江戸末期の儒学者で水戸学の代表的思想家。名は安(やすし)、字(あざな)は伯民(はくみん)、通称恒蔵(つねぞう)、号は正志斎、憩斎(けいさい)。天明(てんめい)2年5月25日常陸(ひたち)国久慈(くじ)郡諸沢(もろざわ)村(茨城県常陸大宮市諸沢)に生まれる。10歳で藤田幽谷(ふじたゆうこく)に学び、彰考館(しょうこうかん)写字生となる。1807年(文化4)、当時5歳であった後の藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の侍読(じどく)を務め、1824年(文政7)イギリス人常陸大津浜上陸事件の尋問にあたり、翌1825年尊王攘夷(そんのうじょうい)運動の聖典といわれる『新論』を著述した。幽谷の没後、彰考館総裁代理となる。藩主斉脩(なりのぶ)(1797―1829)の相続問題が起こると斉昭擁立に奔走。1829年斉昭就任後、郡奉行(こおりぶぎょう)、通事(つうじ)、調役(しらべやく)、彰考館総裁を歴任、1840年(天保11)弘道館教授頭取(とうどり)となる。ペリー来航に際し和議の非を説いたが、1858年(安政5)修好通商条約調印後、井伊大老の非をつく戊午(ぼご)の密勅が水戸藩に下るや、幕命を体して勅書の伝達を中止し、これを幕府に返納すべきことを主張した。桜田・坂下両門外の変に際しては御三家家臣の身分秩序を超える反逆の行為と論断、ついで1862年(文久2)一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に「時務策」を呈して開国のやむをえないことを献言し、尊攘派と鋭く対立、藩内激派に対する鎮派の中心人物とみなされるに至った。この年馬廻頭(うままわりかしら)上座となり、翌文久(ぶんきゅう)3年7月14日82歳で没した。
[山口宗之 2016年4月18日]
『『水戸学大系 会沢正志斎集』(1941・水戸学大系刊行会)』▽『西村文則著『会沢伯民』(1938・大都書房)』▽『高須芳次郎著『会沢正志斎』(1942・厚生閣)』▽『瀬谷義彦著『会沢正志斎』(1942・文教書院)』▽『山口宗之著『幕末政治思想史研究』(1968・隣人社/改訂増補・1982・ぺりかん社)』
後期水戸学の大成者。名は安,字は伯民,正志斎は号。水戸藩下級士族の子。藤田幽谷に師事し,彰考館に入り《大日本史》編纂に携わるかたわら,斉昭ら藩主の子の侍読を務める。1825年(文政8)主著《新論》を著し,尊王・攘夷を鼓吹する。29年8代藩主斉修が死に継嗣問題が起こると,藤田東湖らとともに斉修の弟斉昭の擁立に奔走する。斉昭襲封後は藩政改革派の中心となり,郡奉行,御用調役,彰考館総裁を歴任,また藩校弘道館の創設に尽力し初代の総教(教授頭取)となる。44年(弘化1)の斉昭失脚後は不遇となり,46-49年蟄居させられる。53年(嘉永6)のペリー来航とともに斉昭が政治的発言権を復すると,弘道館総教に復し,本禄250石,役料200石をうける。58年(安政5)水戸藩への密勅をめぐり藩内の対立が高まると,尊攘激派を鎮圧する側にまわり,62年(文久2)の《時務策》では書生的攘夷論を批判し,時勢上開国はやむをえぬと説く。幽谷の忠実な弟子である正志斎は同様に実践的で,幕末における内外の危機にまっこうから取り組んだが,幽谷の子東湖ほど政治的手腕はなく,主たる活動は著作と教育の面にあった。学者としての彼は幽谷ほど独創性はないが,師説を組織化し,まとまった形で表現した。水戸学が藩外へ広がるのは彼の著作に負う点が大きく,真木保臣や吉田松陰など崇拝者が全国から彼の下へ訪れた。彼の思想は儒教を基礎とし,儒学を経世実用の学に立て直そうとする一方,神道ないし国学を導入し,神儒折衷の上に,尊王(国体)・攘夷の理論を打ち出した。これは1850年代末からの尊攘運動にうけ継がれ,反幕的なものに転回されるが,正志斎自身では,尊王攘夷は幕藩体制の基本秩序を再建することをねらいとしていた。尊攘運動の高揚に面して,彼がそれに対立し,幕府による開国を追認するようになるのは,このためである。著書は時務論から経学上の著作まで多数あるが,《下学邇言(じげん)》《迪彝(てきい)篇》《及門遺範》などが著名である。
執筆者:植手 通有
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(鈴木暎一)
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1782.5.25~1863.7.14
江戸後期の儒学者。常陸国水戸藩士。父は恭敬。名は安(やすし),字は伯民,通称は恒蔵。正志斎は号。水戸生れ。藤田幽谷(ゆうこく)に儒学を学び,彰考館で「大日本史」編纂に従事。23歳で徳川斉昭(なりあき)ら諸公子の侍読となる。1824年(文政7)藩領へのイギリス人船員上陸に遭遇し対外的危機感を深め,翌年「新論」を著して国体神学にもとづく富国強兵論と民心統合策を体系的に提示。29年藩主の継嗣問題では斉昭擁立派として活躍。藩主斉昭のもとで郡奉行・彰考館総裁を歴任し,藩校弘道館の初代総教(教授頭取)にも就任。尊王攘夷思想の体系的提唱者として幕末の志士に影響を与えた。58年(安政5)の戊午(ぼご)の密勅をめぐる藩内対立では,鎮派として尊攘激派の武力弾圧を主張した。著書「下学邇言(かがくじげん)」。
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…後期水戸学の大成者会沢正志斎の主著。1825年(文政8)成稿。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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