修学院離宮(読み)しゅがくいんりきゅう

精選版 日本国語大辞典 「修学院離宮」の意味・読み・例文・類語

しゅがくいん‐りきゅう ‥ヰン‥【修学院離宮】

京都市左京区、比叡山西側のふもとの斜傾地にある離宮。旧後水尾上皇山荘万治二年(一六五九落成。上(かみ)茶屋、中(なか)の茶屋、下(しも)の茶屋の三つからなる。窮邃(きゅうすい)軒、隣雲亭、楽只(らくし)軒などの茶亭書院などの建物もち、中の茶屋客殿の霞棚(かすみだな)桂離宮、醍醐寺三宝院と共に三棚の一つ。しゅうがくいんりきゅう。すがくいんりきゅう。

しゅうがくいん‐りきゅう シウガクヰン‥【修学院離宮】

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デジタル大辞泉 「修学院離宮」の意味・読み・例文・類語

しゅがくいん‐りきゅう〔シユガクヰン‐〕【修学院離宮】

京都市左京区の比叡山西麓にある離宮。旧後水尾上皇山荘。かみなかしもの各茶屋に分かれ、庭園美で知られる。しゅうがくいんりきゅう。

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日本歴史地名大系 「修学院離宮」の解説

修学院離宮
しゆがくいんりきゆう

[現在地名]左京区修学院〈赤山・林ノ脇・室町〉

比叡山西麓の雲母坂きららざか登り口に近く、水脈が幾重にも流下する音羽おとわ川扇状地にあり、京都盆地を見下ろす景勝の地にある。後水尾上皇の造営で桂離宮(現西京区)と並ぶ江戸初期の代表的山荘。

禁中並公家諸法度の制定や紫衣事件など幕府の朝廷圧迫政策を不満とし、寛永六年(一六二九)退位した後水尾上皇は、かねて洛北に山荘の地を求めていたが、明暦元年(一六五五)三月一三日、岩倉いわくら(現左京区)長谷殿ながたにどの御幸の途中、第一皇女梅宮(円照寺尼公宮)の修学院村の草庵を訪れ(隔記)、草庵にほど近い上皇の御茶屋隣雲亭りんうんていの辺りを適地と定めたという。造営にあたって上皇が山荘の端々にまで自らの好みを通わせていたことは、後に近衛予楽院が「槐記」享保一九年(一七三四)二月二四日条に、

<資料は省略されています>

と述べていることにうかがわれる。

山荘がほぼ完成したのは万治二年(一六五九)春、「隔記」に四月一四日「於修学院之内之御殿而仙洞御振舞」とあり、仙洞すなわち上皇の御振舞が新離宮であった。

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百科事典マイペディア 「修学院離宮」の意味・わかりやすい解説

修学院離宮【しゅがくいんりきゅう】

京都市左京区修学院町,比叡山の西麓にある離宮。1655年―1659年後水尾上皇(後水尾天皇)が自らの意匠で作った山荘で,桂離宮とともに江戸時代の名園として知られる。上・中・下の三つの茶屋からなり,それぞれ独立した庭園で,小道で連絡している。下の茶屋の寿月観は創建当初の数寄屋風書院造で,池を中心とした庭園をもつ。上の茶屋は最も規模が大きく,比叡山中腹から流れる渓流をせき止めて作った浴竜池を中心とした舟遊びもできる回遊式庭園。高所に隣雲亭があり,池へかけての斜面の常緑樹の大刈込は有名。中の茶屋は楽只(らくし)軒を中心に1668年林丘寺として創立したもの。東福門院の御化粧間を移建した客殿の飾棚は〈霞(かすみ)棚〉と呼ばれる。
→関連項目京都[市]左京[区]借景離宮

修学院離宮【しゅうがくいんりきゅう】

修学(しゅがく)院離宮

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「修学院離宮」の解説

修学院離宮
しゅがくいんりきゅう

現在の京都市左京区,比叡山南西麓の修学院の地に後水尾(ごみずのお)上皇が造営した山荘。1655年(明暦元)着工し,63年(寛文3)までに上(かみ)の御茶屋・下(しも)の御茶屋とよばれる二つの庭園が完成。上の御茶屋には自然の谷川をせきとめて造った大池(浴竜池)の周辺に止々斎(ししさい)・隣雲亭・窮邃亭(きゅうすいてい)の三つの茶屋が設けられ,下の御茶屋には御座所となる寿月観(じゅげつかん)や蔵六庵などの御殿が配置された。70年頃には上皇の皇女朱宮(あけのみや)(のち林丘寺門跡)の御所が設けられ,1824年(文政7)幕府の援助で大規模な改修工事が行われた。明治期以降宮内省の所管となり,隣地の林丘寺境内の一部が移管されて中(なか)の御茶屋となった。

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世界大百科事典 第2版 「修学院離宮」の意味・わかりやすい解説

しゅがくいんりきゅう【修学院離宮】

京都市左京区,比叡山南西麓に近い修学院の地に営まれた後水尾上皇(後水尾天皇)の山荘。上(かみ),中(なか),下(しも)の三つの御茶屋(庭園区)よりなり,松並木の小道で連絡している(江戸時代は畦道)。1655年(明暦1)着工され,上皇みずからの構想のもと,59年(万治2)に下の御茶屋,2年後の61年(寛文1)に上の御茶屋の大池ができ,上皇は理想の山荘を完成させた。ただし中の御茶屋は1884年に林丘寺境内の約半分が離宮に編入されたものである。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「修学院離宮」の意味・わかりやすい解説

修学院離宮
しゅがくいんりきゅう

京都市左京区修学院町に所在。後水尾上皇によって造営され,明暦1 (1655) 年に着工,万治2 (59) 年頃完成。また寛文8 (68) 年に増築された。域内は上,中,下の御茶屋に分れ,それぞれ独立した庭園をもち,山腹の田の畔を伝ってこれらを立体的に楽しめるよう構成している。比叡山麓の傾斜地と豊かな水流を利用した日本庭園としてはまれにみる雄大な構想をもつ。

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家とインテリアの用語がわかる辞典 「修学院離宮」の解説

しゅがくいんりきゅう【修学院離宮】

京都市左京区、比叡山(ひえいざん)の麓(ふもと)に建てられた後水尾(ごみずのお)上皇の別荘(離宮)。17世紀中期に、当代随一の趣味人といわれた上皇がみずから計画に参画し、6年余の歳月をかけて造営。上・中・下の3つの茶屋と、それぞれに付属する庭園からなる。桂離宮(かつらりきゅう)とともに、江戸時代に作られた名庭園として知られる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「修学院離宮」の解説

修学院離宮
しゅがくいんりきゅう

江戸初期,後水尾上皇が京都洛北に営んだ離宮
上皇の設計・意匠により,幕府の援助で造営された。上・中・下三つの茶室に分かれ,山裾の広い傾斜地を生かしてつくられた庭園をもつ。比叡山の西の一角を占め,上の茶屋鄰雲 (りんうん) 亭からの眺めは離宮随一。現在は宮内庁が管理。

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事典 日本の地域遺産 「修学院離宮」の解説

修学院離宮

(京都府京都市左京区修学院室町)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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デジタル大辞泉プラス 「修学院離宮」の解説

修学院離宮

谷口吉郎、佐藤辰三による著作。1956年刊行。1957年、第11回毎日出版文化賞受賞。

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世界大百科事典内の修学院離宮の言及

【離宮】より

行宮(あんぐう)が臨時の施設であるのに対し,恒久的施設である点が異なる。 史上著名な離宮に,古代の吉野宮珍努(ちぬ)宮の両離宮,中世の鳥羽離宮,近世の修学院(しゆがくいん)離宮などがある。吉野宮は《日本書紀》の応神紀に初めてみえ,壬申の乱前の大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)隠棲の地として,特に天武系皇統の行幸がしばしばあった。…

※「修学院離宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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