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幕末の志士、明治時代の政治家。号は世外。天保(てんぽう)6年11月28日長州藩士の子として生まれる。幼名を勇吉と称し、のち同藩士志道(しじ)家の嗣子(しし)となり名も聞多(もんた)と改名、その後ふたたび生家に戻った。幕末期には木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともに長州藩倒幕派の中心人物として活躍、維新政権成立後には財政・外交面を中心に政府の主要官職を歴任し、大正4年9月1日80歳で没するまで、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)とともに明治の三元老の一人として政界に君臨した。
1862年(文久2)高杉らと品川のイギリス公使館を襲撃したが、翌年イギリスへ洋行し、これを契機に尊王攘夷(そんのうじょうい)から尊王倒幕へと思想を転回させた。1864年8月、四か国連合艦隊の下関砲撃を知って急遽(きゅうきょ)帰国し、開国の必要を説くとともに、薩長(さっちょう)連合に尽力し倒幕運動を推進した。維新後、参与(さんよ)兼外国事務掛として政府入りし、1869年(明治2)通商司知事、1871年には大蔵大輔(おおくらたいふ)に就任したが、岩倉使節団の渡欧中に財政問題から辞職し、貿易会社先収(せんしゅう)会社(三井物産会社の前身の一つ)をおこした。1875年大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰。同年江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣、1878年参議兼工部卿(こうぶきょう)、翌年外務卿、1884年の甲申(こうしん)政変後の特派全権大使などを歴任しながら、日本鉄道、日本郵船の設立や大農経営論を展開するなど殖産興業に尽力した。1885年内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣、黒田清隆(くろだきよたか)内閣の農商務大臣、第二次伊藤内閣の内務大臣、総理臨時代理、第三次伊藤内閣の大蔵大臣などに就任した。外交面で特筆されるのは不平等条約改正のための欧化政策の採用である。1883年鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張り、「鹿鳴館時代」を現出させ庶民の批判を浴びた。井上は財界との結び付きが強く、1899年には自ら有楽会(ゆうらくかい)を組織し、有力財界人との懇談の場を設けた。財界のなかでも三井との結び付きが強く、1900年(明治33)制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記され、死去するまで三井の経営、人事に多大な影響を与えた。
[春日 豊]
『井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公傳』全5巻(1933~1934・内外書籍/復刻版・1979・原書房)』
(酒田正敏)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町,畑4~5反をもつ100石の地侍であったが,彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり,のち井上家に復帰。聞多の名は1860年(万延1),藩主毛利敬親(たかちか)の小姓役のとき藩主からもらったものである。号は世外。明倫館に学び,また蘭学,英学,砲術などを修業し,高杉晋作らと尊攘運動に参加した。63年(文久3),藩が馬関(下関)で攘夷実行を行うさなか,藩命で伊藤博文ら4名とともにロンドンへ密航したが,翌64年(元治1),四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り,急きょ伊藤と帰国,幕府の長州征伐と連合艦隊攻撃のはざまにあった長州藩のために講和を周旋した。この間,反対派に襲われて重傷,母の看護で一命をとりとめた。65年(慶応1),奇兵諸隊の鴻城軍総督となり,以後長州藩討幕運動に参画,68年(明治1)以後の新政府にあっては,参与,外国事務掛,会計官判事,造幣頭,民部大輔などを経て大蔵大輔となり,73年,各省の政費増加を不可として渋沢栄一とともに辞職した。また,尾去沢銅山事件などに関与し,先収会社などをおこして実業に手をのばした。75年,元老院議官となり,また翌年,特命副全権弁理大使として日朝修好条規(江華条約)を結び,同年渡欧,78年帰国した。以後,参議兼工部卿,法制局長官,外務卿などになり,条約改正に尽力。85年の第1次伊藤博文内閣では外相として欧化政策をとり,批判をうけて辞職。その後,農商務,内務,大蔵の各大臣を歴任,1901年には組閣の命をうけたが失敗し,晩年は元老の一人として政界に臨んだ。
執筆者:田中 彰
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1835.11.28~1915.9.1
幕末期の萩藩士,明治期の藩閥政治家。一時,志道(しじ)家の養子となり,1860年(万延元)藩主から聞多(もんた)の名を賜わる。号は世外(せがい)。尊攘運動にたずさわりイギリス公使館焼打に参加,のち伊藤博文らとイギリスに密航。維新後造幣頭・大蔵大輔などを歴任,留守政府と対立して一時退官。76年(明治9)全権副大臣として日朝修好条規を結ぶ。欧州出張後,参議兼工部卿をへて参議兼外務卿(のち外相)となり,85年漢城条約を締結。条約改正にあたったが,87年外国人法官任用問題などの紛糾で辞任。黒田内閣で農商務相となり自治党結成を試みたが失敗,大隈重信外相の条約改正に反対して同内閣崩壊の原因をつくった。第2次伊藤内閣で内相,第3次伊藤内閣で蔵相を務め,政友会結成にも関与。第4次伊藤内閣退陣後に組閣命令をうけたが,渋沢栄一が蔵相就任を断ったため辞退。以後は財政通の元老として活動。侯爵。
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…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…
…政府は大火を契機に煉瓦造建築で町並みを建設する計画を企てたが,その理由は銀座が外国人交通の要所となることを見越し,条約改正を有利に進めるための都市美装であった。計画を主導したのは大蔵大輔井上馨,東京府知事由利公正である。大火直後より,お雇い外国人ウォートルス原案になる煉瓦造家屋の仕様,土地買上げの布告などが次々に出され,72年3月末には東海道を15間に拡張する杭打ちを完了した。…
…また,国会開設前後になると東北俱楽部,庚寅俱楽部,大同俱楽部など政社にクラブの名をつけるものが多くなった。 このようななかで明治期の政治状況を顕著に表しているクラブが,井上馨外務卿が発起して84年に設立した東京俱楽部である。その主意には,〈修好の媒介を謀り,内外国人の交際を親密にせんが為め,海外諸国に現行するクラブの体裁に準拠し,茲に俱楽部を設立し,会員を募集す〉とある。…
…その多くは開化派の年来の構想に基づいていたが,日本の軍事力を背景とした上からの改革という性格は免れがたく,死文化したものも少なくなかった。日本はさらに井上馨を公使に派遣して大院君を退ける一方,12月,日本亡命から戻った朴泳孝を加えて新内閣を発足させ,翌95年1月にはこれまでの改革条項を再整理した〈洪範十四条〉を高宗の名で宣布,改革の促進・定着を図った。だが,日本による過度のおしつけは開化派政権への反発を強め,三国干渉ののち日本勢力が後退して7月初旬に朴泳孝が追放されると,改革は一頓挫を余儀なくされた。…
…またこのころ,イギリス商人のアヘン密輸入を領事裁判所が無罪とするハルトレー事件や,ドイツ船が日本の検疫規則を無視して出港するヘスペリア号事件が起き,国内世論は法権回復が先決であるとして政府方針に批判的になり,交渉は中止された(1879年9月)。
[井上馨外相の交渉]
自由民権運動は国民的後援のもとで列国に条約改正を迫るべきだとして,条約改正のためにも国民に参政権を与えよと主張した。井上馨外務卿は改正の重点を法権回復におき,司法省や外務省に外国人顧問を招いて法典の整備をいそぐ一方,欧化政策を進めた。…
…東京都千代田区内幸町,日比谷公園に面してあり,1890年開業という古い歴史をもつ。ホテルの建設は,当時の外務大臣井上馨が首都東京に外国からの賓客をもてなす本格的ホテルがないのは国の恥だとして,渋沢栄一,大倉喜八郎といった実業界の実力者にホテル建設を勧めたことが契機となった。何回かの新増改築を経たが,とくに1923年のF.L.ライト設計による荘重な建物,また欧米で高級ホテルの経営を学んだ犬丸徹三(1887‐1981)の活躍などにより,その名声は世界的なものとなった。…
…基盤が安定した政府が積極的に取り組みはじめたのが,官庁街の建設と市街地の改造である。
[官庁街]
官庁街の計画はそれ以前にもいくつかの案がつくられたが,1886年には,外務大臣兼務の臨時建築局総裁井上馨のもとで,ドイツのエンデ・ベックマン事務所による計画案がつくられた。それは築地から日比谷,霞が関を含めた壮大なバロック都市計画であった。…
…三井系企業集団の中核。井上馨(いのうえかおる)設立の貿易商社先収会社を,井上の政界復帰の際,三井組が引き継ぐことにより1876年設立された三井物産会社に始まる。初代社長には先収会社東京本店頭取であった益田孝が就任。…
…館名は,中井弘(号桜州)が《詩経》の鹿鳴詩〈鹿鳴キ,群臣嘉賓燕スルナリ〉にちなんで命名したという。幕末に締結した諸外国との条約が不平等であったため,井上馨は外務卿に就任すると,条約改正の実現には内外人の交誼友好が不可欠であると考え,政府も風俗や習慣をはじめあらゆる方面にわたって欧化の政策を進めていった。まず上流階層の欧化がはかられ,外国使臣と交歓する官設娯楽社交場として設けられたのが鹿鳴館である。…
※「井上馨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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