中国国民党(読み)ちゅうごくこくみんとう

精選版 日本国語大辞典 「中国国民党」の意味・読み・例文・類語

ちゅうごく‐こくみんとう ‥コクミンタウ【中国国民党】

一九一九年に結成された中華民国政党前身中国同盟会中華革命党。初代党首孫文政綱は三民主義。二四年に第一次国共合作を行ない、孫文の死後二六年から蒋介石北伐実行、二七年南京政府樹立。国共分裂西安事件契機に第二次国共合作が成った。第二次世界大戦後共産党との内戦に敗れ、蒋介石派は台湾に逃れた。

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デジタル大辞泉 「中国国民党」の意味・読み・例文・類語

ちゅうごく‐こくみんとう〔‐コクミンタウ〕【中国国民党】

1919年、孫文指導者として結成された中国の政党。中国革命同盟会中華革命党が前身。1928年、蒋介石の指導下に国民政府南京に樹立したが、第二次大戦後中国共産党との内戦に敗れ、1949年、台湾に逃れた。以降、2000年まで台湾で政権を維持。現在も自党による台中再統一を目指すが、事実上、台湾の政党として活動。国民党

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

辛亥革命後の1919年、広州で革命諸派が連合して結成した革命政党。略称KMT(Kuomintang)。英語表記はChinese Nationalist Party。1921年革命派の有力指導者であった孫文(そんぶん/スンウェン)が大総統に就任し、共産党との協力(第一次国共合作)を決定した。1925年孫文が病死後、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が指導者となり、1928年全国を統一して独裁政党となった。しかし抗日戦後、共産党との内戦に敗れ、台湾に移動した。2000年の総選挙で民進党に敗れ野党となるが、2008年に与党に復活した。孫文が唱えた三民主義(民族・民権・民生)を党綱領としている。

[辻 康吾]

中華民国期(1912~1949年)

1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)で最後の王朝清(しん)が倒れ、翌1912年中華民国が成立した。革命運動の有力指導者であった孫文が臨時大総統に就任したが、実力者であった袁世凱(えんせいがい/ユアンシーカイ)に敗れ、南下して広東で革命政権を樹立し、1921年大統領に就任した。1924年中国共産党と合作(第一次国共合作)し、ソ連の援助を得て軍事力を強化した。1925年の孫文の死去以後、蒋介石を指導者として北伐を開始し、その途上1927年に反共クーデターで共産党を弾圧、共産党は地方に逃れ、根拠地を建設し抵抗を続けた。国民党軍は全国統一を完成させ、南京(ナンキン)に首都を置き、独裁体制をとった。しかし共産党を含め、地方勢力との抗争が続く一方、日本の侵出が進み、1936年西安(せいあん/シーアン)事件が発生した。日本軍に東北(満州)を追われた張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)が蒋介石を軟禁し、内戦の中止と抗日統一戦線の結成を迫った。翌1937年の盧溝橋(ろこうきょう/ルーコウチアオ)事件の勃発(ぼっぱつ)で日中全面戦争が始まり、国民党は共産党とふたたび合作した(第二次国共合作)。日本軍に追われた国民党政権は重慶(じゅうけい/チョンチン)に撤退し、抗戦を続けた。1945年日本が敗北すると、国共両党は重慶で会談するが両党間の内戦が再発し、1949年までに国民党軍は共産党軍に敗れ、台湾に移動した。

[辻 康吾]

台湾統治期(1946~2000年)

台湾に移動後も蒋介石は大陸反攻を掲げて中華人民共和国との対決を続け、独裁体制を強化した。しかし独裁体制や政権の腐敗によって大陸から移動してきた「外省人」と「本省人」(台湾省人)の対立が激化し、1947年2月28日大規模なデモが発生し、これを武力鎮圧する「二・二八事件」によって大量の犠牲者(3万人ともいわれる)が出た。1952年蒋介石は大規模な党改革を行い、独裁体制を維持しつつ経済発展を目ざした。台湾海峡ではその後も緊張が続いていたが、1958年人民解放軍の金門島作戦が失敗し、1961年には砲撃戦も中止となり、台湾海峡での攻防は膠着(こうちゃく)状態となった。1972年行政院長に就任した蒋経国(しょうけいこく/チヤンチンクオ)(蒋介石の長男)は、経済発展に力を入れ成功を収めたが、同時に1971年の国連代表権の喪失、1972年の米中接近、日中国交正常化など国際的に孤立化を深めた。1975年蒋介石が死去すると、蒋経国が党首となり、1978年には総統に就任した。

 蒋経国は台湾の民主化を図り、また1984年には台湾出身の李登輝(りとうき/リートンホイ)を副総統に就任させるなど「台湾本省人」への依存を深めた。またアメリカの圧力もあり、1987年からは野党の結成を認め、新聞統制を解除し、台湾への移動後続けられていた戒厳令を解除、民間新聞の発行を許可するなど独裁体制の変革に努めた。1988年蒋経国が死去し、李登輝が台湾出身者として初めての総統となり、国民党主席に就任した。李登輝も台湾のいっそうの民主化を進め、1994年には総統の直接選挙制を敷いた。中国は、李登輝を台湾独立論者として1996年の総選挙を前に大規模な軍事演習やミサイル実験などでさまざまな圧力を加えたが、李登輝が中華民国初の民選総統に選出された。当選後の李登輝は独立色を強め、台湾の主権国家論などを示唆した。

[辻 康吾]

多党制時代(2000年~ )

2000年の総統選挙では国民党の分裂もあり、民主進歩党(民進党)の陳水扁(ちんすいへん/チェンシュイピェン)が当選した。民進党は在野時代には台湾独立を掲げたが、与党となった以後は表現を改め、なお独立も模索した。ともあれこれで名実ともに大陸、台湾の独裁政党であった国民党は野党化し、台湾の民主化が完成した。しかし中国は陳水扁を台湾独立派として圧力を強め、大陸との関係は緊張が激化した。2004年の選挙でふたたび民進党が勝利したが、党内および陳水扁一族のスキャンダルが暴露され、2008年の総選挙で国民党に惨敗した。2005年に国民党主席に選出されていた馬英九(ばえいきゅう/マーインチウ)が総統に就任したが、国民党は独裁政党として復活することなく、政権与党として政権を運営している。中国共産党はかつての国共合作の前例もあり国民党を支持し馬政権の台湾との接触を深めている。馬英九も2008年から大陸との直行航空便の開設など「通商・通航・通郵」などのいわゆる「三通」政策を実現させ、大陸との実務関係の緊密化を図っている。だが同時に「統一、台湾の独立、武力行使」のいずれも行わないとするいわゆる「三不政策」をとり、またアメリカから武器を輸入するなど現状維持を続けている。

[辻 康吾]

『野村浩一著『蒋介石と毛沢東』(1997・岩波書店)』『孫文著、安藤彦太郎訳『三民主義』上下(岩波文庫)』

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百科事典マイペディア 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

中国国民党【ちゅうごくこくみんとう】

1912年―1913年の国民党と1919年以降現存の中国国民党がある。前者は民国成立後,中国同盟会を改組し宋教仁らを中心に再編したが,袁政権の弾圧を受け解散。後者は亡命した孫文が1914年組織した秘密結社中華革命党を1919年10月10日改称し大衆政党としたもの。1924年党を改組し第1次国共合作を行い,孫文死後の北伐過程で1927年国共分裂。蒋介石は総統独裁の反共的な中国国民政府とした。1937年抗日戦勃発(ぼっぱつ)により第2次国共合作がなった。戦後中国共産党との内戦に敗退。台湾で党を再建,蒋介石とその子息の蒋経国が二代にわたって国民党主席・中華民国総統の座にあり,事実上一党独裁の体制を築いた。1987年,蒋経国は長期戒厳令を解除し,政党結成の自由化を宣言,その死去にともなって,1988年李登輝が主席・総統代行に就任した(1991年総統就任)。1996年初めての総統直接選挙で党主席の李登輝が当選を果たし,2000年に李登輝の後任として党主席に選出された連戦が民進党陳水扁に敗れるまで,国民党が政権を担当した。2004年の総統選挙でも連戦は陳水扁に敗れ,2005年党主席を辞し後任に馬英九が選出された。2008年の総統選で馬英九が勝利し民進党から政権を奪還,2012年の選挙でも馬英九が再選され2期連続政権を担当することとなった。2005年,連戦が北京で胡錦濤・中国共産党総書記と会談,60年ぶりの国共トップ会談を果たした。連戦・馬英九の国民党は,中国との両岸経済協力関係の推進に軸足の一つを置きつつ,米国・日本・東南アジアとの良好な経済・外交関係を築くことで中国を牽制するという方針を維持している。しかし国民党は,2014年11月の統一地方選では5市長選で敗北。全体で22ある県市長ポストでも,当選は6県にとどまり惨敗。全体の得票率も民進党に水をあけられており,次期総統選に不安を残す結果となっている。→中華民国中国国民政府
→関連項目汪兆銘抗日戦争CC団対華白書中華人民共和国中国共産党中国人民政治協商会議中国民主同盟陳毅陳誠南京国民政府二五減租馮玉祥藍衣社李済深李石曾李宗仁廖承志

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知恵蔵 「中国国民党」の解説

中国国民党

中国革命が勝利し、中華人民共和国が1949年10月に成立したため、台湾に逃れた中華民国の指導政党。孫文の三民主義(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)を綱領とし、孫文らが1894年に結成した興中会が起源。その後、中国革命同盟会(1905年)、国民党(12年)、中華革命党(14年)と変遷した後、19年に中国国民党として新発足した。24年の第1次国共合作、26年の北伐開始を経て、28年に中国全土を統治することとなり、36年に第2次国共合作を行って抗日戦争に勝利したが、戦後の国共内戦に敗れ、台湾島に逃れた。台湾では蒋介石独裁体制、蒋経国権威主義体制を経て、李登輝(リー・トンホイ)民主体制へと政治発展を遂げ、従来の中国国民党のイメージを一新した。88年1月に蒋経国総統が死去すると、台湾人(本省人)の李登輝副総統が昇格、同年7月の中国国民党第13回大会で李総統を国民党主席に選出した。国民党中央常務委員には若手改革派が多数登用され、しかも本省人と外省人(大陸からの移住者・子孫)の比率も逆転するなど、新生国民党への強い意欲がうかがわれた。同年8月の国民党第14回大会では4人の副主席が置かれることとなり、党規約から「大陸光復」の文字が削除され、4年ごとの党大会も2年ごとに開かれることとなった。民主化・台湾化を図る李総統の強い意向で、総統直接選挙制を96年から導入した。96年3月に実施された総統選挙では、中国当局が3次にわたるミサイル実射演習などの「文攻武嚇(ぶかく)」(文書による攻撃と武力による威嚇)の圧力を加えたにもかかわらず、李登輝総統・連戦(リエン・チャン)副総統が圧倒的多数で選ばれた。97年8月の国民党第15回大会でも、李総統は党員代表の93%の支持を獲得して、3期目をスタートさせた。同年9月、連戦行政院長は副総統専任となり、後任には蕭万長(シアオ・ワンチャン)が就任したが、同年末の地方選挙では野党の民主進歩党に敗北。98年末の台北市長選挙では、陳水扁(チェン・ショイピエン)市長を破って国民党の馬英九(マー・インチウ)市長が当選したものの、2000年3月の総統選挙では連戦候補を立てた国民党が敗北し、野党の民主進歩党の陳水扁総統・呂秀蓮(リュイ・シウリエン)副総統が勝利して国民党の歴史に1つの幕が下りた。同月、李登輝総統は国民党主席を辞し、同年5月には歴史的な政権交代が実現した。連戦主席となった国民党は、01年末の立法院選挙に先立ち、台湾団結連盟(台連)を結成した李登輝・前主席を除名した。05年4月には連戦主席が大陸を訪問、中国の胡錦涛(フー・チンタオ)共産党総書記と会談し、60年ぶりの「国共」トップ会談が実現した。05年6月、連戦の後任に馬英九台北市長が選ばれた。現在の主席は呉伯雄(ウ・ボシオン)・元総統府諮政、馬英九は総統候補として台湾の「現状維持」を唱えている。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「中国国民党」の解説

中国国民党(ちゅうごくこくみんとう)

1919年孫文の指導下に中華革命党を改組,改称してできた政党。五・四運動以後国民党は新三民主義を提唱し,中国共産党,ソ連,コミンテルンに接近していった。24年国共合作が成立した。孫文が死去したのち,汪兆銘(おうちょうめい)らが党の指導にあたったが,やがて蒋介石(しょうかいせき)と共産党との対立が激化した。27年には武漢と南京に二つの対立する国民政府ができ,国共合作は崩壊した。党内で指導権を獲得した蒋介石は28年北伐を完成,軍閥支配を終わらせ,ひとまず全国を統一して国民政府を樹立した。31年満洲事変が勃発すると,国民党は日本に対して「一面抵抗,一面交渉」の態度で臨むとともに,「安内攘外」政策によって共産党を弾圧した。しかし,抗日の気運が高まるなかで36年西安事件が勃発,37年の盧溝橋(ろこうきょう)事件をとおして国民党は再度共産党と合作した。国民党は戦争初期において日本軍と戦いつつも,やがて共産党弾圧を強化した。日本と協力した汪兆銘の南京政府を斥けて45年抗日戦争に勝利したものの,以後国民党は共産党との内戦に敗れ,49年台湾へ撤退した。台湾で蒋介石は一党独裁を確立したが,80年代末より蒋経国(しょうけいこく)李登輝(りとうき)の時代に,国民党・台湾の政治が民主化されることになった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう
Zhong-guo guo-min-dang

中国共産党と並ぶ近代中国の主要政党。五・四運動後の 1919年 10月に孫文が三民主義を理論的基礎としてそれまで指導してきた興中会,中国同盟会,国民党を再建したもの。 24年1月の一全大会で「以党治国」の方針を打出し,27年南京に統一的国民政府を樹立した。以後蒋介石一派が実権を掌握し,31年9月の満州事変に始り日中戦争を経て太平洋戦争にいたる一連の抗日戦の間に,共産党の討伐,国共合作,財政近代化,通貨統一,新生活運動などを展開して政権の維持と蒋独裁制を確立した。第2次世界大戦後再び国共内戦が起り,党内の腐敗と反動化で大衆が離反し,軍事的にも共産党に敗れて台湾に移った。 63年第 10回全国大会で蒋介石を総裁に6選した。 78年4月蒋介石が死去,翌5月には長男の蒋経国が総統に就任。以後,党の若返りと本省人の登用を進めていった。 88年1月の蒋経国死亡後,李登輝が本省人として初めて主席に就任,90年には総統となった。李登輝は,民主化と「1国2政府」路線を打出し,96年からは総統の直接選挙制度を実施。 98年 12月の総選挙では過半数を上回る 123議席を獲得したが,2000年に実施された総統選挙で民主進歩党の陳水扁候補に敗れ,下野。 1971年国連から脱退を余儀なくされて国際的には孤立化したものの,経済力を背景に外交関係をもつ国は 98年現在 28ヵ国に及ぶ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「中国国民党」の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

中国同盟会・国民党・中華革命党を前身として1919年に孫文を総裁として結成された政党
ロシア革命の経験を採用して1923年改組宣言を発表。1924年広州で第1回全国代表者大会を開催し,新三民主義にもとづく政綱を決定,「連ソ・容共・扶助工農」の政策の下に国共合作を行った。孫文死後の1926年から北伐を始めたが,27年4月上海クーデタを契機に,蔣介石の南京政府と汪兆銘 (おうちようめい) の武漢政府が一時対立した。のち両政府は合流し,1928年国民党独裁による国民政府を南京に樹立して,北伐を完成した。国共分裂後,蔣介石は共産党討伐を続行したが,1936年12月の西安事件を契機に第2次国共合作が進み,37年7月日中戦争の勃発とともに,抗日民族統一戦線がなったが,38年以後,国共の衝突が各地で起こった。第二次世界大戦後,アメリカの調停で政治協商会議が重慶で開かれたが,国民党はその決議を否認して五権憲法を公布し,1946年ごろから内戦状態にはいった。1949年国民党右派は国民政府とともに台湾に逃れ,宋慶齢一派の国民党左派は共産党と協力して人民政治協商会議に出席し,人民共和国に加わった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中国国民党」の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

1919年に成立した中国の政党。前身は中国革命同盟会・国民党およびそれを改組した中華革命党。5・4運動後,孫文は中華革命党を中国国民党と改称。1923年以降コミンテルンの意見をうけいれ,24年1月,第1回全国代表大会で連ソ・容共・農工扶助の政策を確立した。27年の反共クーデタをへて第1回国共合作は崩壊。その後,蒋介石(しょうかいせき)は「攘外安内」の方針のもとで共産党弾圧を続行したが,西安事件以後は一致抗日の政策に転じ,第2次国共合作が実現した。共産党との対決に失敗したのち台湾に逃避,蒋介石の独裁支配を75年まで維持した。88年台湾出身の李登輝(りとうき)が総統に就任し,自由化政策に転じた。96年3月初の台湾総統直接選挙に李登輝が率いる国民党が圧勝し,新しい台湾の将来を模索し始めた。

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世界大百科事典 第2版 「中国国民党」の意味・わかりやすい解説

ちゅうごくこくみんとう【中国国民党 Zhōng guó guó mín dǎng】

中国現代史上,共産党と並ぶ最大の政党。指導理念は三民主義。青天白日旗を党旗とする。その前身は19世紀末にさかのぼるが,1919年10月,孫文を指導者として成立した。孫文の死後,蔣介石が党内反共右派に支持されてしだいに党の実権を握り,以後国民党は,75年台湾で蔣介石が死去するまで,その指導下にあった。この間,49年の中華人民共和国成立にいたる人民解放戦争によって国民党は大陸における存立基盤を失うが,党内の反蔣左派によって創立された中国国民党革命委員会(民革と略称)は,中華人民共和国の民主諸党派の一つとして今日も活動している。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中国国民党」の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

中華民国の政党
1919年孫文を指導者として成立。蔣介石は国民党内部の左派・共産派を弾圧して,北伐成功後の '27年,南京に国民党独裁の国民政府をつくった。日中戦争中は中国共産党との間に国共合作が行われたが,第二次世界大戦後,共産党との内戦に敗北し,中国本土から台湾に逃避し,今日に至る。

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世界大百科事典内の中国国民党の言及

【国共合作】より

…中国国民党と中国共産党との〈合作〉(提携)をいう。前後2回実現して中国現代史の展開に決定的な意義をもった。…

※「中国国民党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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