改訂新版 世界大百科事典 「中島飛行機」の意味・わかりやすい解説
中島飛行機[株] (なかじまひこうき)
中島知久平が創立した航空機メーカー。第2次大戦終戦時には三菱重工業と並ぶ日本の代表的総合航空機メーカーに成長するとともに,いわゆる中島コンツェルンの中核会社であった。中島は,民営による航空機の国産化を目指して,郷里群馬県太田町に飛行機研究所(1919年中島飛行機製作所と改称)を設立した。この工場は,陸海軍からの発注と三井物産との提携に支えられてしだいにその規模を拡大し,31年には資本金1200万円(半額払込み)の株式会社に発展するとともにその名称を中島飛行機(株)と改めた。満州事変以降,日本経済の軍事化が進むに伴って,同社の発展はいっそう急速化し,終戦時には,資本金5000万円(全額払込み)で,傘下に子会社・関係会社68社を擁する一大コンツェルンとなり,これら会社の払込資本金合計は約2億1000万円に及んだ。この間,45年4月には民有国営に改組されて軍需省第一軍需工厰となった。事業持株会社としてコンツェルンの中核に位置した中島飛行機(株)の株式は中島兄弟5人によって完全に所有されたが,他方,同社は自己資本の48倍に及ぶ社外負債を抱え,その大宗は軍からの前受金と日本興業銀行からの借入金であった。この意味で,中島コンツェルンは軍に全面的に依存した軍需産業コンツェルンであった。第2次大戦下,数多くの戦闘機,爆撃機を開発製作したが,陸軍の〈隼〉〈鍾馗〉〈疾風〉〈呑竜〉,海軍の〈月光〉,九七式艦上攻撃機などが中島によるものであった。
終戦後の同年8月,中島飛行機(株)は民営に改組されるとともに,富士産業(株)と改称したが,46年8月持株会社に指定され,持株は処分されて,富士産業自身も50年8月12社に分割された。のちの富士重工業(株)はこのうちの5社が合併したもの,プリンス自動車工業(株)はこのうちの1社(富士精密工業)が改称したものである。プリンスは65年日産自動車(株)に合併された。富士重工業は,軽四輪自動車の大手メーカーとして,現存する。
執筆者:山崎 広明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報