ・容共・扶助工農」の政策の下に国共合作を行った。孫文死後の1926年から北伐を始めたが,27年4月上海クーデタを契機に,蔣介石の南京政府と汪兆銘 (おうちようめい) の武漢政府が一時対立した。のち両政府は合流し,1928年国民党独裁による国民政府を南京に樹立して,北伐を完成した。国共分裂後,蔣介石は共産党討伐を続行したが,1936年12月の西安事件を契機に第2次国共合作が進み,37年7月日中戦争の勃発とともに,抗日民族統一戦線がなったが,38年以後,国共の衝突が各地で起こった。第二次世界大戦後,アメリカの調停で政治協商会議が重慶で開かれたが,国民党はその決議を否認して五権憲法を公布し,1946年ごろから内戦状態にはいった。1949年国民党右派は国民政府とともに台湾に逃れ,宋慶齢一派の国民党左派は共産党と協力して人民政治協商会議に出席し,人民共和国に加わった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中国国民党」の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

1919年に成立した中国の政党。前身は中国革命同盟会・国民党およびそれを改組した中華革命党。5・4運動後,孫文は中華革命党を中国国民党と改称。1923年以降コミンテルンの意見をうけいれ,24年1月,第1回全国代表大会で連ソ・容共・農工扶助の政策を確立した。27年の反共クーデタをへて第1回国共合作は崩壊。その後,蒋介石(しょうかいせき)は「攘外安内」の方針のもとで共産党弾圧を続行したが,西安事件以後は一致抗日の政策に転じ,第2次国共合作が実現した。共産党との対決に失敗したのち台湾に逃避,蒋介石の独裁支配を75年まで維持した。88年台湾出身の李登輝(りとうき)が総統に就任し,自由化政策に転じた。96年3月初の台湾総統直接選挙に李登輝が率いる国民党が圧勝し,新しい台湾の将来を模索し始めた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中国国民党」の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

中華民国の政党
1919年孫文を指導者として成立。蔣介石は国民党内部の左派・共産派を弾圧して,北伐成功後の '27年,南京に国民党独裁の国民政府をつくった。日中戦争中は中国共産党との間に国共合作が行われたが,第二次世界大戦後,共産党との内戦に敗北し,中国本土から台湾に逃避し,今日に至る。

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世界大百科事典(旧版)内の中国国民党の言及

【国共合作】より

…中国国民党と中国共産党との〈合作〉(提携)をいう。前後2回実現して中国現代史の展開に決定的な意義をもった。…

※「中国国民党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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