広島県南部,広島湾の南東にあり,能美島,江田島などとともに芸予諸島の西部を構成し,本土との間に呉湾を抱く。島の北半は安芸郡音戸(おんど)町,南半は倉橋町(南部の鹿島も含む)に属する(2005年より全島が呉市)。面積68.6km2。両町合わせた人口は2万4627(1995)。1961年北端の音戸大橋が完成して呉市に陸続きとなり,さらに早瀬大橋で西方の能美島と,鹿島大橋で南方の鹿島と結ばれた。島全体は黒雲母花コウ岩からなるが,広島県西部を特徴づける北東~南西方向に走る数本の断層線で分断されているため,地形は同方向に走る細長い山塊と,その間に深く食い込む入江によって特徴づけられる。すなわち,旧音戸町中央部を占めるのが古観音山塊であり,その南方延長上に釣士田(りようしだ)の入江を隔てて旧倉橋町西部の岳浦山塊が続き,さらに旧倉橋町中央部に標高400m級の火山(ひのやま)山塊,東部に200m級の室尾山塊が配列する。火山・室尾両山塊の間はくびれ,北側に袋内(たいない)と呼ばれる入江,南側に尾立と室尾の湾入がある。
この島は古くから瀬戸内海交通の要路にあったため,入江の奥の浦々に集落が成立していた。音戸町の由来は現在音戸湾の入江にある隠渡からであり,水主(かこ)または平家の隠れ場所との説がある。平清盛が音戸ノ瀬戸を開削して以来,一躍内海交通の要衝となった。一方,倉橋町役場があった本浦は万葉の歌人に長門浦としてうたわれた景勝地であり,厳島神社管弦船を献納したほどの造船の町であった。近世には多くの舟大工,諸職人が集住して倉橋千軒と呼ばれ,浅野・毛利両藩はじめ諸大名の御用船や商船をつくっていた。近くの桂浜に当時の船渠(せんきよ)が残されている。また島の南端にある鹿老渡(かろうと)は,沖乗り航路が盛んになった1730年(享保15)に開設された港町である。第2次大戦前,音戸・倉橋両町は呉海軍鎮守府下に置かれ,一般の開発から取り残されていたが,戦後は音戸大橋の架橋や道路の整備によって呉市,広島市との社会経済的結びつきが強まった。かんきつ類を主とする農業の発展は,急傾斜地の多い土地条件の制約があって多くを期待できないが,水産業はカキ,ノリなどの養殖漁業,タイ釣りなどの観光漁業に移行している。南部の海岸などは瀬戸内海国立公園に指定されている。
執筆者:藤原 健蔵
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広島県南西部、広島湾の入口にある島。北は音戸(おんど)大橋を経て呉(くれ)市警固屋(けごや)に、西は早瀬(はやせ)大橋を経て能美島(のうみじま)・江田島(えたじま)、南は鹿島(かしま)大橋で鹿島に続く。面積69.56平方キロメートル、人口2万2222(2000)。かつては長門島(ながとしま)とよばれ、呉市に属する。全島花崗(かこう)岩からなり、標高200~400メートルの山地で占められる。海岸線は出入りに富み、入り江の奥に集落がある。島の南部は景観に優れ瀬戸内海国立公園の一部となっている。本浦などは古くから木造船の製造が盛んであり、また桂浜(かつらはま)や鹿老渡(かろうと)は古くから港町として知られた。山頂まで階段状に耕され、ミカンのほかジャガイモ、野菜などが栽培される。沿岸漁業やカキ、ノリ、ハマチの養殖、石材の積み出しなども行われる。
[北川建次]
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