木,土などの型の上に麻布を漆で何重にもはり重ねて固める技法,およびその作品をいう。中国では古くから夾紵(きようちよ)といい,日本でこの技法が盛行した奈良時代には即,塞,𡑮(そく)などといった。紵は麻布の一種をいい,塞は布によってふさぐとの意であろう。乾漆は主に近代の用語で,初めは後述の乾漆像について主に用いられ,のち一般化して現在は工芸,考古学の分野でも用いられる。
夾紵技法はおそらく中国で始まり,すでに漢代には山西省陽高県出土の前漢の夾紵棺,楽浪出土の後漢建武21年(45)の夾紵耳杯などさまざまな容器や飲食器の遺例がある。夾紵像の文献上の初見は東晋395年以前に,招隠寺に夾紵行像五軀が作られたという(《法苑珠林》ほか)。その後造像を伝える文献は多く,唐代628年には終南山竜田寺に高祖の等身夾紵像六軀が作られたという(《法苑珠林》)。ただし中国の仏像遺品は少なく,9世紀の製作と推定されるフリーア美術館(ワシントン市)の像などがあるにとどまる。夾紵像は石,塑,金属像と比べて軽量であり,そのわりに耐久性に富む。漢代以来の伝統的な夾紵技法が,仏像を奉じて練り歩くための行道像や皇帝の偉業を記念する等身像の製作に用いられたことは,目的にかなった合理的な技術の採用であり,これらに夾紵像発生の一因が求められよう。朝鮮三国時代の夾紵像については,よく知られていない。文献では統一新羅時代に乾漆像があるといい,遺品では高麗時代末と推定される菩薩形座像(大倉集古館)が知られる。
日本の夾紵技法は7世紀初めころに中国から伝来したと考えられる。聖徳太子の墓と伝える磯長(しなが)墓から夾紵棺の破片と推定されるものが出土し,その他奈良県菖蒲山古墳出土のものは,石棺の内面に約5mmの厚さに夾紵の内ばりがなされ,奈良県牽牛子塚(けごしづか)古墳出土の夾紵棺は厚さ約2cm,粗い麻布を約35層に漆ではり重ねて表に黒漆,内に赤漆を塗っている。また鎌倉時代の《阿不幾乃山陵記(あふきのさんりようき)》によれば,天武天皇陵の棺が張物だといい,これも夾紵棺であろう。夾紵像の製作はこれら夾紵棺の製作にやや遅れ,文献では天智天皇発願大安寺丈六仏像を初見とし(《大安寺伽藍縁起資財帳》),遺品としては7世紀末期に推定される当麻寺金堂四天王像が最も古い。奈良時代には最も盛んに作られ,734年造立の興福寺八部衆十大弟子像,8世紀中期の東大寺法華堂諸像などの遺品があり,このころが技術的にも頂点にある。
法華堂金剛力士像の場合は,次のとおりである。まず簡単な木製心木を組み,塑土を盛りつけて像の概形を作り,この塑像の上に粗い麻布を接着力の強い麦漆で5層から10層ほどくり返しはり重ねる。厚みは0.7~1.5cmくらいになる。麻布は部分によって大小を適当に使い分ける。漆の硬化後,後頭部,背部等を切り開き,原型であった塑土をかき出し,心木を取り出し,内部に像を保持するために3段の棚板状の構造をもった心木を新たに組み入れて固定し,開口部を縫い閉じると張子像ができる。この表面を漆に細かい植物繊維(杉の葉をついた抹香かともいうが不明。現在はヒノキの挽き粉を用いる)を混ぜてペースト状にした木屎漆(こくそうるし)を用いて塑形する。その厚さはおよそ布層の半分ほどである。焰髪,指などの細部は鉄心に直接木屎漆を盛って作る。塑形後,表面を黒漆で整え漆箔,彩色などを施して完成する。他のおおかたの像の製作法もほぼこれに準ずるが,奈良時代末の秋篠寺像では原型の心木をそのまま張子の心として用いている。このように初めの型を除去して内部を空洞にした像を脱活(だつかつ)乾漆像または脱乾漆像と呼び,その作例は8世紀末までに限られる。
これに対して木心乾漆像とは,脱乾漆像の塑像原型の部分を木彫で作り,これに麻布を一重にはり以下は前者と同様にして仕上げたものをいう。木彫原型である木心部の構造は一木造のものや数材を組み合わせたものがあり,目鼻の概形を彫っているものも彫っていないものもある。したがって木屎漆の層の厚さもさまざまである。遺品には奈良県聖林寺十一面観音像などがある。木心乾漆像は脱乾漆像に遅れて8世紀後半にあらわれて盛行し,9世紀初めころまで製作された。この技法は布をはり重ねることを本質としない点ですでに夾紵とはいえないが,木屎漆による塑形が脱乾漆像と共通するため両者を一括して〈乾漆像〉と呼んでいる。木心乾漆像の発生は脱乾漆像の便化した技法として日本で工夫された可能性もあるが,その木心部に新しい中国からの木彫技法の影響も考えられ,8世紀後半の木彫(一木造)発生との先後関係については定説をみていない。9世紀前半の木彫像には木屎漆の塑形を併用する例があり,この点からは木彫の興隆に大きな影響を与えているといえる。
奈良時代にはこのほか,脱乾漆技法による伎楽面や鉢が作られ,荘厳具(しようごんぐ)である天蓋なども多く作られた。木屎漆自体は,平安時代以後も木彫の削り過ぎの修整や干割れを埋めるための木屎彫の技法に長く用いられた。なお中世以後の脱乾漆像の遺品として神奈川県寿福寺籠釈迦像があるが,これは奈良時代の伝統的技法によるものというより,中国からの新しい影響によって作られたものであろう。
執筆者:副島 弘道
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…そのまま塗ったのでは光沢が悪く,乾きも早すぎるので,脱塵,脱水,均質化などの精製処理を行ってから,添加物を加えて使う。生漆を干して固めたものを乾漆(かんしつ)という。 日本における漆の生産量は,1877年の約800tから1930年約30t,1995年3tと激減した。…
…戦後の漆の研究は通産省工芸指導所東北支所での研究を経て,電子顕微鏡等による漆特有の耐久性の解明や,赤外線分光器等による古代漆状物質の同定などの研究が進んでいる。
[素地,道具,顔料など]
素地(きじ)となる材料には,木,布(乾漆),皮(漆皮),竹(籃胎(らんたい)漆器),紙(一閑張),金属,陶器,プラスチックなどがある。木には板物(指物)としてヒノキ,ケヤキ,アテ(輪島塗),アスナロ(春慶塗),ホオ(会津塗),カツラ(鎌倉彫)などがあり,挽物用としてケヤキ,トチ,ブナなど,曲物用としてヒノキ,カツラなどが用いられる。…
…おもな遺品には金銀山水八卦背八角鏡,銀壺,銀薫炉,金銀花盤などがある。(2)漆工 漆に掃墨を入れた黒漆塗,蘇芳(すおう)で赤く染めた上に生漆を塗った赤漆(せきしつ),布裂を漆で塗りかためて成形した乾漆,皮を箱型に成形して漆でかためた漆皮(しつぴ),漆の上に金粉を蒔(ま)いて文様を表した末金鏤(まつきんる),金銀の薄板を文様に截(き)って胎の表面にはり,漆を塗ったあと文様を研いだり削ったりして出す平脱(へいだつ)(平文(ひようもん)),顔料で線描絵を施した密陀絵(みつだえ)などの技法が用いられた。遺品には漆胡瓶(しつこへい),金銀平脱皮箱,金銀平文琴,赤漆櫃,密陀絵盆などがある。…
※「乾漆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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