日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐々友房」の意味・わかりやすい解説
佐々友房
さっさともふさ
(1854―1906)
明治期の政治家。肥後藩士佐々陸助・綾子の次男として、嘉永(かえい)7年1月23日熊本に生まれる。幼名寅雄、坤次。号は克堂、鵬洲。藩校時習館(じしゅうかん)に学ぶ。1874年(明治7)白川県等外二等出仕となるが、1か月にして辞す。1877年西南戦争に熊本隊員として参加、転戦負傷、懲役10年の刑に処せられた。1880年特別放免。翌1881年有志と紫溟会(しめいかい)を結成、「勤王」「国権拡張」を唱えた。1889年熊本国権党を組織し、副総理となる。同年の大隈重信(おおくましげのぶ)外相の条約改正に対する反対運動では、谷干城(たにかんじょう)、浅野長勲(あさのながこと)らを中心に結成された日本倶楽部(くらぶ)派として活動した。第1回総選挙で衆議院議員に当選、以後連続当選。中央政界においては、実業振興、国権拡張、対外進出を唱えて、超然主義派、武断派との連携策をとり民党派に対抗した。党派としては、中央交渉部、国民協会、帝国党、大同倶楽部に属した。明治39年9月28日没。
[酒田正敏]
『佐々克堂先生遺稿刊行会編『克堂佐々先生遺稿』(1936・改造社)』