生没年不詳。近世剣術の一大流派である一刀流の祖。名は弥五郎、のち景久(かげひさ)、一刀斎と号した。その伝記は不明なところが多く、通説では姓を伊東とし、生国を伊豆としているが、近江(おうみ)堅田(かたた)(滋賀県大津市)や加賀金沢、さらに越前(えちぜん)敦賀(つるが)などの諸説があり、没地についてもまちまちである。富田(とだ)流三家(山崎、長谷川(はせがわ)、印牧(かねまき))の一、鐘捲自斎(かねまきじさい)(別名、外他通家(とだみちいえ))に従って中条流刀槍(とうそう)の術を学び、その精妙を究めたが、やがて回国修業に出て、天正(てんしょう)年間(1573~92)関東に下って流儀の弘布(こうふ)に努めた。門弟のうち、相州小田原・北条氏の臣、古藤田勘解由左衛門俊直(ことうだかげゆざえもんとしなお)(唯心一刀流の祖)、および上総(かずさ)万喜(まんぎ)氏の臣、神子上典膳(みこがみてんぜん)(のち小野次郎右衛門忠明(ただあき))の両名が傑出し、彼らに払捨刀(ほっしゃとう)、刃引(はびき)、相小太刀(こたち)などの秘伝を授けたという。その後の動静もまったく不明であるが、一説に帰西して敦賀の大谷刑部少輔吉継(よしつぐ)に仕え、関ヶ原の戦いに参加したというが、確証はない。
[渡邉一郎]
一刀流剣術の祖。名は景久。幼名は前原弥五郎。剣豪で知られるが,経歴は不明確である。生国についても伊豆伊東,伊豆の大島,江州堅田,加賀金沢など定説がない。生没年についてもいくつかの説があるが確証はなく,それだけに伝説や逸話が多い。一刀斎は我流の剣法であったが,富田流の鐘捲自斎(かねまきじさい)に学び一刀流を創始したといわれ,全国を周遊して真剣勝負をなすこと33回,敵をたおすこと57人と伝えられる。鎌倉八幡宮で無意識のうちに人を切り夢想剣を開悟したとか,愛妾と酒を飲み,蚊帳の中で寝ている間に裏切った愛妾が刀を持ち出し,賊を招き入れ襲われるが,相手の刀を奪って危地を切り抜け仏捨刀(ふしやとう)を編み出したなどの俗説は有名である。弟子の神子上(みこがみ)典膳(小野忠明)と小野善鬼が決闘して,勝った典膳に一刀流の道統を伝え,その後一刀斎の行方はわからない。一刀流とは,万物一より始まり,一刀より万化して一刀に治まり,また一刀より起こる理からであるといわれる。
執筆者:中林 信二
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(藤堂良明)
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…剣術の代表的流派。流祖は伊藤一刀斎景久で,戦国末期ころ,富田流の鐘捲自斎(かねまきじさい)に学び創意くふうを加えて創始したという。一刀流は,門弟小野忠明のとき,徳川将軍指南の流儀として柳生新陰流とともに重きをなし,全国的に隆盛であった。…
…上総国(千葉県)出身。24~25歳のころ伊藤一刀斎の弟子となり一刀流の道統を継いだ。1593年(文禄2),見込まれて徳川家康の家人となり,柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の師範となって小野姓に改めた。…
※「伊藤一刀斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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