二村郷(読み)ふたむらごう

日本歴史地名大系 「二村郷」の解説

二村郷
ふたむらごう

古代鵜足うた郡二村郷(和名抄)の郷名を継ぐ。近世東二ひがしふた村・西二村を遺称地とし、現在の飯野町いいのちよう東二・川西町北かわにしちようきた一帯に推定される。寛喜二年(一二三〇)閏正月二日の権律師尊遍申状案(興福寺別当次第紙背文書)によれば、奈良興福寺の尊遍は同寺五重塔領である当郷七・八両条について、寄進者の蔵人定光が権門と結び付いて濫妨を加えることを停止し、両条を五重塔領とすることに尽力した法相宗中興の祖解脱房貞慶の本懐に背かないよう裁許されんことを、「御塔家」(五重塔の管理者)へ請うている。尊遍と定光との争いの焦点は、当郷の所有と寄進を正当づける文書の相伝関係とその効力であった。

仁治二年(一二四一)三月二五日、貞慶の高弟である奈良西大寺の戒如書状をもって、当郷の文書相伝および師貞慶の所存を尊遍・定光に伝えている(九条家本「振鈴寺縁起」紙背文書)。同書状によると元久年間(一二〇四―〇六)当郷内荒野を興福寺五重塔の寺領として立庄しようとした貞慶は、その領主藤原貞光より小野法印定勝の女子へ寄付させることで願いを果した。前掲尊遍申状案に「両条地主文書相伝由之間、即被申入 後 処、速御奉免畢」とあって、七・八両条内荒野の立庄は後京極殿下とよばれた摂政藤原良経が讃岐国の知行国主であった時期であり、良経が讃岐国を知行したまま没したのは元久三年のことであるから時期的にも符合する。


二村郷
ふたむらごう

和名抄」東急本には「布多无良」と訓を付す。天平勝宝四年(七五二)一〇月の調庸綾布墨書(正倉院文書)によれば、二村郷の吉志部呼鳥は一匹を貢進、このは酔胡従面の袋に使用された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報