中国革命(読み)ちゅうごくかくめい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国革命」の意味・わかりやすい解説

中国革命
ちゅうごくかくめい

19世紀末から現代に至るまで続く、中国近・現代史のなかで継起した革命的諸過程を総称した名称。組織名に革命の字がつけられた最初は、1905年に孫文(そんぶん/スンウェン)らが東京で結成した中国革命同盟会(孫文は、革命の語句を入れると秘密活動には不利との忠告を聞いて革命の語句を削り、中国同盟会と称した)である。もともと「革命」の語句は、「易姓革命」として中国古典のなかで使われ、出自・血統の異なる新たな皇帝が天の命(令)を革(あらため)るという王朝交替の意味であった。これを明治期の日本人が欧米近代思想のレボリューションの訳語にあて、それが中国語にも移入した。ここでは、清(しん)末の孫文らの「革命派」の運動から、中華人民共和国の成立(1949)までの約半世紀を四つの時期に区分して述べる。

(1)「興中会」の結成(1894)から第一次の国共合作(1924)まで 清朝という満洲族王朝の支配を覆し、明(みん)朝以来の漢族(人口のおよそ95%)の支配を復活し、列強による侵略を食い止める運動(滅満興漢)は、孫文らの「興中会」の結成となり、1895年には広州(こうしゅう/コワンチョウ)で蜂起(ほうき)したが失敗して日本に亡命した。98年、戊戌(ぼじゅつ)の変法に失敗した康有為(こうゆうい/カンユーウェイ)らが日本に亡命して清朝の改良、立憲君主制を主張。これに対して孫文らは「革命派」として清朝打倒、共和制樹立を主張した。1905年結成の中国同盟会は「民族」(満州支配の打倒)、「民権」(共和制の樹立)、「民生」(地権の平均)を柱とする三民主義を採択した。11年の辛亥(しんがい)革命は「民族」と「民権」の一部を達成したが、指導権を袁世凱(えんせいがい)に奪取され、第一から第三革命までの武装蜂起を行ったが失敗、14年に孫文らは中華革命党を結成、さらに19年秋に五・四運動の経験を取り入れて中国国民党となった。21年に中国共産党が結成されると、国民党はソ連との連合、国共合作を模索、ついに24年の国民党第1回大会で実現した。

(2)第一次国共合作(1924)から国共分裂、第二次国共合作(1937)まで 第一次国共合作のおもな目標は、封建支配、対外従属の軍閥を武装力で倒すこと、人口の大多数を占める農民の土地問題を解決することなどであった。孫文が1925年に死去、実権は蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)などに移り、広州を出発した「北征(北伐)」の革命軍が上海(シャンハイ)に入った27年に、蒋介石がクーデター上海クーデター)を起こして分裂、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)や朱徳(しゅとく/チュートー)など中国共産党は江西(こうせい/チヤンシー)、湖南(こなん/フーナン)、湖北(こほく/フーペイ)省の辺境で農村革命根拠地をつくり、蒋介石の国民政府と軍事対決に入った。31年には日本が満州事変を起こして北から圧力を加え、蒋介石は農村根拠地の包囲攻撃を行い、これにより中国共産党は根拠地を維持しえず、脱出して「長征」を開始した。36年には東北軍の張学良などが蒋介石を軟禁して一致抗日・内戦停止を訴える「西安(せいあん)事件」を起こし、翌37年7月に日本軍が日華事変を起こすや、第二次国共合作が成立して、全面的な日中戦争に備えた。

(3)1937年から45年までの日中全面戦争期 第二次国共合作により、一致抗日が主要目標になったため、農村での土地改革は中断、各種の民主改革が進み、農民の解放意識は高揚した。軍隊も紅軍を国民革命軍第八路軍(八路軍と略称)に編入、奥地の重慶(じゅうけい/チョンチン)に首都を移した国民政府軍よりも積極的に抗日戦争に参加し、それを支持する民兵(通常は農業に従事し八路軍を支援)が村における農村革命の指導者となった。都市では学生・労働運動への弾圧が強く、かなりの労働者・学生が解放区へ入り、中国共産党・八路軍の傘下に入った。経済面では国民政府が統制経済を実施して解放区への物資供給を妨害したため、解放区では自給のために大生産運動を展開、武器・弾薬まで自らの手で作製、技術普及にも寄与した。

(4)1945年の「惨勝」から49年の新中国成立まで 1945年8月10日、国民政府軍と八路軍は、日本がポツダム宣言を受諾した旨の無電を傍受すると、ともに日本軍の武装解除を進め、9月には毛沢東が重慶に飛んで国共会談を開催、戦後政治を協議したが、その協定は46年の政治協商会議後に破られ、46年6月から全面的な内戦となった。八路軍は人民解放軍と改称し、一時退却したのち、47年暮れから反攻に入り、解放区では土地改革を進めて農民の支持を獲得するとともに、懸案の農地均分を実施した。48年には東北地区の戦闘で解放軍が勝利、49年春には長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン))を渡って南下、上海を解放して工業と金融の中枢を押さえた。新中国を成立させるための人民政治協商会議は49年6月に準備会、9月に本会議を開き、ついに10月1日、毛沢東が北京(ペキン)の天安門で中華人民共和国の成立を宣言した。これにより中国革命の政治権力は確立したが、社会的・経済的な諸問題はさらにあとまで持ち越され、現在に至っている。

[加藤祐三]

『加藤祐三著『ビジュアル版世界の歴史17 東アジアの近代』(1985・講談社)』『丸山松幸・小島晋治著『中国近現代史』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国革命」の意味・わかりやすい解説

中国革命
ちゅうごくかくめい

19世紀なかばのアヘン戦争以後,1949年の中華人民共和国成立を経て,今日にいたる中国の近・現代史のなかに継起した革命的諸過程の総称。毛沢東の『新民主主義革命論』 (1940) に基づく通説的見解では 19年の五・四運動以前を旧民主主義革命,それ以後を新民主主義革命,49年以降を社会主義革命の段階と規定している。旧民主主義革命の段階では,中国の半封建,半植民地化に伴う政治変動,社会変動のなかで,太平天国をはじめとする前近代的な革命集団による諸反乱の革命思想を基本的には継承する形で,孫文らの近代的な革命組織がつくりだされ,その成果として辛亥 (しんがい) 革命と中華民国成立がもたらされた。新民主主義革命段階では,第1次世界大戦中の新文化運動の基盤のうえに学生運動の高揚が全国的影響を及ぼし,ロシア革命による思想的影響と相まって 21年の中国共産党の成立を生み出し,さらに中国国民党の再編成と,国共合作を実現させ,反軍閥,反帝国主義の国民革命が展開されたが,国共分裂により国民革命は挫折した。満州事変以後の日本帝国主義の武力侵略の拡大を前にして中国人民の広範な抗日民族統一戦線が結成され,37年に始る日中戦争は国共合作を軸として全国民衆の統一戦線のもとに戦われた。対日戦勝利ののち国共内戦を経て,革命的階級の連合独裁の共和国として中華人民共和国が樹立された。しかし改革・開放政策の進行に伴い,この新民主主義革命観の絶対性もゆらいできている。

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