現千代田区の東部一帯の呼称。江戸時代は外堀内にあたり、丸ノ内とよばれていた。昭和四年(一九二九)に初めて丸ノ内一―三丁目の町名が付けられた。丸ノ内から丸の内に変わったのは同四五年。
明治維新後兵部省(のち陸・海軍省)や司法省の用地となり、東京鎮台や練兵場、東京裁判所や
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都千代田区東部の一地区。徳川家康入府前は日比谷入江(ひびやいりえ)とよばれる東京湾の一部であったが、1593年(文禄2)以降埋め立てられた。内堀と外堀の間にあり、江戸城郭の内にあることから地名がつけられた。旗本の林大学頭(だいがくのかみ)のほかは、大名24の藩邸があり大名小路(こうじ)とよばれた。1872年(明治5)銀座の火事で類焼し、のちに陸軍の兵舎、練兵場となる。1890年兵舎など移転費用捻出(ねんしゅつ)のため三菱(みつびし)(岩崎弥之助(やのすけ))に150万円で売却され三菱ヶ原とよばれた。1894年以降、ロンドンのロンバード街に倣って赤煉瓦(れんが)造のビル街を建設、一丁ロンドン(一丁は約100メートル)とよばれた。1914年(大正3)東京駅完成後、事務管理機能の集中する都心のビル街として、急速に発展した。丸の内2丁目の明治安田生命保険相互会社の明治生命館は国指定(1997)重要文化財。丸の内3丁目にあった東京都庁は1991年(平成3)新宿副都心に移転、跡地は会議・展示施設の「東京国際フォーラム」(1997年開設)となった。
[沢田 清]
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…付近は必ずしも居住には適さないところであったが,水運の便に恵まれ商工業が発達した。明治以降,日本橋や銀座一帯は商業地区となり,1914年東京駅が開業して以来発展した丸の内一帯はビジネス地区,また霞が関一帯は中央官庁が集中する行政地区となり,日本の政治・経済の中心をなしている。ビジネス街,官庁街の集中する千代田区の昼間人口は104万人(1990)で,夜間人口の26.4倍に膨脹する。…
…東京丸の内地区を基盤とする賃貸ビルの最大手企業。近年は住宅・地域開発,建築設計分野の事業も積極的に展開している。…
※「丸の内」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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