精選版 日本国語大辞典 「代官」の意味・読み・例文・類語
だい‐かん ‥クヮン【代官】

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本来は本官を代理する人の呼称。中世以降は所領を預り年貢収納をつかさどる者を代官と称したが、江戸時代では幕府、諸藩の直轄地の行政、治安を担当した地方官をいう。鎌倉時代から地頭代(じとうだい)(地頭の代官)の一般的呼称となったが、戦国期や豊臣(とよとみ)政権下では蔵入地(くらいりち)(直轄領)の年貢収納や水利土木の管理、軍事物資の調達に重要な役割を果たすようになった。江戸幕府初期には、関東を中心に代官頭(だいかんがしら)(伊奈忠次(いなただつぐ)、大久保長安(おおくぼながやす)、彦坂元正(ひこさかもとまさ)ら)の下に代官がおり、畿内(きない)、近江(おうみ)には豪商代官が存在したが、多くは地方巧者(じかたこうしゃ)が任ぜられ、その数も70名に及んだ。幕藩制社会の確立(寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)~元禄(げんろく)期)過程で、これらの世襲的・年貢請負人的な代官の多くは年貢滞納や不正を理由に失脚し、1725年(享保10)代官所経費支給仕法の改正により、各代官所で民政を担当する貢租徴税官へ改変した。
幕府代官は勘定奉行(かんじょうぶぎょう)に属し、旗本から任命され5~10万石を支配したが、中期以降には、主として勘定所役人のほか、農民や代官所の属僚からも抜擢(ばってき)された。しかし、その数は40~50名に減少し、検地・検見(けみ)・年貢収納、灌漑(かんがい)・治水、人別や五人組の差配などの地方行政、治安、検察にあたった。全国的に分布した各代官所においては、属僚には十数名の手付(てつき)、手代(てだい)、書役などを江戸と任地に勤務させ事務処理にあたらせ、鉱山には地役人(じやくにん)を置いた。代官の役高は150俵で、ほかに江川(えがわ)(伊豆(いず)の韮山(にらやま))、多羅尾(たらお)(近江の信楽(しがらき))、角倉(すみのくら)(京都)、高木(長崎)など世襲代官もいた。藩の代官はおもに郡代や郡奉行(こおりぶぎょう)のもとに置かれ、村方を支配し、年貢収納や宗門改(しゅうもんあらため)や検地奉行を兼務し、郡単位に民政を担当し、侍代官(さむらいだいかん)や在郷代官とも称し、規模や権限も小さかった。
[村上 直]
『村上直著『天領』(1965・人物往来社)』▽『村上直著『江戸幕府の代官』(1983・国書刊行会)』▽『村上直・荒川秀俊編『江戸幕府代官史料』(1975・吉川弘文館)』▽『村上直編『江戸幕府郡代代官史料集』(1981・近藤出版社)』
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1中世に,代理人・代務者の意味で広く使われた言葉。たとえば源頼朝の命をうけて平家追討にむかった源範頼・同義経は鎌倉殿御代官と称される。一般には守護代・地頭代・預所代・公文(くもん)代・政所代のようによばれた。代官の代官は又代官という。「御成敗式目」14条によれば,地頭代が本所の年貢を抑留した場合,その罪は地頭正員(しょういん)にも及ぶとされた。従者の罪を主人にかけないのが中世法の原則なので,地頭代は正員の従者ではなく分身とみなされたと考えられる。荘園では,荘園領主から荘務を任された者を代官とよんだ。
2近世,幕府や諸藩で農村支配のためにおかれた役人。幕府では,はじめ60人程度の代官がそれぞれ5万~10万石の幕領を管轄して,年貢徴収,法令伝達,戸口把握,訴訟の受理と審理,軽犯罪の処断のほか,場所によっては鉱山・山林の管理をも行った。享保期以降は,勘定所官僚としての性格を強め,数年で任地がかわることが多く,役高150俵程度で旗本の役職としては下位に属した。実務は,手付・手代という下級役人が地方・公事方にわかれて行った。諸藩では,一般的には郡代・郡奉行などの下で,管轄地域の農政を行った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…大目付は使番(巡見使や国目付はこの役の者から任命された)とともに,将軍本営の命令を出先の部隊に伝え,かつその実施を監察するのがその本来の機能であり,それが平時の行政上の伝達系統に転用されたのである。 幕府直轄地の支配はそれぞれの奉行や代官が行ったが,近畿地方では所司代を中心とした国奉行が,また一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。このほかに公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた。…
…吉宗は実学を好み,朝鮮人参国産化を奨励,21年全国の人口調査を開始,実益ある意見を期待し目安箱を設置,翌年小川笙船の投書により小石川養生所を設け,困窮者・孤独者の治療に当たった。
[行政機構の改革]
1716年吉宗は鷹狩を復活,18年江戸近郊の鷹場を再編強化,代官配下の鳥見による幕領私領の統一的検察による支配体制補強を図った。1717年大岡忠相を町奉行に登用し22年関東地方(じかた)御用掛を兼任させた。…
…戦国大名領には,大名が家臣である給人(きゆうにん)に与える知行地のほかに,直轄領の蔵入地があり,大名の主要財源となっていた。直轄領には代官をおき,年貢の収納や諸役の徴収をさせていた。個々の大名によって直轄領の規模は異なるが,直轄領を増加させるために他国への侵略を繰り返し,占領地はまず直轄化し,その後に新しい給人に知行地として配分していった。…
…江戸幕府代官所,大名預所ごとに代官の勤務考課のため毎年作成し,将軍・老中・勘定所の検閲を受ける帳面。1733年(享保18)創始。…
…綱吉は老中執務の慣例を改め,1680年8月堀田正俊に財政専管を命じ,その下に直轄領統治の協議組織を設け,82年(天和2)には勘定吟味役を創置して勘定方役人の中から実務熟達者を抜擢(ぱつてき)し,勘定奉行を補佐させるとともにその監視に当たらせた。その成果としてとくに顕著なのは,大量の代官が勤務不良の理由で処分されたことであり,その結果中世以来の系譜をもつ土豪的年貢請負人的代官が多数ここで没落し,徴租官僚的代官と交替した。 これらの施策は幕政史上一期を画すると評価しうるものであり,〈享保改革〉の前駆的意義も認められる。…
…人返し令は江戸出稼人の帰農を奨励し,新たに農村から江戸へ移住することを禁止するなど,農村の労働力を確保することを目的とし,同時に江戸市中の貧民の増大を防ごうとしたものである。 41年には近江の幕領で新開地(しんがいち)の検地を計画したが,農民の反対一揆によって中止となり,このあと幕府は,改革の重点を代官所支配の整備においた。当時は,幕領の代官は江戸在住のまま1,2年で交替するため農政を十分に見ることができなかったので,これを改めて代官に陣屋在住を命じ,10年未満の任地異動を許さないこととした。…
…村役人は身分的には本百姓であって,それ自身としてはなんらの武力機構をもたなかった。幕府領の場合,村を直接に統治していたのは代官(身分は旗本)であった(老中―勘定奉行―代官―村となる)。しかし,代官が実際に廻村することはめったになく,代官は村役人と文書を通して村支配を行っていた。…
※「代官」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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