一般的にいえば、中国文学は、漢民族を主体とする中国の、漢語とそしてその表記文字の漢字とを用いて表現される文学をいう。もともと中国は漢民族のほかに多くの民族が共存する一種の多種族集合の国家であり、漢語・漢字とは異なる言語・文字を用いる民族が古代から現代に至るまで存在する。そして、それぞれの民族にそれぞれの文学の伝承がないわけではないが、前近代の中国では漢民族の文学以外はほとんど重視されなかったし、重視する必要もなかった。なぜならば、中国歴史の全期間を通じて、文学はもとより、学術・文化の担い手は絶えず漢民族であったからで、たとえ政治的に非漢民族に支配された時期、たとえば元(げん)や清(しん)などの時代にあっても、この基本的な状況に変わりはなかった。ときには非漢民族の文学が漢語・漢字に移されて漢民族の文学に取り込まれることがあったが、それは相対的にごくわずかであり、むしろ逆に漢民族のそれに同化するという過程が普通であった。
すなわち、中国文学は、漢語・漢字文化の一つとして、漢民族を中心に長い独自の発展を遂げてきたのであり、他の民族、あるいは他国からの影響をほとんど受けることのない孤立した存在であったのである。中国文学が異質の文学の影響を受けて確実に変容するのは20世紀初めの文学革命以後といってよい。古典文学においては、漢字文化圏の朝鮮半島や日本などの近隣諸国に大きな影響を与えこそすれ、それ自体は約3000年にわたり排他的な独自性を保持したという点で、世界文学のなかでもまれな存在である。地理的あるいは民族性など諸原因が考えられるが、この孤立の独自性がその第一の特質である。
第二の特質は、漢語・漢字を媒体とする文学であるという点で、基本的には単音節語である漢語・漢字、そして表意性豊かな漢字の特性を生かした独自のリズムとイメージをもつ文学形式をつくりだした。だが一方では、膨大な数に上る複雑な漢字を理解するのに多くの努力を必要としたため、漢字が少数の知識人の独占物となり、古典文学の伝承が一部の人々に限られたことは否定できない。この状況の変革もまた文学革命を待たなければならなかった。
知識人が文学の主たる担い手であったことと、中国文学が概して現実性を尊び、政治的色彩が濃いということとは無縁ではない。この第三の特質の背景には、漢代以降、中国知識人の思想形成の根底となった儒家思想の存在がある。文学革命以前の中国の文学観は、現実政治と密接に関連する儒家思想ぬきでは考えられない。
そのほか、尚古主義、伝統の重視と、それらの反覆と持続とを第四の特質に数えることができる。以上の特質は、いずれも古典文学を中心に述べたものであり、近・現代文学はそれらの否定から出発したのであるが、文学の政治的側面の重視などは、質的にはまったく異質ではあるものの、共通する性格のようにみえる。
[佐藤 保]
前述したように、中国文学は20世紀初頭の文学革命を境に質的な変化を示している。文学革命前後の清(しん)末までを古典文学、それ以後を近・現代文学と分け、近・現代文学はさらに中華人民共和国成立以後を当代文学とよぶこともあるが、それぞれ便宜的にさらに細かく時期をくぎって述べていくことにしよう。
[佐藤 保]
北の黄河(こうが/ホワンホー)流域と南の長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう))流域に世界最古の文明の一つをつくりあげた中国人の祖先は、農耕生活を送りながら、労働歌ともいうべき歌謡を生み出した。豊作の祈願、収穫の感謝、農作業をしながらの励ましや慰めなど、数多くの歌がうたわれていたに相違ない。いまそれらのほとんどは歴史のかなたに埋没して伝わらないが、古い文献のなかに断片的にみえる記載から、われわれは古代中国人の歌謡のありようを推測することができるのである。他の国々の文学と同じく、中国文学の源もやはり生活に深く根ざした歌謡であった。
歌謡はもともと、人々に覚えやすい韻律、すなわちリズム(節拍)とライム(押韻)をもつのが普通である。口承に適したその形は、文字が未発達の段階では重要な伝達の形式であった。たとえば、紀元前1300年ころにいまの河南省安陽市に都を置いた殷(いん)の遺跡から大量に発見された卜辞(ぼくじ)(亀甲や獣骨に刻まれた卜占(ぼくせん)のことば)、あるいは前1000年ころ陝西(せんせい)省長安の付近に都を定めた周王朝の建国の記録集『書経(しょきょう)』(尚書(しょうしょ))など、古い記録や文献のそこかしこに歌謡的な口承の形跡を見て取ることができる。もちろんそれは、後の文学形式としての韻文に比べれば、リズムもライムも単純素朴なものであり、そもそも古代中国人には「文学」をつくるという意識はまったくなく、いわば必要上から生まれた知恵であったのであるが、長い間の経験を蓄積して一つの歌謡形式をつくりあげた。それが中国最古の歌謡集の『詩経(しきょう)』である。『詩経』は北方の黄河流域でうたわれていた歌謡を集めた書物であり、四言(しごん)のリズムを基調とし、様式はさまざまではあるが、押韻を必須(ひっす)の条件とする。ほぼ前600年ころには現存する書物の形ができあがっていたと考えられ、前1000年ころの周の建国のときからの歌謡が収められている。とりわけ『詩経』の収録作品の過半数を占める「国風(こくふう)」の歌は、周王朝各地の民衆の生活ぶりを生き生きと伝え、後世の文学者に少なからぬ影響を与えた。『詩経』が北方の黄河流域の歌謡であるのに対して、南方の長江流域にも『詩経』の歌謡とは異なったリズムをもつ独特の韻文が発達していた。『詩経』のそれに比較してはるかに複雑な形式をもつ南方歌謡は、当時その地方が楚(そ)とよばれていたのにちなんで、のちに「楚辞(そじ)」と称されるようになったが、それが明確に文学史に登場するのは先秦(せんしん)時期の最後、戦国時代の末期に屈原(くつげん)が出現してからである。屈原の作品は彼の悲劇的な生涯から生み出され、中国文学が初めてもった個性的な文学であった。
この時期、主として春秋時代に成立した周王朝の記録や教訓書――儒家によって「経書(けいしょ)」とよばれる一群の書物――および戦国時代の諸子百家の活躍から生まれた多くの書物は、いずれも政治的あるいは教訓的な目的によって編まれたもので、文学とは直接のかかわりをもたない。『詩経』もまた儒家の人々に経書として尊重され、一種の政治的・倫理的な意味、つまり民謡は政治の直接的な反映であり、政治を考えるための貴重な情報源であること、ひいては文学と政治とは切り離せなく、倫理的道徳とも不可分の関係にあるという観念を付与することになった。この儒家的な文学観が以後の中国文学を長く支配したのである。しかしながら、それらの経書、とくに戦国諸子の書物に顕著にみられる明晰(めいせき)な論理性、そして説得のための比喩(ひゆ)の技巧は、後世の文学の修辞の源泉として大きな意味をもっていた。
中国の神話・伝説の乏しさはしばしば指摘され、それは非現実的なものを極力排除した儒家の責任に帰せられているし、おそらくそれらの指摘は正しい。しかし近年、神話研究者によって中国古代神話の発掘と整理が進められており、それらの研究によれば、かならずしも他の国に比べて乏しいわけではない。すでに、多くの書物に断片的に伝えられている神話・伝説を丹念に拾い集めて、農耕民族としての古代中国人の生活に根ざした空想世界が、生き生きと浮かび上がりつつある。
[佐藤 保]
秦が天下を統一した紀元前221年から漢の滅亡する紀元後220年までの約400年の時期――この時期の文学の特色は、「賦(ふ)」の成立と「楽府(がふ)」の流行、そして「史伝文学」が生まれたことである。強力な軍事力を背景に戦国諸侯を次々に征服し、天下の統一を果たした秦の始皇帝は、政治体制の変革と同時に文字や度量衡などをも統一して、その後の文化および社会経済の統一的な発展の基礎をつくったが、あまりにも急激な変革は結局政治の破綻(はたん)をきたし、秦王朝は短命に終わった。秦の文学にはとくにみるべきものはなく、文学の大きな進展がみられるのは、次の漢王朝に入ってからである。
漢の人々が愛好したのは南方の楚辞の歌謡で、屈原の後を継ぐ多くの作家が現れた。そして、その楚辞の歌謡からより修辞にくふうを凝らし華麗な言語を駆使する新しい文学形式が生まれた。「賦(ふ)」あるいは「辞賦(じふ)」ともよばれる形式がそれである。壮大な帝国のさまざまな事象を描写する長編の叙事的韻文は、大帝国をつくりあげた漢の王朝文学として大いにもてはやされ、帝国が最大になった武帝のときに活躍した司馬相如(しばしょうじょ)によってその文学的な地位が確立した。賦は前後両漢を通じて流行し、揚雄(ようゆう)、班固(はんこ)らの優れた作家が現れて、内容と形式にいっそうのくふうが加えられていった。
一方、当時、民間には『詩経』の歌謡や楚辞とは違った新しい歌謡が流行していた。この種の歌謡を「楽府」というのは、当時その採集と整理にあたった役所の名にちなむ。知識人が楽府に関心を寄せ、やがて自分たちも模倣し始めたのは、前述の儒家的な文学観に由来するのはもとよりとして、なによりもまずその新鮮な魅力にひかれたためであろう。楽府のメロディーは時代が下るとともに忘れられ、消滅していったし、逆に新しいメロディーも次々に生まれていったが、楽府の愛好ははるか後世にまで続き、しかも詩歌の革新のときにはいつも漢代楽府が想起され、それへの復帰が叫ばれたのである。
楽府の形式は多様であり、長短句の混ざった複雑な形をもつものが少なくない。しかしそのなかで五言(ごごん)のリズムがとくに人々に好まれて、やがて五言詩の形式ができあがった。そのもっとも初期の作品が「古詩十九首」である。
この時期、散文の成長も忘れてはならない。先秦時期の多くの文献はほとんど漢の時期に整理され、再編され、また注釈が書かれたが、戦国時代の諸子百家によってくふうされてきた散文は、この時期に一段と進展した。その代表的なものが、「史伝文学」ともよばれる前漢の司馬遷(しばせん)の『史記(しき)』と後漢の班固の『漢書(かんじょ)』などの歴史記述である。とくに前者は、歴史書として単なる事実の記録にとどまらず、深い人間洞察に基づき歴史のなかの人間像を生き生きと描き出すことに成功した。
[佐藤 保]
後漢(ごかん)末の政治的混乱から魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分裂した三国時代、中国の北半分を異民族が支配した南北朝を経て、隋(ずい)が全国を統一する589年までの400年ほどが、この時期である。相次ぐ政権の交代と異民族の侵攻とによって生じた社会不安のなかで、人々は苦難の日々を送った時期ではあったが、文学のうえでは五言詩や楽府の流行、駢文(べんぶん)とよばれる美文体の完成、さらには独立した文学意識の芽生えなど、この時期の収穫はけっして少なくない。
魏の曹操(そうそう)・曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)の曹氏父子は、政治のみならず、文化の中心にも位置していて、彼らの周囲に数多くの文学者が集まってきた。曹氏父子を中心とする人々の関心事は、前代におこった五言詩に自分たちの感情を盛り込むことにあり、修辞に富む個性的な叙情詩をつくりだすことに成功した。曹氏父子とともに五言詩の革新に功績のあった王粲(おうさん)・陳琳(ちんりん)(?―217)など7人の文学者を「建安七子(けんあんしちし)」とよぶ。
五言詩の流れは、その後、思索的な内容を「詠懐詩(えいかいし)」に歌った「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」の一人である魏の阮籍(げんせき)、田園の美を発見した晋(しん)の陶潜(とうせん)(あるいは陶淵明(えんめい))など、優れたわずかな詩人たちの努力によって詩的世界を広めはしたが、漢民族が江南に逐(お)われた南朝の時期には、貴族や豪族が女性の美しさをうたう「宮体詩(きゅうたいし)」と山水自然の美を描写する「山水詩(さんすいし)」を大量につくり、詩句を練り上げてもっぱら言語表現の美しさを追求することになった。ただそのなかで、詩の音楽性に注目した斉(せい)の沈約(しんやく)らの韻律の探求が、やがて唐代に入って律詩(りっし)や絶句(ぜっく)などのいわゆる「近体詩(きんたいし)」(今体詩)を生み出すのである。
このような詩の修辞化の傾向は、当時、賦から派生した修辞的な美文の駢文の流行と軌を一にする。耽美(たんび)的な美文学への関心は、梁(りょう)の昭明太子(しょうめいたいし)(蕭統(しょうとう))の編んだ『文選(もんぜん)』の詩文の選択、同じ梁の徐陵(じょりょう)の『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』の艶詩の収集に反映されている。
楽府の流行もまたこの時期の特色の一つであるが、男女の恋愛など繊細な情感を歌った南朝楽府に対して、北朝の楽府は素朴で力強く、長編の叙事詩的な作品もつくられた。
この時期の注目すべき事柄として、文学に独自の価値を認め文学に携わる意義を自覚する言論が現れたことである。曹丕の「典論論文」あるいは晋の陸機(りくき)の「文賦(ぶんぷ)」などは、従来かならずしも重視されていなかった文学の独立宣言ともいうべきものであろう。この空気を受けて、梁(りょう)の時代には中国最初の文学評論である劉勰(りゅうきょう)の『文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)』、詩論である鍾嶸(しょうこう)の『詩品(しひん)』が書かれた。
またこの時期には、人々の行動や珍しい事柄に対する関心が高まり、有名人の逸話を記録した『世説新語(せせつしんご)』(宋(そう)・劉義慶(りゅうぎけい)、403―444)、民間に伝わる怪奇な話を集めた『捜神記(そうじんき)』(晋・干宝(かんぽう))など、多くの書物が現れた。後者の類(たぐい)の話を「志怪(しかい)小説」とよぶ。
[佐藤 保]
約290年続いた唐代を挟んで、前後400年ほどのこの時期は、中国詩の最盛期である。南北に分裂していた中国を再統一した隋(ずい)王朝は、南朝文化の華美を是正しようと努力したものの、さしたる効果をみないまま短命に終わり、唐の初期にまで南朝文化はそのまま持ち越された。
文学の状況もまた同様で、初唐期はおおむね南朝風の詩文がもてはやされた時期である。しかししだいに新しい時代の新しい文学の要求が強まってきて、詩の革新が行われた。初唐期末の陳子昂(ちんすごう)が復古を唱えて南朝の詩の無内容な修辞的傾向を批判し、その皮切りとなった。それを受けて盛唐期には、王維(おうい)、李白(りはく)、杜甫(とほ)などの優れた才能をもつ詩人たちがそれぞれ個性的な作品をつくり、中国の詩は飛躍的な進展を遂げた。また、南朝以来の積み重ねられてきた韻律のくふうから「近体詩」の詩形が完成し、それまでの詩と明瞭(めいりょう)に区別されるようになったのも、この盛唐期である。唐以前の詩を「古体詩」とよぶが、唐以後は「近体」と「古体」の二つが併存することになった。
盛唐期を過ぎて唐王朝の勢力がしだいに下降をたどってくるにしたがい、詩の活力もまた下降に向かい、細やかな修辞的表現のほうに詩人たちの関心が向いていった。このような詩の流れに対して、中唐期、白居易(はくきょい)がかつての漢代楽府の生気に着目して「新楽府」を創作し、詩の革新を唱えた。同じころ、韓愈(かんゆ)は、南朝以来ますます美文化の色彩を強めていた駢文に反対し、「古文」を主張して文体の改革に乗り出した。白居易と韓愈の主張は詩文の違いはあっても、底を流れる復古の精神は一脈相通ずるものがあったのである。だが、詩文の耽美化の傾向はもはや押しとどめようもなく、中唐期から晩唐期にかけては繊細な唯美的風潮が一般的となった。詩人たちはむしろ、中唐期ころから民間に広まってきた新しい叙情歌曲の「詞(し)」にしだいに興味を示すようになり、その創作に努力する者が現れてきたのである。詞は五代の時期に大いに発展し、次の宋代では主要な文学形式の一つとなった。
唐代ではさらに、「伝奇(でんき)小説」とよばれる小説が流行したことでも知られている。それは南朝の「志怪小説」とは違って、虚構性を意識した一種の創作物語であり、作者のほとんどは知識人で、きちんとした文言(ぶんげん)文(文語体)で書かれているところから、韓愈の古文運動ともかかわりをもっていたのである。また、唐代における仏教の浸透を反映して、一般民衆に仏教の教義をわかりやすく語り聞かせるための口承文芸である「変文(へんぶん)」が生まれた。それは俗講(ぞくこう)ともよばれ、俗講僧がその語り手であった。20世紀の初め、西の砂漠の中の町、敦煌(とんこう)で大量の貴重な文書が発見されたなかに多くの「変文」の写本が含まれていて、その実体が明らかになった。
[佐藤 保]
北宋(ほくそう)、そして北半分を金(きん)に占領された南宋の300年余りのこの時期は、中国の古典文学の一つの転換期であった。
まずは文学者の社会的地位の変化である。それまでも詩をつくり文を書く才能は知識人に必須の教養として重視され、優れた才能は人々の高い評価を受けてきた。とくに唐代では科挙の試験に詩の科目が取り入れられ、文学的才能の有無は官界入りを左右することにもなった。しかしながら唐代では、文学的才能の評価と社会的な地位はかならずしも一致しない。文学の才能が出世を約束していたはずの科挙においても、卓抜な才能はしばしば理解されずに無視されがちであった。多くの唐詩人の不遇の一生が、そのなによりの証拠である。それは、旧来の門閥貴族や豪族が政治の主導権を握っていた社会では、文学に対する評価基準が相対的に低かったからにほかならない。状況の変化は、盛唐期の末に起こった安史(あんし)の乱(755~763)以後、貴族階級の没落とともに徐々に生じ、宋に入って文官優遇の政治体制がとられると決定的となった。科挙受験者の文学の才能はいわば正当に評価され、社会的地位も保証されるようになったのである。北宋の中期、欧陽修(おうようしゅう)をはじめ王安石、蘇軾(そしょく)など、文学的才能の豊かな新興知識階級の人々が、政界においても活躍するようになった。
彼らが開拓した宋詩の世界は、唐詩が情熱的で感覚的な発想や表現を尊んだのに比べて、理性的であり、冷静な日常的観察のなかから淡々と身辺に起こるさまざまな事柄を歌った。なかには南宋の陸游(りくゆう)のように、祖国の屈辱的な状況を情熱的に歌った人もなかったわけではないが、北宋の末におこった「江西派(こうせいは)」の詩風は平易を旨として広く人々に受け入れられ、詩の大衆化に大きな役割を果たした。宋詩は一般に感情表現において抑制が働いていて、「理知」と「平淡」をその特色とする。また、詩人たちが結社的結合を強めていったこと、詩と同時に詞が盛んにつくられるようになったことなどは、北宋から南宋に入ってより顕著となった傾向であり、やがて南宋のなかばには詩を売って生計をたてる職業詩人が出現した。文は、この時期、韓愈の提唱した古文が主流である。
元好問(げんこうもん)に代表される金の文学状況も、ほぼ宋のそれに等しいが、漢民族の抑圧の状況を反映してしばしば感情的な唐詩への接近を示す。
次に注目すべき文学の転換は、大衆文芸ともいうべき通俗文学の発達である。宋代の江南を中心とした社会経済の発展は都市の消費経済を飛躍的に進展させ、市場が大いににぎわった。その結果、都会の市場の盛り場には、講談の一種の「説話(せつわ)」、歌舞劇、影絵芝居や人形劇、曲芸などの種々の大衆芸能が行われ、人々を楽しませた。それらが次の時期に入ると通俗文学として大きく成長することになる。
[佐藤 保]
約600年にわたるこの時期は、古典文学の最後の時期である。詩文、それに詞の形式にはもはや新たな発展はなかったものの、作者の層は一般庶民をも含んで大いに広がった。詩はしばらく宋詩の影響が持続するが、明(みん)代に前後七子(しちし)(七才子)の人々が盛唐詩に学ぶことを主唱し、ふたたび唐詩風の詩が流行した。しかし、清(しん)朝の末には宋詩風が一時復活する。総体的に宋代までみられた生気は薄れてゆき、清朝の王士禛(おうししん)(あるいは王士禎(おうしてい))、袁枚(えんばい)など優れた叙情の詩人も現れなかったわけではないが、平板化と形式化の流れは、すでに抑えようがなかった。文もやはり、全般的に魅力に乏しい。明代に流行した形式主義的な「八股文(はっこぶん)」の弊害を救うために清朝の人々によって復古的な「桐城派(とうじょうは)」古文が主唱され、広く盛行したものの、清末にはそれ自体が形式化のそしりを受け、文学革命では打倒の対象とされたのである。むしろ、実りが多かったのは通俗文学のほうで、「元曲(げんきょく)」あるいは「元雑劇(げんざつげき)」とよばれる元代の戯曲、そして明代の長編白話(はくわ)小説がそれである。元曲はもともと宋・金の歌劇に由来する演劇であるが、明・清にはさらに「伝奇」とよばれる戯曲へと進展した。『水滸伝(すいこでん)』『三国志演義(さんごくしえんぎ)』『西遊記(さいゆうき)』などの明代の長編小説は、いずれも口語(白話)で書かれているところに特色があり、これらもまた宋代の語り物「説話」に淵源(えんげん)をもつ。これらの長編小説をつくりだした経験が、やがて清朝の『紅楼夢(こうろうむ)』や『儒林外史(じゅりんがいし)』などを生み出すもととなった。古典文学の最後の時期である清朝は、きわめて学術的な雰囲気の色濃い時期でもあった。そのため、清人は自ら詩文の創作にあたるかたわら、前代までの古典文学の収集整理と注釈の作業に情熱を傾けたのである。『全唐詩(ぜんとうし)』『全唐文(ぜんとうぶん)』『宋詩鈔(そうししょう)』『元詩選(げんしせん)』『明詩綜(みんしそう)』など、現存する中国古典文学の諸作品および注釈は、清人の努力に負うところが少なくない。とりわけ、中国に伝わる書物全体を総合的にまとめる四庫全書(しこぜんしょ)館を開設し、それぞれの書物に書誌学的考察を加えた『四庫全書総目提要(しこぜんしょそうもくていよう)』の編纂(へんさん)は、清朝学術の輝かしい成果であった。
清朝の人々は、さながら、長く閉鎖的に成長してきた中国古典文学の最後の総決算を行ったかにみえる。固い閉鎖の殻を破ったのは、たび重なる西欧諸外国からの働きかけと、古典の世界に飽き足らなくなった先覚者の努力であったが、清末の黄遵憲(こうじゅんけん/ホワンツンシエン)、梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)などが、きたるべき文学革命の準備をしたのである。
[佐藤 保]
アヘン戦争(1840~1842)の敗北を契機に、それまで閉鎖された天下であった中国は、西欧列強の脅威にさらされ、国内でも太平天国(1851~1864)が起こるなど、体制そのものの動揺が顕著になった。それを反映して、思想界では、体制内の変革から清朝打倒の革命を目ざすものまで、多くの潮流が相次いでおこった。文学界でも詩に新しい内容を盛る「詩界革命」の運動や、梁啓超らによる政治小説の提唱、それを受けた現実暴露小説の流行など、古典文学の枠を破る動きがようやく盛んとなった。ただこれらは、まだ文学としての質は古く、近・現代文学への胎動にとどまっていた。このなかで、厳復(げんふく/イエンフー)による西洋近代思想の翻訳、林紓(りんじょ/リンシュー)による西洋近代小説の翻訳・翻案は、その後の知識人の思想形成に大きな影響を及ぼした。
[丸山 昇]
実質的な近・現代文学の出発は、1910年代後半の「文学革命」に始まる。陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)の創刊した雑誌『新青年』を中心に、反儒教と口語文提唱を柱として展開された文化・思想運動で、不完全な革命であった辛亥(しんがい)革命(1911)以後の反動に抗し、新共和国の文化的実質をつくりだす動きでもあった。口語文学を提唱した胡適(こてき/フーシー)、それを「文学革命」の運動に広げた陳独秀、『狂人日記』(1918)をはじめとする小説で、文学革命に実質を与えた魯迅(ろじん/ルーシュン)らの役割が大きい。文学革命は、五・四運動(第一次世界大戦中に日本が行った「対中国二十一か条要求」とそれをベルサイユ平和会議で、列強が追認しそうな情勢に抗議して、1919年5月4日に北京の学生・民衆が行ったデモおよびそれに端を発した運動)や中国共産党成立(1921)を思想的に準備し、文学研究会、創造社などの文学団体がこのなかで生まれて、近・現代文学の基礎がつくられた。
中国の近・現代文学は、民族の置かれた危機的状況や民衆の貧困など厳しい現実に取り巻かれていたため、当初から現実への強い関心を特色とした。「人生派」とよばれた文学研究会だけでなく、「芸術派」とよばれロマンチシズムの色の濃い創造社にしても、現実への関心は強く、そのロマンチシズムは現実への批判の変形でもあった。文学研究会系に周作人(しゅうさくじん/チョウツオレン)、沈雁冰(しんがんひょう/シエンイエンピン)(茅盾(ぼうじゅん/マオトウ))、葉紹鈞(ようしょうきん/イエシャオジュン)、謝冰心(しゃひょうしん/シエピンシン)、許地山(きょちざん/シュイディシャン)(落華生)ら、創造社に郭沫若(かくまつじゃく/クオモールオ)、郁達夫(いくたつふ/ユイターフー)らがいる。
[丸山 昇]
1920年代なかばにかけての五・四運動退潮期から、五・三〇事件(1925年5月30日に上海(シャンハイ)で起こった民衆の反帝国主義運動)を経て、国民革命に至る時期には、知識人の分化が進んだ。一方では、文学と革命との結合を提唱する動きが強くなり、郭沫若、茅盾ら自ら革命に参加した文学者も少なくない。このような文学の政治性は、程度と形式の差こそあれ、中国近・現代文学の根本的性格ともいいうるものである。一方、胡適らに代表される文化主義的傾向も、とくに詩にみられる芸術至上的傾向も、時期によりその程度と役割を複雑に変化させながら、一つの流れとして存在を続けた。
1927年、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)の反共クーデターで国民革命が挫折(ざせつ)したのち、国民党の反動化への反発として、創造社、太陽社などがプロレタリア文学を唱えた。彼らは魯迅や茅盾に小ブル文学者という非難を浴びせ、魯迅らもこれに反論して「革命文学論戦」が起こったが、これを通じて、新たな統一を求める動きが生まれ、1930年、中国左翼作家連盟(左連)が成立した。左連は国民党の弾圧に抗しつつ運動を続け、多くの若い作家を生んだ。彼らは多くが中・下層知識青年だったが、9割を超える民衆が字が読めなかった中国で、民衆にかわって声をあげた意味は大きく、「文芸大衆化」の努力もなされた。その運動は国民党の弾圧に妨げられ、当時の中国共産党の極左路線の影響もあって、豊かな作品は数多くは生まれなかったし、民衆に直接広く受け入れられるには至らなかったが、1930年代の文学の強力な流れを形成し、また1940年代以降の中国文学の中心となった作家・批評家の多くが、このなかから生まれた。左連の作品としては、頂点に茅盾『子夜(しや)』(1933)があげられるほか、蒋光慈(しょうこうじ/ジアンクワンツー)、丁玲(ていれい/ティンリン)、艾蕪(がいぶ/アイウー)、沙汀(さてい/シャーティン)などがあり、また蕭軍(しょうぐん/シヤオチュン)、蕭紅(しょうこう/シヤオホン)など、東北出身で日本支配下の「満州国」から本土に逃れた作家の作品も、流れとしてはこのなかに位置づけられる。
左連のほかでも、老舎(ろうしゃ/ラオショー)『駱駝祥子(ロートシアンツ)』(1936)、巴金(はきん/パーチン)『家』(1931)など、中国近・現代文学を代表する作品のいくつかが書かれた。沈従文(しんじゅうぶん/シェンツォンウェン)『辺城』(1934)もこのころの作品である。
中国近・現代文学を構成する各ジャンルも、ほぼ1930年代までに確立した。散文では、魯迅が鋭い社会批判、文明批評を内容とする「雑感」を生んだのに対して、周作人、兪平伯(ゆへいはく/ユーピンポー)らは、やや文人風の散文をよくした。林語堂(りんごどう/リンユイタン)もユーモアをもった「小品文」を提唱した。これらは、魯迅に現実からの逃避の側面を批判されたが、魯迅の「雑感」と周作人の散文を両極とするこのジャンルには、中国文学の散文の伝統を受け継ぐ多様な作品が生まれ、重要な意味をもつジャンルである。
詩では、文学革命期の、試みの域を出なかった白話詩に続いて、1920年代に郭沫若、聞一多(ぶんいった/ウェンイートゥオ)、朱自清(しゅじせい/チューツーチン)、徐志摩(じょしま/シュイチーモー)らがいたが、このころ艾青(がいせい/アイチン)、戴望舒(たいぼうじょ/タイワンシュー)、何其芳(かきほう/ホーチーファン)らが出ている。
演劇は、旧劇から「文明戯」を経て「話劇」が生まれ、1920年代から1930年代初頭にかけて田漢(でんかん/ティエンハン)、洪深(こうしん/ホンシェン)が出ていたが、1930年代なかばの曹禺(そうぐう/ツァオユー)の『雷雨』(1933)などによって近代劇が確立した。
[丸山 昇]
1937年、日本の全面的中国侵略の開始とともに、文学も、日本占領下、国民党治下、共産党治下の三つの地域によって、それぞれ異なった様相を示すことになる。また、1937年以降も太平洋戦争開戦まで、上海の租界地区や英領だった香港(ホンコン)には、ある種の自由が残ったことなど、独特の状況が生じていた。
日本占領下に残った文学者の代表が周作人で、その動機と行動は単純ではないが、しだいに対日協力の度を深め、戦後「漢奸(かんかん)」として罪に問われた。また、本土に逃れた「東北作家」のほかに、古丁(こてい/クーティン)(1914―1964)、梁山丁(りょうさんてい/リァンシャンティン)(1914―1997)など、「満州国」にとどまって作家活動を続けた者もいた。状況の複雑さに伴って、彼らの仕事もその意図、結果もさまざまだったが、その多くはなんらかの形で日本の文化政策との接触ももたざるをえなかったため、人民共和国建国後は、否定的に評価されたり、無視あるいはタブー視される傾きが強かったが、文化大革命(以下文革と略称)後の1980年代以降、政治的にも文学的にも、複雑さをそのまま客観的にとらえ、学問的に検討しようという流れが強まっている。国民党治下では、重慶(じゅうけい/チョンチン)、桂林(けいりん/コイリン)、昆明(こんめい/クンミン)などが、また太平洋戦争開戦前には香港も、作家のおもな活動の舞台となり、国民党政治の腐敗・矛盾などがおもなテーマとなった。茅盾『腐触(ふしょく)』(1941)、『屈原』(1942)をはじめとする郭沫若の史劇、巴金『寒夜』(1945)、老舎『四世同堂』(1945~1950)などがこの時期を代表する作品である。
この時期から戦後にかけて、香港・上海では、張愛玲(ちょうあいれい/チャンアイリン)(1921―1996)、蘇青(そせい/スーチン)(1914―1982)等が、多くの小説・エッセイで人気をよんだ。彼らの仕事も、建国後の大陸での評価は低かったが、文革後、過去の評価への反発もあり、香港・台湾での人気の影響も受けて、とくに若い読者に歓迎されている。
根拠地あるいは解放区といわれた共産党治下では、文学の様相は大きく変わった。根拠地への大量の知識人の移動は、客観条件として知識人と民衆の距離を飛躍的に縮める一方、「解放区」の矛盾に対する知識人の批判的発言も増え、古い幹部や軍と知識人の間の矛盾を顕在化させた。その状況をおもに知識人の意識変革・思想改造を求めることによって解決する理論として出されたのが、延安(えんあん/イエンアン)文芸座談会における毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の「文芸講話」である。これは、文学が人民に奉仕すべきこと、当時の現実のなかでは普及第一であることなどを説き、文学者がまず大衆のなかに入ること、現にある大衆のために書くこと、を求めその鍵(かぎ)は知識人の思想改造にあることを強調したのものだった。これ以後、この方向に沿って生まれた文学が「人民文学」とよばれる。最初にその代表的作家と目されたのが趙樹理(ちょうじゅり/チャオシューリー)である。また集団創作の歌劇『白毛女』(1945)は、解放区の民衆の広い感動をよんだ。
広大な民衆が文化から取り残されていた当時の現実のなかで、なによりもまず彼らの目前の要求にこたえる文学・芸術を、と説き、知識人に自らの外の広大な世界に目を向けるよう促した「講話」を、当時の文学者に受け入れさせたのは、政治的圧力ばかりではなかった。「到民間去」(ブ・ナロード、民衆の中へ)というスローガンは、知識人と民衆との文化的格差が大きかった中国社会では、必然性をもったスローガンであり、すでに五・四時期から知識人の内的な課題として意識されていたものでもあった。しかし「講話」は、やはり当時の解放区という特殊な現実から生まれたことによる一面性、単純化を含んでおり、それにもかかわらずその限界は十分に認識されず、さらに中国革命の勝利後、これを絶対化する傾きが生まれて、その後の文学に少なからぬマイナスを生んだ。
[丸山 昇]
中華人民共和国建国前後から、土地改革その他の大きな社会的変動や新しい現実を背景とする作品が多く書かれ、少なからぬ新作家も生まれたが、一方「講話」からの偏向として批判され失脚した作家も多く、とくに1955年の「胡風(こふう/フーフォン)事件」、1957、1958年の「反右派闘争」と、1965年から10年間続いた「文化大革命」は、作家個々人にも、文学界全体にも大きな傷を残した。
文革中、老舎、趙樹理など、激しい非難と迫害のなかで死んだ文学者も少なくなかった。また知識人の多くは、労働者・農民出身の作家も含めて、さまざまな理由で批判と迫害の対象となり、機関ごとに設けられた「五七幹部学校」(1966年5月7日の毛沢東の指示によってつくられ、労働を通じての学習・思想改造の機関と称したが、実質的には形を変えた強制収容所に近かった)に送られて労働に従事し、さらには投獄されたものもいた。
1976年9月の毛沢東の死後間もない10月、文革派の中心人物だった江青(こうせい/チヤンチン)・張春橋(ちょうしゅんきょう/チャンチュンチヤオ)・姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)・王洪文(おうこうぶん/ワンホンウェン)(「四人組」とよばれた)が逮捕され、文革が終了すると、文革路線への批判の深化につれて、1977年夏ごろから文革中失脚していた文学者・芸術家たちの復権が始まり、1978年11月までには「反右派闘争」時に「右派」とされた人々のほとんどが名誉回復、遅れていた胡風も1980年秋には、名誉回復した。
作品面では、1977年11月に発表された劉心武(りゅうしんぶ/リウシンウー)(1942― )『班主任(クラス担任)』を皮切りに1980年代初頭にかけて、文革の諸側面を暴露・批判する作品が相次いで発表され、この種の作品は、廬新華(ろしんか/ルーシンホワ)(1954― )『傷痕(しょうこん)』(1978)の題名をとって、「傷痕文学」とよばれた。このころは、王蒙(おうもう/ワンモン)(1934― )、劉賓雁(りゅうひんがん/リウピンイェン)(1925―2005)、白樺(はくか/バイホワ)(1930― )、高暁声(こうぎょうせい/カオシヤオシヨン)(1928―1999)、張賢良(ちょうけんりょう/チャンシエンリヤン)(1936―2014)など、かつて「右派」とされた作家たちと、諶容(じんよう/シェンロン)(1936―2024)、張潔(ちょうけつ/チャンチエ)(1937―2022)など女性の新作家が活発な仕事をみせた。また文革以前からの作家も回想録その他の形で仕事を続けたが、文革中に心身を傷めて、十分な仕事をみせぬままに生涯を閉じた者も多かった。そのなかで巴金が1970年代末から書き始めた『随想録』(1979~1986)は、文革を生み出した社会的・文化的基盤に対する鋭い批判と、それを阻止できなかった自身への思想的・人間的反省の深さで、広い共感と信頼を集めた。
文革への批判は、さらに「反右派闘争」へ、さらにそれ以前の政治・思想キャンペーンへとさかのぼり、深化する傾向をみせた。これらは一方では文学界全体を活性化したが、他方それに反発し危惧を感ずる層をも刺激し、両者のせめぎ合いは、複雑・隠微な底流として長く続いた。1981年の白樺批判(白樺が1979年に発表した『苦恋』をもとに制作された映画『太陽和人(太陽と人)』に対して、鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)の「祖国を否定的に描いている」という批判を契機に起こった白樺攻撃。1981年11月白樺の自己批判で事件は終息した)、1983年の「精神汚染一掃」の提唱、1989年6月の「第二次天安門事件」後の「ブルジョア自由化批判」の強調などが、その表面化したものであった。
しかし、より深くより豊かに現実をとらえようとする文学者たちの試みは、曲折を経ながらも着実に進んだ。それはときには「意識流」(意識の流れ)をはじめとする20世紀欧米の方法への関心と紹介を通じて、リアリズム偏重の壁を破ろうとする試みとして現れ、またときには、アメリカにおける「ルーツ文学」の流行にならいながら中国の根強い文化的・社会的伝統の負の側面への追求を含んだ「尋根文学(じんこんぶんがく)」として現れるなど、強靭(きょうじん)な生命力を示している。後者の代表的存在が、鄭義(ていぎ/チョンイー)(1947― )、莫言(ばくげん/モーイエン)(1955― )などで、彼らの作品は1980年代以後、世界の注目を引くようになった中国映画の原作となったこともあって、外国にも知られ、高い評価を受けている。
これら文革終了後の文学は、1990年代初頭ごろまでは「新時期文学」と総称され、新作家も数多く生まれたが、とくに1980年代後半以後の作家たちの作品はテーマも手法も多様で一括しがたく、もはや「新時期文学」の呼称もふさわしくない時期に入っている。
とくに1992年春、鄧小平の『南巡談話』による「改革・開放」政策の加速と定着、市場経済の急速な発展は、文学の社会的存在意義をも急速に変えつつある。文学の商業主義化・サブカルチャー化の現象は中国でも顕著で、新しい風俗・流行等を題材にした通俗小説が人気をよぶ一方、読者の文学離れ、文学雑誌、作品の売れ行きの減少などが、問題になっている。
もちろん1990年代以降現在でも、若い作家は次々に現れており、しかも多様化しているだけに代表的な名をあげることにも困難を感ずるほどだが、この混沌(こんとん)のなかからどんなものが生まれるかが、21世紀の中国に関心をもつ者の期待と不安であろう。
ただ、そうした混沌のゆえか、文革後の中国文学に、世界の文学界が従来にない関心を寄せているのは事実である。卑俗な例をあげると、中国文学にはノーベル文学賞受賞者は出ていなかったが、文革後しばらくの間は、巴金の名が毎年下馬評に上り、1990年代には外国で作品を発表している詩人北島(ほくとう/ベイダオ)(1949― )の名がしばしばあがったが、2000年ノーベル文学賞が劇作家・小説家の高行健(こうこうけん/ガオシンヂエン)に与えられた。中国国内を含めてかならずしも有名作家ではなかった彼が、中国人作家で最初にノーベル賞を受けたことの背景には、彼が1988年以降フランスに在住して1998年にはフランス国籍も取得したこと、とくに彼の前衛的方法が欧米の関心と理解を得やすかったことなどの条件もあったろうが、中国文学が、ともするとエキゾチシズムあるいは社会的政治的動向を探る手がかりとしての関心から読まれがちであった時代が過ぎ去り、中国の作家たちの人間的文学的営みそのものとして読まれうる時代に移りつつあることを示すものかもしれない。
[丸山 昇]
日本人は初め、朝鮮半島を通じて中国を知り、中国との交渉を始めた。
推古(すいこ)朝では、日本の上流知識階級の中国文化理解の程度がかなり進んでいた。りっぱな中国文で書かれた聖徳太子の「十七条憲法」(604)が、そのなによりの証拠である。近江(おうみ)朝の天智(てんじ)天皇は、自ら中国の詩文をつくると同時に、大いに奨励した天皇として知られるが、中国文化の摂取は政治の実務性のみならずしだいに芸術面にも及び、上流階級の人々に中国文学の知識が必須(ひっす)のものとなり、模倣が盛んに行われるようになったのである。いわゆる漢詩・漢文の知識が教養のバロメーターとなった。奈良・平安時代の上代文学の時期は、文学といえばとりもなおさず漢詩・漢文をさしていた。
日本人が最初に学んだ中国文学は南朝風の美文学であり、その最良の手本が『文選(もんぜん)』であった。そして数度にわたる遣唐使の派遣で唐代文学の知識が深まるにつれ、唐の詩文も輸入され、人々に愛好されるようになった。とりわけ白居易(はくきょい)の『白氏文集(はくしもんじゅう)』が大きな影響を与えたが、しかし『文集』の影響が顕著になるのは平安中期以後のことである。『源氏物語』など平安中期の物語文学には、『文集』のほか『文選』など多くの中国文学の影響が認められる。
平安時代に漢字から仮名をつくり、訓読(くんどく)という独自の解読法を生み出した日本人は、その後、相対的に中国語および中国語の詩文を書く能力は衰えていったものの、中国文学の摂取と普及はむしろ容易になり、多少の時差を伴いつつ中国の各時代の文学を学んでいった。たとえば、鎌倉・室町時代の京都五山の僧侶(そうりょ)を中心とする宋(そう)・元(げん)文学の摂取、江戸時代における明(みん)代の通俗的な長編白話小説の受容など、謡曲、俳諧(はいかい)、物語などに与えた中国文学の影響は計り知れない。
明治期は、中国文学と西欧文学の両者のせめぎ合いの時期といってよい。結果は西欧文学がより大きな存在を占めるようになるが、それに伴って中国文学が日本文学から学ぶことが始まった。正確にいえば、日本の現代文学を通じて西欧文学を学んだのである。明治末期から大正期にかけて多数の清国留学生が来日し、日本語に訳された西欧近代文学の知識を吸収した。それがやがて中国文学の改革を生み出すのである。その代表的な文学者が魯迅であった。
昭和期には、日中戦争によって両国の交流が中断されるという不幸な事態があったが、日本で中国の現代文学の研究が始まったのはこの時期である。魯迅や郭沫若(かくまつじゃく)・郁達夫(いくたつふ)らの作品が比較的早くに日本に紹介され、日本の知識人や作家の一部に影響を与えたが、中国現代文学の研究と翻訳が本格化するのは1949年の中華人民共和国成立後であった。さらに、1972年(昭和47)の日中国交回復以後は両国の交流が盛んになり、相互の留学生が増えると同時に文学者・研究者の交流も盛んに行われ、日本文学と中国文学の関係は一層緊密になり、新たな局面を迎えた。
[佐藤 保]
『岡田正之著『日本漢文学史』(1929/増訂版・1954・吉川弘文館)』▽『青木正児著『支那文学概説』(1935・弘文堂)』▽『『中国現代文学選集』全20巻(1962~1963・平凡社)』▽『小島憲之著『上代日本文学と中国文学』全3巻(1962~1965・塙書房)』▽『『中国古典文学大系』全60巻(1967~1975・平凡社)』▽『『全釈漢文大系』全33巻(1973~1980・集英社)』▽『丸山昇著『現代中国文学の理論と思想』(1974・日中出版)』▽『前野直彬著『中国文学史』(1975・東京大学出版会)』▽『黎波著『中国文学館――詩経から巴金』(1984・大修館書店)』▽『丸山昇他編『中国現代文学事典』(1985・東京堂出版)』▽『倉石武四郎著『中国文学史』(1986・中央公論社)』▽『和漢比較文学会編『和漢比較文学叢書』全18巻(1986~1994・汲古書院)』▽『竹内実・萩野脩二編著『中国文学最新事情――文革、そして自由化のなかで』(1987・サイマル出版会)』▽『藤井省三著『中国文学この百年』(1991・新潮社)』▽『北島他著、宮尾正樹他訳『発見と冒険の中国文学 紙の上の月――中国の地下文学』(1991・宝島社)』▽『張愛玲他著、桜庭ゆみ子他訳『発見と冒険の中国文学 浪漫都市物語――上海・香港'40S』(1991・JICC出版局)』▽『興膳宏編『中国文学を学ぶ人のために』(1991・世界思想社)』▽『藤井省三編『笑いの共和国――中国ユーモア文学傑作選』(1992・白水社)』▽『林田慎之介著『中国文学の底に流れるもの』(1992・創文社)』▽『駒田信二著『新編 対の思想――中国文学と日本文学』(1992・岩波書店)』▽『相浦杲著『求索――中国文学語学』(1993・未来社)』▽『萩野脩二著『中国“新時期文学”論考――思想解放の作家群』(1995・関西大学出版部)』▽『吉田富夫著『中国現代文学史』(1996・朋友書店)』▽『藤井省三・大木康著『新しい中国文学史――近世から現代まで』(1997・ミネルヴァ書房)』▽『松枝茂夫著『中国文学のたのしみ』(1998・岩波書店)』▽『藤井省三編『現代中国短編集』(1998・平凡社)』▽『丸山昇監修、芦田肇・佐治俊彦・白水紀子編『中国現代文学珠玉選 小説(1)~(3)』(2000~2001・二玄社)』▽『丸山昇著『「文化大革命」に到る道――思想政策と知識人』(2001・岩波書店)』▽『大野修作著『書論と中国文学』(2001・研文出版)』▽『佐藤美知子著『万葉集と中国文学受容の世界』(2002・塙書房)』▽『九州大学中国文学会編『中国文学講義――わかりやすくおもしろい』(2002・中国書店)』▽『吉川幸次郎著『中国文学入門』(講談社学術文庫)』▽『井波律子著『中国文章家列伝』(岩波新書)』▽『井波律子著『中国の隠者』(文春新書)』
中国の文字で書かれた記録・資料の最も古いものは,紀元前13世紀にさかのぼる。その時代から現代にいたるまで約3000年間の文学の発展を五つの時期に分けて述べよう。
中国文学の源流は二つある。一つは史官の文学,他は巫(ふ)の文学である。文字(漢字)が作り出されたのはごく古く,前20世紀以前だと思われる。今日残存する最古の記録は殷代の〈卜辞(ぼくじ)〉であるが,それに用いられた漢字は単純な絵文字ではなく相当進歩した段階にあった。卜辞は君主のために神意を問うた占いのことばで,短いものが多い。周代の〈金文(きんぶん)〉(青銅器の銘文)は,おおむね君主から臣下へ賜った告命の辞である。これには100字を超える長文があって,文字使用の技術の進歩をあらわす。金文の辞を作ったのは史官であって,史官の職は文書・記録をつかさどることにあった。《書経》は明らかに史官によって作られ,伝えられたに違いない。王朝や諸侯の国の年代記を作ったのも彼らである。史官の記録が中国の散文の起源であった。
巫は〈みこ〉,シャーマンであって,神と人との仲介者である。太古の中国人が神話を有したとすれば,それは巫の語るところであったろう。しかし神話はおそらく文字で記録される機会がなく,今日では断片的な資料から想像できるにとどまる。神話は口頭の伝承のみで長いあいだ存続していたであろう。そして巫が神を代表して人間に対するとき,および人間のために神に問い,あるいは神に訴えるとき,それらのことばから,しだいに特殊な文学が形成されてゆく。《楚辞》は巫の語りくちを学んで作られたと考えられる韻文である。史官の系統の文学(散文)は現実的であって,これを知性の文学と規定できるのに対し,巫の系統の文学は神秘的な情調をおびる。その特色は《楚辞》だけでなく,《詩経》の奥にもひそむ。古い卜辞と関連するが,占いの結果(吉か凶か)を判断するためのことばが伝わっていて,そのあるものは韻文であった。《易経》の本文(卦辞(かじ))はそこから出る。これに独特の哲学的解釈が付加されるのは戦国時代であるが,その本文にも文学としての鑑賞にたえるものがある。これもまた巫の系統の文学と無縁ではなかった。
《書経》の最も古い諸篇は西周の初め(前11世紀)の作で,のち次つぎに書き加えられ,最も新しい篇の成立は戦国(前3世紀ごろ)までくだるであろう。おもなものは君主の詔勅(みことのり)あるいは戒めや誓いの辞で,古代の金文と類似した性格をもつ。用語の荘重なひびきは,後世まで長く詔勅文などの模範となるもので,《詩経》と並んで古典中の古典となった。《詩経》は前6世紀ごろにほぼ結集を終えた歌謡集であり,その歌謡の古いものは,やはり周初前11世紀にさかのぼる。周王朝などの祖先を祭る舞の歌〈頌(しよう)〉,宮廷の宴会の歌〈小雅〉と〈大雅〉,地方の民謡〈国風〉の3部に分かれ,305篇を収める。内容は民族の祖先の苦難を述べ,その功績をたたえる叙事詩風のもの,結婚,誕生,新居を祝うものなど,さまざまであるが,国風の部には恋愛の歌がとりわけ多い。すべて作者は不明で,民族共同体の感情を表す。形式は四言(漢字4字すなわち4音節)の句を基本とし,脚韻のふみかたに一定の法則はない。語頭子音を同じくする2音節をつらねた〈双声〉の語と,母音(および語尾の子音)を同じくする2音節をつらねた〈畳韻(じよういん)〉の語とをしばしば用いて,音声をととのえる。くりかえしが多いのは民謡の特色であるが,全体に和声的な音楽を聞くような印象を与える。《詩経》の作品を支配する世界観は,その音調と同様に,素朴ながら調和のとれたものであった。《書経》が中国の散文の起源となったのと並んで《詩経》は韻文のはじめをなす古典となった。
前8世紀に始まる春秋戦国の時代は政治上では分裂の時代だが,文字の知識が少数者の手から貴族全体へ,さらに下級の士へと移り広まるにつれて多数の思想家が現れ,〈諸子百家〉の種々の学派を形成した。思想家と門人たちとの対話が記録され(その最初は《論語》である),前4世紀には組織的な著作もあらわれた。戦国の政論家〈説客(ぜいかく)〉の雄弁術のめざましい発達は,対句(ついく)の技巧の成長を促し,散文は急速に進歩した。〈諸子〉の著作の中で,儒家の《孟子》と道家の《荘子(そうじ)》とが文学的にはすぐれていた。比喩の巧みさと話題のゆたかなことは共通するが,《孟子》は説得力に富み,《荘子》は逆説にみちつつ壮大な想像の世界を描く。相反する哲学的立場にあって,二つの書は戦国時代の散文の傑作であった。〈百家〉の文学は史官の文学から派生したと言えるものだが,史官の伝統が衰えたのではない。孔子が編集し改作したとされる《春秋》は魯の国の年代記で,簡潔に事件の骨格だけをしるすのは史官の書きかたに従ったのであろう。おそらく諸子の散文の発展に刺激されて,歴史の記述に変化が起こる。《左氏伝》は《春秋》を補足する形をとり,魯の国のほか晋や楚の年代記などを利用し,前4世紀にできたと思われる。人物のいきいきとした描写,事件の展開のむだのない記述に手腕をみせる《左氏伝》は《春秋》とならんで編年体の歴史書の模範となった。この時期に(《荘子》のごとく架空の人物の対話を作るのではなく)実在の人物の言論を想像によって再現する方法を教えた学派(縦横家など)があった。その作文を集めたのが《戦国策》である。その方法を歴史家たちも取り入れたと思われる。そのことは《左氏伝》の記述にもあらわれているし,のちの《史記》にはいっそういちじるしい。
戦国時代,中国南部の長江(揚子江)流域でさかえた楚の国で起こった新しい韻文文学が《楚辞》である。その書は漢代に編集されるが,そのおもな部分は屈原の作25編で,祭礼の舞歌(《九歌》など)と独白体の〈賦〉(《離騒》など)の2類に分かれる。前者はかつては歌唱されていたであろうが,後者は初めから朗誦されたと思われ,句形は《詩経》より長く,韻のふみかたは1句おき(隔句韻)に定まっている。《九歌》が巫の文学から出たのは明らかだが,《離騒》の独白体も神秘的色彩をおびる。その世界観も《詩経》のそれと異なった幻想的,瞑想的なもので,異様な薄明に包まれる。屈原の思想の背骨をなすのは,中原(ちゆうげん)(黄河の流域)の〈諸子百家〉の色とりどりの哲学の中でも儒家の倫理であったが,彼の文学の発想の方法は別のもので,それは楚の民族の心の奥にあったものかも知れない。不安と憂愁の文学者屈原が投じた疑問,人間の運命とは何かとの問いは,次の時代の文学の大きな主題となる。そして,これが作者の名の明らかな韻文作品の最初であることも注目すべきである。
中国全土を統一し秦の始皇帝が建てた大帝国は15年の短命に終わったが,それを受け継いだ漢(前漢と後漢)の400年間に文学は新たな発展をみせた。三国時代(魏)以後ふたたび分裂の世となるが,文学はいっそうさかんになる。ほとんどの作家は貴族出身だから,その活動はおもに宮廷においてであった。この時期の文学を5項に分けて述べよう。
賦の韻文は漢代に入って急速に発達し,多数の作家を出し,成帝の世(在位,前33~前7)までに合計1000編近い作品が発表されていた。漢代の賦はおおむね2類に分かれる。その一は個人のこころざしを述べるもので,屈原の流れをくむ独白体であることが多い。賈誼(かぎ)の〈鵩鳥(ふくちよう)の賦〉のごとく,人間の運命についての思索を重々しいスタイルで表現する。その二は記述的な賦で,その代表的作品は武帝の大庭園を描いた司馬相如(しばしようじよ)の〈上林の賦〉と長安・洛陽の都を描写した班固の〈両都の賦〉である。いずれも対句を多用し,きらびやかな文字をつらね,多数の事物を列挙して壮麗な大建築に似た構成を示す。かくて物の名を列挙することは〈賦〉の特色となる(日本で〈賦〉を〈かぞえうた〉と訳したのはそのためである)。やや小さな物(たとえば楽器)を題とする〈詠物(えいぶつ)〉の賦もこの類に属するが,宮廷文人の即席の作であった。三国以後も賦の制作はさかんで,文人たちはこのジャンルに全力を傾けた。題材はますます広くなり,陸機の〈文の賦〉のごとく文学の理論をこの形式で説いたものがあり,陶潜(淵明)でさえ,彼にはめずらしく美女を描く〈閑情の賦〉を作ったほどである。庾信(ゆしん)の〈哀江南の賦〉は多量の典故を用いて,南朝の滅亡をうたった壮大な叙事詩というべき大作であった。
楽府(がふ)は漢代の宮廷に設けられた役所の名から,その楽人が演奏した曲の歌詞の総称となった。地方の俗謡とそのかえうたを含む。漢の高祖劉邦が作ったという〈大風(たいふう)の歌〉は彼の死後その祭りでうたわれたが,その曲は楚の地方の歌謡のふし(楚声)であった。やはり漢代の軍楽だったという〈短簫鐃歌(たんしようどうか)〉の数曲はおそらく北方中国の民族の歌謡であろう。句の形は不規則で,ことばは素朴だが力強いひびきがある。魏・晋以後は文人が歌曲のかえうたを作るだけでなく,歌曲の名を題として詩を作るようになって,本来の民謡と区別しにくくなる。それらの詩も楽府とよばれるからである。純粋の民謡では南朝の〈呉声歌曲〉と〈西曲歌〉などが伝わっている(呉歌西曲)。前者は呉(現,江蘇省南部)の地域の民謡で,〈子夜の歌〉など五言四句の短い形が多く,のちの〈絶句〉の起源になる。後者は今の湖北省地域の民謡で,七言の句を用いるものがある。どちらも民謡らしくしなやかで洗練されたスタイルになっている。北朝の歌謡には北西の異民族から取り入れられたものがあった。6世紀に北斉の軍中でうたわれたという《勅勒(ちよくろく)の歌》の原文はたぶんトルコ語で,今は漢訳だけが伝わるのだが,北方の草原の風景をうたった古今の絶唱である。これら歌謡は文人の詩歌の源泉ともなって,彼らの情操を養った。
五言詩が発生したときはまだ明らかでないが,後漢の末〈建安時代〉(196-219)の文人たちはすでにこれを作っていた。〈古詩十九首〉は少しく先だち,民謡の歌詞に手を加えて成ったと思われる(古詩)。曹操(魏の武帝)とその子曹丕(そうひ)(魏の文帝)をとりまく宮廷文人の一団を〈建安の七子〉とよぶ(建安文学)。彼らの作品の用語はおもに古典(および漢代の〈賦〉)から取られたが,俗語の要素もあり,民謡から発展したことを示す。五言詩の形式と脚韻(隔句韻)の原則は,このころ確立された。四言詩も作られるが,しだいに衰弱する。五言詩の代表的詩人曹植(曹丕の弟)は豊富な題材を熱情的にうたったが,真の主題は漢の〈賦〉と同じく,人間の運命への疑問であった。この800年間で最大の長編物語詩《孔雀(くじやく)東南飛》も建安年間の作といい,五言詩の成熟を示す。魏の阮籍(げんせき)は〈詠懐詩〉82首において,その疑問をさらにつきつめた形で提出し,いっそう思索的な孤独の詩人で独自の風格を有した。その後も詩人は続々出て,技巧はますますみがかれ,典故は多く用いられ,対句の構成も増加する。その技巧をさらに進め,崇高な自然の美を求めて,新たな世界を開いたのは謝霊運であった。彼が描く山水を照らす光の輝きは強い印象を与える。おそらく彼はそこに光明にみちた仏の国を見たのであって,彼の芸術は仏教の世界観に支えられていたと考えられる。しかし彼の詩の音調は阮籍のそれに似て重く,にがい。彼より少し年長の陶潜は宮廷詩人の圏外に立ち,素朴なスタイルで田園の生活をうたった。彼は後世の詩人たちの疑問,人生の幸福とは何かの問いに対する答えを先取したといえる。幸福はひとの身近にあるもので,けっして遠くに求める必要はないというのが彼の答えであった。彼の詩の音調がのびやかで,読者に解放感をもたらすのは当然であろう。梁の簡文帝のころから起こった〈宮体〉の詩は,陳の滅亡(589)までさかんに作られる恋愛の詩で官能的な美を描く。《玉台新詠》は宮体詩を主とする選集であるが,唐以後も読者は少なくなく,早く日本にも伝わっている。
漢の司馬遷の《史記》はそれまでの編年史(年代記)と違った新しい形式(紀伝体)の歴史書である。人間の歴史と運命についての深い思索が全部をつらぬくが,対話の劇的構成にすぐれ,それによって人物の性格描写に成功した。《史記》が古代から作者の時代までの通史であるのに対して班固の《漢書》は前漢(西漢)一代の史実を同じく紀伝体でつづり,周到で簡潔な記述は,《史記》と並んで歴史文学の模範となった。こののちの各王朝の〈正史〉はすべて紀伝体で書かれ,その編集に加わることは文人学者の名誉であった。
〈小説〉はもともとささいな雑記の集録であった。魏・晋以後二つの方向をとり,干宝の《捜神記》と劉義慶の《世説(せせつ)新語》とがそれぞれを代表する。前者は怪異談を集め,超自然への恐れを核とする幻想の拡大へ向かい,仏教や道教の霊験記の類と親近性がある。後者は貴族たちの逸話を集め,短い記述の中で人物の個性を浮き彫りにする。どちらも歴史の文学から派生したものであったが,やがて前者が虚構の文学の主流となり,次の時代の〈伝奇〉へとつながる。
《史記》や《漢書》は純粋の散文で書かれたが,辞賦の発展に伴って対句の技巧はますますひろがり,魏・晋以後,対句だけで組み立てた文体が一般化する。これを〈四六文〉(または駢文(べんぶん))とよぶ。4字の句と6字の句を基本とし,そのリズムを繰り返す点で詩に近く,韻文と散文の中間にある。四六文は辞賦とだけでなく,五言詩とも互いに影響しあって,技巧がみがかれた。四六文は,いわば和声的な美文だから,抒情的な内容にふさわしく,議論文や歴史の記述には適合しないはずなのに,南北朝の文人はあらゆる事をこの文体で書いた。北魏の酈道元(れきどうげん)の《水経注(すいけいちゆう)》のような地誌でさえ,この文体で書かれ,その風景を描写した美文は高く評価されていた。南朝の四六文の大家は(6世紀の)徐陵(じよりよう)と庾信で,巧みな対句の構成法は後世の模範となる。
文学のめざましい発展は文学の理論的考察をうながした。文学の評論は曹丕の〈文を論ず〉の一篇に始まり,作家の個性が論じられた。前述の陸機の〈文の賦〉は創作活動についての思索の結果などを韻文でつづったが,劉勰(りゆうきよう)の《文心雕竜(ぶんしんちようりよう)》は50章の大作で,陸機の示唆したところを体系化し,精密に詳しく述べた。全文が四六文で書かれている。鍾嶸(しようこう)の《詩品(しひん)》は漢以来300年間の五言詩作家の系統的な一覧表だが,個々の作家に対する当時の評価の高低が示され,貴重な資料である。2書とも6世紀の初めの著作であった。それらに先だつ5世紀末に沈約(しんやく)が中国の音調を研究して四声(しせい)(平(ひよう)・上・去・入)の名称を定め,その違いが詩文の韻律に及ぼす効果を論じた。彼の四声と八病(はつぺい)の説は大きな反響をよび,中国の作詩法の基礎は,ここに定まった。
短命の統一王朝,隋のあとをうけた唐の大帝国,その滅亡のあと五代50年間の混乱期を経て建てられた宋の帝国,合わせて約700年。この時期の特色は古典詩の形式が完全に定まったこと,新しい散文(〈古文〉とよばれる)が四六文の地位を奪ったこと(古文運動),俗語文学が起こったことなどである。
詩の韻律については,沈約らの説を継承し,さらに細かい分析が進められた。その結果,今(近)体詩(律詩と絶句)の制作に関するいくつかの規則は7世紀(いわゆる〈初唐〉期)にまず確定した。律詩(8句)の中心部の4句が,厳密な対句をなすことを必須の条件とするなども,このころ定まった。それらの規則は宮廷詩人の競争のためにできたであろうし,また文官任用試験(科挙)に作詩を課したことも規則の厳しさを強めたであろうと考えられる。そして詩人の出身が高級貴族から,やや低い階層へ移りつつあったことも,そこにみられる。大詩人が群をなして出現するのは8世紀(盛唐)であった。この時期の三大詩人の出身をみると,王維と杜甫は下級貴族だが,李白の父は商人であったらしい。この3人がそれぞれ異なる宗教の信徒であることは注意すべきで,王維は仏教,李白は道教の信仰をもっていた。杜甫だけが儒学の信念を固く守った。3人の詩の風格は彼らの信仰と信念に照応する。静寂の風景を好んで描く王維の自然観は彼の仏教の信仰と切り離せないものだし,李白の詩があらわす明朗闊達な人生観はまさに道教からえられたものであろう。杜甫の詩は苦難の多い人生の姿を直視し,深い憂愁をもって描くが,その底にある強い意志は儒学の信念にささえられていた。しかし晩年の思想には儒家の倫理の枠をこえたところがある。それは仏教の影響であるかも知れない。この時期に今体詩(律詩)の規則にしばられない古体詩(古詩)を別の韻律で作ることが始まる。その先頭に立つのは李白で,杜甫らがこれに続く。
安史の乱が引き起こした混乱と人民の苦しみに対する鋭敏な反応はまず杜甫の詩にあらわれたが,社会の不正への怒りと批判は白居易(はつきよい)の〈秦中吟〉や〈新楽府(しんがふ)〉にも見られる。しかし彼の長編物語詩〈長恨歌〉〈琵琶行(びわこう)〉などは小説的構想が読者をひきつける。それらの作が〈伝奇〉とよばれる小説の新しい文体の興るのと時を同じくすることは偶然ではない。彼の作品は平易なことばで書かれたためもあって,唐代詩人の中でも最大多数の読者を有していた。後世になると彼と並ぶ高い評価をうける韓愈は散文(古文)の作家としては最高の地位に達するが,詩においても,そのスタイルは〈険怪〉〈詰屈(きつくつ)〉と言われるごとくごつごつしたところはあっても新しい境地をひらいたものである。韓愈を中心とするグループには異色の詩人がいた。異様な幻想美の世界を作り出した短命の詩人李賀の〈鬼才〉を発見し賞賛したのは彼であったという。韓愈と白居易の時代(およそ766-835)は中唐とよばれ,それ以後(唐の滅亡の年907まで)を晩唐とよぶ。この時期の代表的詩人では李商隠が最も異彩を放つ。彼は恋愛の諸相をうたった〈無題詩〉を多く作り,律詩の対句の巧みさは杜甫につぎ造語の妙も似ているが,李賀とはまた異なった新しい世界をひらくものであった。彼と並ぶ杜牧(とぼく)もまた愛情の詩人としての一面をもっていたが,その軽快な筆致は李商隠の詩の重苦しいひびきとは対照的である。この時期の詩人たちには庶民の生活,その喜びと悲しみを写すことに興味をいだく人が少なくなかった。彼らの叙述が政治に対する批判をふくむ点では,中唐期の白居易とその友人たちの作品と同じ流れの続きだといえる。
唐の末期から五代(10世紀前半)へかけて,韻文の新しいジャンルが起こり,〈詞〉(または〈詩余〉)とよばれる。それは妓女がうたう歌謡曲であった。その歌詞を洗練された詩語を用いて作り,教養ある人々の鑑賞にたえる文学としたのは晩唐の詩人温庭筠(おんていいん)であるが,その後これを作る文人はしだいに多くなって,宋代にはきわめてさかんであり,柳永のごとき〈詩余〉を専門とする作家が出た。彼らの作の内容はおおむね不幸な恋の訴えで,そこに描かれる風景もその悲哀に彩られていた。かくて〈詩余〉は唐詩の叙情的な面を受け継ぐのであるが,恋愛をうたうことはこのジャンルの職分となって,古典詩からは姿を消すようになる。一方では北宋の蘇軾(そしよく)のごとく,余技として詩余を作りつつ,その内容をひろげ,古典詩に近づけた人があった。南宋の辛棄疾(しんきしつ)も熱烈な愛国の情をこのジャンルでうたい,悲壮なひびきをもたせた。しかし彼らの作はやはり例外的であり,詩余の歌曲のメロディはおそらく,やるせない悲しみをうたうのに最も適していたと思われる。李清照(易安)のような女流詩人が,このジャンルのすぐれた作家であったのは偶然でない。その歌曲の流行が衰えた13世紀以後には〈詩余〉を作る人も少なくなる。
古典詩について言えば,宋代の詩人たちは前の時代の詩人がうたわなかった事物を題材にえらぶ傾向がある。つまり詩はいっそう知性的になったのである。北宋初期(11世紀の初め)の宮廷詩人の一群の詩は,のち〈西崑(せいこん)体〉とよばれる,李商隠の恋愛詩の模倣に力を費やすだけであったが,梅尭臣(ばいぎようしん)と王安石が出て,詩風は一変する。〈西崑体〉の詩人たちは律詩のみを作ったが,梅尭臣は古体(とくに五言古詩)を多く作り,それらは〈生硬〉のそしりを免れなかったけれども,確かに新しいスタイルであった。そして上述の新傾向は彼の詩の特色である。王安石はその博識を詩の中で駆使し,律詩の構成の巧みさは杜甫を学んで遜色がない。杜甫を詩人の最高峰とする認識は,彼によって広まる。黄庭堅(山谷)は王安石と政治的立場を異にしたが,詩においては同じ認識にもとづき,知的傾向を強めた。王安石と黄庭堅とはその詩句の難解なことで読者を苦しめる(とくに彼らの使用する典故は常識をこえる広い範囲に及び,2人の死後まもなくその詩集の注釈が作られたほどであった)。しかしその逆説的な言いまわしの魅力は大きかった。彼らの詩の晦渋なスタイルは宋詩の特色の一つである。南宋に入って黄庭堅の追随者たちは〈江西派〉とよばれるが,それは文学上の流派を意識して作った最初である。
3人と同じ時代の蘇軾(東坡(とうば))は軽快なリズムの詩を作った点で対照的である。叙述のテンポはなめらかで,明朗闊達な性格がよく現れている。彼の作品を愛好する人は多く,その詩集が生前すでに出版されていたほどで,広く民衆の共感をよぶものであった。彼の詩の主題は人生の幸福は何かを問うものであった。それは多数の宋代詩に共通の主題でもあった。その答えは陶潜が早く示したものであるが,彼の詩の評価を決定的にしたのは蘇軾であった。杜甫の地位を決定的にしたのが王安石と黄庭堅であったのに似ている。南宋の傑出した詩人陸游(陸放翁)は,王安石の学問の忠実な弟子であった人の孫だが,彼の詩風は王安石よりも蘇軾に似ている。北方からの侵略者に対する徹底的抗戦の主張を終生もちつづけ,その熱情を詩に表現したが,官をやめて長く住んだ農村の景物の描写にもすぐれていたことを見のがすべきではない。陸游は〈江西派〉の圏外にいたと思われるが,彼の死後にできた詩人の集合である〈江湖派〉の中心となる青年詩人には彼の影響が強かったと言われる。この派には市民も加わっていて,詩を作る人の範囲が唐代中葉に比べていっそう広くなったことを示す。その教養の普及は商業経済の発達と印刷術の進歩とによるものであろう。宋代には詩論・詩話の類,つまり作詩法の著述が流行し,それらが印刷されていたのである。日本にも伝えられて久しく読まれていた《三体詩》も,作詩法の教科書であった。
南宋のころ北方を占拠した金とそれにかわって全土を支配した元,二つの異民族の統治の下でも漢民族の文化は維持された。金末・元初の元好問が代表的な詩人で,南宋の学者に劣らぬ博識をそなえていた。彼の作は晦渋ではなく,卑俗におちいらず,格調の高いものである。元の時代の詩人の少なくない中で薩都剌(さつとら)はモンゴル族の出身であるが,平易なスタイルで豊かな感情を表現した。元好問と薩都剌2人の作品は近代日本でも少なからぬ読者を獲得していた。
四六文の隆盛は唐代にはいっても衰えず,8世紀の半ばまで,すべての文章はこの文体で書かれた。それは律詩の発展と並行している。古体詩の創作よりややおくれて8世紀末に〈古文〉の運動が開始された。四六文が固定したリズムと韻律を有するのに対し,〈古文〉は自由な形式の散文である。むろんその名のごとく古典語を用いる。その主唱者は韓愈であった。彼は戦国の諸子と漢の司馬遷の文体を学んで,それに独創を加えた。彼以前にも新しい散文の文体をつくろうと試みた人はあるが,成功しなかった。彼の成功はおそらく明確な形象をあらわす力と,論旨をねばり強く展開する雄弁の力とによるであろう。彼は議論文と伝記の文とに長じていた。前者の《原道》のごときは,儒学革新の導火線となり,後者の才能は多くの墓誌銘,祭文,哀辞など死者を弔う文によく発揮され,ともに後世の模範となった。彼の友人,柳宗元もこの運動に大きな寄与をしたが,スタイルはやや異なり,人間を直接に描くよりも,風刺,寓話によって,抑圧された心情,瞑想を表明した。韓愈の門人たちは,彼のスタイルの強い影響を受けたが,晩唐ではなお四六文の勢力が強かった。しかし陸贄(りくし)のごとく古文の発想で四六文を書いた作家がある。李商隠は四六文の名家でもあった。四六文と密接な関係に立つ韻文の様式〈賦〉においても杜牧のようなまったく〈古文〉風の自由な形式をつくり出した作家があり,この形式は〈古賦〉または〈文賦〉とよばれる。それは宋以後にさかんになる。年代の上で,古詩→古文→文賦の順序に,同じアイデアが伝わっていったわけである。
唐代が生んだ散文の新しいジャンルの一つは小説である。これも9世紀からにわかに盛んになり,〈伝奇〉と総称され,〈鶯鶯(おうおう)伝〉や〈李娃(りあ)伝〉などがある。その文体は四六文とは違い,韓愈らの古文とも同じではない(ただし《遊仙窟》だけは四六文)。文体の上で古文と伝奇とは互いに影響しあったようで,韓愈の散文にも小説的想像の加わったところがある。
宋代初期に四六文が盛んであったのは晩唐からの継続である。韓愈の古文を学び,これを世に広めたのは欧陽修で,詩人としてよりも散文家として大きな歩みを残した。彼が著した歴史《新五代史》は暢達(ちようたつ)な散文で書かれているし,随筆などに新しい領域を開拓した。古文はその門人の曾鞏(そうきよう),王安石,蘇軾らによって大きな潮流になる。曾鞏の散文は着実で,ややかたくるしく,王安石の古文は簡潔で凝縮的である。蘇軾の散文が軽快であることは詩風と同じく,また書簡文その他すぐれた抒情的な小品を著した。蘇軾の門人黄庭堅も尺牘(せきとく)と題跋(だいばつ)などの小品に巧みであった。唐の韓愈,柳宗元に蘇軾およびその父蘇洵(そじゆん)と弟蘇轍(そてつ)および王安石,曾鞏,欧陽修を加えて唐宋八大家という。このほか司馬光の《資治通鑑(しじつがん)》は編年体歴史の傑作であるが,文体は欧陽修に似て流暢であり,文学としても鑑賞にたえる。四六文は形式化したが,南宋末までなお公文書などに使われ,名家が多かった。賦も形式化した〈律賦〉が文官試験などに課せられた。古文は歴史を除けば,むしろ個人的な事柄の叙述につかわれるのを常とした。
これまで述べてきたものは文言(ぶんげん)すなわち古典語の文学である。その用語はこの時期にほぼ固定しつつあったが,それと並んで白話すなわち俗語の文学が現れはじめた。それはやはり商業の発達,市民層の増大に伴う現象である。唐詩などにも俗語をまじえた作品があるが,小部分を占めるにすぎない。大量の使用は唐代仏教に始まる。俗講のテキスト〈変文〉や禅宗の語録など9世紀以後に多い。しかし変文は幼稚な文学であったし,語録の流行は口頭語を記録する技術を進歩させたものの,直接に文学の母体とはならなかった。唯一の例外は仏教徒無名詩人の《寒山詩》であって,中唐期の作であろうと推定される。宋代の儒家いわゆる道学者にも,これにならって教訓詩や哲理詩を作った人,たとえば邵雍(しようよう)の〈撃壌集〉のごときがあるが,芸術的に高くはなかった。〈詩余〉も本来は庶民の文学であったので,相当多くの俗語の要素をもっていたが,文人の手に移るや,しだいに典雅な文言の用語がひろがった。ただ白話小説だけが変文の形式を学び,口頭の文芸〈説話〉として徐々に発達していた。しかしそのテキストの伝わるもの(宋・元時代のごく少数のテキスト)を見ると,やはりまだ幼稚な文学であった。庶民の白話文学の最初の開花は元の戯曲である。諸宮調《董西廂(とうせいしよう)》が金代の語り物の原形を忠実に伝えているとすれば,12世紀までさかのぼることができる。戯曲は歌と白(せりふ)とで構成され,歌は韻文,白は散文である。俗語をもってすぐれた文学を作ることが初めて可能になったのである。その作者に名のある文人は少なく,下級官吏や俳優自身が執筆したものがあった。古典文学とは大いに異なった人生観が作品を支配するのは当然であり,市民層の増大以外に,異民族の征服王朝の統治下で儒教の勢力が後退していたことも原因の一つをなすであろう。このことは白話小説にも影響を及ぼしている。中国の演劇はもともと喜劇から出発したものらしいが,元曲には悲劇として終結するものはまったくない。戯曲作家として傑出したのは関漢卿(かんかんけい)と王実甫の2人で,ともに14世紀初めに死んだ。関漢卿は多数の作品を公にし,舞台の経験のあった人と思われ,王実甫の名は《西廂記(せいしようき)》によって不朽である。これは元曲中の最長編であり唐代の恋愛物語の演劇化であった。戯曲作家はまた〈散曲〉をも作った。散曲は宋の〈詩余〉に似た俗語の韻文で,歌曲の歌詞である。散曲だけの作家に張可久,貫雲石らがあり,貫雲石は西域人であった(雑劇)。
明・清500年あまりの間の文学において注目すべき現象は,庶民のための俗語文学の積極的な進出である。その作者はもはや市井の無名人だけでなく,教養ある文人も参加しはじめた。その一,二の例をあげれば,戯曲における明の湯顕祖,小説における明の呉承恩,清の呉敬梓(ごけいし)などがある。いずれも詩文集を伝え,湯顕祖は文人として著名な人物であった。ただし戯曲においては文人趣味が過度に加わったものもあって,庶民性が薄らぐ傾向が生じた。戯曲における湯顕祖の《還魂記》などは傑作の名に恥じないが,文人のもてあそび物となった戯曲は清朝になるとやや衰微し庶民のあいだで別の劇がおこり,現代の京劇のもとになった。戯曲においても小説においても16~17世紀が一つの頂点であった。〈四大奇書〉はこれまでに完成していた。しかし小説では清朝の前期(18世紀)に曹雪芹(そうせつきん)の《紅楼夢》と呉敬梓の《儒林外史》が出て無数の読者をひきつけた。文体においても明の小説は荒けずりのたくましさがあり,《三国演義》や《水滸(すいこ)伝》は小説というよりは叙事詩的な作品であり,庶民の感情があらわされているのに対し,清朝の作品はより現実的ではあるが,やや線がほそい。明末の短編小説《三言二拍》の類はちょうどその中間にある。戯曲と小説という二つの俗語文学のジャンルを比べてみると,前者は早く隆盛期を迎えたため,衰えるのも早く,後者はおくれて発達したが,やはり清朝の中ごろには幾分か衰えつつあった。両者が生気をとりもどすのは19世紀末から20世紀へかけてであって,西洋文学の輸入がその転機となる。
この時期における古典的詩文の制作の総量はおびただしい。すでに宋代の詩人の,名の知られるものだけでも7000人を超え,《全唐詩》(4万8000首)のごとき総集を編めば作品の総計は十数万をこえるに違いない。明・清時代の詩人の総数は計算することも不可能である。表面的にみれば空前の隆盛を示すようであるが,それは同時に詩人や散文家の質が平均化したことでもある。詩や古文を作ることは士大夫(知識人)の必要な資格となったのである。この時期の文学理論あるいは評論の著作も多数あるが,その共通の特色は,詩においては唐詩を学ぶべきか,宋詩を学ぶべきかの論争である。あたかも書道における往古のどの名筆を習うべきかの議論に似ている。
明の中期(16世紀前半)の李夢陽(りぼうよう),何景明らの前七子は唐詩の至上をとなえ,同じ世紀の後半李攀竜(りはんりゆう),王世貞らの後七子はその説をさらにおし進めた。《唐詩選》はこの派の教科書であった。これらに反対して宋詩のすぐれた点を見なおし,その長所を取り入れるべきだと論ずる人もあった。袁宏道(えんこうどう)(中郎)を中心とする公安派と,鍾惺(しようせい)らの竟陵(きようりよう)派とである。この論争は清朝まで尾を引く(日本では格調派と性霊派とよばれる)。しかし論者自身の実作を見ると,李夢陽は壮大な風景を歌った力づよい詩を作り,何景明の作は優美な抒情性に富み,けっして空疎ではない。ただ彼らは,唐の詩人たちの用語(典故や固有名詞をふくめて)をなるべくそのまま使おうとしたところに欠点がある。つまり古典の典型の模写または再現と詩の理想との混同,現実からの分離がそこにある。成功した場合には現実の事がらを象徴的に言い表すことができたとしても,名画の模写を見るような感じを受けることは,いかんともすることができない。宋詩を学ぶべしとの主張者たちは,もっと自由な作詩者であるはずだったが,やはり宋詩の欠点の一つであった知的遊戯,機知の乱用が表現の抒情性をそこなうことがあった。清朝の王士禎が提唱した神韻説はこの両派の論争を正面から反駁するものでなく,作者の内心の平静からすぐれた詩が生まれるとする。彼は古典の模倣を排撃するのでなく,作詩者の心境を第一要件とするのである。王士禎の場合,すぐれた詩として彼が持ち出す実例および自身の作品からみると,熱情的な表現あるいは機知だけで成立した表現は排斥される。それもまた現実からの逃避だと非難される理由はあった。しかし詩論のこのような変転にもかかわらず,詩語の定着と詩語に付着した特有の気分の存在とは,古典詩の新たな展開を困難にした。
清末になると,宋詩の生硬さを意識して学ぼうとする風がおこった。それは鄭珍らに始まるものであるが,代表者は陳三立であって,詩の難解の度は加わった。これに対し,黄遵憲(こうじゆんけん)のように現実の事件を平易に歌おうと試みた詩人もあったが,一時的な成功にすぎない。古典詩はすでに完成の極点に達し,古人を超えることは容易なわざではなくなったのである。けれども完成された美の水準の保持者としてながめるならば,明にも清にもすぐれた詩人は存在した。日本でよく知られた明初の高啓や清朝の多くの詩人は幕末から明治の漢詩人たちに大きな影響を及ぼしている。要するに詩は宋代にもまして士大夫の趣味的生活の主要な部分,風流の一端となったのである。なお〈詩余〉は明代には衰えていたが,明末から復活し,古典詩の一部門となり,専門に学ぶ詩人が出た。朱彝尊(しゆいそん),厲鶚(れいがく)らの浙派がまず18世紀にさかえ,張恵言らの常州詞派がついで興った。常州派の勢力は清末まで続くが,その主張は古人の用語と格調を乱さないで作者の心境を象徴的に表明することであった。〈詩余〉も風流の一端をなしたのである。
古典詩と同様の現象は古典文にもみられる。詩では唐詩と宋詩の争いであったが,散文では唐・宋の〈古文〉を学ぶべきか,もっと古い漢以前の散文を学ぶべきかが論争の焦点であった。明代の前七子と後七子は後者の立場をとった。最も強く主張したのは李攀竜であり,詩においても,彼は中唐以後の作家を無視する。古文を始めた韓愈自身が漢以前を学ぶべしと説いた人であったが,李攀竜らはその源泉にさかのぼろうとしたのである。もっとも,韓愈のスタイルは独特のものであって,七子らはそれをまねることを好まなかった。
七子らの主張に反対して,韓・柳の古文を学ぶべきことを公言したのは唐順之と帰有光である。唐宋八家の名もこのときに定まったのであった。帰有光の散文は確かに古文の伝統に立つが,その特色は小説的想像のいっそうの増加と,日常の瑣末事の記述を織りこむことによって感傷性が増したことである。一方では,袁宏道や鍾惺らの公安派や竟陵派は,詩論の場合と同じく散文においても自由な形式を用いるべきことを主張した。この派は詩よりもむしろ散文において成功したというべく,遊記や小品文を得意とし,ユーモアを帯びた新しいスタイルをつくった。この派の人々が俗語文学に関心をもっていたことは注意さるべきで,それには明代の異色の思想家李贄(りし)(卓吾)が影響を与えている。このスタイルは清朝にまで尾を引く。鄭燮(ていしよう)の書簡文その他は,その一例である。
清朝でも古文の勢力は衰えなかった。その主流は桐城(とうじよう)派とよばれ,開祖とされるのは方苞(ほうほう)で,姚鼐(ようだい)がこれを盛んにした。この派は帰有光の文を高く評価する。方苞にはごつごつしたところがあるが,姚鼐のはなだらかで飛躍にとぼしい。その別派とみるべき陽湖派は,張恵言と惲敬(うんけい)を中心とする。清朝の考証学の発達は,これら文派の外にある学者たちのなかにもすぐれた散文家を多く生んだ。17世紀末から18世紀初めの黄宗羲(こうそうぎ),顧炎武,朱彝尊らに始まって,多数の学者がそれぞれに独自のスタイルの散文を書いた。そして中期をすぎると経学の今文(きんぶん)派がまた新しいスタイルを始め,龔自珍(きようじちん)は康有為,梁啓超の新聞体の散文が出るさきがけをなした。明末から四六文が復興し,清朝に入って盛んになった。四六文を駢文とよぶのも清朝人の与えた名称である。駢文の熱心な提唱者は阮元(げんげん)で,その一派を儀徴派とよぶ。清朝では,こうして古典的な諸様式のすべてが復活した。だから,この時期は古典主義の時代とよばれるべきであろう。
執筆者:小川 環樹
中国の近代文学は,1910年代末の文学革命によって幕を開けた。そのきっかけを作ったのは,胡適が17年1月に雑誌《新青年》に発表した〈文学改良芻議〉で,形骸化した文語文にかわって俗語・俗字を使用し,〈今日の文学〉をつくろうというその主張は,大きな衝撃を与えた。ついで,陳独秀が〈文学革命論〉を発表してこれに呼応し,〈国民文学〉〈写実文学〉〈社会文学〉を提唱するにおよんで,〈文学革命〉は時代の合言葉となった。文学革命に最初の実体を与えたのは,魯迅の短編《狂人日記》(1918)であった。魯迅はその作品で,強靱でひきしまった口語体の文体を創出し,〈人が人を食う〉封建的儒教秩序の欺瞞(ぎまん)性を鋭く暴き,人間解放の悲痛な叫びをあげた。以後,中国の近・現代文学は,魯迅によって開かれたこの二つの方向に沿って展開することになった。このほか,胡適の《嘗試集》(1920)にみられる口語詩(白話詩)の試みも,のちの中国現代詩の幕開けとして記憶されるべきである。これ以後の展開は,ほぼ四つの時期に区分して把握することが可能である。
文学革命の運動は,1919年の五・四運動の大衆闘争と出会うことによって,初めてあらがいがたい時代の潮流となることができた。五・四運動の過程で,全国各地に文字通り雨後のたけのこのように無数の雑誌が誕生したが,それらのほとんどは小説や口語詩を掲載した。それらの多くは稚拙なものであったが,それはしかし,文学革命の運動がより広範な人々の実践に移されたことを意味した。こうしたなかで,21年には,文学研究会と創造社という二つの文学結社を生み出した。文学研究会は,その結社の宣言で,文学は人生のための工作であると述べたが,その共通する立場は広い意味の人道主義ともいうべきもので,この派に属する葉紹鈞(聖陶),謝冰心(しやひようしん),王統照,落華王(許地山)などは,〈美〉と〈愛〉と〈人生〉をテーマに,恋愛,結婚,教育などの問題を扱ったいわゆる〈問題小説〉を多く発表した。彼等の作品は,五・四運動退潮期の時代を反映して,灰色の人生を描く傾向を強めていったが,その中にあって,魯迅の作品のみは時代の水準を抜いていた。名作《阿Q正伝》(1921)をはじめ,《吶喊(とつかん)》《彷徨》の二つの作品集に収められた諸作品には,暗い現実を凝視する作者の視線に,みずからをも現実に対する加害者の一人ととらえる苦い内省の思いが影を落とし,独特の深みのある世界を作った。こうした文学研究会の傾向に反発した郭沫若,郁達夫(いくたつぷ)などは創造社を組織し,芸術至上主義を唱えた。彼らの傾向をもっともよく代表するのは郭沫若の長詩《女神》で,奔放な空想力を駆使して反逆の呪いと人間解放への希求を高らかに歌ったこの作品は,その内容と表現の両側面で真に近代詩の名に恥じない最初の作品となった。また,郁達夫の《沈淪》は,暗い現実に苦悩する青年を性のもだえを通して描き,注目をあびた。
1925年の五・三〇事件を契機として,革命運動が再び高揚期を迎えると,〈文学革命から革命文学へ〉というスローガンが創造社グループによって提起され,やがてそれは20年代末にはプロレタリア文学運動となって展開した。革命文学をめぐっては,創造社や太陽社の若い文学者と魯迅などとの間で一時期激しい論戦が交わされたが,それは同時に論戦を通じて,両者がそれぞれに外来のマルクス主義文芸理論を消化,吸収していく過程でもあった。30年の中国左翼作家聯盟(左聯)の成立によって,プロレタリア文学運動はひとまず定着をみせたが,たちまち国民党の過酷な弾圧に遭い,31年には5人の所属作家が銃殺された。左聯は魯迅を事実上の指導者として厳しい後退戦を続けたが,闘いを通じて若い文芸家を数多く育て,そのうち周揚,夏衍(かえん),田漢,陽翰笙(ようかんしよう)などは,人民共和国成立後も長く中国文芸界の指導的地位についた。この間,瞿秋白(くしゆうはく)は,魯迅のかたわらにあって,左翼文芸理論の確立に貢献した。しかし,こうした左翼文学運動には党員のセクト的傾向が終始つきまとい,いわゆる〈自由人〉や〈第三種人〉を標榜するリベラルな文学者をおしなべて〈敵〉として攻撃・排除したことで,みずから戦線を狭くしていったことも認めなければならない。
この時期はまた,茅盾(ぼうじゆん),老舎,巴金,丁玲,曹禺など,のちの中国文学を担う文学者たちが,つぎつぎと世に出た時代であった。なかでも茅盾《子夜》(1931),巴金《家》(1930),李劼人(りかつじん)《死水微瀾》,老舎《駱駝の祥子》(1937)などは,中国文学が世界に通用する本格的ロマンを持ち始めたことを示した。また,ようやく根づいた近代劇は,曹禺の《雷雨》(1934),《日の出》(1936)などの傑作を生んだ。
詩の分野では,〈新月派〉(徐志摩,聞一多,卞之琳(べんしりん)など)や〈現代派〉(戴望舒など)による象徴詩の試みがなされる一方で,臧克家(ぞうこくか),艾青(がいせい),田間など,リアリズムの手法をとる左翼詩人が登場した。
1937年7月の蘆溝橋事件以後の抗日戦争期に入ると,文学活動も,武漢,重慶,昆明などを中心とする国民党支配(これを〈大後方〉と呼んだ)地域と,延安を中心とする中国共産党支配地域いわゆる〈解放区〉とに事実上二分されることになった。〈大後方〉では,中華全国文芸界抗敵協会が武漢で結成され(1938-39),作家たちは〈文章下郷〉のスローガンの下に前線や農村に赴き,大衆的宣伝劇や歌謡などを書いたが,なかでも,〈速写〉〈特写〉〈報告文学〉などの名で呼ばれるルポルタージュは一時期の文学の主流となり,その伝統は今日まで続いている。しかし,38年10月に武漢を失うと,作家たちは重慶,桂林,昆明,香港などへとちりぢりになり,一部は延安地区へ入り,活動の重心がなくなった。くわえて,国民党の反共政策が強化され,作家たちはきわめて困難な抵抗を強いられたが,それは事実上49年の人民共和国の成立まで続いた。この時期の収穫としては,茅盾の《腐蝕》(1941),《霜葉は二月の花より紅い》(1946),巴金の《憩園》(1944),《寒夜》(1947),老舎の《四世同堂》(1945-46)などがあるが,郭沫若の歴史劇《屈原》の成功も忘れることはできない。
一方,抗日戦の光明を求めて大量の知識人が流れこんだ陝西省北部の〈解放区〉では,まったく別の種類の困難が作家たちを待ちうけていた。すなわち,まったくの文化的空白と極度の物質的貧困である。こうした状況を前にしてとまどう知識人に向かって,中国共産党は,大衆宣伝のための文芸工作者たるべく自己改造せよと呼びかけた。1942年には,延安で文芸座談会を開き,その席上毛沢東は有名な《文芸講話》を行って,知識人のおごりをすてて労働者,農民,兵士に学べと説き,〈人民に奉仕せよ〉と号令した。作家たちはこの方向に沿って農村に根を下ろし,〈自己改造〉に努めたが,やがて趙樹理の短編《小二黒の結婚》や《李有才の語りもの》(ともに1943),歌劇《白毛女》(集団創作。1944),李季の長詩《王貴と李香香》など,民話や民謡,語り物などと結びついた作品が生まれ,《文芸講話》に内実を与えた。さらに,30年代からの既成の作家の仕事としては,華北の農村の土地革命の過程を近代小説の手法で描いた丁玲の長編《太陽は桑乾河を照らす》(1948)が突出した傑作で,のちにスターリン文学賞を受賞した(1951)。人民解放を高らかにたたえたこれらの作品は,中国革命に対する期待をこめて〈人民文学〉と呼ばれ,国民党支配地域の読者にも強い影響を与えた。
中華人民共和国成立を目前にした49年7月,それまで二つの地域に分かれて活動してきた中国の文芸家たちは中華全国文芸工作者代表大会(文代大会)を北京で開き,大同団結して中国共産党の指導を受け入れ,《文芸講話》を指針とすることを承認した。ここに人民文学の時代が始まるが,人々は新しい国づくりの意気に燃えており,上記の方向を受け入れることは,きわめて自然に感じられた。やがて全文芸工作者は中華全国文学芸術界聯合会(文聯)傘下のそれぞれの専門協会(作家は中国作家協会)に組織されることになった。このことは,作家たちにとって,生活が保障され,創作条件が整備されたことを意味したが,同時にそれらの組織を通じて,不断に〈党〉の〈指導〉を受けることでもあった。作者たちはそうした状態をしだいに不自由と感じるようになったが,そうした不満をもっとも大胆に表明したのは胡風であった。彼は,中共中央に提出した長文の《文芸に関する意見》(1954)で,〈指導〉という名の党の干渉こそは文芸を窒息させるもとであるとして,文芸により広範な自由を与えよ,と主張したが,中共は毛沢東の直接指導下に,胡風を〈反革命分子〉として断罪した。ついで,反右派闘争(1957)の過程では,党の官僚主義を批判する作品を書いた若い作家の王蒙や劉賓雁などが〈右派分子〉として批判され,これ以後,党の〈指導〉を問題にすることは,事実上タブーとなった。
むろん,だからといって作家たちがまったく窒息させられていたわけではなく,50年代末から60年代初めにかけては質的にかなり高い作品が数多く現れた。いま,長編にかぎってそのごく一部を挙げるとすれば,柳青《創業史》,周而復(しゆうじふく)《上海の朝》,周立波《山郷巨変》,楊沫《青春の歌》,趙樹理《三里湾》などがある。また,茹志娟(じよしけん),浩然,李淮,林斤瀾(りんきんらん),胡万春,唐克新,費礼文など,有望な新人作家も生まれた。詩の領域では,李季《楊高伝》,田間《趕車伝》,聞捷《復讐の炎》などの長編叙事詩が書かれるとともに,大量の民歌(=民謡)の採集が行われた。
66年に始まった文化大革命は,試行錯誤を繰り返しつつ一定の成果をあげてきた文芸活動を〈修正主義〉としてトータルに否定した。文芸出版物は,出版することも読むことも禁じられ,すべての文芸団体は活動を停止し,作者たちは闘争にかけられ,強制労働に追いやられた。その過程で,老舎や趙樹理はじめ少なからぬ文学者が非命に倒れた。それは,文学的にまったく空白の10年間であった。76年10月,いわゆる〈四人組〉が追放され,文化大革命が終息を告げると,文芸界では〈第二の解放〉という声があがった。やがて,80年代に入ると,新中国成立以後,事実上タブーであった人道主義や愛をテーマに,現実を鋭くえぐった〈新写実主義〉と呼ばれる作品が張潔,諶容,白樺,戴厚英などによって書かれた。詩の分野では〈朦朧詩〉と呼ばれる前衛詩の試みがなされた。こうした動きに対して,党の側からは,党の〈指導〉や社会主義の方向を強調する政策が出され,問題はある意味で50年代の振り出しにもどされた。けだし,中国社会が党の指導下におかれるかぎり,党と文芸の緊張関係は必然のこととして,今後も続くであろう。
執筆者:吉田 富夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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