幕末の蘭方医(らんぽうい)。出羽(でわ)国(山形県)出身の旗本、佐藤藤佐(とうすけ)(1775―1848)の子として稲毛(いなげ)(川崎市)で生まれ、江戸で育った。幼名は田辺昇太郎、長じて和田泰然と称し、紅園と号す。27歳のとき、蘭方医を志して足立長雋(ちょうしゅん)の門に入り、1835年(天保6)から3年間長崎に遊学し、オランダ館長ニーマンJohannes Erdewin Niemann(1796―1850)や通詞出身の医師大石良逸、楢林栄建(ならばやしえいけん)に学ぶ。江戸に帰って医師を開業し、門弟を集めて和田塾と称した。1843年、老中堀田正睦(ほったまさよし)の領国の佐倉(千葉県佐倉市)に移り、名を佐藤泰然と改め、順天堂をおこし、多数の門弟を養成した。鼠径(そけい)ヘルニア手術、乳癌(にゅうがん)切除術、そして日本で最初の卵巣嚢腫(のうしゅ)摘出などの手術を無麻酔下に行うなど、実地外科に腕を振るったほか、オランダ医書を翻訳し、『接骨備要』『謨私篤(モスト)牛痘篇(へん)』『痘科集成』を著したが、出版はされなかった。佐倉順天堂はのちに順天堂医院、順天堂大学へと発展した。
[澤野啓一]
江戸時代末期の医師・外科医,佐倉順天堂の創始者。武蔵国川崎在に生まれる。はじめ田辺庄右衛門と称したが,蘭方医足立長雋(ちようしゆん)の門に入り,さらに長崎に遊学するに際し和田泰然と名を改め,蘭館長J.E.ニーマンに教えを受ける。1838年(天保9)江戸に帰り日本橋薬研堀に医業を開く。43年下総国佐倉に移り,姓を佐藤と改めて,〈順天堂〉を創始し,西洋医学による医学教育と医療を行った。順天堂は日本最初の私立病院として知られ,また彼は外科に優れ,紀伊の華岡,佐倉の佐藤と並び称され,外科の二大家とされた。53年(嘉永6)佐倉藩の藩医となり,医学面のほか兵制・外交問題などについても提言するなどの活躍をなした。59年(安政6)養嗣子の佐藤尚中にあとを継がせて,62年(文久2)横浜に移り,J.C.ヘボンらと交友があったが,のち東京に移って同地で死亡。子に松本良順,林董(ただす)がある。訳著に《謨斯篤牛痘編》《痘科集成》がある。
執筆者:長門谷 洋治
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(酒井シヅ)
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1804~72.4.10
幕末・維新期の蘭方医,佐倉順天堂の創始者。名は信圭(のぶかど),号は紅園。武蔵国川崎生れ。1830年(天保元)医術を志し,蘭方医の足立長雋(ちょうしゅん),さらに高野長英に学んだ。長崎に遊学し蘭医ニーマンの指導をうける。38年江戸に帰り,両国薬研堀(やげんぼり)に開業。43年下総国佐倉藩主堀田正睦(まさよし)に招かれ,佐倉に日本初の私立病院とされる順天堂を開き,医学教育と治療にあたった。59年(安政6)引退。62年(文久2)横浜に移り,アメリカ人医師ヘボンらと交遊した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…華岡流外科は中国式とオランダ式の折衷であったが,西洋外科学の直接の導入は,大槻玄沢によるハイスターL.Heisterの外科書の翻訳やP.F.vonシーボルトの外科書の日本語への翻訳による。当時の外科医としては青洲の門弟の本間棗軒(そうけん)や,順天堂をおこした佐藤泰然らが知られる。1853年(嘉永6)のペリーの黒船到来前後から幕府は西洋の軍事技術とともに西洋医学をも導入すべく努めるようになり,57年(安政4)にはオランダ海軍軍医のポンペを海軍伝習所医官として長崎に招いて西洋医学の講義を行わしめた。…
…佐藤泰然が開いた病院と医学塾。江戸両国薬研堀で西洋外科の医学塾を開いていた佐藤(和田)泰然が,1843年(天保14)8月に下総佐倉(現,千葉県佐倉市)に移住し,佐倉藩の客分として佐倉本町に私立病院と学塾を設け順天堂と称した。…
…江戸で生まれる。蘭方医佐藤泰然の次男で,幕府の奥医師松本良甫の養子となる。号は蘭疇(らんじゆ)。…
※「佐藤泰然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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