精選版 日本国語大辞典 「久保田万太郎」の意味・読み・例文・類語
くぼた‐まんたろう【久保田万太郎】
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小説家、劇作家、俳人。明治22年11月7日、東京生まれ。生家は浅草で袋物製造販売業を営み、家業を継ぐべき立場にあったが、府立三中(現両国高校)から慶応義塾大学普通部へ転じたころから、文学を志すようになる。慶大在学中に、永井荷風によって創刊されたばかりの『三田文学』に小説『朝顔』(1911)を発表し、また戯曲『Prologue(プロロオグ)』が雑誌『太陽』の懸賞に当選(1911)したことから、三田派の新進作家として認められ、第一作品集『浅草』(1912)を刊行。東京下町に生きる人々の心情を下町ことばの駆使により哀愁を込めて歌い上げるという作風は、処女作以来終生変わることがなかった。1917年(大正6)、初期の代表的小説『末枯(うらがれ)』を書き、19年には大場京と結婚。また、『大寺(おおでら)学校』(1927)などの戯曲や、新派の演出などを手がけて劇壇にも接近した。26年以降東京中央放送局(現在のNHK)に勤め、小説『春泥(しゅんでい)』(1928)、『花冷(はなび)え』(1938)などの佳作や、第一句集『道芝』(1927)を刊行し、また築地(つきじ)座を経て文学座の創立に加わり、新派の舞台にも泉鏡花、永井荷風、樋口(ひぐち)一葉作品の脚本を提供するなど、多彩な活動を繰り広げる。35年(昭和10)妻を失い、46年に三田きみと再婚。戦後は日本芸術院会員となり、57年文化勲章を受け、日本演劇界を代表してノルウェーや中国にも赴いた。ほかに小説『市井人』(1949)、『うしろかげ』(1950)などを残す。俳句は学生時代から松根東洋城(まつねとうようじょう)らに学び、本人はつねに余技と称したが、独特な情緒と技巧をもつ秀句も多く、戦後、俳誌『春燈(しゅんとう)』を主宰した。昭和38年5月6日没。
[柳沢孝子]
『『久保田万太郎全集』全15巻(1967~68・中央公論社)』▽『戸板康二著『久保田万太郎』(1967・文芸春秋)』▽『後藤杜三著『わが久保田万太郎』(1973・青蛙房)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…久保田万太郎の代表的戯曲。4幕。…
…その上演55演目中,16演目がフランス近代心理劇を主体にする西欧近代戯曲で,39演目が日本の創作戯曲だった。かつて築地小劇場が開場したころ,日本の既成戯曲は当分(2年間),上演しないと宣言した小山内薫に対し,菊池寛,山本有三,岸田国士,久保田万太郎ら,当時,台頭しだした近代的劇作家たちは雑誌《演劇新潮》に拠って,大いに反発を示し,論争を展開した。そして1930年代になると,岸田,久保田を師とする若手劇作家群が劇作専門の雑誌《劇作》に拠って続々と登場し,この《劇作》派の戯曲が築地座で次々と初演された。…
※「久保田万太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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