修道院(読み)シュウドウイン(英語表記)monastery

翻訳|monastery

デジタル大辞泉 「修道院」の意味・読み・例文・類語

しゅうどう‐いん〔シウダウヰン〕【修道院】

キリスト教で、修道士や修道女が一定の戒律のもとに共同生活を営む場所。
[類語]僧院

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精選版 日本国語大辞典 「修道院」の意味・読み・例文・類語

しゅうどう‐いんシウダウヰン【修道院】

  1. 〘 名詞 〙 一定の戒律のもとに、共同生活を営んで修行を積むキリスト教の修道士または修道女の団体。また、その僧院。
    1. [初出の実例]「マシウ・パリスの編纂したセント・アルバンスの修道院(シフダウヰン)の年代記に出てゐる記事であらう」(出典:さまよへる猶太人(1917)〈芥川龍之介〉)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「修道院」の意味・わかりやすい解説

修道院
しゅうどういん
monastery

キリスト教において、神の教えにもっともかなった生活をするべく、特別な誓い(誓願)をたて、一定の戒律にのっとった生活を実践する者を修道士または修道女とよび、彼らの集まって生活する場を修道院という。修道生活はカトリック教会や東方正教会で行われるもので、プロテスタント諸教会ではほとんどみられない。修道者の生活ぶりは各修道会によりさまざまだが、清貧(私有財産の放棄)、貞潔(独身生活)、服従(会の上長者への絶対的服従)の三つの原則的な徳目は共通である。古代には1人で隠者の生活を送る隠修士も多く、東方正教会にはいまもその伝統は残っているが、現代ではほとんどの修道者は修道院で共住の形をとる。

 修道院は男女別住であり、祈りと労働がその生活原理である。戒律の厳しい修道院では毎日の日課が克明に定められており、女子修道院では外部との交流を厳しく制限する禁入制をとるところも少なくない。ただし第二バチカン公会議(1962~65)以降、修道院の生活規則も、時代に適応するべく変更ないし緩和される傾向にある。

[鶴岡賀雄]

起源

1947年、死海の北西岸の洞窟(どうくつ)で多くの文書が発見され(死海文書)、この文書の旧所有者たるクムラン教団にユダヤ教修道制が存在していたことが想定された。これと、従来から知られていたエジプトのテラペウタイの集団やパレスチナのエッセネ派、エルサレムの使徒集団との関係が問題にされるようになった現在では、キリスト教修道院の起源もこの時代までさかのぼって論じられなければならないかもしれないが、通常は、3世紀後半期に中部エジプトのテーベで隠者パウロやアントニウスによって創設されたとされている。とくにアントニウスは、アレクサンドリアの主教アタナシウスの筆になる『アントニウスの生涯』Vita S. Antonii(356以後)が早くから西ヨーロッパに伝えられたこともあり、修道制の父として尊敬され、その苦行ぶりは、中世末、近世初頭の画家たちに絶好の画題を提供してきた。彼は、monkの語源「ひとり住む者」のとおりに、砂漠や山中で1人で修行した。この隠修士的修道制は、彼の弟子ヒラリオンHilarion(291ころ―371)によってパレスチナに、また同じくマカリオスMakarios(300ころ―390ころ)によってナイル川デルタ地帯に伝えられたが、この形式は瞑想(めいそう)的な東方教会の修道士にとくに好まれて根強く続いていった。

 アントニウスとほぼ同じころ、同じエジプトのテーベで修道生活を始めたパコミウスPachomius(292/294―346)は、独住のもたらす日常的な不便と精神的危険を避けるために共同生活の修道院を建てた。高い塀を巡らした敷地内にいくつかの建物があり、それぞれに20~40人の修道士が1人の指導者と起居をともにする。食事や祈りは共同で行い、服装も同一である。共同生活のため清貧、服従の徳目は重視されたが、労働の義務はとくに強調された。これは多数の修道士の自活上不可欠であったからで、彼らは農耕のほか、ナイルのイグサで籠(かご)を編み、シュロの葉で細工物をつくって売り物にした。労働を軽視した古代世界のなかで、労働尊重の倫理を後代に残したのは、コプト人修道士の際だった貢献である。

 パコミウスがコプト語で記した修道規定は、早くからギリシア語、ラテン語に訳されて広く流布し、共同生活様式の修道院は彼の弟子エウゲニウスEugeniusによって遠くメソポタミアにまで伝えられた。

[今野國雄]

普及と多様性

エジプトの修道院が外部に広まってゆくのは、多数の修道士がこの地を去って他に移住したためともいわれる。確かに、400年ごろアレクサンドリアのテオフィロスとオリゲネスを支持する4人の修道士との間でおこった「オリゲネス論争」に関連して、アレクサンドリア近辺の修道士は大量にエジプトから追放されたし、407~408年にはナイル川のデルタ地帯がマツィカエ地方の蛮族の侵入を受け、数千人の修道士の集落たるスケティスに壊滅的な打撃を与えた。そのことを、隠修士アルセニオスArsenios(生没年不詳、5世紀前半の人)は西ゴート人による410年のローマ略奪になぞらえて、「世界はローマを失い、修道士はスケティスを失った」と語ったから、これも原因の一つに数えられようが、修道院の東西への拡大は5世紀に入る前にすでにかなり進捗(しんちょく)していた。ヒラリオンとカリトンがパレスチナにラウラlauraとよばれる散居型の修道院を開いたのは、4世紀の前期であったし、シリアのアンティオキア、ベロイア、カルキスの荒野に多数の隠者がいることをヒエロニムスが報告したのは、374年のことである。もっとも、アンティオキアの近くでシメオンSymeon (Simeon)(390ころ―459)が10メートル以上もある柱の上で、30年もの間修行して上下の崇敬を集めたのは5世紀に入ってのことであるが、これはエジプトから入ったものではなかった。カッパドキア地方に修道院が広まるのも4世紀中のことで、ここではとくにカエサレアの司教バシレイオスの果たした役割が抜群で、彼の著した『聖バシレイオス会則』は、カトリック教会が認める四大修道会則の筆頭にあげられている。

 修道院を西方に広めるうえで大きな貢献をしたのは、ルフィヌスLufinus(345―410)、ヒエロニムス、カッシアヌスCassianus(360ころ―435ころ)である。ルフィヌスがエルサレムでの12年間の修道生活ののち修道士とともにローマに帰ったのは396年ころで、ブルガータ聖書の翻訳者ヒエロニムスは、374~379年に『テーベのパウロ伝』を、390~391年に『マルクス伝』『ヒラリオン伝』を著し、404年には『パコミウス修道会則』をラテン語に訳し、エジプト修道院の人と制度を西方に伝えた。

 カッシアヌスがスケティスで7年間修行したのは4世紀の390年代であるが、その後オリゲネス論争に巻き込まれてコンスタンティノープル、ローマと旅をし、406年マルセイユに男女二つの修道院を建て、以後ここで30年にわたって修道生活を指導したが、エジプトを手本にした彼の『共住修道掟則(ていそく)』は、南フランスやイタリアだけでなく、バンダル人支配下のアフリカでも広く読まれた。

[今野國雄]

西方における拡大

アウグスティヌスがイタリアで見聞してヒッポに伝えた修道院が、彼の死(430)後どうなったかはわからないが、彼が編纂(へんさん)したといわれる『聖アウグスティヌス会則』は、とくに12世紀以後、西ヨーロッパの聖堂参事会の準則として普及した。しかし、西方における修道院拡大の主たる出発点となったのは、南フランスのレランス島、ロアール川に臨むトゥールのマルムーティエ、および聖パトリックによってキリスト教化したアイルランドである。ローマのコンスルの家柄であったホノラトゥスによって5世紀初頭開かれたレランス島の散居修道院は、ローマの没落貴族を修道士として再生させ、ローヌ川流域一帯の教会、修道院の発展にとっての一大根拠地となったし、トゥールのマルティヌスは新興のメロビング朝フランク王国の守護聖人として、ガリアとイタリアにおける多数の新設修道院の被奉献人となる。また、アイルランドは東方から伝えられた古代の文化遺産をたいせつに保存し、「知恵の乳房」uber sophiaeとよばれて好学の者を集めたが、修道士たちはガリアにリュクスーユをはじめとする50以上の修道院を建設して不滅の功績を残した。しかし、好学の修道士という点では、カッシオドルスCassiodorus(487―583)もこれに劣らない。彼は東ゴート王国の高官になったローマ人貴族であるが、ゴート戦役中に政界を退き、南イタリアのウィワリウムVivariumに修道院を建てた(540ころ)が、その整備された図書館は以後西欧の修道院図書館の手本となった。

 中世前期の修道院拡大の最後の仕上げをするのはアングロ・サクソン人修道士たちである。7世紀から8世紀にかけてのビリブロードWillibrord(658ころ―739)およびボニファティウスBonifatius(675ころ―754)の仕事がそれである。もっとも、この2人はともに修道士ではあったが、修道院の建設や修道士の教育よりも異教徒への伝道や教会組織の整備に努め、2人ともローマ教皇から大司教に任じられている。したがってその意味では前者が「フリースラントの使徒」、後者が「ドイツ人の使徒」とよばれるのは正しいが、彼らの仕事には多くの修道士が協力しているし、前者が8世紀初めごろ建てたエヒテルナハ修道院、とくに後者が774年建てたフルダ修道院はドイツのモンテ・カッシーノとよばれて、ともに修道院の歴史に消えざる足跡を残しているから、やはり忘れることのできない人物である。

[今野國雄]

ヌルシアのベネディクトゥスとその業績

西欧に修道院が拡大してゆくうえで実に多くの人々の協力があったが、その重要性という点ではヌルシアのベネディクトゥスモンテ・カッシーノ修道院で執筆した『聖ベネディクトゥス会則』に勝るものはない。これは「西欧修道制のマグナ・カルタ」とよばれるほど、後の西欧のほとんどの観想修道院で遵奉されたからである。この会則は、古来の多くの修道規定を参照しているが、オリエント修道制のように厳格な苦行を要求せず、中庸の精神をもって一貫し、労働を重視して修道院の経済的自立を確保し、おりから形成されつつあった農業社会に修道院を適応させるなど、西欧独自の修道精神が至る所に発揮されており、修道院はこの会則によって初めてその西欧的形態を確立したといえよう。もちろんこの会則が西欧に広く行き渡るまでには、作成後少なくとも2世紀はかかったから、その緩慢な普及の過程に西欧の修道院のもう一つの歴史が潜んでいることにも注意しなければならないし、また最近では、この会則のかなりの部分がベネディクトゥス以外の者の作という説も多いから、この会則の評価はそれだけ慎重を要することになる。

[今野國雄]

修道院の発展

修道院は、カロリング帝国が崩壊してから神聖ローマ帝国の成立するまでに、ノルマン人、マジャール人イスラム教徒の攻撃を受けて至る所で破壊され、衰微したが、10世紀初頭クリュニー修道院の出現によって西欧の修道院は新しい段階を迎えた。修道規律が回復し、典礼が整備され、修道精神は高揚し、信者と修道院の精神的紐帯(ちゅうたい)が強化されたばかりでなく、とくに11世紀に入るや、ローマ教皇の直接保護下に司教権を排除し、修道院の人事・財産の管理・運営を含む「クリュニーの自由」が確立され、「修道会」の概念と実体が西洋史上初めて出現したことはとくに注目に値する。12世紀に最盛期を迎えたとき、所属の修道院は約1500を数えたから、その影響はヨーロッパ中至る所にみられた。「キリストの貧者」をモットーに1098年建設されたシトー修道院は、クリュニーに比べるとはるかに禁欲主義に徹底していたが、組織の面ではクリュニーの中央集権とは対照的に民主的であった。この修道会はその経済活動の活発さと広範さにおいて前例をみなかった。12世紀末までに傘下に530修道院を数える成功を収めた。しかし、12世紀後半から異端が激発するや、修道士は托鉢(たくはつ)修道会という新しい形態をもってこれに対応する。ドミニコ会、フランシスコ会が、これである。これらの修道会は、いずれも女子の第二修道会、一般男女信者の第三修道会をもって広く福音(ふくいん)伝道を行った点に共通の特色をもっている。しかし、以後修道士は多く修道院に一所定住の誓願を行わなくなったという点では、修道院そのものの機能と性格が変わってしまったと考えなければならない。

[今野國雄]

近代

13世紀の托鉢修道会の出現以降、修道生活は修道院の禁域内にとどまらず、世俗社会のただ中での布教や慈善事業などにも多くかかわるようになった。しかし16世紀に起こった宗教改革に基づくプロテスタント諸教会は、修道院という特殊な生活形態や修道者という身分自体を否定するものであり、プロテスタントが支配する地域では修道院の廃止、財産の没収なども行われた。こうして中世から近世へとキリスト教社会の全体が大きく転換してゆくなかで、修道院のあり方にも大きな変化がもたらされた。すでに宗教改革に並行ないし対応して、カトリック教会内にも種々の改革運動が生まれており、既成の修道会内部でも多くの運動が発生した。

 当時の修道会改革運動が目ざした方向は、一つには、緩和化され、堕落しつつあった修道生活の規律を、古来の会則を忠実に厳守することによって引き締め、祈りと労働という修道生活本来の理想に帰ることであった。この方向の運動としては、フランシスコ会から分離したカプチン会、カルメル会から分かれた跣足(せんそく)カルメル会の設立、シトー会内でのフィヤン派の運動などがあり、ドミニコ会、プレモントレ会などでも同様の改革が試みられている。

 いま一つの方向は、宗教改革勢力に対する失地回復、また、いわゆる大航海時代になって急速に視野に入ってきた非キリスト教地域への積極的な進出、布教であった。16、17世紀にかけて、日本を含む東洋やアフリカ、アメリカ大陸の各地に赴いて宣教し、西欧のキリスト教を全世界に広めたのは、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティヌス会など托鉢修道会の人々、そしてなによりも、1540年イグナティウス・デ・ロヨラによって新たに設立されたイエズス会の人々であった。イエズス会は軍隊的組織とそれに基づく高い機動性、活動性を特色とし、従来の修道生活の理想であった一所定住とは反対に、「神のより大いなる栄光」(イエズス会のモットー)を地上に実現するため、全世界に派遣され、あらゆる分野で実践的活動を行おうとするものであった。また同じころ、一般民衆の教化宣導を目的としたバルナバ会、病人看護を目的としたカミロ会、神の聖ヨハネ病院修士会なども創設され、教育、慈善事業など、社会的活動が修道生活の中心目的の一つとなるに至った。

 以後、各時代ごと、地域ごとに、それぞれの社会状況に見合った活動的修道会が続々と設立されるが、それらは大筋では、このイエズス会的なあり方に倣ったものである。とりわけ、17世紀フランスのウィンケンティウス・ア・パウロVincentius a Paulo(1581―1660)らの活動は禁域内にとどまらない女子の活動的修道会を生み出し、以後、1000を超える数の女子修道会が設立されるに至っている。こうして近代の修道院活動は、啓蒙(けいもう)主義時代におけるイエズス会の一時解散(1773~1814)、フランス革命下での修道生活の禁止などの退潮はあったが、中世の観想的生活から活動的生活へとその比重を移しつつ、存続、発展してきた。

[鶴岡賀雄]

現代

しかし20世紀に入ると、欧米社会全体の世俗化、教会離れが大きな潮流となり、それに伴いとくに規律の厳しい観想修道会などでは修道者数のかなりの減少がみられた。現代では、かつての人里離れた山中の大修道院ではなく、大都会のアパートの一室に数人で共同生活を営むような「修道院」もまれではない。ただし近年ではこの退潮傾向にもブレーキがかかりつつあるかにもみえる。1981年の資料では、ローマ・カトリック教会公認の男子修道会数は全部で225(うち厳律修道(オルド)会83)、修道院数(あらゆる形態のものを含む)3万1139(同1万2112)、修道士数23万8798(同10万5255)で、修道士数は年間1%程度の減少率となっている。同じく女子修道会は、大小あわせて1217の会が存在し、全修道女数は73万7729となっている。

[鶴岡賀雄]

日本の修道院

日本における修道院の歴史は16世紀のキリシタン時代にまでさかのぼる。布教のため来日したイエズス会士らが共同生活をした住居、また、日本人聖職者、修道士育成のため府内(大分)はじめ各地に建てた大学(コレジオ)、修道士養成校(ノビシアード)などが広義の修道院の初めであろう。また、この時代すでに日本人による女子修道会(いわゆる「みやこの比丘尼(びくに)たち」)があったともいわれる。しかし、わが国における本格的な修道院設立は、明治に入りキリシタン禁制が解かれてからのことで、1872年(明治5)フランスのサン・モール会(聖嬰イエズス愛徳教育修道会)の修道女5人が来日し、横浜の山手居留地英国兵屯地跡に修道院を開いたのが最初とされている。中世以来の伝統的修道会(オルド)としては、1896年にフランスの厳律シトー会(トラップ派)が北海道上磯(かみいそ)郡茂別(もべつ)村石倉番外地(北斗(ほくと)市)に有名な灯台の聖母(ノートル・ダム・デュ・フアール)トラピスト修道院を開き、続いて同会の女子部、厳律シトー修道女会も、98年に函館(はこだて)郊外上湯ノ川(現函館市上湯ノ川町)に天使の聖母(ノートル・ダム・デ・ザンジュ)トラピスチヌ修道院を開設した。以後、ドミニコ会(1904)、フランシスコ会(1907)、神言会(1907)など有力な修道会が次々に来日し、イエズス会も1908年(明治41)には再来日している。現状では、わが国で生まれたものも含めて、男子47、女子94の各種修道会が活動している。なお、修道院の基本構造や生活の原則は全世界で共通であるが、それは各地域の文化的伝統をまったく無視したものではない。わが国においても、日本の建築様式を取り入れた板敷きの聖堂などもつくられている。

[鶴岡賀雄]

修道院建築

キリスト教修道院の正確な起源は不明であるが、その制度の確立がはっきり認められるのは3世紀のエジプトである。上エジプト出身のパコミウスはテーベのタベニスに修道院を建て、共同生活による修道院制度の基礎を築いたのであるが、彼による修道院建築は、四囲に塀を巡らした構内に建てられた5棟ないし6棟の建物からなり、20人から40人の修道士がそれぞれ居住した。構内にはそのほか聖堂、食堂、図書室、外来者の宿泊施設も建てられた。

 5世紀以降ヨーロッパ各地に、東方の宗教的伝統を継承した修道院制度が勃興(ぼっこう)するが、529年にベネディクトゥスが南イタリアのモンテカッシーノに開設した修道院は、外界との無益な接触を避けるため、生活に必要ないっさいのものを備えるようになった。そのため、広い構内には聖堂を中心に、食堂、図書室など東方の修道院にみられた施設のほかに、農園や収穫物の処理に必要な付属建造物まで併設されたが、それらの正確な配置については知る手だてが失われている。また820年ごろに作成され現在に伝えられているスイスの有名なザンクト・ガレン修道院所蔵の設計図は、当時の修道院建築一般の手引書としてつくられたものであり、この修道院の往時の実態を示すものではない。しかしこれは中世における修道院建築の理想的設計がどのようなものであったかを知らせる貴重な資料である。聖堂とそれに隣接する中庭を囲む回廊に沿って配置される修道士たちの居室は、修道院の中核をなす伝統的施設であるが、ここにはそのほかに農奴の住居、家畜小屋、食糧品の加工設備から建築用の石灰炉までが備えられており、完全な自給自足が志向されている。

 中世末期になると、フランシスコ会やドミニコ会が、いわゆる「托鉢(たくはつ)修道士」による新時代を修道院の歴史に画することになる。清貧・簡素を修道生活の理想とするこれらの修道士たちが、在来のものより小規模かつ質素な修道院設計を必要視したのは当然である。これに対し、いわゆる教職修道会(なかでも16世紀に創設されたイエズス会)の修道院は学校や寄宿舎と併合されており、その規模は同時代の宮廷建築と大差がない。そして中庭を囲む回廊を重視する中世以来の修道院建築の伝統はバロック時代に廃止され、院内に豪華な大広間が設けられるようになった。

[濱谷勝也]

『今野国雄著『修道院』(1971・近藤出版社)』『D・ノウルズ著、朝倉文市訳『修道院』(1972・平凡社)』『今野國雄著『西欧中世の社会と教会』(1973・岩波書店)』『今野國雄著『修道院』(岩波新書)』『半田元夫・今野國雄著『キリスト教史Ⅰ・Ⅱ』(1977・山川出版社)』『森安達也著『キリスト教史Ⅲ』(1978・山川出版社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「修道院」の意味・わかりやすい解説

修道院 (しゅうどういん)
monastery

キリスト教の修道士monkや修道女sisterが一定の戒律に基づき清貧,貞潔,服従の誓願を立てて共同生活を営む場所。アベーabbeyは大修道院,プライアリーprioryは小修道院,コンベントconventは托鉢修道士または近代以降の修道女会の修道女の居所,ドムス・レリギオサdomus religiosaは近代の海外宣教会または活動的修道会の会員の居所を指すのが一般的である。キリスト教の修道院は従来3世紀の後半期にエジプトのテーベで隠者パウロやアントニウスによって創設されたと考えられてきたが,1947年発見された〈死海写本〉が契機となってクムランやテラペウタイのユダヤ教修道院の存在が確認され,それとイエス復活後のエルサレムの使徒小集団との系譜関係も問題とされ,修道院の起源もそれだけ時代をさかのぼって論じられるようになった。もちろん,キリスト教修道士にとっては《使徒行伝》(2:44~47,4:32~35)の伝えるエルサレムの使徒小集団の共同生活や《マタイによる福音書》(10:9,10:10,19:21),《マルコによる福音書》(8:34)が述べているイエスの十二使徒への訓戒が絶えず帰るべき原点であったといえよう。

アントニウスはmonkの原義どおり〈ひとり住む者〉(隠修士)として荒野で長い苦行の生活を続けたが,その禁欲ぶりはアレクサンドリアの主教アタナシオスの筆になる《聖アントニウス伝》(356)によって西方のガリアの奥深くまで伝えられた。彼の弟子ヒラリオンHilarion(291ころ-371)はそれをパレスティナに,別の弟子マカリオスMakarios(300ころ-390ころ)はナイル川のデルタ地帯に拡大した。東方教会にいまも根強い隠修士的傾向はこのときに始まる。アントニウスと同じころ同じテーベで修道生活を始めたパコミウスは独住の日常的不便と精神的危険とを克服するために共同生活(コイノビオン)の修道院を建てた。それはそれぞれ20~40人の修道士が1人の監督のもとに共同生活を営む五つか六つの建物からなり,敷地内には別に聖堂(教会堂),食堂,外来者用宿舎,庭園が設けられていた。修道士は清貧,貞潔,服従の徳目のほかに労働を義務づけられ,農耕やイグサ,シュロの細工物によって自活の道を講じた。彼がコプト語で書いた戒律は早くからギリシア語やラテン語に訳されて,東西ヨーロッパに広く流布したし,彼の弟子エウゲニウスEugeniusと70人の修道士とはこの方式を遠くメソポタミアのニシビスにまで伝えた。

オリエント諸地方の修道形態は多様であって,パレスティナのガザやユダイアではラウラlauraと呼ばれる散居修道院の形式が多かったし,シリアでは高い柱の上で苦行する柱頭行者が多く,〈シメオンの城〉と名付けられた修道院遺跡(カラト・セマーン修道院)はその一端を今日にまで伝えている。シリアの北方の荒涼たるカッパドキア地方に修道制を広めたのはアルメニアの主教エウスタティオスEustathios(300ころ-377ころ)であるが,ここでは彼の勧めで修道士となったバシレイオスの方が歴史上著名である。バシレイオスはパコミウスと同様に集団的な共住主義と財産共有主義を修道生活の基盤とし,修道士の服従と従順および労働を重視し,それを戒律として書き残したが,この〈バシレイオス会則〉こそ東方正教会所属の修道院における基本準則となったものである。もちろん〈ユスティニアヌス法典〉の〈新勅令(ノウェラエ)〉の関係条文もビザンティン帝国の修道院を性格づけるのに大きな役割を果たした。しかし東方で修道院が最も精彩ある姿を示すのはイコノクラスムの時代であったといわれるから,8世紀後半期における修道院への迫害とそれに対する修道士の抵抗,特にこの抵抗運動で主役を演ずるコンスタンティノープルのストゥディオス修道院の院長テオドロスTheodōros(759-826)の活動と彼が行った修道院改革とは東方修道制の再生の泉となった。もっとも,東方の修道士の仕事が多く修道院内でできるものに限定された点は西欧の修道院との大きな違いであるが,そのなかでは絵画,装飾挿画,写字が重要な地位を占めた。またたいていの修道院は宿坊,救貧院,病院を備えており,例えばコンスタンティノープルのパントクラトル修道院の付属病院は50のベッドを有し,そこに60人の修道士が配置されていたが,てんかんと老人病との病舎とはそれぞれ別に設けられていた。医療部門は同時代の西欧よりはるかに進んでいた。テオドロスの改革と並んでビザンティン修道制に広範な影響を与えたのは初めは皇帝ニケフォロス2世の支援で建設されたアトス山の修道院群である。ここは11世紀に最盛期を迎え,〈聖山(アギオン・オロス)〉と呼ばれて東方正教徒の崇敬を集め,以来今日まで幾星霜にわたる歴史の激しい浮沈にも耐えて奇跡のように生き続けている。

西ヨーロッパに修道生活の手本を提供したのもエジプトとパレスティナであった。イタリアではローマとミラノ,南フランスではトゥーロンの南東のイエール島やその東方のレランス島,ロアール川中流のトゥール付近,それにはるか遠くのアイルランド,これらが最も早く修道集落のできた所である。アウグスティヌスはローマとミラノで見聞した修道生活をアフリカのヒッポに持ち帰り,ここに建てた修道院のために〈アウグスティヌス会則〉を作成したといわれる。レランス島はローヌ川流域の修道院の源となり,トゥールに修道院を開いたマルティヌスはフランク王国の守護聖人とされ,イタリアやガリアに新設された多数の修道院も彼の名を冠した。アイルランドの修道院は東方から伝えられた文化遺産をたいせつに保存し,〈学者の島〉と賞賛されるとともに,その修道士たちは6世紀末からガリアにリュクスイーユを初めとする多数の修道院を建設した。スイスの有名なザンクト・ガレン修道院もその一つであるが,アルプス以北では一時このケルト系修道院が一世を風靡(ふうび)した。しかし学問を愛した修道士は彼らだけではない。ゴート戦役(535-553)のさなかの540年ころ東ゴート王国の高官の地位を捨てたローマ人カッシオドルスが南イタリアに建てたウィウァリウムVivarium修道院はその豊富な図書と整備された図書管理によって,以後の西欧における修道院図書館の手本となり,文化の保存と伝承に大きな役割を果たした。イタリアではそれ以上に後々まで強い影響力を及ぼす修道院がその少し前の429年ころに建てられた。モンテ・カッシノ修道院である。それを開設したヌルシアのベネディクトゥスがここで執筆した〈ベネディクトゥス会則〉は後の西欧のほとんどの観想修道院で遵奉されることになったので,〈西欧修道制のマグナ・カルタ〉と別称されるほどである。もちろんこの会則は古来の多くの修道規定を参照してはいるが,いたずらに厳格な苦行を要求せず,中庸の精神で一貫し,労働を重視して経済的自立を確保させ,修道院の運営を機能化し,当時の農業社会にそれを適応させるなど,西欧独自の修道精神がいたるところに発揮されており,東方起源の修道院はこの会則によって初めて西欧的形態を確立したといえよう。

この会則によって当時の修道院の生活を再現してみると次のようである。1年は夏期と冬期に分けられ,夏期は復活祭からローマ暦10月1日前日,すなわち9月14日まで,冬期はそれ以後四旬節までである。夏期と冬期の間には四旬節というキリストの荒野における40日間の苦行を記念する特別期間が置かれている。1日の生活は,昼と夜をそれぞれ12区分した時間にもとづき,1日8回の聖務日課(時課),すなわち暁課,朝課,一時課,三時課,六時課,九時課,晩課,終課が定められている。一時課とは昼の第一時に始まる日課をいう。聖務日課は1年を通じて変わらないが,修道士の1日は冬と夏とでは起床から就寝までの実際の時刻にかなりの相違があった。昼の長い6月半ばでは午前1時ころ,その他の時期でも午前2時半ころには起床し,最初の聖務日課である暁課を勤める。《詩篇》や聖書および教父の著作からの聖句が読み上げられる。暁課と朝課との間は読書に当てられるが,夏期には短い休息が与えられる。朝課は6月であれば2時15分ころ,12月であれば5時45分ころから始まる。朝課の後は集会(カピトゥルム)が行われ,殉教者伝や〈ベネディクトゥス会則〉の一部が読み上げられる。この集会ではその日の行事が修道院から伝達されたり,規則違反の修道士が処罰されたりする。一時課には三つの《詩篇》,賛美歌,唱和用聖句を歌うが,これは三,六,九時課にも共通している。一時課から第四時まで労働,以後第六時まで読書をする。第六時(夏期は正午)にその日最初の食事をとる。食事は2皿で,果物か野菜があればそれを加えて3皿となる。それにパン1ポンド,ブドウ酒1/4リットルというたいへん質素なものである。食後,夏期には午睡の時間が設けられ,各自ベッドで休息する。第九時から晩課まで再び労働する。夏期には晩課の直前に第2回目の食事が出るが,冬期の食事は第六時(冬期は14時40分ころ)の1回だけである。晩課には四つの《詩篇》,終課には三つの《詩篇》が歌われ,その後修道士たちは修道院長の祝福を受け共同の寝室へ向かい,すぐ床につく。着のみ着のままである。労働時間は1日6~8時間で農耕,植物栽培のような戸外作業だけでなく,製粉,パン焼き,台所作業,筆耕,掃除,病人看護などもあった。

〈ベネディクトゥス会則〉はカロリング時代には広く普及したが,当時の修道院は西欧最初の文化創造運動であるカロリング・ルネサンスにも促進的役割を果たした。9世紀から10世紀にノルマン人(バイキング),マジャール人,イスラム教徒の攻撃で荒廃した修道院は,クリュニー修道院やロートリンゲン地方の修道院改革によって再び活性化し,11世紀後半のグレゴリウス改革にも貢献したが,12世紀以降は修道形態そのものを革新する。いわゆる〈新修道会〉の誕生である。各修道院の自律性を尊重しながらも修道会を有機的に組織化し,経済活動にも抜群の能力と成果を発揮したシトー会修道院,異端の激発するなかで民衆説教のなかに新しい活動領域を求めたプレモントレ会,ドミニコ会フランシスコ会の修道院がそれである。シトー会修道院は,建築様式においてもその厳しい禁欲的修道精神をそのまま形象化して建築史に一時代を画したが,フランシスコ会の清貧ぶりはさらに徹底していた。フランシスコ会とドミニコ会とは托鉢修道会とも呼ばれるが,それは,もっぱら信者の喜捨によって使徒的生活を旨としていたことによる。フランシスコ会の創設者アッシジのフランチェスコが,その〈遺言書〉のなかで〈修道士の家はすべて木と泥で建てられねばならない〉といったように,当初彼らの修道院はこの通りの小屋であった。

中世末から近代にかけて修道精神は激変のうちに転生する。トマス・ア・ケンピスのいたアグネテンベルク修道院と同様,フローテの創設した〈共同生活兄弟会〉に属した約50の修道院は,ネーデルラントとドイツに〈新しい信仰Devotio moderna〉と呼ばれる敬虔主義的運動を民衆の間にも広めるし,イタリアでは,従来の観想修道院が托鉢修道会の組織を採り入れた〈修族congregatio monastica〉という新しい修道組織によって新生する。15世紀から16世紀にかけてイタリアにはたくさんの兄弟会が結成され,そのなかから1524年にはテアティノ修道会が生まれ,その4年後にはフランシスコ会の改革を目ざしたカプチン会も創設された。〈信仰のみによって義とされる〉というルターの宗教改革は,清貧や貞節によって義とされる修道院の存在を無意味としたために,ドイツでもイングランドでもプロテスタント諸国の修道院はほとんど解散させられたが,これらの諸国でも修道士の倫理は〈世俗内禁欲〉の精神として生き続けた。そればかりでなく,16世紀はイエズス会という新しい形の伝道の修道会を生み,他の托鉢修道士とともに世界各地に修道理念を再生した。われわれがキリシタン・バテレンと呼ぶ彼らの活動は東洋や日本の歴史にも深い刻印を残した。ベルギーのイエズス会士ボランドゥスJ.Bollandus(1596-1665)が17世紀中期に始めた古文書編纂事業は,同じころパリのサン・ジェルマン・デ・プレ修道院を中心とするサン・モール修道会とその代表者マビヨンの古文書の収集と批判と並んで,史料批判の方法を確立して近代歴史学の基礎を築くという偉大な役割をも果たした。これも諸修族の学問研究熱の伝統を継承した結果であろう。

 19世紀のカトリシズム復興のなかで,プロテスタントの国イングランドで起こったオックスフォード運動は結果的には国教徒に修道生活への関心を呼び起こし,この世紀の半ばから特に女子修道会を続々と誕生させたし,男子の観想修道院も数は少ないが,20世紀に入ってから国教会内で公認されるにいたった。またフランスのテゼーの修道院はプロテスタントの修道集落として特に注目を引いている。カトリック側でもピウス12世以後,特に第2バチカン公会議を通じて,修道生活の現代化に努力を重ねているが,フーコーC.E.de Foucauld(1858-1916)の衣鉢を継いだ〈イエズスの小さき兄弟・姉妹会〉の会員たちは観想と福音伝道と労働とを混然と一体化して活動しながら,世界中で共鳴者を得つつ,現代における修道生活再生のための最上の証(あかし)を示し続けている。修道による霊性のよみがえりは砂漠のような現代にとって,人々の大きな救いと希望となりつつある。
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修道院建築monastic architectureとは,修道院長のもとで共同生活を営む修道士のための建築をいい,聖堂(教会堂),集会室,大食堂,回廊,寝室などからなる修道生活の基本区域と,院長室,応接室,客室など半ば開放された準基本区域で構成される。18世紀まではしばしば修道士の物的生活を支えるための業務を行う大きな世俗区域(菜園など)を伴っていた。

修道院はエジプトとシリアで始まり,4世紀末にローマ帝国東部全土に設けられた。初期の形式は地域により多様だが,各地域内では共通する形式があったといわれる。エジプトでは聖堂に接して食堂,厨房,居室などを連続的に配置し,全体を強大な周壁でかこむ。シリア北部では修道院の入口付近に聖堂と二階建ての大広間,奥まったところに修道士の居室をおき,全体としてほぼ回廊をかこむ形とする。北アフリカには敷地中央に聖堂,その外壁にそって修道士の居室,別棟で大食堂を造り,庭園,墓地を含む敷地全体を周壁でかこんだ廃墟がのこる。東方正教会の修道院は周壁をめぐらした敷地の中央に聖堂をおき,その正面側の周壁によせかけて大食堂と厨房,そのほかの周壁によせかけて集会室,居室,作業室などを造る。この形式は6世紀にさかのぼるといわれるが,19世紀の修道院でも採用されている。

東方と北アフリカから導入されて4世紀末にすでに修道院が造られたらしいが,活発に建設されたのは7世紀からで,カロリング朝期にはかなりの規模のものが1200以上もあったといわれる。当時の修道院のようすを全体として伝える遺構はないが,820年ころの修道院計画図がザンクト・ガレン修道院図書館にのこる。数十名から数百名に及ぶ多数の人々が自給生活を営む修道院は困難な設計課題だが,当時すでに合理的に解決されていたことがこの計画図から知られる。回廊を核とする基本区域を中央におき,その外側に聖堂に近接して院長居館,客舎,学校,施療院,修練士居室などの準基本区域,聖堂から遠い外周に鶏舎,粉挽所,製パン室,菜園などの世俗区域を配置するこの計画方法は,その後の修道院の基本となった。しかし都市に住み,主として民衆教化の説教と学術研究を行う托鉢修道会は,市民の協力で修道院を造ったので世俗区域をほとんど設けず,また従来の大寝室に代わって個室を用いた。托鉢修道会は信徒による一部の基本区域や図書室,病院の利用,修道院での短期間の生活を認めたので,新しい用途の部屋が必要となり,複数の回廊を設けてこれを配置した。イエズス会を中心として近世の修道院は,聖堂を新しい様式に改装し,回廊の三方をめぐる建物を邸宅風に整備したが,政治的介入が強まったため17~18世紀の修道院建築は振るわなかった。しかし中世以来の体制を保っていたオーストリア,スイス,南ドイツなどの修道院では,基本区域,準基本区域を中心に全体を構成し,院長を君主とする修道院都市の統治の象徴として,壮麗なバロック修道院を完成した。啓蒙主義とフランス革命により,18世紀後半から19世紀に大部分の修道院が一時閉鎖されたが,現在では多数が再開。しかし新築は少なく,また修道会の別による建築形式の相違もなくなったといわれる。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「修道院」の解説

修道院(しゅうどういん)
monastery

共同生活によって修行する修道士,修道女の集まり。自己の救霊と完徳を願う者の修道の場という広い意味では,仏教,ヒンドゥー教,ユダヤ教にも存在するが,キリスト教ではエジプトのアントニウス(251~356)やパコミウス(290~346)が創始者とされる。東方ではバシレイオス(329~379)やテオドルス(769~826)の戒律が基準となり,西欧ではアタナシウス,マルティヌス,コルンバヌスらが各地に伝えるが,西ヨーロッパ独自の永続的な基本形態を確立するのはモンテ・カッシーノの修道院長ベネディクトゥスである。清貧,貞潔,服従の3徳目を誓願し,定められた聖務日課を遵守しつつ自活する修道士はここで,ヴィヴァリウス修道院,ザンクト・ガレン修道院フルダ修道院にみられるように,伝道,芸文,経済活動の第一級の担い手となる。10世紀の政治的混迷のなかで,ゴルツェやクリュニー修道院運動は聖俗両界を刷新して西ヨーロッパ社会を覚醒させるが,11世紀末からシトー修道会はほぼ全ヨーロッパに盛んな農業活動を展開して,つづくプレモントレ修道会などの模範となる。13世紀に出現するフランチェスコ修道会ドミニコ修道会では,托鉢(たくはつ)修道会の移動説教活動のため修道院の意義は後退するが,異端との闘いや学問研究に長く消えざる功績を残した。

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大学事典 「修道院」の解説

修道院
しゅうどういん

キリスト教において修道者(修道士・修道女)が共同生活を営む場。修道者とは,神のみに従う生涯を実践するために「清貧・貞潔・従順」の三つの誓いを立て,世俗を離れた生活を送る者であり,その共同体が修道会と呼ばれる。西欧では古代末期から中世前半にかけて,人里離れた山野に居住し,農耕や手作業を行って自給自足の共同生活を送る大修道院制が発達した(ベネディクト会など)。また,西ローマ帝国の崩壊後は,学問教育や生活技術を中世に伝える役割も果たした。大学誕生以前の11~12世紀には,修道院は学問の重要な拠点の一つであった(ベック,サン・ヴィクトールなど)。13世紀に誕生したフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会は宣教活動や学問の拠点として都市に修道院を設けた。その学問的生活共同体は欧米の大学の学寮(college)の伝統の一つの起源となっている。欧米の伝統的な大学が回廊式の建築を有するのも,修道院建築に起源がある。
著者: 加藤和哉

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「修道院」の意味・わかりやすい解説

修道院
しゅうどういん
monasterium; monastery

公認されたキリスト教の修道生活を共同でおくる人々の住居,またはそのなかでの生活をさす日本での総称。いわゆる修道生活は 1000年以上の歴史を通じて多様に発展したものであるから,もともと全部の居住形態を総括する語はない。ローマ教会法では monasterium (ベネディクト会など) と domus religiosa (monasterium以外) との区別がある。一般の名称としては abbatia (司教から独立した自治権をもつ大修道院長をいただくもの) ,claustrum (回廊のあるもの) ,conventum (フランシスコ会など 13世紀頃以降のもの) ,communitas (マリア会など現代のもの) などが用いられ,すべて修道院と訳される。ときに monasteryは男子の修道院についてのみ用いられ,女子修道院は conventと呼ぶことがある。

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百科事典マイペディア 「修道院」の意味・わかりやすい解説

修道院【しゅうどういん】

キリスト教会において修道士,修道女が共同生活をする場所。英語でmonastery。abbey(大修道院),priory(小修道院),convent(托鉢修道士または近代以降の修道女の居所)などの別がある。修道会によって共同生活等に関する会則が異なる。アントニウスの独住を経て,4世紀初頭にエジプトのパコミウス〔290ころ-346〕が共住の修道生活を始めたのが起源とされる。〈祈りと労働〉がその生活の基本。東方,西方ともに長い歴史を有し,学術文化上の貢献のみならず,時に政治的勢力として史上に果たした役割は計り知れない。

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旺文社世界史事典 三訂版 「修道院」の解説

修道院
しゅうどういん
monastery

厳格な戒律の下に,信仰修行と労働に励む修道僧が共同生活を営む場所
修道会によって会則は異なる。東方に起源をもつといわれ,特にカトリック教会において発達した。西欧では6世紀初めのモンテ−カシノのベネディクト修道会が最初。クリュニー修道院・シトー派修道会・フランチェスコ修道会・ドミニコ修道会などが名高く,教会刷新・民衆教化・古典文化保存などに大きな役割を果たした。

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世界大百科事典(旧版)内の修道院の言及

【学校建築】より

…近代以前の学校は,大学を除けば,多くは他施設(教会や修道院,王宮,兵営など)に付随し,独立した場合でも,他用途の建物を転用するかその形式や手法を借用して造られたものが多かった。
【ヨーロッパにおける変遷】
 古代の建築で学校として用いられたものには,ギリシアやローマなどでパラエストラpalaestraあるいはギュムナシウムgymnasium(ともにラテン語)と呼ばれたものがある。…

【教会堂建築】より

…キリスト教建築は,教会堂(聖堂),洗礼堂,記念堂(マルティリウム),墓廟,修道院,学校などからなるが,教会堂建築はその中核をなすものである。本項ではローマ・カトリック教会とギリシア正教会の教会堂を中心に,その変遷を概観する。…

【刑務所】より

…この懲治場は各地に広がったが,やがて軽罪者をも収容し,上述の牢獄とも融合しつつ刑事施設化していった。一方,刑罰としての拘禁は,13世紀ごろから,教会裁判での有罪者に対して用いられており,宗教裁判の隆盛とともに拡大していったが,修道院を拘禁場所とするものも多かった。また,ロンドン塔やバスティーユなど城塞を使っての国事犯拘禁もみられた。…

【酒】より

…後世,ケルト人の酒としてわれわれが享受するのはスコットランドの辺境に伝承されたウィスキーで,これはまた大麦の酒を蒸留するという技術において,イベリア半島を通じて伝播したイスラム文化の恩恵を受けている。 ゲルマン人の大移動が始まる4世紀後半までに,ヨーロッパのブドウ栽培は今日の北限をはるかに越える地域に及んだが,ここにゲルマン人が定住すると,古代ローマの文化は各地の修道院に継承,温存され,それを取り囲むようにしてゲルマン的有畜農耕文化が展開する。中世農業革命とも称される三圃制(さんぽせい)農業の成立が,醸造原料としての大麦の調達を容易にした。…

【都市】より

…そしてそうした都市の成立には,集落史的にみて,およそ次の三つの異なった機能をもつ先駆的形態に依存したものが圧倒的に多い。その一つは防備の施設である城砦(ブルク)であり,次は宗教の中心である教会,修道院あるいは北欧古来の神殿であり,いま一つはラテン語でエンポリウムemporiumと呼ばれた(いち)の開催地である。この三つは西ヨーロッパの全域にすでに初期中世から存在したものであるが,それが11世紀以降の中世都市の成立により,都市そのものが具備する3機能として合体したと考えてよい。…

【ビザンティン帝国】より

…それに代わって,ビザンティン帝国最後の300年には,西ヨーロッパの封建制の特色と類似した次のような,政治的,社会的,経済的現象が現れ,それをめぐって学界ではビザンティン封建制論争が起こった。その現象とは,(1)特定区域の徴税権を移譲されたプロノイア保有者,大行政地域をそこでの国家高権と一括して下賜された地方行政長官,その所領について不輸不入の特権を与えられた修道院,(2)皇帝に特別の私的誓約を行い,奉仕の代償として,皇帝からの一定の反対給付にあずかる家人(オイケイオイ)団,(3)大所領の隷属農民(パロイコイ),の登場である。これらの類似点は,しかしながら,歴史における合流現象convergenceではあっても,ビザンティン帝国と西ヨーロッパとが〈発展段階説〉上の同一発展段階に所属したことの表れと解釈することは,両者の歴史上の出発点,そしてまた帰着点の基本的差異にかんがみ,おそらく成り立たないであろう。…

【もてなし】より

…これらの施設は12世紀のアングロ・ノルマンの侵入とともに衰退した。アイルランド,スコットランドは教会,修道院が旅客専用の建物tech‐óiged(tech=taigeは〈家〉,óigedは〈客〉の意)をもって見知らぬ旅人に食事とベッドを供したが,これも16世紀にヘンリー8世の修道院領没収によって終わった。 ホスピタリティにあたるドイツ語Gastfreundschaftが示すようにゲルマン人の客もてなしは名高い。…

※「修道院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」