百科事典マイペディア 「中央党」の意味・わかりやすい解説
中央党【ちゅうおうとう】
→関連項目エルツベルガー|パーペン|ブリューニング
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ドイツのカトリック政党。プロテスタント系のプロイセンが主導するドイツ統一と近代化に直面したプロイセン議会などのカトリック系議員が、カトリック教会の擁護とカトリック系住民の利益を守るために1870/71年に創設した政党。文化闘争の過程で結束を強めた。世界観政党として国民のあらゆる階層を含み、選挙における変動が少なく安定していたため、第二帝政、ワイマール共和国期を通じて国会での政策決定や政府形成に中心的役割を担った。共和国末期には保守化し、1933年7月ナチス体制の下で解散した。
[木村靖二]
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…イタリアの統一国家は教会領を没収する形で成立しており,バチカンはこの統一国家とたたかうために,カトリック政党という形で統一国家の中に入ってたたかうよりも,外からたたかう方を選んだのである。同じころ統一国家が成立したドイツでは,中央党Deutsche Zentrumsparteiというカトリック政党が生まれた。この政党も自由主義に対するたたかいのための組織であったが,同時に,ドイツの統一国家がプロテスタント系の勢力によって実現されたため,そのプロテスタント系の勢力によるカトリシズムへの圧迫に対抗するという面ももっていた。…
…次いでプロイセン主導の普仏戦争に参加,軍隊・鉄道等について独自の留保権をもつ王国としてドイツ帝国(第二帝政)の一角を構成した。しかし,カトリックの〈旧バイエルン〉地方を中心に反プロイセン,親オーストリアの空気は根強く存在し,連邦主義的な中央党の重要な地盤となった。他方,〈新バイエルン〉地方を主要な地盤とする自由派は,帝国宰相ビスマルクと結ぶバイエルン官僚政府の議会での支柱を形成した。…
…ビスマルクは,カトリックを媒介とするフランス,オーストリアの提携,またそれに呼応した国内のカトリックによる反政府活動を恐れてこの弾圧政策を強行した。とくにその際1871年に中央党が結成されたことは,カトリック政治勢力の新たな結集とみなされ重要な動機となった。主要な弾圧立法をあげれば,71年の帝国刑法改正による教会内の言論統制をはじめとし,72年のプロイセン学校管理法による教会の教育活動抑圧,同年のイエズス会法による伝道布教活動の規制,また73年に始まる一連の五月法による聖職者の養成と任免への介入等がある。…
※「中央党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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