中国で,907年(天祐4)に唐が滅び,960年(建隆1)に宋が成立して979年(太平興国4)に統一を完了するまでの時期を,五代十国時代という。この間,華北では後梁,後唐,後晋,後漢,後周の5王朝が興亡したので五代といい,その他の地域に前蜀,後蜀,呉,南唐,呉越,閩(びん),荆南(南平),楚,南漢,北漢などが併存したので十国という。唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。この時期の分裂は単なる軍閥割拠ではなく,その背景には大きな社会変動があり,いわゆる〈唐宋変革〉における過渡期とみなされる。〈唐宋変革〉に関しては,中世から近世へとする学説と,古代から中世へとする学説とがあって一致をみないが,とにかく唐から宋への間に中国史の画期を設定する点では一致している。つまり時代の大きな変り目であるわけで,その間の五代十国期が過渡期として重要な意味をもつのである。
さて,この時代は中国史上でもっとも多数の自立政権が分立した時代である。都市国家分立から領土国家への発展期である春秋戦国時代はともかく,領土国家としての最初の統一を成し遂げた秦の始皇帝以来,たしかに魏・呉・蜀が鼎立した三国時代,あるいは五胡十六国時代などがありはする。しかし,江南では呉,東晋といった単一政権の支配が一応は及んでいたのであり,五代十国期のようにいくつもの自立政権が併存していたのとは大いに様相を異にする。それは江南の大幅な開発があってはじめて可能となった。南北の農業生産力は唐代後半になって南が北を凌駕するようになったといわれ,それに伴う著しい人口増や,各種地方産業も大いに発展し,この経済的,人的発展を背景にした経済ブロック圏形成によって,それぞれ一定の領域支配をなしえた。諸国間の国境は宋の統一後も行政区画として継承され,現在の省境にまでつながる。
五代十国期は〈武人支配〉の時代といわれる。魏晋南北朝から隋・唐時代までは貴族が政治の主導権を保持した。宋代になると科挙出身の文官で構成される官僚機構が整備され,その頂点に位置する皇帝の制度的独裁体制が成立する。五代十国期の〈武人支配〉は,この〈唐宋変革〉の過渡期としての性格を示す一指標である。この時期の〈武人支配〉は,直接的には唐末の黄巣の乱に起因する。唐を滅ぼし五代最初の後梁朝をたてた朱全忠は,黄巣軍の中心的部将であり,唐側に投降してその恩賞として節度使に任ぜられた。五代第2の後唐の事実上の建国者李克用も,異民族部隊の長として黄巣の乱平定に活躍し,その功で節度使に任ぜられたものである。唐を実質的滅亡に追いこんだ黄巣の乱とその後の争乱のなかから身を起こした群盗,流賊,軍賊,土豪,そして異民族出身者など,まったく新しい階層の出身者が五代十国の各政権の担い手となる。
まず華北の五代政権については,後梁建国者朱全忠は,運河の要衝汴州(べんしゆう)の宣武軍節度使という地の利によって群雄を打破して新政権を樹立したものである。しかし太原の河東節度使李克用らはこれを認めず激しく抗争し,後梁の支配領域も華北全域に及ぶものではなかった。ついで李克用の子李存勖(りそんきよく)が安史の乱以来の半独立勢力である河北軍閥を併合して軍事的優勢のもとに後梁を滅ぼして,後唐を樹立した。王朝名が示すように唐の正統的後継者をもって任じた。後晋は突厥沙陀(しやだ)系の石敬瑭(高祖)がたてた王朝であるが,建国時に契丹の軍事援助を受け,その代償に長城以南の燕雲十六州(河北・山西北部)を契丹に割譲した。この地は宋の統一後も係争の地となる。つづく後漢はやはり沙陀部出身の劉知遠がたてた王朝であるが,わずか4年で滅ぶ中国史上で最も短命な王朝の一つ。五代最後の王朝は郭威がたてた後周である。後周第2代世宗柴栄は五代第一の名君と称せられる人物で,禁軍を再編強化して契丹から燕雲十六州の一部を奪回し,江南最大の南唐に対しても産塩地帯を奪うなど,着々と統一事業をおし進めたが,事業半ばにして病没した。世宗のこの事業をうけて統一を完成するのが,再編された禁軍の司令官趙匡胤(ちようきよういん),すなわち宋の太祖である。このような華北五代政権の興亡は,唐末以来の軍閥割拠の統合の歴史である。黄巣の反乱軍の軍事力を基盤にして,経済的先進地帯を掌握した河南軍閥が後梁である。後唐は,突厥など異民族系の精悍な軍事力と鉄,銀,石炭,ミョウバンなど特殊物資を背景とした山西軍閥を基幹とし,河北三鎮に代表される唐中期以来の河北軍閥,そして河南軍閥=後梁を打倒し,それらの統合を成し遂げた。宋による全国統一の一つの素地はここに求められよう。つづく後晋,後漢,後周は,いわば山西軍閥の内部における一種の下剋上と契丹の介入とがからむ政権交替である。
つぎに江南の十国政権についてみよう。杭州を中心とした浙江地方に拠る呉越は,土豪自衛団を基盤に遊民出身の銭鏐(せんりゆう)がたてたもの,その北の江蘇,安徽,江西地方に拠る呉は,群盗出身の楊行密がたてたものであり,その西の湖南地方には軍賊出身の馬殷がたてた楚が併存した。これら三国は黄巣集団の分派である。福建には河南方面から流賊化して拠った王審知の閩(びん),広東には軍卒上りの劉巌が南漢を,それぞれたてた。また四川には群盗出身の王建がたてた前蜀,その東の長江(揚子江)中流の荆州を中心とした地には商家の家僕から朱全忠の部将となった高季興がたてた荆南(南平)があった。以上の諸国に,前蜀をうけた孟氏の後蜀,呉をうけた徐氏の南唐,華北五代の後漢の残存勢力である北漢,この三国を併せたものが十国である。
五代十国期には30~40の節度使が依然として強大な軍事力を保持し,各政権下でも分権化の傾向が小さくなく,めまぐるしい政権交替も有力節度使によるクーデタというかたちをとることが多かった。節度使は部下の将兵との間に義児,仮子といった擬制的血縁関係を結んで主従関係を維持することが特徴的に認められる。その一方では,五代王朝は皇帝直属の禁軍強化に努めた。後唐明宗,後周世宗がその代表で,とくに後者は地方節度使管下の精鋭を中央禁軍に集中して軍隊の強幹弱枝策を大幅におし進め,君主権強化を図ったことは,宋代に至って体制としての皇帝独裁化を完成する重要な素地となった。また武人政治が優越した時代ではありながら,新興の庶人層出身の文官も各政権下で無視しえぬ役割を果たしている。5朝8姓11君に仕えた馮道(ふうどう)はこの時期の最も著名な新興の文臣で,宋学の名分論的立場からは無節操な日和見主義者と非難されるが,争乱の続くこの時期にあってたくましく生き抜いた文臣の典型といえる。とくに地方行政面では,長官級のポストはやはり多くは武人が任ぜられたものの,行政実務に無知なものがほとんどで,実質的な担い手は地方の中・下級ポストにある新興層出身の文臣であることが多かった。
五代政権は後唐が洛陽に都した以外,他の4政権はすべて運河の要衝である開封に都し,つぎの宋にもそのまま受け継がれる。唐の都長安のように,天然の要害で都を防衛する時代がもはや終わり,経済的立地が都を定めるより重要な要因となる新しい時代に移行したことを意味する。五代十国の諸国,とりわけつねに複数政権が併存した江南の十国では,政権を維持するために,いずれも領内の農業開発,産業振興,あるいは他国との交易や南漢のように南海貿易に努めた。荆南の江陵には当時最大の茶の集積市場があって諸国の商人が遠方からも集まったし,南唐の海岸一帯は最大規模の産塩地であった。湖南,江西ではこのころ新たに絹生産が始まり,福建,広東の木綿栽培は楚に移入されて木綿製品が生産されるようになった。その他,製紙,陶磁器,文具,各種雑貨などが地方的特産物としての地位をきずくのもこの時代である。
これら地方の特産物の活発な交易で,商品物資の流通圏は国境を越えた広がりを示し,中小都市の形成をみることになった。すなわち従来の都市といえば,ほぼ州県城に限られていたが,それら州県城に外接した地に旅館,倉庫業,飲食店,輸送業などの常設店舗がたち,やがて城外への都市化現象が著しくなった。また街道沿いの中小の定期市も常設店舗化が進んで集落化し,やがて鎮市(市鎮)などと呼ばれる主として商業に立脚した新しい都市へと発展していく。しかし,富国強兵策をとらざるをえないいずれの国々も農民に対しては過重な負担を強いた。税役の基本は唐中期以来の両税法であったが,沿徴と呼ばれる両税に対する付加税の数がすこぶる多く農民を苦しめた。沿徴には,牛皮銭,橋道銭,農器銭,麴(きく)銭,塩銭,加耗米(雀鼠耗),麻鞋銭,公用銭など多種があった。政府の財政機関としては,後梁では建昌宮使,租庸使が財政を総括し,後唐明宗期に戸部,塩鉄,度支をあわせた三司使が設けられて宰相に準ずる重要な地位を占めるようになる。つまり国家体制内に占める財政関係の比重が大きくなったわけで,三司使は宋に至ってより重要なポストとなる。
文化に関しても五代は次の宋代につながる新しい芽をいくつもの分野で見いだすことができる。文化の普及に寄与するところ大である印刷術は,蜀を中心に《九経》《文選》などが出版された。唐詩に対して宋詞といわれるように,宋代に韻文学の一ジャンルとして完成の域に達する詞もこの時代,とくに蜀と南唐で発達した。五代の詞作品を集めたものが《花間集》で今に残る。絵画の面では,唐の伝統は争乱の華北を離れて蜀や南唐で維持され,唐制にならって画院を設けて保護奨励した。蜀の禅僧貫休,石恪(せきかく),黄筌(こうせん),南唐の周文矩,徐熙,董源,僧巨然らが有名で,題材も花鳥,人物,山水など多岐にわたり,いずれも後世諸流派の祖と目せられる。宋代の絵画芸術は中国史上での最高峰とされるが,その源流は五代に準備されていたのである。
→五代美術
執筆者:愛宕 元
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国で、907年から960年に至る約50年間に興亡した国、およびその時代をいう。黄河流域の中原(ちゅうげん)の地に後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5王朝が相次いで興亡し、中原の地以外には前蜀(ぜんしょく)、後蜀(こうしょく)、呉(ご)、南唐、呉越(ごえつ)、荊南(けいなん)(南平)、閩(びん)、楚(そ)、岐(き)、燕(えん)、南漢、北漢など10余国が分立していた。中原の5王朝を五代といい、他の諸国を十国と称し、両者を五代十国とよんでいる。五代の皇帝は唐王朝の正統な後継者の地位を保っていたが、十国の君主も五代の皇帝と対等であるという意識をもっていた。それは、彼らが武人として実力で政権を樹立したことによっていた。五代十国の皇帝や君主は、黄巣(こうそう)の乱(875~884)をはじめとする唐末の争乱において群盗、兵士、土豪などから身をおこし、武功によって立身し、節度使となったのち、その地位を確立したものである。
[畑地正憲]
五代の皇帝の場合、後梁の太祖朱全忠は没落儒者の子であり、黄巣の部将として驍名(ぎょうめい)を馳(は)せたのち唐朝に投降して節度使となり、後唐の太祖李克用(りこくよう)、後晋の高祖石敬瑭(せきけいとう)、後漢の高祖劉知遠(りゅうちえん)らはいずれも沙陀突厥(さだとっけつ)族出身の軍兵であり、戦功によって皇帝の信任を得て節度使となったものである。十国の君主の場合、前蜀の王建は忠武軍節度使の軍規取締り将校から唐朝の皇帝親衛軍の神策禁軍将校となり、永平軍節度使へと昇進した。楚の馬殷(ばいん)は木工職人から流賊となり、部下に擁立されて武安軍節度使となった。荊南の高季興(こうきこう)は富商李七郎の僕僮(ぼくどう)(子供の召使い)であったところを朱全忠にみいだされて側近に仕え、荊南節度使へ累進した。南漢の劉陟(りゅうちょく)(劉(りゅうげん))は蛮(ばんりょう)の巨酋(きょしゅう)の子孫であり、広州に拠(よ)って静海軍節度使を継承した。閩の王潮は光州固始県の県令であったが、弟王審知(おうしんち)と黄巣の乱兵に身を投じ、泉州に拠って威武軍節度使に任用された。呉越の銭鏐(せんりゅう)は杭州(こうしゅう)臨安県石鏡郷の侠客(きょうかく)より郷村自衛団の副将となり、杭州八県の自衛団である杭州八都の部隊長から累進して鎮海軍節度使となった。呉の楊(よう)行密は孤児であったが、盧州(ろしゅう)と寿州の自衛団の隊長となり、盧州刺史(しし)から淮南(わいなん)節度使へ昇進した。南唐の徐温は呉の楊行密の元従(げんじゅう)(譜代の家来)として活躍し、楊行密の死後に実権を握り、養子徐知誥(じょちこう)の代に南唐を樹立したものである。以上のように、五代十国の時代は実力ある武人出身の節度使が群雄割拠し、領国内の州県から郷村末端に及ぶまで武人を用いて支配体制を形成しており、武人政治の時代であったのである。この時代は政治的分立、社会的混乱の様相を呈してはいたが、政治や文化などの面で新しい気運が醸成されていた。
[畑地正憲]
五代十国の諸国は、政治権力の維持および領国の安定を確立するため、富国強兵、殖産興業などの政策を実践していた。前蜀および後蜀の絹織物を中心とした四川(しせん)の産業復興や西南蛮夷(ばんい)との貿易、楚国の茶業振興による特産化や南海舶載品の仲継貿易、閩、呉越、呉、南唐、南海など臨海諸国の海産資源の開発と海上貿易などは、諸国の国力充実に大きく寄与していた。このような諸国の産業および貿易の振興は、諸国間における交通を活発にし、修好関係の維持と安定をもたらすこととなり、また商人の活躍も盛んであった。
政治面においては軍事と財政とが重視され、そのために枢密使や三司使などの新しい官職が創置された。軍事においては中央に強力な精兵軍団が編成され、とくに五代王朝による禁軍の拡充、整備は宋(そう)代の禁軍の母体となった。また行政組織にも、地域性に立脚し、現状対応に有効な方策がとられ、「軍」とよばれる新しい行政単位がおこってきたのである。
[畑地正憲]
文化面においては、製紙や印刷などの技術的発達によって経書、仏典、詩文などの書籍の刊行が盛んであり、民間俗謡を取り入れた口語体の韻文もつくられ民間で愛好された。趙崇祚(ちょうすうそ)の『花間集』は最初の詞集である。絵画では蜀の黄筌(こうせん)や南唐の徐煕(じょき)に代表される花鳥画、後梁の荊浩(けいこう)や南唐の董源(とうげん)らの山水画が発達した。教坊を設置した南唐では歌舞琵琶(びわ)が普及し、唐の玄宗の霓裳羽衣曲(げいしょうういのきょく)が復興されて宋・元戯曲の先駆となった。また前蜀王建墓や南唐二陵などの遺跡、遺物によると、絵画、彫塑(ちょうそ)、窯業、服飾、習慣などの文化的特色が唐から宋への過渡的要素を明示している。以上のように五代十国の文化には、中央と地方との較差が縮まり、庶民文化の発達をみることができる。
ところで、武人政治のもとでの庶民の生活は過酷なものであった。当時の民衆は、田畝(でんぽ)を基準に課税された両税や、付加税である沿徴などの税負担以外にも、武人の不法な私的課税や商人、富農らの高利貸付に苦しんでいた。とくに沿徴は過重な税負担であった。沿徴には、武具用牛皮の代価にあたる牛皮銭、鉄器具の製造・販売の自由化の代償である農器銭、酒と塩の自由化の代償である麹(きく)銭(榷酒(かくしゅ)銭)や塩銭、橋梁(きょうりょう)保全のための橋道銭などがあった。また発展していた都市の住民に対しても屋税や地税が新たに課税された。当時の民衆は、武人による苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の苦しみによく耐えて生活していたのである。
[畑地正憲]
『周藤吉之・中嶋敏著『中国の歴史5 五代・宋』(1974・講談社)』
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907年唐の滅亡より960年宋の建国,979年宋の全国統一まで,中国は多くの国家に分裂した。華北中原に後梁(こうりょう),後唐,後晋(石晋),後漢(こうかん),後周の5王朝が,他の地方に呉越(ごえつ),南唐(江南国),前蜀(ぜんしょく),後蜀(こうしょく),呉,閩(びん),荊南(けいなん)(南平),楚(そ),南漢,北漢など10前後の国々が興亡し,五代ないし五代十国と呼ばれる。この時代は唐宋変革期の過渡期にあたり,政治的には,旧貴族没落後に現れた藩鎮らの新興武人層の支配下に,土地産業開発を背景とした新興地主・士人層が台頭した。経済的には,唐末の荒廃のなかから諸産業の回復・開発が進み,文化的にも中原以外の平和の保たれた地方に特色ある新文化が興った。五代は,国内の政権不安定に加え,外民族特に契丹(きったん)の侵入圧迫を受けて動乱の世であったが,次期の宋朝の専制統一の諸前提は成熟しつつあったといえる。
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中国で唐・宋間に興亡した諸王朝の総称。いずれも節度使(せつどし)体制の武人政権。唐の滅亡後,華北には後梁(こうりょう)(907~923),後唐(こうとう)(923~936),後晋(こうしん)(936~946),後漢(こうかん)(947~950),後周(こうしゅう)(951~959)の五代があいついだ。後晋は建国時に北方の契丹(きったん)の援軍を仰ぎ,長城ぞいの燕雲16州を割譲して契丹(遼)南進の端緒を作った。一方,華中・華南に呉(ご)(902~937),南唐(937~975),呉越(ごえつ)(907~978),楚(そ)(907~951),閩(びん)(909~945),南漢(917~971),荊南(けいなん)(925~963)が,四川に前蜀(ぜんしょく)(907~925),後蜀(934~965)が,山西に北漢(951~979)があり,以上の十国は基本的には五代の王朝に臣属した。
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