亀山城跡(読み)かめやまじようあと

日本歴史地名大系 「亀山城跡」の解説

亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]亀岡市荒塚町

大堰おおい川右岸の河岸段丘上の小丘(亀山)を利用して作られ、亀宝きほう城ともよばれた。天正六年(一五七八)から七年にかけて明智光秀が弟左馬介光春に縄張りさせて築城した。

丹陽軍記(「桑下漫録」所引)によれば、にわかな築城であったため、桁・梁・棟板・敷材・虹梁など、穴太あなおの観音(現穴太寺)をはじめ、近辺の神社仏閣の格子・扉・遣戸・敷石まで借用し、この国の主となった暁には神社仏閣を新たに造立すると願を立て、近国の工匠五〇〇―六〇〇人、人夫五千人余を呼び集めて築城したとある。

亀山城地録(「桑下漫録」所引)によれば、城郭が完全に整備されたのは慶長年中(一五九六―一六一五)岡部長盛の時といわれる。本丸・二の丸・三の丸は小早川秀秋が城主の時、普請に近隣の大名多数が手伝い、町並も改まり境界なども正したという。また一本城主記(「桑下漫録」所引)によると、この時に三重の天守が五重になったとある。北条氏勝の時に惣町裏郭そうまちうらくるわ堀、権田小三郎が代官の時に内堀ができ、岡部長盛の時に天守は伊予今治いまばり(現愛媛県今治市)から藤堂高虎によって移築され、二の丸に岡部櫓を築き、三の丸の地形を広げ、大手おおて古世こせ西にしかみなり保津ほづの五門を建て、これらの門の多くは伏見ふしみ(跡地は現京都市伏見区)門から引いたという。


亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]御坊市湯川町丸山

御坊市北部の亀山(丸山とも、一二一メートル)の山頂にある湯河(湯川)氏の本城。丸山まるやま城ともいう。亀山は名のとおり亀の甲に似た丸い山で、東北山麓は富安とみやす、南は小松原こまつばら、西は丸山。

湯河氏は、甲斐源氏武田氏の支流奈古氏より分れた武田三郎忠長(一説に信忠)を祖とし、初め牟婁むろ道湯川どうゆかわ(現西牟婁郡中辺路町)に住した。当時熊野山中を横行した賊を退治し、賞として牟婁郡を得、芳養はや内梅ないばい(現田辺市)に居を移した。南北朝の争乱期には当初南朝方についたがのちに北朝方となったという(湯川記、湯河氏代々系図)。貞和四年(一三四八)一〇月付の佐々五郎次郎友行軍忠状(集古文書)に湯佐三郎衛門とともに武田七郎太郎の名がみえ、足利将軍家との関係は密接であった。


亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]亀山市本丸町・東丸町・西丸町

亀山城下の西北、鈴鹿川北岸の台地上にある。自然の地形を利用した平山城。天正一八年(一五九〇)すでにみね(現川崎町)にいた岡本宗憲は、小田原の役のあと亀山城を与えられ、本格的な築城に着手した。関氏以来の若山わかやま(現若山町)が天正年間の争乱の間に荒廃し、鉄砲を主体とした新しい戦術に適応させる必要から、その東南の地を画して新城を築いたのである。縄張りに際して善導ぜんどう寺や与助鍛冶などの民家を西にし町に移転させた。

「亀山城来歴」「亀山記」(「鈴鹿郡野史」所収)によると、宗憲はいちさかに続く丘陵を切開いて堀となし、井戸いと谷と称する渓谷を堰止めるなど、天然の地形を利用して内堀・外堀をめぐらせ、郭内には本丸とその東に二ノ丸・東三ノ丸、南に南三ノ丸を造営した。


亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]砺波市増山

増山ますやま城跡の北東約七五〇メートルの高津保理たかつぼり(一三三・一メートル)の山上に築かれている。この山は「高ツフリ山」とも記され、その呼称は丸く高い山を意味するとされ、西方平野側からは一段高くそびえて見える。増山城を中心とした城郭群のなかでは最も早い時期に築かれた城とみられ、貞治二年(一三六三)六月日の二宮円阿軍忠状(遺編類纂所収二宮文書)にみえる「和田城」にあたるとみられる。同状によれば桃井直常討伐の幕府軍に従軍した二宮円阿は康安二年(一三六二)七月三日和田わだで合戦し、同年一一月より翌年三月まで桃井方の軍事拠点であった和田城の警固にあたった。


亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]東城町小奴可

小奴可おぬか盆地西南のかめ(標高五九〇メートル、比高四〇メートル)に築かれた山城。

備後古城記」「備陽六郡志」「西備名区」「芸藩通志」などによれば、治承(一一七七―八一)から元暦(一一八四―八五)の頃、奴可入道西寂の居城であったという。治承五年、伊予の住人河野通清が源頼朝の挙兵に応じ高縄たかなわ(跡地は現愛媛県北条市)にこもったため、平氏方の西寂は三千余騎を率いて鞆浦とものうら(現福山市)から攻寄せ、通清とその子通員を捕らえ殺したという。その頃関東にいた通清の子四郎通信はこれを聞きひそかに帰り、翌年鞆浦に凱旋して祝宴を張っていた西寂と子宗賢を襲って捕らえ、父の墓前で引回しのうえ鋸で首を引落したという(吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記)


亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]岡山市沼

すな川西方右岸、ぬまの小丘陵地にあり、沼城とも称し、標高四五メートル、比高三五メートル。一部破損はあるが遺構はよく残っている。本丸は周囲に輪郭状に腰曲輪を置き、東の尾根続きに二の丸、湿田を隔てた西方の微高地に西の丸が配されている。石垣は確認されていない。天文年間(一五三二―五五)浦上宗景に属した中山信正の築城と推定される。


亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]作手村清岳 亀山

市場いちばの東南に接する比高二五メートル内外の低い丘にある。本丸は東西九〇メートル・南北二七メートル、面積二四アール、土居をめぐらす。西に二の丸、その下に三の丸があり、南に四の丸があって総面積は三ヘクタールにも及ぶ。東北に通称姫屋敷ひめやしきという所があり、古井戸もあって、屋敷が置かれていたと思われる。

「三河国二葉松」に「市場村亀山城 奥平八郎左衛門貞俊法名栄繁築之、同六郎左衛門、同出羽守、同監物貞文法名道頓、今ハ林ト成、世治リテ奥平氏上州小幡ヨリ旧地トテ昔ニ返シ又々此城拝領スル、則城ヲ取立住居、松平下総守旧地トハイヘトモ悪シキ所故ニ御願申上、大和国郡山へ国替、城ハ夫ヨリ掃捨ラルヽ」とある。


亀山城跡
かめやまじようあと

[現在地名]三次市西河内町

三次盆地から北の君田きみた村へ通じる街道の西にある亀山(三二六メートル)の南方にあり、中世後期の山城。「芸藩通志」に「同じ(三吉)家士河内隆季・同隆実・隆孚等が所守、山腹に平坦の所あり八幡丸とよぶ」と記す。これについて「国郡志下調書出帳」には「山之峰平地凡壱反三畝位、次ノ段西南之方八幡丸と申平地弐畝位、又東南之方一段平地三畝位、又北之方添山と申平地三畝位」とあり、いわゆる段階式郭をもつ城であったらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「亀山城跡」の解説

かめやまじょうあと【亀山城跡】


丸亀城跡(まるがめじょうあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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