朝日日本歴史人物事典 「中山忠能」の解説
中山忠能
生年:文化6.11.11(1809.12.17)
幕末の公家,宮中政治家。父は忠頼,母は綱子。明治天皇の生母,慶子の父。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,正親町三条実愛らと共に反対の建議書を提出。次いで88廷臣の列参奏上に参画,同年5月議奏に就任して朝議決定の構成員となった。和宮御縁組御用掛に任命され,文久1(1861)年10月江戸に赴く。次いで島津久光および薩摩藩の公武合体運動を支持,尊王攘夷派の志士と攘夷派廷臣の攻撃にさらされ,同3年1月議奏を辞職した。翌元治1(1864)年7月,前年の8月18日の政変で失った勢力の回復を図って長州藩が武力上洛を敢行するが,その際支持の姿勢を示す。禁門の変で長州藩兵が敗北した直後,参朝・他人面会・他行の禁止に処せらる。慶応3(1867)年1月孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。同志の長老として岩倉具視,中御門経之らと共に王政復古の政変を画策,討幕の密勅作成に関与した。政変後,三職制が新設されて議定に就任。以来,輔弼,神祇官知事,神祇伯。明治2(1869)年9月王政復古の功により賞典禄1500石を永世下賜。同4年麝香間祗候,同7年華族会館の設立に尽力,御歌会式取調掛,柳原愛子(大正天皇生母)御産御用掛,明宮(大正天皇)御用掛などを務め,80歳で没した。<著作>『中山忠能日記』<参考文献>『中山忠能履歴資料』
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報