精選版 日本国語大辞典 「仏教」の意味・読み・例文・類語
ぶっ‐きょう ‥ケウ【仏教】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
日本で広く用いられている仏教の語は、明治時代に始まり、江戸末期までは仏法、仏道とよばれた。インドでは古くから今日まで、創始者であるブッダBuddha(釈迦)にちなんで、バウッダBauddhaの語が慣用され、それは「ブッダに属する」「ブッダの信奉者」を表す。いわゆる仏教は、バウッダ・ダルマ、またバウッダ・ダルシャナと称し、ダルマは法(ないしいわゆる宗教)、ダルシャナは思想を意味する。
仏教は、ゴータマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダッタ)が覚(さと)りを開いてブッダ(覚者(かくしゃ))となり、その教えを説いた時点に始まり、その教えに心服した人々が仏弟子もしくは在家信者(ざいけしんじゃ)となって、比較的緩やかなサークルが生じ、やがて教団に発展する。とくにブッダの滅後に、教団の団結が進み、同時に多数の仏弟子たちがかつてのブッダに倣って、インド各地にブッダの教えを説き、仏教はしだいに北インド一帯に、その後はかなり速く全インドに広まる。しかし仏滅後100余年(別説200余年)ごろに、種々の異分子を抱え、いささか拡大しすぎた教団の内部に分裂がおこり、保守派の上座部(じょうざぶ)と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)とに分かれ、その後さらに細分裂が進行する。こうして生じた部派のうち、上座部系の長老部の仏教が紀元前3世紀なかばにスリランカに伝えられて、いわゆる南伝仏教(または南方仏教)を形成する。インドには部派仏教が栄える一方に、しばらくしておよそ紀元前後ごろから大乗仏教がおこり、ここにあまたの大乗の諸仏が新たに出現した。以後は、部派と大乗とが並列し、7世紀に入ると密教が栄え、後述するとおり13世紀まで継続する。北インドから西進した仏教は、西域(せいいき)を経て、紀元1世紀ごろに中国に入り、仏典の漢訳が進められる。その経巻と仏像とを携えて、4世紀には朝鮮半島へ、6世紀には日本へ、またインドから直接チベットへと、仏教は伝わるが、それらの主流は大乗仏教であり、やがては密教を加える。これらの北伝仏教(北方仏教)の大半は、種々の変遷を経て、ほぼ今日に至る。
他の諸宗教と比較して、仏教の特筆すべき特徴のうち、もっとも重要な諸点を記す。
(1)ゴータマ・ブッダの教えに基づく阿含経典(あごんきょうてん)のほかに、それの数倍もの大乗諸経典(聖典)が、ブッダの滅後数百年を経て出現した大乗諸仏により創作されて、聖典の数は膨大となる。
(2)ブッダと大乗諸仏とに対する敬慕―崇拝は、心情においては同一であっても、形式や内容がかなり異なる。
(3)いずれもいわゆる「神」を立てない。覚りと救済のよりどころとして仏(ぶつ)(仏陀)を無限に理想化するけれども、創造者・征服者の性格は仏にはない。とりわけ大乗の仏とその候補者ともいうべき菩薩(ぼさつ)は、その数がしだいに増大し、汎神論(はんしんろん)的(そして逆に無神論的)な傾向を帯びる。
(4)覚り―智慧(ちえ)が最初期の仏教には強く、やがて仏教徒の救済祈願が反映して、慈悲が強調される。その慈悲は、しばしば愛に付随する憎しみや恨みを払拭(ふっしょく)しており、無償に終始する。
(5)現実(の苦)に即した教えをさまざまに説き、それは現実そのものの多様に応じて、教説も多種多彩に展開し、これを「対機説法」「人を見て法を説く」「八万四千の法門」などとよぶ。逆にいえば、教条的なドグマは存在せず、異端もありえない。
(6)寛容宥和(ゆうわ)がみなぎり、一般的に狂信的態度は薄い。ただしときに放恣(ほうし)に流れやすい。
(7)その人自らの行い(心、ことば、身体的行為)をことに重視する。その際、すべてに欲望や執着を離れたあり方が「無我」として強調される。
(8)いっさいを時間的に切る「無常」と、また空間的に結ぶ「縁起」とが軸となり、やがては実体的思考を廃する「無我」説と相まって、「空(くう)」の思想を完成する。
(9)あくまで平安であり、乱されることのない覚りを得て、解脱(げだつ)が達成され、寂静(じゃくじょう)そのもののニルバーナ(涅槃(ねはん))を理想とする。
こうして仏教は内容がきわめて多岐にわたるが、それは仏教(思想)史のうえで初めて明らかにされる。
[三枝充悳]
インド仏教史を、初期・中期・後期に3分割すれば、初期はゴータマ・ブッダによる仏教の創始から、その滅後100余年(別説200余年)の教団分裂まで。中期は、部派仏教の繁栄と、やや遅れて大乗仏教がおこり、初期大乗の時代を加えて、仏教の全盛期といえる。紀元4世紀初めにヒンドゥー的色彩のきわめて濃厚なグプタ朝が登場して以後、仏教徒は急激に減少するので、これ以降を後期とみなせば、部派と中期・後期の大乗とが並行する。しかし7世紀後半を過ぎると、密教の伸展が著しい。まもなくイスラム教の侵入が始まり、ついに1203年ビクラマシラー大寺院はイスラム軍に徹底的に焼き払われ、その後教団の衰滅とともに、インド仏教は1600年余の伝統を閉じた。以下は、初期仏教、部派仏教、大乗仏教、密教に分けて論ずる。
[三枝充悳]
初期仏教はまた原始仏教ともよばれる。
紀元前13世紀ごろ、北西方からインドに侵入したアリアン人(アーリア人ともいう)により、インド文明は開かれる。まず神々をたたえるベーダが、続いてその注釈文献がつくられた。さらに前7世紀以降はガンジス川一帯に進出して、ウパニシャッド文献を誕生させた。最初期の古ウパニシャッドに初めて、神話を脱した哲学の誕生がみられ、ここでは宇宙の根本原理の追究があり、また個人の内在的原理が探究されたすえに、両者の合一が説かれた(この哲学は2~3世紀以後に復興して、正統のインド哲学を形成する)。
前7~前6世紀ごろは、農村の成熟とともに、商業や工業の発達、群小国家の成立、それらの併合による十六大国の発展、都市の建設などがあり、インド社会は一大転機を迎える。そのなかで、自由で清新な思想家たちが相次いで登場した。彼らはひたすら新思想の徹底に没頭し、出家して世俗のいっさいを離脱しており、沙門(しゃもん)(パーリ語はサマナ、サンスクリット語はシュラマナ、「努める人」の意)とよばれて活躍し、世の歓迎と尊敬とを受ける。ベーダを信奉するバラモン教の権威をむしろ否定したこれらの新思想のなかには、かなり過激なものも少なくない。新思想について、初期仏典は62種、ジャイナ教聖典は363種をあげて説明する。なかでも仏典の伝える6種がよく知られ、俗に六師外道(ろくしげどう)と称する。それらは、道徳否定―快楽主義、唯物論、虚無主義、決定論、懐疑論、禁欲―苦行主義と概括されよう。
ゴータマ・ブッダはそのような新しい自由思想家の一人として登場する。
ブッダは35歳で覚(さと)りを開いてのち45年間、ほぼガンジス川中流域一帯を絶えず遍歴遊行(ゆぎょう)して、80歳入滅までその教えを説き続けた。仏滅後は仏弟子たちがさらに広範囲に散って、その教えを伝え広めるが、数百年間はすべて口誦(くじゅ)により伝承された。アーガマĀgamaは伝承(伝来)を意味し、当初はマガダ語で、ついでそれが標準語のサンスクリット語に、またおそらく中西部一帯の俗語のパーリ語に移され、現在は、サンスクリット語からの漢訳とパーリ語文献が伝えられている。ただし現形が固定したのは、次代の部派仏教の初期、すなわち仏滅後およそ200年以上も後代であり、これら諸文献からブッダの直接の教えを取り出すことは、困難というよりも不可能に近く、少なくとも諸資料に関する文献学が欠かせない。
漢訳には四阿含(しあごん)(長阿含(じょうあごん)・中阿含(ちゅうあごん)・雑阿含(ぞうあごん)・増一阿含(ぞういちあごん))と、これらの一部分の異訳があり、パーリ語では、長・中・相応・増支・小の五ニカーヤ(五部)がある。五部のうちの最初の四部と漢訳の四阿含とは、それぞれが多数の経からなり、それらには共通するところが多いけれども、完全に一致するものはない。パーリ語の小部は15のテクストを包含し、そのなかで、『スッタ・ニパータ』(経集)と『ダンマパダ』(『法句経』)が、またそのほか数種のうちの詩(韻文)形式の経ないしその箇所が、最初期の仏教をよく伝えているとして重要視される。
以上の全体を「経蔵」と称し、ほかに教団の規律を記す「律蔵」、やや遅れて成立する注釈文献の「論蔵」(「蔵」は「くら」でコレクション=集まりを示す)があり、あわせて三蔵といい、これが後代にいっそう発展し増加して、一切経(いっさいきょう)または大蔵経(だいぞうきょう)とよばれるものとなる。
ブッダは「現実は苦である」との探究から出発し、それの解決を求めて修行し、苦からの解脱(げだつ)を覚って仏教を樹立した。苦とは、自己の欲するとおりにならない、願いがかなえられないことをいい、それを深く探究していくと、自己の外(そと)のものが思うようにならないというよりも、むしろ自己の内(うち)なるものが自己に背く、逆にいえば、たとえば、生(しょう)・病・老・死からの解放というような、自己にかなわないものを、自己が欲する、そのようなところに苦の本質があって、いわば自己矛盾ないし自己否定ということになる。この苦の探究をめぐる説明は、次の諸項にまとめられる。
(1)三法印(さんぼういん) 法印は仏教のしるしで、一切皆苦(いっさいかいく)、諸行無常、諸法無我の三つをいうが、のち一切皆苦を除いて、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を加える。現実はすべて苦であることから出発し、同時に、とくに死を含む人生の諸相の現実のあり方は、絶えず生滅・変化し流動してやまない。それに対する一種の詠嘆が「無常」としてとらえられる。もちろんまた自己は実践の中心であり、覚りの主体であるが、他方、多くの欲望や煩悩(ぼんのう)にとらわれやすい。それらの底にある執着(とくに我執)を排すべきことが「無我」と説かれる。これらの現実のありのままを明らかにして、覚りが開かれ、解脱が完成したところに、なにものにも乱されない涅槃の寂静が実現する。
(2)四諦(したい) 諦は真理・真実の意で、苦諦、集諦(じったい)、滅諦、道諦の四つをいう。いっさいは苦であるという真理・真実、苦は何に基づいて生ずるかの真理・真実、苦の原因を知ってそれを滅ぼす真理・真実、苦の滅に至る実践に関する真理・真実の四つで、この道諦の内容は「八正道(はっしょうどう)」、すなわち八つの正しい思想、思考、ことば、行い、生活、努力、意識集中、精神統一からなる。
(3)中道 苦と楽、常と断、有と無、虚無主義と快楽主義というような、一方の偏見にとらわれない、どちらの極端も積極的に捨てていくあり方をいい、これはほぼ八正道の実践によって支えられる。
(4)無記 世界の始めと終わりその他の、いわゆる形而上学(けいじじょうがく)的な問いは、ただ論争を生むだけで、実践にはなんの役にもたたない。そのような不毛の問いに対しては、どれほど迫られても答えず、沈黙を貫き通して、まず脚下の実践に踏み出すことを教える。
(5)法 サンスクリット語のダルマdharmaまたはパーリ語のダンマdhammaの訳で、いっさいの現実存在を成立させている決まり・型(かた)・教え・規範、さらにその存在をいい、この法によっていっさいの存在を説き、そのほかには唯一絶対の神や原理を仏教は認めない。法の説のおもなものは、色(しき)(感覚的・物質的なもの)、受(意識の感受作用)、想(意識の表象作用)、行(ぎょう)(潜在的・能動的な働き)、識(認識作用)の五蘊(うん)(五つの集まり)を説き、あるいは眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)の六入(感覚器官)と、それに対応する色、声(しょう)、香、味、触(そく)、法の六境(対象)を説く。
(6)十二縁起(十二因縁) 原因と条件とを分析しつつ総合するという、一種の論理的反省のうえに縁起説が立てられ、それはつねに人生の現実に関して語られる。すなわち、苦は老死により、老死は生によりと、その生起のあり方が探究され、その縁(よ)って起こる系列をたどっていって、渇愛に至り、さらには根原的な無知に相当する無明(むみょう)に達する。この現実探究により種々の縁起説があって、その完成態は12の部分(支)を数える十二縁起であるが、そのほか種々の縁起説がある。
(7)心 宗教の中心は各自の心にある。また心にあるものはかならず外に表れる。心において、正しさ・清浄を求め、生命の尊重と平等とを知り、精進を誓い、恨み・怒り・とらわれ・貪(むさぼ)り・愚かさを捨てる。
ゴータマ・ブッダは、35歳で覚りを開いてから80歳で入滅するまで、ガンジス川中流一帯にその教えを説き、おそらく1000人を超える弟子が従った。弟子は仏(仏宝)を中心に、その法(法宝)を実践する教団をつくり、これがサンガsagha(僧伽(そうぎゃ)と音写し、僧と略す。僧宝)となった。教団は大別して、出家した男性(比丘(びく))と女性(比丘尼)、在家信者の男性(優婆塞(うばそく))と女性(優婆夷(うばい))とからなり、在家信者は出家者に食を提供し、出家者はひたすら法を学び、実践し、かつ説いた。教団はつねに開かれていて、だれでも自由に出入りすることができ、また完全な平等が行き渡っていた。
[三枝充悳]
ブッダの入滅後、教団はしだいに拡大・発展し、とくに前3世紀前半にインドに初めて出現した統一国家であるマウリヤ朝、そしてその黄金時代を築いたアショカ王の仏教への帰依(きえ)は、仏教の勢力を全インドに飛躍的に伸展させた。教団の拡大とともに、おそらくアショカ王よりやや以前に、教団は、保守派と進歩派との対立から、ついには分裂して、それぞれ上座部(じょうざぶ)、大衆部(だいしゅぶ)と称した。さらにそれから100年余の間に大衆部中に、さらにそれから100年余の間に上座部中で、再分裂が起こり、計約20の部派が成立した。のちにおこった大乗仏教徒は、これを小乗二十部とよぶことがある。各部派はそれぞれまず口伝(くでん)の教え(阿含)を経として固定したうえに、おのおのの解釈によりその教理教義を組織化・体系化した。この精密な教義体系はアビダルマabhidharma(阿毘達磨(あびだつま)・アビダンマ・阿毘曇(あびどん))とよばれ、西洋の神学、とくにスコラ哲学に匹敵する。現在アビダルマは南方仏教の伝える上座部の七論と、説一切有部(せついっさいうぶ)(有部)の漢訳の七論とが伝えられ、そのほか所属不明の漢訳が数種ある。部派仏教はほとんど出家者の独占にゆだねられて、彼らはひたすら自己の修行に精進し、しかも教団に属する荘園(しょうえん)に依存していた。
[三枝充悳]
大乗仏教の起源については不明なところが多い。外からの要因としては、マウリヤ朝崩壊(紀元前180年ごろ)以後、北インドは200年以上も外来諸民族の侵入による社会的な大混乱が続き、一方仏教内部では、出家者に偏していた部派仏教に対する反発があって、広く在家信者を中心に新しい力が盛り上がり一大革新運動となった。それには、すでに初期仏教当時から進められていた仏塔(ストゥーパstūpa)崇拝がいっそう盛んとなったこと、ブッダをたたえる文学作品の誕生なども関係している、とみられる。中国・朝鮮・日本・チベットなどの北方仏教は、すべて大乗仏教が主流となる。それは、いっさいの執着の徹底的な放棄を迫って、空(くう)の思想を振りかざす『般若経(はんにゃきょう)』、広大な仏(毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ))の世界のなかで10の修行段階を説き、また唯心を主張する『華厳経(けごんきょう)』、在家の世俗の生活中に仏教の理想を実現しようとする『維摩経(ゆいまぎょう)』、彼岸(ひがん)の極楽世界を賛美して、その阿弥陀仏(あみだぶつ)に救済を願う『浄土三部経』、一乗思想によって寛容と方便とを示し、しかも久遠(くおん)の本仏を樹立する『法華経(ほけきょう)』、禅定(ぜんじょう)に没入して仏を目の当たりにみようとする各種の「三昧経典(さんまいきょうてん)」、呪句(じゅく)を唱えて人々に宗教的神秘性を訴えかける「陀羅尼聖典(だらにせいてん)」などが続々と登場する。それは紀元前後から後3世紀ごろまでのおよそ200~300年間余のことで、やがてそれらを論理づけたナーガールジュナ(龍樹(りゅうじゅ))が登場する。これら初期大乗仏教思想の主要なものは次のとおり。
(1)仏・菩薩(ぼさつ)の拡大 仏が従来のゴータマ・ブッダ一仏から、やがて過去仏(七仏)・未来仏(弥勒仏(みろくぶつ))に、そして現在の多方仏に拡大し、なかでも救済仏として阿弥陀仏・薬師如来(やくしにょらい)ほかが敬慕されたほか、絶対者の性格を強めた毘盧遮那仏・大日如来(だいにちにょらい)などが確立した。菩薩はもともとブッダとなる以前の段階を表したが、多仏の登場とともに菩薩も拡大されて、観世音(かんぜおん)(観音(かんのん)・観自在)・文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)・勢至(せいし)・地蔵(じぞう)などの諸菩薩がたてられ、最後には、仏道に励み、利他を実践する衆生(しゅじょう)全般に広げられた。
これらの大乗の諸仏・諸菩薩は、阿含のゴータマ・ブッダとは直接のかかわりはなく、新しい無名の諸仏によって、前述した大乗の膨大な諸経典が新たに創作された。
(2)利他 部派教団の閉鎖的・利己的・独善的なあり方を厳しく批判し、すべて生あるものが、ともどもに他者に深く関係し、布施(ふせ)を行うなど、慈悲を旨とする。
(3)空(くう)の思想 空は部派仏教への鋭い批判から説かれ、いっさいの存在を相関・相依・相待のあり方においてとらえ、そのつながりをどこまでも拡大していくことによって、存在はもとより、法そのものの実体(自性(じしょう))を奪い、こうしてあらゆるとらわれを脱して、まったく自由な、障害のない世界を展開する。
(4)波羅蜜(はらみつ) もとは「完成」を意味するが、これを「彼岸に渡る」とも解する。菩薩の実践を明らかにしたもので、布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)(般若(はんにゃ))の六波羅蜜説が中心となり、ここでもとくに執着を排することが強調される。
3世紀以降も経典は次々とつくられ、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『涅槃経』『解深密経(げじんみっきょう)』『楞伽経(りょうがきょう)』などがあり、一方マイトレーヤ(弥勒(みろく))、アサンガ(無著(むじゃく))、バスバンドゥ(世親(せしん))といった論師が現れる。ここでは、唯識説(ゆいしきせつ)と如来蔵思想とが中心となる。唯識説は、いっさいを私たちの経験のうえでとらえ、それを純粋な精神作用すなわち識に還元する。逆にいえば、識の分別の働きによって、すべての現象や存在が現れるという。まず眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの識が日常的な識であるが、その奥に末那識(まなしき)があって、諸識を統一し、自我の軸となる。そしてその根拠に潜在する阿頼耶識(あらやしき)を立て、ここに過去が集積され、未来の可能性が収められていると説く。如来蔵は、如来の蔵(くら)であり、仏性(ぶっしょう)すなわち仏の素質というのに等しい。いずれも、生あるものすべてに生まれながら備わっており、日常、迷い・苦しみ・悩んでいる私たち衆生のだれもが如来・仏となりうると説く。5世紀ごろの『大乗起信論』は、この唯識説と如来蔵思想とを巧みに統一して説き、高度で最適の大乗仏教入門書とされる。
その後、認識論を含む仏教論理学が確立し、ディグナーガ(陳那(じんな))、ダルマキールティ(法称(ほっしょう))がとくに名高く、それらは中国・日本では「因明(いんみょう)」の名で知られる。
[三枝充悳]
7世紀以降の後期大乗仏教は、ダラニdhāraī(陀羅尼)やマントラmantra(真言(しんごん))を中心とする密教(秘密仏教)が主流となり、『大日経』と『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』がつくられてその教えを確立し、その後も多数の密教経典が生まれた。ここでは、特定のサークルが聖域であるマンダラma
ala(曼荼羅)を築いて、特種の作法を行じつつ、さまざまな呪句(じゅく)にひたりきったなかに、大日如来をはじめとする諸尊が現れて、参加者だけが陶酔の極に、その功徳を占有する。その際、現実にそのまま仏に近づくだけではなくて、仏になる(即身成仏(そくしんじょうぶつ))と説かれる。なお、密教を後期大乗から独立して扱う説もある。密教は仏教の民衆化に伴うものであろうが、かえってヒンドゥー教との区別を不明なものにし、仏教はその独自性を見失って、ヒンドゥー教のなかに吸収されていった。その残光も、11世紀以降、イスラム教のインド進出によってしだいにかき消され、13世紀以降は急激に衰滅してしまう。
[三枝充悳]
仏教伝来はさまざまな伝説に飾られているが、およそ紀元前後ごろ西域(せいいき)を経由して中国に伝えられた。いうまでもなく、中国はこの時代までにすでに高度の文化を確立しており、しかも、文字の表現・記録の保存を重んずるところから、異国の文化はかならず漢字に移し換えられ、漢文に翻訳された。
この時代には、安世高(あんせいこう)、支婁迦讖(しるかせん)、竺法護(じくほうご)、仏図澄(ぶっとちょう)などの外国僧のほか、朱士行、道安、慧遠(えおん)などの中国人の学僧が名高い。彼らは種々の経典を翻訳して中国人に仏教を伝える一方、それの理解を深めることに努力したが、仏教思想の独自性はなかなか理解されず、伝説上の黄帝や老子と並んで信奉され、とくに般若(はんにゃ)(智慧(ちえ))の空(くう)を老子の無によって解釈する融合・折衷がもてはやされ、格義仏教とよばれる一種の混交思想が行われた。
[三枝充悳]
5世紀初め鳩摩羅什(くまらじゅう)が西域から長安に到着し、以後9年間、さまざまな大乗経典の優れた翻訳を行い、また3000余人といわれる弟子を教育した。ここに中国仏教は新しい時代を迎え、翻訳された漢文の経典だけによって、十分に仏教教理の研究、思想の理解が可能となった。そのほか、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)、曇無讖(どんむせん)、真諦(しんだい)、菩提流支(ぼだいるし)などの渡来僧により、優れた漢訳仏典が完成し、これらの種々の経や論の研究が進んで、それぞれに依拠する多くの学派が形成された。一方、この時代には訳経書の整理が行われ、経録や伝記など信頼に値する仏教史の諸資料がつくられた。そして混乱の続いたこの時代に仏教はようやく民衆の間に入り、漢民族の習俗に融合し、盂蘭盆会(うらぼんえ)などの法会が盛んに行われるようになった。ときに王朝による廃仏があっても、ただちに仏教は復活し、大同・雲崗(うんこう)の石仏や竜門石窟(せっくつ)なども、熱烈な仏教信仰を物語っている。
[三枝充悳]
300年に近い分裂から中国はようやく統一され、隋(ずい)・唐の王朝が続いて、政治だけではなく、文化の面でも統一と総合とがもたらされた。仏教の諸学派はいわゆる宗派として独立して、中国仏教の黄金時代を現出し、隋の三大法師と称される浄影(じょうよう)(慧遠(えおん))、天台(智顗)、嘉祥(かじょう)(吉蔵)が現れた。まず慧遠はその著『大乗義章』によって名高く、地論(じろん)宗の基礎を開き、智顗は天台宗の開祖として知られ、五時八教の教判(きょうはん)(教相判釈(きょうそうはんじゃく))の原型を示して『法華経(ほけきょう)』を諸経典の最上位に置き、また止観(しかん)(精神の集注)に励んで多くの弟子を育成し、吉蔵は龍樹(りゅうじゅ)の系統を受けて三論宗を確立した。
隋末から唐初にかけて三階教が行われたが、末法思想の鼓吹が過激すぎたため、たちまち弾圧され、その教えは浄土教に吸収された。曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導といった優れた僧が出て、ひたすら阿弥陀仏(あみだぶつ)へ帰依(きえ)を説く浄土教が確立した。645年、17年間のインド―西域の旅行から玄奘(げんじょう)が帰国して、当時のインドに栄えた仏教を中国に伝えた。その膨大な翻訳経典のうち、アビダルマ・唯識・論理学(因明(いんみょう))などに貴重なものが多く、とくに唯識説はその門下の慈恩大師(じおんだいし)基(き)によって法相宗(ほっそうしゅう)の成立となった。他方、賢首大師(げんじゅだいし)法蔵は『華厳経(けごんきょう)』の翻訳に加わり、彼以前からの華厳宗の確立を果たし、五教十宗の教判をたてると同時に、いっさいのものが互いに相即相入するいわゆる重重無尽の縁起説を、その教えの中心とした。また、すでに菩提達磨(ぼだいだるま)によって伝えられていた禅は、その6代目とされる慧能(えのう)、および同門の神秀(じんしゅう)によって宗風が確立し、多くの優れた後継者が出て厳しい修行を徹底し、禅宗は中国に安定した地位を築いた。
この時代の最後に伝来したのが密教であり、善無畏(ぜんむい)、金剛智(こんごうち)、不空がインドから入唐(にっとう)して、密教の諸経典を翻訳し、密呪(みつじゅ)の念誦(ねんじゅ)や加持祈祷(かじきとう)など独自の修法が、とくに王室や貴族の間に、やがては民間にも広く流行した。
[三枝充悳]
この時代のなかばにふたたび廃仏があり、多くの経典が焼却され、宗派も中絶したが、実践に専念する浄土と禅、そして民間信仰に同化した密教が栄えた。なかでも禅は十分に中国化した仏教として発達し、優れた高僧が輩出して、その教えが継承されていくと同時に、それらの語録(『臨済録(りんざいろく)』『碧巌録(へきがんろく)』『従容録(しょうようろく)』『無門関(むもんかん)』などが名高い)が編集された。また禅の寺院の自給自足的な生活規定が生まれ、それを清規(しんぎ)と称した。宋(そう)代以後、大蔵経(だいぞうきょう)が開板され、こうして経典が刊本により広く人々に読まれるようになった。
[三枝充悳]
宋が北方民族の圧力を受けて移動し、南宋となると、とくに禅が行われたが、天台、律、浄土なども復興し、浄土教では結社をつくり、念仏を在家(ざいけ)者の間に広めた。蒙古(もうこ)から興った元(げん)は、チベットからチベット教を取り入れたため、政治と宗教が癒着し、それが種々の弊害を生ずる因となった。明(みん)代となると、仏教にも国家統制が厳格化し、中国仏教史上かつてなかった仏教教団の中央集権的な統制が進んで、活発な仏教活動はほとんどみられず、儒仏道の3教の融和が盛んに説かれた。次の清(しん)代には、一時的にチベット教が復活したが、すでに国家統制下に安住してきた仏教には、もはやかつての活力はなかった。在家仏教の復興もあったが、もともと中国仏教は出家仏教が主流であって、全般的に衰退の兆しは隠しきれず、第二次世界大戦後、中国大陸から仏教はその姿がほとんど消えかけたが、少しずつ復興しつつある。一方、台湾では仏教諸派が伝えられて、活発な活動がみられる。
[三枝充悳]
かなり古い時期から、大陸の仏教は朝鮮半島を経由して伝えられて、当初は渡来人を中心に、やがて民間に広まっていたが、公式の伝来は欽明天皇(きんめいてんのう)の代(538年ないし552年)とされる。その後、蘇我(そが)氏の崇仏と物部(もののべ)氏・中臣(なかとみ)氏の排仏の争いがあったが、聖徳太子によって仏教の受容が確定し、日本に仏教が根を下ろすことになった。
聖徳太子は仏教思想を取り入れて「十七条憲法」を制定し、仏教の経典を詳しく学んで『法華経(ほけきょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』に義疏(ぎしょ)(注釈)を書いた(『維摩経』については異説もある)。『法華経』はインド・中国でも広く読まれたが、太子を経て日本でもっとも愛好される経典となり、多くのものを円融的に総合するその一乗思想は、長く日本仏教の性格の一つとなった。また『維摩経』『勝鬘経』のもつ在家仏教の性格は、のち僧俗一体の菩薩道(ぼさつどう)といった姿に展開し、やはり日本仏教の顕著な特徴となった。太子はまた隋(ずい)と国交を結んで留学生を大陸に送り、文化の中枢で直接仏教を含むその文化を学ぶ道を開拓する一方、四天王寺などを建てて病人や貧民を救った。続いて、法隆寺、中宮寺などが建てられ、仏像・仏画などの諸芸術作品が、いわゆる飛鳥(あすか)・白鳳(はくほう)の美をつくりあげた。大化改新には仏教興隆の詔(みことのり)が発せられて、多くの僧尼が活躍し、種々の法会(ほうえ)が盛んに行われた。このいわば上からの国家仏教の性格は、次の奈良仏教において頂点に達する。なお、仏教と政治との癒着は、時代により強弱はあっても、日本仏教には現在に至るまできわめて濃い。
[三枝充悳]
この時代は中国仏教の黄金時代に対応し、中国に成立した諸宗派が次々と伝えられて、いわゆる南都六宗が成立した。
(1)三論宗 入唐(にっとう)して吉蔵に学んだ高麗僧(こうらいそう)慧灌(えかん)が、すでに推古天皇(すいこてんのう)の時代に来日して広めた。その高弟の智蔵(ちぞう)、智蔵の弟子の道慈(どうじ)や智光がこの教えを深め、大乗仏教の基礎学として学ばれた。
(2)法相宗(ほっそうしゅう) 道昭から玄昉に至る多くの学僧が入唐して学び、帰国後、藤原氏の氏寺の興福寺で多くの弟子を教えたためもっとも栄え、その伝統は法隆寺などに残って今日まで続く。道昭の弟子に行基(ぎょうき)がおり、諸国を巡歴して大いに社会事業に尽くした。
(3)成実宗(じょうじつしゅう) 智蔵が伝え、三論宗の付宗となる。
(4)倶舎宗(くしゃしゅう) 法相宗の付宗として広く学ばれ、また仏教学全体の基礎としての学究は、現在も継承されている。
(5)律宗 唐から来日した華厳(けごん)の学僧の道璿(どうせん)が四分律宗を伝えたのに始まり、のち鑑真(がんじん)が来日して、完成した律を教え、東大寺の戒壇において聖武天皇(しょうむてんのう)をはじめ400余人に戒を授け、のち唐招提寺(とうしょうだいじ)を戒律の根本道場とした。
(6)華厳宗 道璿の伝来のあと、直接に法蔵から学んだ新羅(しらぎ)の審祥(しんじょう)が来日して広まり、その第一の弟子が良弁(ろうべん)であった。華厳の理念に基づいて東大寺の大仏(毘盧遮那仏)が建立され、聖武天皇の帰依(きえ)を受けて全国の国分寺を従えた。
以上の6宗は、いずれも学問的な色彩が濃く、また1人で2宗以上を兼学し、寺も諸宗を兼ねることが普通で、仏教は鎮護国家を掲げて密接に政治と結び付いた。
[三枝充悳]
中心となる最澄(さいちょう)も空海も、京都に都を移した桓武天皇(かんむてんのう)の親任を得て、新しい仏教を開いた。
最澄は純粋な求道者(ぐどうしゃ)の性格が強く、すでに早く天台を学び、奈良の都を離れて比叡山(ひえいざん)に籠(こも)り、のち勅許を得て入唐、天台をはじめ密・戒・禅の四宗を相承し、帰国して叡山に四宗合一の天台法華宗(てんだいほっけしゅう)を創立した。このような総合的な学風は上述の一乗思想に連なるもので、中国の天台とは異なって、日本仏教の特徴をよく表している。しかし、この天台一乗の立場は、奈良仏教を代表する法相宗の三乗的立場と衝突し、法相宗の徳一(とくいつ)との間に盛んな論争が繰り広げられた。最澄はさらに山上に大乗戒壇を設け、「山家学生式(さんげがくしょうしき)」を制定して大乗菩薩僧の養成を始め、奈良の戒壇と争った。これから、最澄の『顕戒論(けんかいろん)』が生まれる。大乗戒壇は最澄の没後に公認され、ここに小乗律によらずに、いわゆる円頓戒(えんどんかい)によって多くの僧が生まれることになった。天台宗には円仁、円珍という優れた後継者が現れ、いずれも長期間入唐して学び、帰国後、主として密教(天台密教・台密)を教学の中心とした。
空海は最澄とともに入唐し、長安に長くとどまり、恵果(けいか)から真言密教(しんごんみっきょう)を学んでから、多くの経巻や仏具を携えて帰国し、真言宗を開いた。とくに嵯峨天皇(さがてんのう)の親任が厚く、京都に東寺(とうじ)、高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建てて真言密教(東密)と同時に鎮護国家の根本道場とした。盛んに加持祈祷(かじきとう)を行って人々の心をとらえる一方、奈良の諸宗とも協調し、『十住心論』などを著して現実主義的色彩の濃い即身成仏(そくしんじょうぶつ)の教義を確立した。空海はまた書や文芸に秀でて多彩な文化活動に従事し、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いて一般の子弟を教育したほか、諸国を巡って社会事業や教化活動を振興した。なお真言宗には、平安の末期に覚鑁(かくばん)が出て新義真言宗を開き、さらにのち智山(ちさん)(京都智積院(ちしゃくいん))と豊山(ぶざん)(奈良長谷寺(はせでら))の2派が生まれた。これに対して、従来の真言宗を古義真言宗とよぶ。
平安仏教は貴族の帰依と保護を受け、寺院の造営、祈祷(きとう)や法会が盛んであり、貴族からの出家者も多かったところから、一般に貴族仏教とよばれる。その結果、僧位僧官が世俗の権威と絶えず密着していた。なお、寺院は貴族から荘園(しょうえん)の寄進を受け、逆にその荘園を守るために、僧兵を蓄え、それはやがて僧兵の横暴を招いて、ついには寺が一つの権勢の中心にかわっていった。
仏教思想が当時の文学などに多く影響していることはよく知られている。それがしだいに民衆化していくなかで、平安中期の末法思想が、当時の飢饉(ききん)、大火、地震などによる社会不安と一致して、人心を強くとらえ、衰えた弥勒信仰(みろくしんこう)にかわって、阿弥陀信仰(あみだしんこう)が栄えていった。それは、ひたすら念仏によって極楽浄土への往生を願うもので、市聖(いちのひじり)とよばれた空也(くうや)、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著した源信、華厳思想と結び付けて融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)を開いた良忍などにより急速に拡大していった。
[三枝充悳]
真の意味で仏教が民衆と深いつながりを得るのはこの時代である。すでに仏教伝来以来600年余を経て、ここにようやく日本仏教ともいうべきものが誕生、成立した。民衆が仏教を求める一方、宗教的天才が出現してこれにこたえた。
平安中期から栄えた浄土信仰の系統から、純粋な浄土宗を確立したのは源空(法然(ほうねん))である。彼は比叡山に登り、南都に学んで、智慧(ちえ)第一の法然房とよばれながら、それらの智慧、知識、学問による仏法ではなくて、善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』に従い、一心に弥陀の名号(みょうごう)を念ずること(一向専修(いっこうせんじゅ)の念仏)こそ、浄土に往生する正しい方法(正定業(しょうじょうごう))であるとし、それを『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』に結集してひたすら称名念仏を勧めた。皇室・貴族や一般民衆にまで急速に広まったこの宗は、既成仏教の弾圧を受け、ついには念仏停止(ちょうじ)の迫害を受けて、法然は土佐国(とさのくに)(高知県)に流された。法然没後、浄土宗は門下に異議が生じて諸派に分かれ、さらにその一派から一遍(いっぺん)の時宗(じしゅう)が出た。
信という一筋の道をどこまでも徹底させたのが親鸞(しんらん)である。比叡山に学ぶこと20年、のち法然に傾倒して、法然流罪のとき越後国(えちごのくに)(新潟県)に流され、赦免ののち長く東国で布教活動を行い、この間に『教行信証』を完成し、浄土真宗の基礎を確立した。すでに肉食妻帯・非僧非俗を宣言し、信者を同朋(どうぼう)同行とよんで、一般の民衆とともに、ひたすら弥陀に帰依し、これまでの称名を突き抜けて、弥陀への報恩にまで高まる絶対他力の信を貫いた。その語録を弟子がまとめた短編の『歎異抄(たんにしょう)』ほど、純粋で激しく深い仏教書はない。
このころ、南都奈良には、法相宗の貞慶(じょうけい)、華厳宗の高弁(明恵(みょうえ))が出て、念仏の流行が仏道修行や持戒の軽視につながることに反対し、厳しい道心による厳格な修行を自ら実践し、また弟子に教えた。
鎌倉仏教に新機軸を画したのは禅宗である。禅はすでに奈良時代以来しばしば伝えられ、最澄も四宗の一つに数えているが、日本に禅宗が確立したのは、栄西(えいさい)による。彼は二度も入宋(にっそう)して禅のうちの臨済宗を学び、日本に伝えた。帰国後、『興禅護国論』を著し、鎌倉・京都などを巡って禅を広めた。一時は比叡山の圧迫もあったが、厳正な坐禅(ざぜん)の修行を実践して、新時代の新興勢力である武士の心を養い鍛えると同時に、しだいに文人にも浸透して、後の禅文化を導き出す端緒を開いた。
栄西においてなお天台や密教との妥協がみられた禅宗は、道元によってまったく純粋な禅に結晶した。若くして入宋した道元は、彼地(かのち)にとどまること4年余、最後に天童如浄(てんどうにょじょう)に巡り会ってそのもとで修行し、印可を受けた。帰国後ただちに『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著して、坐禅の真義を明らかにし、その実践を強調、京都深草と宇治に約10年、越前国(えちぜんのくに)(福井県)の永平寺に約10年住して、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の大著を書き続け、厳しい実践を休まず、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)すべて坐禅に連なることを教えて、只管打坐(しかんたざ)を唱え、優れた弟子の養成に努めた。道元の禅宗は曹洞宗(そうとうしゅう)とよばれ、道元の語録を高弟の懐奘(えじょう)が筆録した『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』が広く読まれている。のち瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が出て『伝光録』を著し、総持寺をはじめ多くの寺を開き、一般民衆にも禅を普及させた。
鎌倉仏教の最後に日蓮宗(にちれんしゅう)が現れる。これまでの宗祖・開祖がすべて京都ないし京都以西の出身であるのに対し、日蓮だけは関東の出身で、そこで活躍した。日蓮ははじめ真言密教を学び、やがて比叡山に登り、天台を究めて『法華経』第一主義を固め、南都・高野山を巡ってのち故郷に帰り、安房(あわ)(千葉県)清澄(きよすみ)山頂で「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を高唱して、立宗を宣言した。この時代にはすでに浄土・禅・密などの諸宗が地位を築きつつあったが、日蓮はそれらを激しく攻撃して、ひたすら『法華経』の流布を図った。その意図は国の将来にまで及んで、主著『立正安国論』が書かれたが、あまりにも戦闘的なその態度のため、伊豆(静岡県)に、また佐渡に流されたほか、数々の法難を受けた。晩年はその態度も寛容に変わり、甲斐(かい)(山梨県)身延山(みのぶさん)に籠(こも)って草庵(そうあん)を開いたが、やがて江戸池上(いけがみ)本門寺で没した。門下に六老僧が名高く、関東だけでなく、まもなく京都にも進出して多くの信徒を得たが、本来の激しい態度からしばしば論争を生み、さまざまな分派が生じた。とくに法華宗や日蓮正宗(しょうしゅう)などが、その有力なものであり、また熱心な在家集団も多い。
[三枝充悳]
鎌倉新仏教は人々の宗教的欲求にこたえて、短時日の間に民衆のなかに広まった。
臨済禅は足利(あしかが)幕府の庇護(ひご)を受けて、京都と鎌倉の五山を中心に栄え、五山文学を生み、また茶道、華道、絵画(とくに水墨画)、芸能、造園、料理、建築など文化の諸方面に深い影響を及ぼした。この系統に、室町時代には南浦紹明(なんぽじょうみょう)(大応国師)、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈国師(だいとうこくし))、夢窓疎石(むそうそせき)、関山慧玄(かんざんえげん)、虎関師錬(こかんしれん)など、江戸時代には沢庵宗彭(たくあんそうほう)、至道無難(しどうぶなん)、臨済中興と仰がれる白隠慧鶴(はくいんえかく)、盤珪永琢(ばんけいようたく)などのほか、合理的精神により日常生活にその教えの実践を説いた鈴木正三(すずきしょうさん)が出る。
曹洞宗には、江戸時代に卍山道白(まんざんどうはく)、面山瑞方(めんざんずいほう)などが現れて教えを正しており、大愚良寛(たいぐりょうかん)もこの宗に属する。
なお、臨済禅の別派の黄檗宗(おうばくしゅう)が江戸時代に隠元によって明(みん)から伝えられた。これには中国風の色彩が強く、この宗に出た鉄眼道光(てつげんどうこう)は「大蔵経(だいぞうきょう)」の新刻を完成したほか、飢饉(ききん)には難民を救って人々の敬慕を集めた。
浄土宗は、法然の没後、諸派に分かれたが、江戸時代には徳川氏の宗旨となって栄え、江戸増上寺と京都知恩院とがその中心となった。
浄土真宗は8代目の蓮如(れんにょ)によって飛躍的に発展し、ついには日本最大の宗派となり、戦国時代にはしばしば一向一揆(いっこういっき)を起こして武将を脅かした。そのために、徳川幕府は本願寺を東西に二分してその勢力を押さえた。
天台宗には徳川家康の寵(ちょう)を受けた天海が出て、寛永寺(かんえいじ)を開き、日光山を再興したほか、「大蔵経」を開板(かいはん)(板本の作成)した。これが日本の「大蔵経」完刻の最初である。
真言宗には、江戸時代に飲光(おんこう)(慈雲尊者(じうんそんじゃ))が出て、正法律(しょうぼうりつ)を唱え、またサンスクリット語を研究して大著『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』を著した。
また江戸時代には、仏典の文献学的研究もおこり、普寂(ふじゃく)(1707―1781)、鳳潭(ほうたん)、法幢(ほうとう)、富永仲基(とみながなかもと)、中井竹山(ちくざん)、中井履軒(りけん)などが知られる。
周知のように、徳川幕府はキリシタン禁制のために、厳重な鎖国を敷き、その反作用として仏教を保護した。しかしそれも、徳川家を頂点とする封建制度を維持する一環として仏教を利用したにすぎず、いたずらに寺院制度だけがそびえて、生気あふれる仏教活動はあまりみられない。各宗派は本山―末寺、寺―檀家(だんか)の関係を厳しく守り、個人の信心よりも、家の宗門に縛られることになった。他方、宗派内では宗学を確立して発展させると同時に、寺子屋を開いて一種の国民的な教育機関をつとめた。
明治政府は、初め神仏分離から廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)にまで進んだが、日本人の心に根を下ろしていた仏教は、現代もなお日本人の風俗習慣や思考のどこかに、程度の差はあっても、かなり深く宿されていることが多い。これは、日本に伝来し繁栄したのが、ゴータマ・ブッダの説に基づく阿含(あごん)仏教ではなく、まさしく大乗仏教であり、しかもそれは文学・絵画・彫刻・建築・音楽などにわたる芸術一般から、言語・習俗・儀礼・技術・政治などを網羅した大乗文化ともいうべきものであって、それにまったく席巻(せっけん)されたまま継承されたことによる。散発的なブームらしいものがあっても、一般的にみれば、現代の日本人の仏教思想は潜在していて、あまり目だつことがなく、いわば切実と無関心との間をさまよっていて、後者から、一部に葬式仏教の貶称(へんしょう)さえある。また第二次世界大戦後は、いわゆる新宗教といわれるものが、とくに日蓮系統(たとえば創価学会、霊友会、立正佼成会(りっしょうこうせいかい)など)から、ほかに天台や真言系統から多く出て、多数の信者を獲得している。仏教系の信者数は8690万2013(『宗教年鑑』平成26年版)。各宗派の信者数等はそれぞれの項を参照。
なお日本仏教は漢訳仏典をそのまま用い、この点は中国やチベット仏教と相違する。また平安初期ごろまでは、中国や朝鮮仏教と同じく、諸宗兼学が常態であったが、とくに鎌倉以後は特定の一宗に凝縮され、結晶して深化したとはいえ、仏教全体への展望は失われた傾向が強い。明治以降に諸宗の連帯が深まり、また仏教学は著しく進展した。
[三枝充悳]
スリランカ(セイロン)への仏教渡来がもっとも古く、その史書によれば、紀元前3世紀中ごろ、インドからアショカ王の王子マヒンダが、部派仏教の保守派に属する上座部(長老部)の仏教を伝え、王朝の保護と民衆の帰依(きえ)を得て、全島に広まる。その経典がパーリ語からなっているので、パーリ仏教ともいう。のち一時は大乗仏教の一派も伝えられたが、長老部の繁栄が続く。5世紀にはインドから仏音(ぶっとん)(ブッダゴーサ)がきて、経・律・論の三蔵全体の注釈を完成し、『清浄道論』の名著も著して、仏教は非常な活気を示した。6世紀に、仏教はベンガル湾を北上してビルマ(現、ミャンマー)にも伝えられ、11世紀にはパガン朝が全ビルマを統一し、仏教が栄え、当時不振だったスリランカに逆輸出された。以後スリランカとビルマの仏教は衰退と繁栄を繰り返している。現在の両地域の仏教は18世紀にタイから再輸入したもので、いずれもスリランカ、ビルマともに、その政治形態にかかわりなく、仏教を精神的支柱としている。
タイの歴史は新しく、タイ民族が独立したのは12世紀の初めとされる。その当初から長老部系統の仏教を熱心に信奉し、のち盛衰を交えつつ現在に至ると同時に、仏教以外のインドの諸文化も受け入れ、現在東南アジアでもっとも強力な仏教国である。カンボジアは別名クメールとよばれ、ヒンドゥー教と仏教の混交した宗教が栄えた。9~12世紀のアンコールの遺跡が名高く、アンコール・トム(都城)とアンコール・ワット(寺院)が並び建っている。隣国ラオスとともに、のちにはタイから伝えられた長老部仏教が栄える。ベトナムだけは中国との関係が深く、中国から伝来した大乗仏教が民衆に信奉された。インドネシアにも一時仏教が栄え、ジャワのボロブドゥールの遺跡(8~9世紀)もあるが、のちイスラム圏に入った。
[三枝充悳]
紀元4世紀、3国(高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ))に分かれていた朝鮮半島への仏教伝来は、国ごとに異なる。公伝によれば、北の高句麗は、372年、小獣林王(しょうじゅうりんのう)(在位371~384)の代に、華北の隣国である前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)が僧順道(じゅんどう)を派遣したのに始まる。南西の百済には、384年、枕流王(ちんりゅうおう)(在位384~385)の代に、東晋(とうしん)より海路を経て胡僧(こそう)の摩羅難提(まらなんだ)がきて、また南東の新羅には、5世紀の前半訥祇王(とつぎおう)(在位417~458)の代に高句麗僧墨胡子(ぼくこし)がきて、仏教が伝えられたという。しかし実際にはそれよりも古く、北方から、また海路により南方から、すでに仏教は入り浸透していたとみられる。3国はそれぞれが多くの寺院を建て、中国に留学僧を送り、優れた学僧が出て、仏教は各地に栄えた。とりわけ、新羅の法興王(在位514~540)の仏教興隆、円光や慈蔵など留学僧の活躍、百済の聖明王が日本に仏像・経巻を贈ったこと(538年、別説552年)などが特筆されよう。
新羅による半島統一(677)以後は、仏教はその国教として、学問も実践も一大飛躍を遂げる。7世紀には傑出した3人の学僧が出る。すなわち法相宗(ほっそうしゅう)の円測(えんじき)、全仏教に通じた元暁(がんぎょう)、華厳宗(けごんしゅう)の義湘(ぎしょう)はとくに卓越しており、最盛期を迎えた当時の中国仏教を凌駕(りょうが)せんばかりの業績をあげた。そのほか、涅槃(ねはん)、律、法相ほかの諸宗も栄え、やがて密教も伝わり、阿弥陀(あみだ)、観音(かんのん)、弥勒(みろく)への信仰も盛行した。あまたの寺院のうち、慶州の仏国寺、石仏寺などがことに名高く、またきわめて多数の金銅仏像が製作された。8世紀には禅が伝わり、9世紀に道義が南宗禅を携えて帰国すると、それは新羅仏教の主流となる。
高麗(こうらい)の半島統一は、918年から1391年まで続く。初代の太祖は伝統的仏教を厚く後援する一方、道教の秘法を交えた世俗的仏教を信奉し、その流行は、後代のみならず、現在も残存する。やがて僧の階位制度が設けられ、また多数の道場が開かれ、法会(ほうえ)はますます栄えた。10世紀に天台の諦観(たいかん)と華厳の均如(きんじょ)(923―973)が活躍し、11世紀には義天が高麗天台の祖とされ、華厳にも通じた。12世紀なかば以降に知訥(ちとつ)が禅の復興を進め、また浄土教や密教なども盛んで、祈祷(きとう)仏教が流行する。もっとも特筆すべきは『高麗大蔵経(こうらいだいぞうきょう)』の開板であり、11世紀末の初彫本は元(げん)の軍に焼かれたが、あと13世紀なかばに完成した再彫本は、8万枚余よりなり、きわめて学術的価値が高く、全仏典の宝庫とされる。
14世紀末に始まる李朝(りちょう)約500年は、もっぱら儒教を奉じて国を統制し、仏教は衰退する。朝廷による廃仏も反復されるが、民間にはなお禅宗・教宗の2宗が伝わり、西山大師休静(きゅうせい)(16世紀)ほかの活躍も光る。20世紀末時点で韓国には、禅系統の曹渓宗(そうけいしゅう)を筆頭に、新宗教の円仏教をも加えて、18派あり、なかでも曹渓宗は韓国各地に2500の寺院と1万人以上の僧尼を抱え、信徒は1000万人近いとされる巨大宗派となっている。
[三枝充悳]
ラマ教という別称を、チベット仏教徒は用いない。チベットへの仏教初伝は、全土統一を果たしたソンツェンガンポ王(在位?~638、643~649)による。のちチソンデツェン王(在位754~797)は、インドから、後期大乗と密教に通じた3人の高僧、シャーンティラクシタ(寂護(じゃくご))、パドマサンババ(蓮華生(れんげしょう))、カマラシーラ(蓮華戒)を迎えて、仏教興隆を進める。約100年の断絶後、11世紀にアティーシャがインドから移り、以後チベット仏教は全盛を極める。最大の高僧ツォンカパは仏教の根本的改革を行うと同時に、顕教にも密教にも通じ、とくに中観派(ちゅうがんは)の解釈を密教に徹底させた名著を著す。以後のチベット仏教は、この系譜が正統となり、ダライ・ラマと称して全チベットの統一君主として、宗教・政治・文化をすべて統率する。ダライ・ラマ5世(1617―1682)は別の大寺の高僧にパンチェン・ラマの称号を贈ったが、その系譜は宗教的な一権威にとどまる。近世から現代には、イギリス、ロシア、そして第二次世界大戦後は中国により多大の弾圧などを受けたが、チベット仏教の根強い力は依然衰えていない。またこの影響はチベットのほか、モンゴルやロシアの一部などに残る。ダライ・ラマ14世(1935― )は中国政府に追われて、インド北部に宗教自治区を形成している。なお、西蔵大蔵経(チベットだいぞうきょう)は、とくに大乗仏教・密教を伝えるもっとも貴重な宝庫として、世界各地で盛んに研究が進められている。
[三枝充悳]
インド仏教は、20世紀なかばに主として四姓の最下層であるシュードラ階級にネオ・ブッディズムの動きがみられたが、影響力は少ない。中国の仏教も、ほぼ閉塞(へいそく)状態にある。他方、伝統的な保守系の長老部仏教は東南アジアの各国に、大乗仏教は日本・台湾・韓国などに栄える。チベット仏教は一時的に亡命下にあるものの、勢力は根強い。また大乗仏教の諸宗派とくに禅がアメリカ、ヨーロッパをはじめ世界各地に進出し、一部では熱い視線を浴びている。
大乗仏教は、その教義や作法のほかに、思想、芸術、文学、習俗その他をも包含して、いわゆる大乗文化に発展し、とくに漢字文化圏への影響は古来まことに大きい。ただし、その最大の特色である寛容のあまり、夾雑(きょうざつ)物を多く含み、世俗に迎合して流行におぼれがちであり、ことに日本では死者供養―葬祭儀礼重視に傾きやすい。しかし、仏教を一貫する厳しい否定―超越の論理と平等を軸とする慈悲の精神とは、過激な絶対化に背を向けて多様性の承認を進め、心の平静、安らぎに向かう仏教の理想とともに、今日もっとも重要な平和に対する精神的拠点を支える。
2014年の時点で、世界の仏教系人口は約5億といわれる。その分布などについては、「宗教」の項を参照。
仏教研究は仏教の伝わった各地・各国で古来盛んに行われてきたが、真の意味の文献学に基づく仏教学は、19世紀なかば以降にヨーロッパにおこり、やがて全世界に拡大した。以下に、とくに重要な先覚者の名を列挙する。デンマークのファウスベルMichæl Viggo Fausbøll(1821―1908)、トレンクナーCarl Wilhelm Trenckner(1824―1891)、フランスのビュルヌフ、ペリオ、レビ、バコJacques Bacot(1877―1965)、ドゥミェビルPaul Demiéville(1894―1979)、ドイツのオルデンベルク、ウィルヘルム・ガイガーWilhelm Geiger(1856―1943)、リューダースHeinrich Lüders(1869―1943)、ワレーザーMax Walleser(1874―1954)、グラーゼナップHelmuth von Glasenapp(1891―1963)、ワルトシュミットErnst Waldschmidt(1897―1985)、オーストリアのビンテルニッツMoriz Winternitz(1863―1937)、フラウワルナーErich Frauwallner(1898―1974)、イギリスのマックス・ミュラー、リズ・デビッツ夫妻T. W. & C. A. F. Rhys Davids、イタリアのトゥッチGuiseppe Tucci(1894―1984)、ハンガリーのチョマKörösi Csoma(1798―1842)、オランダのケルン、ベルギーのルイ・ド・ラ・バレ・プサン、ラモットÉtienne Lamotte(1903―1983)、ロシアのシチェルバツコーイFyodor Ippolitvich Stcherbatsky(1866―1942)、アメリカのエジャートンFranklin Edgerton(1885―1963)などが挙げられる。
[三枝充悳]
『望月信亨編『仏教大辞典』全10巻(1933~1936・同刊行会)』▽『宇井伯寿著『仏教汎論』(1947・岩波書店)』▽『宮本正尊編『仏教の根本真理』(1956・三省堂)』▽『横超慧日著『中国仏教の研究』全3巻(1958~1980・法蔵館)』▽『田村芳朗著『日本仏教史入門』(1969・角川書店)』▽『中村元他編『アジア仏教史』全20巻(1972~1976・佼成出版社)』▽『平川彰著『インド・中国・日本 仏教通史』(1977・春秋社)』▽『鎌田茂雄著『中国仏教史』(1978・岩波書店)』▽『水野弘元著『経典 その成立と展開』(1980・佼成出版社)』▽『中村元著『仏教語大辞典』(1981・東京書籍)』▽『石田瑞麿著『日本仏教史』(1984・岩波書店)』▽『鎌田茂雄著『朝鮮仏教史』(1985・東京大学出版会)』▽『中村元・三枝充悳著『バウッダ・佛教』(1987・小学館)』▽『『総合仏教大辞典』全3巻(1987・法蔵館)』▽『『中村元選集11~23』(1988~1995・春秋社)』▽『三枝充悳著『仏教入門』(岩波新書)』
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(岩井洋 関西国際大学教授 / 2007年)
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ゴータマまたはガウタマ・ブッダ(釈尊(しゃくそん))の教え。今から約2500年前のインドで,ヴェーダの祭式主義とバラモン階級の権威を否認し,この世の苦悩を見つめて解決する実践方法を説く。45年にわたる釈尊の教化活動に従って出家と在家(ざいけ)信者の教団が成立したが,仏滅約100年後アショーカ王の時代に意見の相違や地域差から分裂が生じ,部派別に独自の教義伝承や生活規律,運営規定が定められた(部派仏教)。西暦紀元前後に従来の仏教を利己的と批判してみずからを広く社会救済の利他行為であると標榜し,独自の経論を持つ大乗仏教が興る。7世紀以降には神秘信仰や儀式重視の密教が民間に浸透した。12世紀末のイスラーム教徒の進出もあって,インドから仏教は消滅する。中国には中央アジア経由で紀元前後に伝来,隋代に定着し,朝鮮半島を経由して日本にも伝えられた。唐代中期以後は禅宗と浄土教が隆盛する。スリランカへの仏教伝来は前3世紀中葉で以後,多くの変遷をへて,11世紀以後に東南アジアに広く南方仏教が伝播した。チベットでも7世紀の伝来以降,独自の展開をたどり,チベット仏教の影響はモンゴル,中国北方地域からシベリアに及ぶ。このように仏教は,地域・時代によって多様に異なり,社会・国家とも複雑にかかわりながらアジア諸民族の歴史のうえで大きな役割を果たしてきた。
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… 宗教面にもこの地域の多様性は容易に見てとれる。インドを例にとると,ヒンドゥー教,シク教,ジャイナ教,仏教があり,またそのほかに各部族のそれぞれの宗教形式がある。中世以降に流入,伝播したものは,イスラムとキリスト教がおもなものである。…
…しかしインドへ移入されてインド的展開を遂げたイスラムなど外来の哲学・宗教思想もまた含められるべきであろう。仏教国である日本では,明治時代以降〈印度哲学〉と表記され,〈仏教(学)〉の同義語として用いられる場合もあるが,ここでいう〈インド哲学〉は,インド仏教を,数多くの諸体系の一つとして包括している。この場合の〈インド〉は今日のインド(バーラト)のみならず,その近隣諸国をも含む〈インド亜大陸〉といわれる地域を指す。…
… 魏晋南北朝はまた宗教の時代でもあった。周代以来の社稷・宗廟の祭祀とは質を異にする道教と仏教が人々の心をつかんだ。中国固有と外来の相違はあるが,個人の至福をねがう普遍宗教である点で両者は共通していた。…
…この場合,信仰は人格的対象をもち,かつ現実の生の困難にたえて神への要請にこたえる行為とされるのであるが,信仰があまりにも一点に集中しているため,〈信仰の自由〉や〈信仰と文化〉の問題が起こることはほとんどないのである。仏教では〈信心〉が出発点で,それが仏法の知恵と悟りにまで高められることを目的として進み,その過程で世界と人間の罪業の深きを知り,因縁の深さに打たれると説かれる。信心の究極は仏となることにあり,この本願に導かれることが信仰であるといえる。…
…この時代では儒教の《易経》と《老子》《荘子》を合わせて三玄とよび,その学問を玄学とよんだが,知識人の教養としては儒学よりは玄学の比重が圧倒的に大きくなった。 またこれとともに注目すべきことは,この時代になって初めて仏教が知識人の関心をひくようになったことである。その際仏教が六朝の知識人の心をとらえたのは,第1点は仏教の根本義である〈空〉が老荘の〈無〉に通ずるものをもつこと,第2点は従来の中国にはまったくなかった輪廻(りんね)説,三世報応説をもたらしたことである。…
…このため後漢の儒学には哲学的な発展が見られなかったが,ただ後漢初の王充の《論衡》は,その無神論的な立場から当時の俗信を徹底的に批判したのが注目される。
[六朝時代]
後漢につづく400年間の六朝は,漢代の哲学不毛の時代とは対照的に,老荘や仏教を中心として哲学的関心が著しく高まった時期である。まずそれは老荘思想の流行となって現れる。…
…また東都の洛陽を神都と改めて事実上の首都とし,官庁名と官職名の改称をも行った。〈則天文字〉とよばれる新字さえも制定した武后は,儒教で理想とされた古代の周王朝を再現することをスローガンとするとともに,当時,中国社会に広範に受容されてきた仏教ムードを巧みに利用して,《大雲経》という仏典に付会した文章を捏造(ねつぞう)させ,武后の即位が仏の意志に合致するのだと宣伝し,いわゆる〈武周革命〉を起こして,ついに皇帝となり,国号を周と改めた。中国史上,女性で皇帝となったのは,ただこの則天武后すなわち則天皇帝のみである。…
…◎―文化の諸分野については,〈口承文芸〉〈日本文学〉〈日本美術〉〈日本建築〉〈日本音楽〉〈演劇〉〈芸能〉〈能〉〈狂言〉〈歌舞伎〉〈新劇〉〈日本映画〉など。◎―宗教については,〈宗教〉〈神〉をはじめ〈神道〉〈仏教〉〈民間信仰〉〈新宗教〉など。◎―生活文化については,衣では〈服装〉〈着物〉,食では〈食事〉〈日本料理〉,住では〈住居〉〈日本建築〉など。…
※「仏教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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