精選版 日本国語大辞典 「中江兆民」の意味・読み・例文・類語
なかえ‐ちょうみん【中江兆民】
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明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。
[松永昌三]
『『中江兆民全集』全17巻(1983~1985・岩波書店)』
(福地惇)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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1847.11.1/27~1901.12.13
明治期の自由民権思想家。高知藩の下級武士の家に生まれる。篤助・篤介と称し,のち兆民の号を使う。藩校文武館をへて,長崎・江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)岩倉遣外使節とともにフランスに留学し,法学・哲学などを学ぶ。74年帰国し,東京に仏学塾を設け,多くの学者・民権家を育成。翌年東京外国語学校長をへて,元老院権少書記官となるが,77年辞職。以後81年「東洋自由新聞」主筆,82年「自由新聞」社説掛としての言論活動や,ルソー「民約訳解」翻訳刊行により,自由民権運動に人民主権の理論を提供した。90年衆議院議員となるが,翌年土佐派議員の裏切りに憤慨して辞職。著書「三酔人経綸問答」「一年有半」。「中江兆民全集」全17巻,別巻1巻。
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…1901年9月発行の中江兆民の遺著。彼は同年4月借金返済のため奔走中,大阪で発病し,食道癌により余命1年有半の〈死刑の宣告〉を受け,実業家に転身してから執ることもまれとなっていた筆を執り,残されたわずかな日々の生活と想いを綴ったのが本書である。…
…1871‐73年(明治4‐6),特命全権大使岩倉具視を中心とした米欧回覧の使節団。その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。使節団の首脳は,右大臣岩倉(公卿,47歳――出発当時の数え年,以下同)のほか副使に参議木戸孝允(山口,39歳),大蔵卿大久保利通(鹿児島,42歳),工部大輔伊藤博文(山口,31歳),外務少輔山口尚芳(なおよし)(佐賀,33歳)がなり,各省派遣の専門官である理事官や書記官など総勢50名に近い大使節団であった。…
…中江兆民著。1887年集成社から刊行。…
…明治時代の民権派の新聞。1888年(明治21)1月15日旧自由党員寺田寛や戸田猛馬らが1887年12月の保安条例で東京を追放された中江兆民を主筆に迎えて大阪で創刊した新聞。編集陣には栗原亮一や江口三省らを擁し,有力な政論新聞であった。…
…社会契約説はなおベッカリーア,カント,若いフィヒテらによって採用されたものの,だいたいフランス革命の終了とともに理論的生命を失ったが,権利義務関係としての公的秩序という近代国家の機構の背景にはなお潜在しているといってよい。 日本では中江兆民によるルソー《社会契約論》の翻訳(《民約訳解》1882)に代表されるように,自然権の理論(天賦人権論)と結びついて,明治初年に紹介され,1880年ごろから盛んになった自由民権運動の一つの理論的支柱となった。しかし,国会開設,憲法制定の要求に対して,加藤弘之らが当時ヨーロッパにおいて優勢であった社会進化論的権利論を導入して批判を加えるに及んで,時代遅れの理論とされてしまい,明治憲法の欽定によって問題がいちおう決着したこともあって,社会契約説は理論的にも精神的にもついに根づくことができなかった。…
…おそらく偉大な文明,偉大な思想体系には,相反するものを同時に含んでいるようなところがあるのであろう。わが中江兆民は〈此の(民権自由の)理や漢土に在りても孟軻,柳宗元はやく之を覰破(しよは)せり,欧米の専有に非ざる也〉といい,ルソー,柳宗元を併称しているし,兆民の弟子幸徳秋水ははっきり社会主義者となったのちにも,仏教よりも神道よりも,とりわけ耶蘇教よりも〈予は儒教を好む〉と明言し,かつ自分を社会主義に導いてくれた書物の第一に《孟子》を挙げている。《孟子》の人民主義は君主をみとめているので真の人民主義ではない,民本主義にすぎないという説があるが,納得できない。…
…1881年(明治14)3月18日創刊された日刊新聞。フランスに遊学し自由主義思想に触れた公卿西園寺公望(さいおんじきんもち)が社長,中江兆民が主筆を務めた。おりからの自由民権運動の高揚のなかでフランス的な自由民権論を展開し,とくに,中江兆民の執筆になる社説は,当時の自由民権思想のなかでも卓越していた。…
…しかし,自由民権運動の側は部落問題をみずからの主要な課題とするにはいたらなかった。その中で,中江兆民は88年に《新民世界》を書き,民主主義と平等社会の実現における部落解放の意義を明らかにし,近代の部落解放思想の一源流となった。兆民は90年,大阪の被差別部落の後援をも受けて,第1回衆議院議員総選挙に当選した。…
…J.J.ルソー《社会契約論》の中江兆民による漢文訳。兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に原著の第2編第6章まで訳載され,その後中断したまま終わっている(第1編のみ1882年単行本として出版)。…
※「中江兆民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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