伊藤野枝(読み)イトウノエ

デジタル大辞泉 「伊藤野枝」の意味・読み・例文・類語

いとう‐のえ【伊藤野枝】

[1895~1923]婦人運動家。福岡の生まれ。平塚らいてうらの青鞜社に加わり、婦人解放運動参加大杉栄結婚し、夫とともにアナーキズム運動に従事。大正12年(1923)の関東大震災直後、憲兵甘粕あまかす大尉夫らとともに殺された。→甘粕事件

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精選版 日本国語大辞典 「伊藤野枝」の意味・読み・例文・類語

いとう‐のえ【伊藤野枝】

  1. 婦人運動家。福岡県生まれ。平塚らいてうら青鞜社に加わり、婦人解放運動に参加。無政府主義者で、関東大震災直後に、夫大杉栄らとともに憲兵大尉甘粕正彦により殺された。明治二八~大正一二年(一八九五‐一九二三

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百科事典マイペディア 「伊藤野枝」の意味・わかりやすい解説

伊藤野枝【いとうのえ】

婦人運動家,アナーキスト。福岡県出身。東京上野女学校を卒業後,親の決めた結婚を拒み同校の英語教師辻潤と結婚,青鞜社に入る。1915年以降は《青鞜》の事実上の責任者として女性解放運動に参加。このころより大杉栄に接近,1916年同棲してアナーキズム運動,労働運動推進。1923年関東大震災時に甘粕(あまかす)大尉に殺された。→甘粕事件
→関連項目甘粕正彦ゴールドマン赤瀾会

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改訂新版 世界大百科事典 「伊藤野枝」の意味・わかりやすい解説

伊藤野枝 (いとうのえ)
生没年:1895-1923(明治28-大正12)

婦人運動家,アナーキスト。福岡県糸島郡今宿村の貧しい瓦職人の家に生まれ,親類の援助で東京上野女学校を卒業。親の決めた結婚を拒んで出奔し同校の英語教師辻潤と結婚。また結婚問題を通じて家族制度の矛盾を痛感し,平塚らいてうを中心とする青鞜社に参加,著作活動で〈新しい女〉の一人となった。1915年後期《青鞜》を主宰,アナーキストの大杉栄に近づき弱者の正義に生きようと,16年,夫と子を捨て世間の非難をこえて彼と同棲し,《文明批評》《労働運動》などを共に編集する。また労働運動にも参加,赤瀾会の結成に加わった。関東大震災直後の9月16日おいの少年と大杉とともに憲兵大尉甘粕正彦に虐殺された(甘粕事件)。わずか28歳の生涯で3度結婚し7人の子を産み,多くの評論,翻訳などを残した。《伊藤野枝全集》2巻(1970)がある。
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20世紀日本人名事典 「伊藤野枝」の解説

伊藤 野枝
イトウ ノエ

大正期の婦人運動家,評論家



生年
明治28(1895)年1月21日

没年
大正12(1923)年9月16日

出生地
福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市)

本名
伊藤 ノヱ(イトウ ノエ)

学歴〔年〕
上野高女〔明治45年〕卒

経歴
明治42年上京、上野高女4年に編入。そこで辻潤を知り同棲。その影響のもと大正2年青鞜社に入り、4年には「青鞜」の編集を担当、のち主宰の平塚らいてうに代わり発行責任者となり、女性の封建的地位の打破に努めた。この間、辻潤のもとを去って大杉栄と同棲し、5年世紀のスキャンダル・日蔭茶屋事件によってジャーナリズムから総攻撃を受ける。同年大杉栄と結婚して無政府主義活動に入り、「文明批評」を創刊。12年9月大杉栄とともに憲兵大尉甘粕正彦によって虐殺された(甘粕事件)。28年の短い生涯の間、7人の子どもを産む(大杉との間に5人)かたわら、ゴールドマン「婦人解放の悲劇」の翻訳のほか、創作・評論を意欲的に発表。「伊藤野枝全集」(全2巻 学芸書林)、「定本伊藤野枝全集」(全4巻 学芸書林)がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊藤野枝」の意味・わかりやすい解説

伊藤野枝
いとうのえ

[生]1895.1.21. 福岡
[没]1923.9.16. 東京
無政府主義者。東京上野高等女学校を卒業後辻潤と結婚。結婚問題を通して家族制度に疑問をいだき,平塚らいてうらの青鞜社に入って『青鞜』の編集に参加した。大杉栄やエマ・ゴールドマンの影響を受けて無政府主義者となる。1916年大杉と交際にいたったことから,大杉の妻および神近市子と四角関係になり,神近は葉山日蔭茶屋で大杉を刺して重傷を負わせ,これは日蔭茶屋事件として知られることとなった。以後大杉とともに活動を続けたが,関東大震災直後の 1923年9月16日,憲兵大尉甘粕正彦により,憲兵隊内で大杉とともに殺害された。(→アナーキズム

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朝日日本歴史人物事典 「伊藤野枝」の解説

伊藤野枝

没年:大正12.9.16(1923)
生年:明治28.1.21(1895)
明治大正期の女性解放思想家。福岡県糸島郡今宿(福岡市)生まれ。周船寺高小卒業後,地元の郵便局に勤務。明治42(1909)年暮上京し,上野高女4年に編入。そこで辻潤と知る。大正1(1912)年卒業後,いったん帰郷し,結婚するが,すぐに家制度に反発して出奔。辻と同居,結婚する(画家の辻まことは長男)。2年『青鞜』に参加。4年には編集を担当,創作や評論も執筆するが,女性蔑視の批判にも堪え,権威の否定や女性の自立を訴えた。この間大杉栄と知り,『青鞜』の廃刊(1916)後,同居。その年大杉は恋愛のもつれから神近市子に刺される。以後野枝は大杉と結婚,思想と行動を共にした。『文明批評』『労働運動』などの刊行にも協力。10年赤瀾会にも名を連ねた。12年関東大震災の混乱の最中に大杉らと共に軍部に虐殺された。<著作>『クロポトキン研究』『乞食の名誉』『二人の革命家』(いずれも大杉との共著),『伊藤野枝全集』<参考文献>岩崎呉夫『炎の女』

(小松隆二)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊藤野枝」の意味・わかりやすい解説

伊藤野枝
いとうのえ
(1895―1923)

無政府主義者。明治28年1月21日福岡県に生まれる。東京の私立上野高等女学校を卒業後、郷里で親の決めた結婚をするが、9日目に婚家を出て再上京、上野高女時代の教師辻潤(つじじゅん)のもとに身を寄せる。ついで青鞜社(せいとうしゃ)に入社して文筆活動に加わり、1915年(大正4)からは平塚らいてうにかわって『青鞜』の編集にあたった。この間著名なアナキスト、エマ・ゴールドマンに傾倒するようになり、16年『青鞜』を放棄するとともに、辻潤と別れて大杉栄(さかえ)と同棲(どうせい)、無政府主義者として21年赤瀾会(せきらんかい)結成に参加するなどの活動を続けた。23年関東大震災に際し、大杉栄、甥(おい)の橘宗一(たちばなむねかず)とともに憲兵大尉甘粕正彦(あまかすまさひこ)により虐殺された。

[米田佐代子]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊藤野枝」の解説

伊藤野枝
いとうのえ

1895.1.21~1923.9.16

大正期の婦人運動家・アナーキスト。福岡県出身。東京の上野女学校卒業後,英語教師だった辻潤(つじじゅん)と同棲。1913年(大正2)青鞜(せいとう)社に参加,「青鞜」編集に従事。アナーキスト大杉栄と恋愛関係となり,16年の日蔭茶屋事件ののち同棲,4女1男を生んだ。21年山川菊栄らと赤瀾(せきらん)会を結成したが,関東大震災のとき大杉とともに憲兵大尉甘粕(あまかす)正彦らに虐殺された。「伊藤野枝全集」全2巻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤野枝」の解説

伊藤野枝 いとう-のえ

1895-1923 大正時代の無政府主義者。
明治28年1月21日生まれ。母校上野高女の教師辻潤と同棲(どうせい)。大正2年平塚らいてうらの青鞜(せいとう)社にはいり,のち「青鞜」誌を主宰した。5年大杉栄と同棲し無政府主義運動をすすめるが,関東大震災直後の大正12年9月16日憲兵大尉甘粕(あまかす)正彦らに虐殺された。29歳。福岡県出身。本名はノヱ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伊藤野枝」の解説

伊藤野枝
いとうのえ

1895〜1923
大正時代の女性運動家
福岡県の生まれ。青鞜社に参加して女性解放運動に活躍。のち内縁の夫大杉栄とともに,アナーキズム運動を推進。関東大震災に際して大杉栄とともに殺害された。

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367日誕生日大事典 「伊藤野枝」の解説

伊藤 野枝 (いとう のえ)

生年月日:1895年1月21日
大正時代の婦人運動家;無政府主義者
1923年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の伊藤野枝の言及

【甘粕事件】より

…関東大震災後の1923年9月16日に東京憲兵隊麴町分隊長甘粕正彦らが無政府主義者大杉栄らを計画的に殺害した事件。大震災による戒厳令のもとで亀戸事件など軍隊・警察による社会主義者迫害が続いたが,甘粕は東京憲兵隊特高課の森慶次郎曹長と大杉を探索し,この日大杉が妻伊藤野枝と神奈川県鶴見に弟の勇を見舞い,7歳のおい橘宗一をつれて帰宅するところを東京憲兵隊本部に連行し,3人を絞首し,死骸を構内の古井戸に埋めさせた。大杉が行方不明になると,新聞記者らの活動が始まったため,軍部も隠しきれず,20日に甘粕と森を軍法会議に送り,福田雅太郎戒厳司令官の更迭,小泉六一憲兵司令官と小山介蔵東京憲兵隊長の停職を発表した。…

【大杉栄】より

…13年,サンジカリズム研究会を開催し,活動を活発化していく。また,神近市子,伊藤野枝と恋愛関係におちいり,16年神奈川県葉山町の日蔭茶屋で神近に刺される。その後,保子と別れ,野枝と一緒になる。…

【ゴールドマン】より

…しかしロシア革命の現実に幻滅し,21年ソ連を去り,以後イギリス,フランス,カナダなどに居住し,スペイン内戦に際しては共和派支援に活躍した。なお,ゴールドマンは大逆事件に対する国際的な抗議キャンペーンの先頭に立ち,また伊藤野枝ら日本のアナーキストにも敬愛された。【野村 達朗】。…

【青鞜】より

…小説,短歌,翻訳などが主だが,社則に〈女流文学の発達を計り他日女流の天才を産む〉ことを目的とすると述べ,また創刊号に女性解放のシンボルともいうべき〈元始女性は太陽であった〉という平塚らいてうの文を載せた。反響は大きく,翌年神近市子,尾竹一枝,伊藤野枝らが参加,発行部数1000を約3倍に増した。女性の自我の覚醒と解放を求めたこれらの人々は〈青鞜派〉と呼ばれるようになった。…

【赤瀾会】より

…設立世話人は,堺真柄(さかいまがら),九津見房子,橋浦はる子,秋月静枝の4人。顧問格で山川菊栄と伊藤野枝が加わった。綱領に〈私達は私達の兄弟姉妹を窮乏と無智と隷属とに沈淪せしめたる一切の圧制に対して断乎として宣戦を布告するものであります〉とうたい,活発な街頭活動を展開した。…

【辻潤】より

…1902年私塾教師のかたわら,自由英学舎で巌本善治,新渡戸稲造らに学ぶ。09年上野女学校英語教師となるが,12年教え子伊藤野枝との恋愛で教職を追われた。16年妻野枝が家出をして大杉栄と同棲すると,比叡山の宿坊に入り,以後,酒を飲み尺八を吹くなどの放浪生活を続けながら翻訳をする。…

※「伊藤野枝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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