(読み)ゲン(英語表記)Yuán

デジタル大辞泉 「元」の意味・読み・例文・類語

げん【元】[漢字項目]

[音]ゲン(漢) ガン(グヮン)(呉) [訓]もと はじめ
学習漢字]2年
〈ゲン〉
物事のもと。根本。「元気元素還元根元復元
はじめ。「元始
頭部。「元服黎元れいげん
第一の人。かしら。「元首元帥元老
大きい。「元勲
年号。「元号改元紀元
中国の王朝の名。「元寇
〈ガン〉
もと。「元金元利
はじめ。「元日元祖元年元来
〈もと〉「元手元値家元地元根元身元
[名のり]あさ・ちか・つかさ・なが・はじむ・はる・まさ・ゆき・よし
[難読]筒元どうもと

げん【元】

中国の王朝の一。モンゴル帝国第5代の皇帝フビライが1271年に建国。首都は大都北京)。のち南宋を滅ぼして中国を統一。高麗こうらい安南・タイ・ビルマなどをも従えて、大帝国を築いたが、1368年、の太祖朱元璋しゅげんしょうに滅ぼされた。

げん【元】

数学で、
方程式未知数の数。「二方程式」
集合をつくっている一つ一つのもの。要素。
yuan中華人民共和国の通貨単位。1元は10かく。人民元。ユアン。記号¥。

もと【元/旧/故】

《「もと」と同語源》以前。むかし。副詞的にも用いる。「―の同僚」「この地に―から住んでいる人」「―あった所に戻す」「―大臣」
[類語]まえぜん

ユアン【元】

《〈中国語〉》⇒げん(元)2

がん【元】[漢字項目]

げん

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精選版 日本国語大辞典 「元」の意味・読み・例文・類語

げん【元】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 物事の根本、はじめ。もと。
      1. [初出の実例]「元とは天子元士の元のごとくはじめと云ことなり」(出典:制度通(1724)一)
      2. [その他の文献]〔易経‐乾卦〕
    2. 首。頭。また、君主、元首。
      1. [初出の実例]「潜龍元(げん)を体し、(せんらい)期に応じき」(出典:古事記(712)序)
      2. [その他の文献]〔広雅‐釈古・四〕
    3. 万物を生ぜしめる天地のはたらき。気。〔班固‐幽通賦〕
    4. 人民。衆庶。〔漢書‐郊祀志下〕
    5. 元号。年号。
      1. [初出の実例]「建元為大宝元年」(出典:続日本紀‐大宝元年(701)三月甲午)
    6. 改元の第一年目。新しい天子が即位した最初の年。〔春秋〕
    7. 中国の貨幣の単位。一元は一〇角。
    8. オランダの旧貨幣単位、「グルデン」の訳語。
      1. [初出の実例]「元は和蘭の『ギュルデン』にして、『ギュルデン』二個半を以て『ドルラル』一個に換ふべし」(出典:和蘭学制(1869)〈内田正雄訳〉小学条例)
    9. 中国の讖緯説(しんいせつ)でいう時間の単位。六〇年説、四五六〇年説などがある。→一元
      1. [初出の実例]「六十年を一元とす」(出典:制度通(1724)一)
    10. 数学で、方程式の未知数。その個数によって、方程式を一元・二元・三元方程式などと区別していう。
    11. 数学で、集合を構成している個々のもの。元素。要素。
  2. [ 2 ] 中国を支配したモンゴル族の王朝。一二七一年、モンゴル帝国第五代大汗フビライが国号を元として成立。都は大都(北京)。一二七九年、南宋を滅ぼし、中国を統一。モンゴル、チベット、中国東北部まで領し、さらには朝鮮半島・日本・東南アジアなど周辺に出兵した。モンゴル至上主義の立場から民族的身分制をたてたが、漢民族の反発と過度の誅求による財政不安、社会不安が白蓮教の乱(紅巾の乱)の原因となり、一三六八年、一一代で明に滅ぼされた。大元。

がんグヮン【元】

  1. 〘 名詞 〙
  2. ( 「がんきん(元金)」の略から ) 勘定。金高。また、もうけ、利潤などをいう上方の語。
  3. 以前遊里で放蕩した人の異称。
    1. [初出の実例]「元(グン)といふは前にも注するごとく元(もと)此里の沙汰功者(かうしゃ)なれば」(出典:浮世草子・新吉原常々草(1689)下)

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改訂新版 世界大百科事典 「元」の意味・わかりやすい解説

元 (げん)
Yuán

中国を支配したモンゴル民族の王朝。1260-1368年。国号の元は1271年(至元8)に《易経》の乾の〈大いなるかな乾元,万物資始す〉に基づき,定められた。

1205年アルタイ地方に拠る強敵ナイマン部の撃滅をもって完結した太祖チンギス・ハーンのモンゴリア統一によって,後年アレクサンドロス大王の帝国をも凌駕するまでに成長するモンゴル帝国はその政治的基盤を固めた。ところで牧畜経済にとって唯一の資財たる家畜はその累積がきわめて困難な関係上,遊牧国家がその発展を期するために隣接する異なる経済圏の制圧を企てるのは匈奴帝国以来の通例である。モンゴル帝国にあっても引き続き北はシベリア南部,北部マンチュリア(満州)の狩猟民族(オイラート,ジュルチン族)の征服(1217),南は中国農耕社会への侵入(1214),西はウイグル商業国家の内属を許すとともにカラ・キタイの属領たる東トルキスタン都市国家群の攻略(1218)を果たすことによって,その基盤を急速に強化することになった。この時点においてモンゴル帝国と西隣するイスラム圏との間に通商協定が成立したことは,伝統的なシルクロード貿易の再開を望む両国合意の表れであった。この通商協定がホラズム国側の背信によって破られたとき,平和裏の安定成長を期待していたモンゴル帝国は態度を一変して,西域大遠征を敢行し,以後3代にわたる東西経略をへてようやく一段落する。

 すなわち第2代オゴタイ・ハーン(太宗)の治世にはロシア諸侯国が服属し金王朝および蒲鮮万奴(在位1215-33)の大真国が併合され,続く第4代モンケ・ハーン(憲宗)の治世にはアッバース朝の討滅と高麗,西蔵,安南の内属が決定し,ついに西は地中海から東は日本海にわたる帝国最大の版図が実現されることになる。この間,太祖は広大な領地を割いてアルタイ山以西の草原に諸子(長男ジュチの嫡子バトゥ,次男チャガタイ,三男オゴタイ)を,興安嶺左右の地には諸弟(次弟カッサールの諸子,三弟カチウンの諸子,四弟オッチギン)を分封し,ここにハーンを頂点とするモンゴル朝廷は一族諸王を頂く遊牧封建諸侯国(ウルス)を左右に率いて南方に征服した定住文化地域(中国,ウイグリア,ソグディアナ)を直轄領とする大モンゴル帝国の支配体制を整えたわけである。この南方定住文化地域は物的・人的資源において北方草原遊牧地域を圧倒する実質を有しており,その確保こそはハーンの権威ひいては帝国の統一にも関わる要件だっただけに,新設の諸ウルスにとってもやがてはそれが食指を動かす対象とならずにはおかないであろう。

 1251年,即位早々の憲宗が燕京,ビシュバリク,アム川(おそらくブハラであろう)に3行尚書省(中央政府の出張機関)を設置したのは,とくに有力な西北3ウルスに兆し始めたこの野望を制圧せんとする措置にほかならなかった。有力モンゴル諸王の勢力が定住文化地区に扶植されればそれぞれの個別性が強まり,帝国の統一に亀裂の生ずるおそれがある。憲宗没後の空位の時期に乗じてついにそれは現実化した。憲宗治下の9年間を通じて漢地総督に任ぜられていた諸王フビライが漢地勢力をバックにまず第5代ハーンに自立するや,これに呼応するかのごとく西北3ウルスがソグディアナ占拠に続いてオゴタイ家のハイドゥ・ハーンを擁立した。その成立よりまさに半世紀,大帝国はついにここに分裂する。この分裂の結果,フビライ・ハーン(世祖)の領域はほぼ東経85度線(アルタイ山脈から新疆ウイグル自治区東辺にかけて)以東に限られることになるが,この地域こそは大唐帝国の発展によって〈拡大した中国世界〉としての東アジアそのものであるから,世祖政権の性格もみずからこれに制約されて,モンゴル遊牧帝国から征服王朝としての元朝に変容せざるをえないであろう。もっとも元朝は創設後20年にして南宋を併合して全中国を版図内に含めたから,同じく征服王朝とはいっても,先輩のキタイ遼帝国,ジュルチン金王朝なみの簡単な統治様式ではすまされない。

 首都をモンゴリアのカラコルムから漢地の燕京(現,北京市)に移し,国号を大元と称し,中統と建元した元朝は,いよいよ中国内地に乗り込んで全領域の統一支配に着手することになるのであるが,その場合,金国の故地たる漢地こそが新国家の基盤であり(漢地を中書省腹裏と称して中央政府みずからが直轄するという前例のない統治制度),政権を担当すべき高級職官はひとり譜代関係をもつモンゴル,色目,漢人に限る(百官の長はモンゴルもしくは色目人をもってし,根脚ある漢人はこれに準ずという特異な官制)という統治綱目が鮮明にされた。この体制の下にあっては,かつての本土であったモンゴリア(達達地面)と南宋の故地たる江南が政局中枢部から疎外されるのは必然である。モンゴリアに残存する領袖たちは太祖から千戸長・百戸長に任命された同じ開国の功臣の子孫でありながら,漢地に移った朝廷に付随して宮廷貴族化した同僚に政権を壟断(ろうだん)されたため,帝位が替わるごとにその軍事力によって朝廷への割込みを策謀し,これで帝権の微弱,政局の不安定を招来する原因となった。他方これに対して江南では,元朝が科挙を廃して譜代門閥主義に基づく官僚任用法を採用したため,その代表者たる士大夫層はわずかに吏員出身の途によってせいぜい下級官僚に進出することができるだけだったから,自然に政治に対する熱意と責任感を失い,その結果,元朝100年を通じて真摯な政策論議,政治政策は何一つ生じないまままったく安易な姑息(こそく)政治で終始することになってしまった。

初期モンゴル帝国の統治機構は多分に粗放なものだったから,それを具体化した官制もきわめて簡単である。中央政府としては,ハーンのオルドに近侍するケシク(宿衛)の隊長がのちの枢密院使(軍政長官)と宰相とを兼任するほか,別に司法長官に相当するジャルグチ(断事官)が加わって構成されるだけであった。地方官制も太祖元年(1206)の制定にかかる千戸制(88功臣をもって95の千戸が任命された)に基づいて,これまた軍民兼領の千戸長Mingghan・百戸長Jaghunがモンゴル系・トルコ系遊牧民の統治を担当するものだった。もっとも新たな経略地に対しては,とくにダルガチ(監督官)が派遣されて服属国に課せられた義務(戸口調査,募兵,軍糧調達,貢賦徴収,駅伝設置)の履行を監視し督促したが,現地の有力者を安堵してその旧態支配を容認した当時の実情を考えると,目付役としてのこのダルガチ官は厳密な意味でのモンゴル統治制度とはいいがたいかもしれない。しかしながら経略の進展に伴って属領の範囲が拡大し,その隷属度にも安定が加わってくると,これら広大な地域に対しても中央からする自主的・一元的統治の必要と意欲が生じてくる。

 太宗朝の初年,ホラズム人ヤラワチ,ウイグル人田鎮海,女真人粘合重山,金国人耶律楚材らをもって構成された政治局が新設されるが,それは属領における種族・文化上の相違を考慮しつつ,それぞれに実行すべき基本政策(たとえば徴税制度についてならば,遊牧民では家畜数を単位とするのに対して,西域では人丁別,中国には戸別単位を適用するという原則の樹立のごとき)の審議決定機関にほかならなかった。黄河以北の漢地属領についていうならば,この新設の政治局による立案によって戸割税としての地税・課利(商税,専売税)の税目が立てられ,その徴収のために設置された十路徴収課税所(燕京,宣徳,西京,太原,平陽,真定,東平,北京,平州,済南の十路)が実に当地における正式制度の嚆矢(こうし)だったのである。モンゴル朝廷に新設されたこの政治局をのちの記録では中書省と伝えている。いうまでもなく中書省とは当時の中国官制では最高行政府つまり政府を意味する。この点,遊牧国家に共通する粗放な政治組織の中に属領とはいえ,先進的な定住民国家の官制が導入されることによって,モンゴル帝国の統治制度は大きく前進したわけである。十路徴収課税所をはじめとするこの種の属領施設は続く憲宗朝に降って,ついに中央政府の現地出張機関たる3行省(燕京,ビシュバリク,アム川)の下に統轄されるまでに至るのであるが,しかしまだこの段階では行省は朝廷の下部機関にすぎず,したがってカラコルム政府は依然として帝国政治の主座を堅持していた。カラコルム政府と行省とのあいだにその地位の転換が生じるのは,次代世祖朝を待って初めて実現するのである。

 漢地を基盤とする元朝の政治組織は,整備した中国的中央集権官制を採用して前代を一新した。中央に行政,軍政,監察を総括する中書省(正一品),枢密院(従一品),御史台(従一品)を設けて政府の中枢とし(以外に九寺五監の制度を変形した大宗正府,太常礼儀院,太僕寺,太府監,将作監,宣徽院,中政院など多数の内務府系統の官府があるが,すべて宮廷関係の庶務を執行するものであって統治には直接に関わらない),その直属下部機関を地方に分置して全国を覆う統治網とする。ただこの間モンゴル,ウイグル,チベット人を専管する大宗正府,都護府,宣政院が上記3衙門にほぼ匹敵する従一品・従二品の高級官府として中央に備わるのは,大型征服王朝としての元朝にいかにもふさわしい。だが,これと並んで今一つ元朝官制の重要な特徴は,中央政府が特定地区を限って直轄地とする(直轄地以外はすべて地方官制に属する)点である。中書省は現今の河北・山西・山東3省を限って腹裏と称し直接その路府州県の行政を統轄し,御史台は一面において内台と称し長江(揚子江)以北の漢地8道の粛政廉訪司も直属せしめてその監察を主管し,枢密院もまた京師,畿内の五衛・十二親軍都指揮使司をはじめ,漢地駐屯の諸万戸府の軍政・軍令をみずから指揮するのである。中央官制のこの特殊性は,当然その下に接続する地方官制に影響せずにはおかない。

 まず行政面では行中書省(行省),軍政では行枢密院(行院),監察では行御史台(行台)という広域区画の出現である。行省は腹裏を除く全国を河南,陝西,四川,甘粛,江浙,江西,湖広,雲南,遼陽に9大分し,その下に総計200路・400州(府)・1100県が上下関係をもって分属するもの,行院は四川,江南に分かれ,それぞれ四川行省と江西・湖広行省内の軍政を掌管し(のちには行省に併合される),行台もまた西台・南台に2分され前者は四川・陝西・雲南・甘粛の4行省内の4道,後者は江浙,江西,湖広の3行省内の10道粛政廉訪司を統轄する。いずれも地方官制であるから究極的には中央の省・院・台に隷属する機関であることに変りはない。行省を基調とするこの地方制度は,従前の州県制に比べて約40倍に拡大された広域行政区画の出現という点で画期的である。もっとも,広く地方政治全般の見地からすれば,宋の路制(監司。ただし宋の路制はまだ純然たる行政区画になっていなかった)を一歩進めた形態と解することも可能であろうが,しかしそれと同時に,漢地(とくに腹裏はその中枢部である)を基盤としてその統治に専念した元朝が,その結果手薄とならざるをえない地方(漢地以外の地域とは具体的にはモンゴリア・江南である)に対してこの分割支配・二段構えの統治方式を必要としたという内情,要するに征服王朝の立場を看過することはできない。

元朝の税役法は内郡(旧金国領)と江南(旧南宋領)とでまったく体系を異にしていた。歴代中国の統一王朝でこのような例は絶無である。内郡では田賦を穀物で納める税糧と徭役の代替として銀・糸(絹糸)を納入する科差とから成るのに対し,江南では宋の両税法に基づく税役法がそのまま適用されたからである。この場合,南宋平定後の江南に従来のまま両税法が施行されたのはきわめて自然であるが,問題なのは内郡に行われた税糧,科差である。すなわち田賦である税糧が〈丁税地税の法〉と称せられたように,丁男ごとに粟1石もしくは戸ごとに4石の計算で,そのいずれか多量の一方をもって納入額とするというまったく田賦らしからぬ規定を後世まで持続したのであった。他方,役銭の形が普通であるはずの科差においても,これまた戸ごとに糸11.2両(のちに22.4両)・銀6両(のちに4両)を割り当てる絲料・包銀の2種目からなっていて,ともにその特異性が目だつからである。この税糧・科差の法に見られる特異性の中に,実は13世紀中葉(モンゴル帝国~初期元朝)における華北地方の経済事情が反映されているのである。

 そもそも太宗元年(1229)に定められた田賦の均等戸割制などとは均田法のような前提下でなければ実行しえない制度である。それにもかかわらず耶律楚材があえてこれを主張したのは,西域式丁割税の原則を田賦の中にまで適用されるのを阻止するための便法だったことは無論であるが,それと同時に荒廃した華北の復興に役立てようとする意図をも含んでいたことを見逃してはならない。30年間にわたる戦乱で人口は激減し土地は荒蕪にゆだねられた華北の復興は,モンゴルに投降協力してその勢力の温存を許された各地の漢人世侯によってわずかにその緒に就いていた。このときに当たって厳格な税法が施行されれば復興は頓挫するどころか再び荒廃に逆転するおそれは十分である。復興を期待するためには漢人世侯にさしあたりの余力を与えねばならない。戸割均等税ならば世侯は管下に招集した小農民を合戸の形で申告してその余力を蓄えることができるであろう。しかしながら自主的支配に着手しはじめたモンゴル支配者側はいつまでもこの合戸制の特権を許さない。田賦の増加を図って太宗朝では2度の戸口調査(癸巳年(5年)籍・乙未年(7年)籍)が実行される反面,8年(1236)にはついに人頭税の原則を導入して合戸制を骨抜きにする上記の制度が成立したのである。元朝に入るとさすがに早々に1畝当り陸田は3升,水田は5升という面積当りの科率が定められて,ようやく伝統的な田税への回帰が試みられるけれども,西域的丁税のなごりは最後まで一掃されないまま元朝一代の定制となり終わるのである。

 これに対して科差の法には当時の情勢がよりいっそう強い影を落としている。元来,100年に及ぶ金・南宋の対立下において南北間の経済力の開きはすでに大幅に拡大していた。銅・銀の地下資源も他の特種産業もともに欠いている金国は,南宋とのあいだの片貿易による正貨(銅銭)流出に早くから悩んでいた。すでに中期には,この不足を大量の紙幣発行によって補わねばならなかった。そしてモンゴルとの交戦が続く末年に至って,増大する軍事費をまかなうために乱発された不換紙幣が,ついに通貨としての機能をまったくうしなううちに金国は滅亡するのである。もっとも前後70年間にわたって南宋から献ぜられた銀30万両,絹20万匹の歳幣は国家財政に少なからぬ寄与をなしたであろうが,しかし総額2000万両を超える歳幣銀がそのまま国内に蓄積されるはずはない。こうしてモンゴルの支配下に入った当時の漢地では,一般には糸,そして特別な場合を限って銀が通貨の役割を果たしていた。したがって免役銭に相当する科差の徴発も最初は農耕自然経済にふさわしい糸料が科徴され,次いで西域的発想に基づく包銀の種目が立てられることになった。

 しかしながら元朝が成立すると,民間主動型の不安定なこの糸建て・銀建て経済をそのまま放置することはできない。といって領内に銅・銀の産地を持たない元朝としては唯一つ信用度の高い紙幣を発行して経済の安定を図る以外に方法はない。1260年(中統1)に発行された中統鈔は,準備金を備えて金銀との兌換を認めるほか税糧を除く全公課の紙幣納を許すという保証によって裏付けられていた。この措置が効を奏して交鈔が円滑に流通するのに自信を得た元朝は,南宋平定後の江南に対しても南宋会子を50対1の割合で中統鈔に交換させる一方,銅銭使用を禁止し,もっぱら中統鈔による通貨の統一を推進し,かつこれに成功したのである。前後に比類のない紙幣一本建ての通貨政策を,1世紀たらずの比較的短い期間ではあるが,その一代を通じて貫徹させた元朝は,銅銭鋳造に要する莫大な負担からまぬかれたばかりでなく金・南宋の対立によって中断されていた交換経済の全国的循環組織を復興することができた。全国から課利として国庫に流入する紙幣の上に年々国家の発行する新紙幣を加えた総額は,ただちに朝廷および俸給としてこれを受領した畿内の官吏・将兵の購買力に転換するから,商人の手を経て各地より将来される購入物質と引き換えられて再び生産地に還元され,それぞれ再生産の資金となるであろう。とくに江南の特産品たる絹織物(江浙,四川),茶(江浙,四川,湖広),砂糖(四川,江浙),紙(江西,江浙),陶磁器(江西,江浙),漆器(江浙)の奢侈商品は大都を中心とする畿内に巨大な新市場を得て両宋期に劣らぬ拡大再生産に活気を帯びるに至った。

 かくして南北運輸の大動脈である大運河は元朝早々に淮安から大都にまで延長されたが,元朝ではとくに年間300万~400万石に及ぶ漕運すなわち江南税糧の京師輸送を海運に切り換えたため,運河による江南物資の輸送量はそれだけ増大したはずである。このような状況のもとで,おのずから商業は盛んになり都市は発展する。都市が発展すればまたそこに購買力が増えるわけである。この国内商業の旺盛さは当然ながら国際貿易にも反映しなければならない。海路貿易では東シナ海(東海)向けの明州(寧波),南シナ海(南海)向けの泉州が中心となって南宋以来の盛況が維持される。とくに泉州の繁盛ぶりはマルコ・ポーロをして世界第一の開港場だと驚嘆せしめるまでであったし,他方陸路貿易も漢・唐をしのぐまでの繁栄を現出した。

征服王朝とは元来が多民族国家である。とくに元朝はモンゴル世界帝国からの分身である関係上その色彩が濃い。とりわけ特徴的なのは多数の西域人の参加である。元朝ではウイグル,カルルク,イラン,アラブ,キプチャク人などを中心とする彼らを一括して諸色目人,つまり〈西方系諸種族〉と総称した。色目人は太祖のモンゴリア統一と相前後してこれに帰属したから,モンゴル帝国への内属の順序は金国治下の華北の住民(漢人),南宋の遺民(南人)よりも先んじていた。したがって朝廷との譜代関係も一般的にこの序列に応じて発生し成立するのであるが,とくに色目人はカルルク,キプチャク以下のトルコ系種族のように軍事的に顕著な協力者であったほか,ウイグル,イラン系種族のように国家の建設面においても多大の貢献を果たした。自分たちに欠けている色目人のこのような能力を十分に認識していたモンゴルが,圧倒的多数の全中国の民衆を支配するに当たって,彼らの協力の必要をいっそう強く感ずるのは自然である。色目人を支配者の代理人に仕立てるため,元朝は彼らに居住制限の撤廃,仕官上の優遇,特殊営利活動の許容,本俗法の勧奨という各種の特権を認めたが,なかでも中国人と生活様式を異にする彼らの本俗法の維持は中国民衆とのあいだに異和感,ひいては利害の対立を容易に解消せしめず,所期の目的達成に大いに効果的であった。この結果,元朝の全体社会には中国人とは異なる特殊な色目人社会が併存した。マルコ・ポーロが中国の言語,文字,風俗,習慣に通じないまま17年間の元朝滞在に困難を感じなかったゆえんである。

 蒙古,色目,漢人,南人の区分は特権に基づく身分規定であるが,これと平行して徭役義務のうえからも法制化された諸色戸計の身分規定は特権をもたない漢人・南人の一般庶民を対象とするものだけに内容も複雑である。諸色戸計とは一般民戸を狭義の民戸,站戸,軍戸,匠戸などに区分し,それぞれに特定の徭役を世襲せしめる(民戸には一般郷役,站戸には駅伝維持の諸負担,匠戸には各種の造作,軍戸には軍役を賦課する)ものであるから,まさしく身分規定とみなしてさしつかえがない。なかでも軍戸は元朝兵制を支える重要基盤であるにもかかわらず,江南には施行されないでひとり漢人戸のみをもって編成されたから,徭役の偏重による軍戸の疲弊をきたしてそれが各種の社会問題の原因となった。元来,軍戸は身役に当たる正軍戸とこれを経済的に支援する数戸の貼軍戸とで構成され,最高400畝までの田賦免除の特典が各自に与えられているのであるが,公私の収奪にたえかねて発生した逃軍戸が多く,漢地に南接する江淮地方に流移した。ところで,江淮地方では宋・金の対立に伴う長期間の臨戦態勢下に進展した広範な曠地が元朝に籍没されて屯田・営田以下の官田経営の対象となっていた。したがってこの地に逃亡した逃軍戸は官佃戸に変身するか,さもなければ大運河沿線の運輸労働者に転落するより道はない。いずれも生活基底はきわめて薄弱であるから,この種の零細民が集中する江淮地区は,漢地の江南に比べて著しく民生の不安定な特別地区とならざるをえない。元朝末期,たまたまの水害と黄河堤防補修のための臨時徭役とが原因となって河南の各地に飢民が蜂起し,これがついに元朝を倒す大動乱にまで発展する結果になるのである。

元朝治下に維持された色目人社会とは,彼ら本俗に基づく独自の文化圏そのものであっただけに,当然そこでは言語なら主としてイラン語,トルコ語,文字はアラブ文字,ウイグル文字,宗教はイスラム教,ラマ教,キリスト教などがそれぞれ爾余の生活文化一般を伴って活用されていた。しかもその一部は元朝に採用され(上記の人頭税的田賦,公課の銀納制以外にウイグル文字,パスパ文字,ラマ教,回回暦法の採用がある),ないしは国家制度の対象ともなったのであるから(回回司天監,広恵司(回回薬物の修製),回回国子監,崇福司(キリスト教徒を管理する),回回哈的所(イスラム教徒を管理する),宣政院(ラマ教徒を管理する)),ある程度までそれがモンゴル支配層のあいだに浸潤していたはずであるが,こと中国人社会との接触となるとほとんどその痕跡が見当たらない。《輟耕録》が元末の杭州城内に居住する回回人についてその異様な婚礼儀式を特筆しているように,色目人の生活文化は中国人社会のそれとは隔絶していたわけである。したがって伝統を保守する中国人社会にとって元朝の採った科挙制度の廃止は,その学問・文化に甚大な影響を与えずにはおかない。既述のように元朝では門閥主義に基づき漢人世族をもって高級官僚を充足し,下級官員のみが低級な実務知識による吏員歳貢制で採用されたから,彼らにとって儒学の高い教養は無用の長物である。廟堂に立って治国の道を論じ政策決定に参与するのではなくただ単なる事務処理を職能とする下級官員に甘んじて入仕した彼らの教養は,まさしく庶民の教化に適合するであろう。

 歴朝の文運を要約して漢の文章,唐の詩賦,宋の理学と称せられる中に,元についてはその文芸を代表して戯曲が挙げられる(雑劇)。この戯曲に象徴される庶民文化こそは社会の指導者,文化の担当者たる士人の素質が科挙時代に比べて著しく低下したのに伴って生じた士風一変の結果にほかならない。もっともこのような趨勢の間にあっても伝統文化の維持をはかる努力が絶無だったわけではない。むろんその数は寥々たるものだったけれども,江南士人のあいだにその例が認められる。いずれも吏員歳貢制による俗吏仕官を拒絶してこの困難な道を選んでいるが,そこには中国の正流を継承した宋王朝と征服王朝である元朝との間に存するあまりにも大きな文化的懸隔が彼らの使命感を駆りたてた跡がはっきりと読みとれる。在野の処士としてなしうるところは,わずかに著作によって制度を遺し,私塾教育によって学統を伝えるだけに限られよう。胡三省の《資治通鑑(しじつがん)》の注,馬端臨の《文献通考》は前者の偉大な業績であり,黄溍,戴表元の儒学は後者の労苦の末の成果だった。もっとも国家の教化いかんがその盛衰を左右するとみなす伝統的文化観の下にあっては,在野の学問はしょせんその枝葉にすぎない。しかしそれだけに,過剰な政治意識から解放された処士の間には,政治社会の外側に立って自然を見つめる機会が与えられた。これが学問面では老荘的な無為思想への傾斜をきたし,芸術面では山水の中に心境を託する文人画,田園詩となって現れてくる。
モンゴル帝国
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1266年(文永3)フビライは通好のため黒的,殷弘を国信使として日本に派遣したが,風波が荒く,渡日せぬまま帰国した。翌67年フビライは高麗に命じて日本へ元の国書を伝達させ,高麗は潘阜を使者として日本に派遣した。潘阜は68年1月に大宰府に到着し,蒙古・高麗の国書は鎌倉幕府から朝廷に送られたが,朝廷は蒙古への返書をしなかった。69年にはフビライの使者黒的一行が対馬に到着し,島民2人をつれて引き揚げ,同年9月には高麗の使者が2人の島民をつれて対馬に来たが,日本は返書を与えず追い返した。70年フビライは,三別抄の反乱中の高麗に対して造船,徴兵を命じ,日本遠征のための屯田経略司を置いた。同年12月,趙良弼が日本招諭のための日本国信使に任命され,翌71年9月に筑前今津に到着したが,日本の返書が得られないまま帰国した。73年2月,元の南宋制圧は目前に迫り,同年4月には三別抄の反乱が平定され,元は日本遠征への準備を進めた。74年(文永11)正月,元は高麗に大規模な造船命令を下し,2万8000の軍兵と900艘の艦船が準備された。同年10月3日,忻都,洪茶丘らに率いられた元・高麗の連合軍は合浦を出発し,日本を襲い,博多湾岸で激しい戦闘が展開されたが,勝敗が決しないまま,10月21日,元軍は博多湾から姿を消し,第1次日本遠征は失敗に終わった。

 鎌倉幕府は元の再襲に備えて異国警固番役を設け,石築地(いしついじ)を築き,博多湾一帯の防備を厳重にした。75年(建治1)4月元使杜世忠らが長門に到着したが,同年9月鎌倉竜口で斬られた。一方,日本から高麗を逆侵攻する異国征伐の計画がたてられたが,実現しなかった。79年(弘安2)元は南宋を滅ぼし,81年フビライは第2次日本遠征出発の命令を下し,東路軍,江南軍合わせて14万の大軍が日本を襲ったが,猛烈な暴風が鷹島に集結した元軍を襲い,元軍はほぼ壊滅した。その後フビライは第3次日本遠征を計画し,準備を進めたが,反乱などによって中止され,フビライの跡を継いだ成宗が,使僧を日本に派遣して招諭を行い失敗したのを最後に,元は日本の招諭を断念した。このような状況の下で,いっぽうでは民間レベルでの貿易関係が維持され,76年元は泉州,広州,慶元,上海,浦に市舶司を設けて貿易の管理にのりだし,78年にフビライは日本商船の貿易を許可した。弘安の役後も元は日本商船の貿易を認めたが,日本の大陸進攻におびえる元の官吏は日本商船を特別に警戒し,日本人を迫害したため,日本商人らは武装して元の官吏と争い,略奪を行うなどして,倭寇発生の原因を作った。また,日本の大寺社は官許貿易船を元に派遣して造営費捻出を図った。日・元間の文化的交渉も盛んに行われ,多くの文物が将来され,元に留学する禅僧や元から来朝する僧も多数あらわれ,日本の文化に多大の影響を与えた。
モンゴル襲来
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元 (げん)
Yuán

中国大陸,台湾,香港に流通する銀行券の基本単位。ただしそれぞれの地域によりその基礎が同一でないことはもちろんである。歴史的には銅を通貨用に円(圓)く鋳造したことから銅圓という言葉が生まれ,圓が貨幣単位として使われるようになった。元は圓と中国語で同音である。近代的通貨としての元は1933年,35年の幣制改革後に成立した。清末までは,伝統的な銀,銅などの鋳貨と列強の銀貨に模して発行するようになった銀元とが併存した。民国時代には後者の銀元建取引を行おうとする民族資本が成長し,1933年銀本位制の採用に成功した。続いて35年法幣制が採用され,不換紙幣の元の時代へと移行した。

 今日の中国大陸の元は解放区において発行されたのがその始まりである。すなわち,中国共産党は対国民党,日本軍との間で通貨戦争を闘ったが,1解放区1発券銀行の政策をとった。48年12月,人民幣の発行を開始し,各解放区の異なる通貨,国民党・列強の通貨の統合を試み,中華人民共和国成立(1949年10月1日)後の51年11月に終了した。この統一は旧金融業者,金融資本に対する人民権力の勝利を象徴する。人民銀行が唯一の発券銀行となり,全国を統一した。55年3月1日に大幅なデノミを断行し,今日の元となった。元の基礎に,十進法による角,分の単位がある。外貨との交換比率(為替レート)は1950年に対ルーブル固定交換比率が決定され,その他の通貨とはルーブル対ドル交換比率を介して算定されてきた。しかし西側各国が変動為替相場制に移行したのに伴い,ドル・元交換比率も人民銀行の決定により,74年9月以降変動させている。なお,81年1月以後,この比率のほか国内では1ドル2.8元という交換比率が採用され,この結果実質的二重相場制になっている。また外国人用に外貨兌換(だかん)券の元を発行し,国内価格と国際価格の遮断を試みていたが,94年1月から国内の元(人民元)は変動制に移行,二重相場制に終止符を打った。
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元 (げん)
element

ある集合を作っているおのおののものを,その集合の元,または要素という。例えば,実数全部の集合Rについては,各実数がその元(要素)であり,自然数全体の集合Nについては,1,2,3,……がその元である。aが集合Mの元であることを表すのにはaM,またはMaのように∈,∋を用いるのがふつうである。aMの元ではないことはaMMaのように∉,を使うことが多いが,が使われることも少なくない。上のRNについて,例えば,0.5∈R,0.5∉Nである。
集合
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「元」の意味・わかりやすい解説

元(中国の王朝)
げん

中国の王朝(1271~1368)。モンゴルが金(きん)と南宋(なんそう)を滅ぼし、異民族として初めて中国全土を支配した、いわゆる征服王朝である。元(大元)という国号は、『易経(えききょう)』の「大なるかな乾元(かんげん)」に基づく。

[竺沙雅章]

建国過程

外モンゴリアのオノン、ケルレン両川の上流地域に台頭したモンゴル部の部族長テムジンは、周辺の諸部族を平定し、1206年クリルタイ(大集会)において大ハン位に推挙され、チンギス・ハンとなった。中国側ではこの年を元の太祖(チンギス・ハン)即位年とする。彼は強力な軍隊を編成して、東は金領に侵入して黄河以北の河北、山東の地を獲得し、西は中央アジアから南ロシアまで制覇し、アジア、ヨーロッパにまたがる空前の大帝国、モンゴル帝国を築いた。1227年、西夏(せいか)を滅ぼし、金の討伐に向かったが、その途上で病没した。彼の後を継いだ第3子オゴタイ・ハン(太宗)は、南宋と結んで金を挟撃してこれを滅ぼし(1234)、華北全域を掌中に収めた。彼は父の遺業を継いで統治組織を固め、駅伝の制を定め、紙幣を発行し、税法を整え、カラコルム(和林)に都城を建設した。とくに漢地の経営では、チンギス・ハン以来の重臣、耶律楚材(やりつそざい)を重用し、その献策に負うところが大きかった。

 最後に残った南宋の攻略は、第4代モンケ・ハン(憲宗)のときに始められた。彼は、漢地大総督に任命して漢地の統治をゆだねていた弟のフビライと力をあわせ、3方面から南宋に侵攻したが、合州(四川(しせん))の陣中で病没した。そこでフビライは一時停戦して急いで北帰し、開平(上都、ドロンノール)に彼の支持者だけを集め、独断でクリルタイを開き、大ハン位についた。すなわち、元の世祖(せいそ)である。中国風に年号をつくって中統元年(1260)とし、大都(北京(ペキン))を国都に定め、上都を副都にして夏季はここに避暑した。さらに1271年に国号を大元と称し、ここに彼は中国流の天子になったのである。これに対して本地の王族たちは、フビライ・ハンを承認せず、別にクリルタイをカラコルムに開いて、末弟アリク・ブハを大ハンに推戴(すいたい)した。そのため両者の間に相続争いが起こったが、経済力に勝るフビライ・ハンが勝利を収めた。

 当時、中央アジアには、チンギス・ハンの諸子分封に由来する4ハン国が存在していたが、元朝が成立すると、それぞれ分離独立していった。モンゴル帝国の分裂を決定的なものにしたのは、1268年以来30年にわたったハイドゥ(海都)の乱であった。元朝は、その後も宗主国の地位にはあったけれども、諸ハン国への支配権は及ばず、いよいよモンゴリアと中国とを支配する中国王朝の性格を強めることになった。一時中断した南宋征討は、周到な準備を経て1268年に再開され、76年正月には都の臨安(杭州(こうしゅう))を陥落させた。南宋はこのとき事実上滅亡した。なおも抵抗を続ける文天祥(ぶんてんしょう)らを追撃して、79年になって完全に南宋を征服した。その勢いに乗じて、高麗(こうらい)を服属させ、さらに、日本にも遠征軍を二度にわたり派遣(元寇(げんこう))したが、失敗した。また南方には安南、ビルマ(現ミャンマー)、ジャワに遠征して、ジャワを除く東南アジア諸国を従属国にした。

[竺沙雅章]

統治体制

異民族が中国に入って支配者となった場合、しだいに中国の高い文化に同化されることが多かったが、元朝は中国統治に際して、モンゴル人に政治的、社会的特権を与えて、支配者の地位を保証する体制をつくり、民族固有文化の保持を図った。これをモンゴル至上主義という。それを示すものが民族別の身分制度であって、モンゴル人、色目(しきもく)人(ウイグル人、イラン人など)、漢人(旧金領下の漢人、契丹(きったん)人など)、南人(旧南宋治下の住民)の4階級に分けられた。そのうちモンゴル人が政治の要職を独占してあらゆる特権を享受し、色目人はモンゴル人の不得意な財政などを担当して、やはり支配者の列に加えられた。数のうえでは圧倒的に多い漢人と南人とが被支配者の地位に置かれ、政治の中枢に参画できず、法律上でも著しい差別があった。

 中央政府は宋代に始まる君主独裁制を継承して、中書省(行政)、御史台(ぎょしだい)(監察、司法)、枢密(すうみつ)院(軍事)を分立し、各長官の合議で国務を決定した。それぞれの長官にはおおむねモンゴル人が任命され、それ以外で宰相になった者は元朝を通じてわずか3人にすぎなかった。地方行政では伝統的な州県制を継承するとともに、州のうえに路(ろ)を置き、都市には特別に市内行政を行う録事司(ろくじし)を設けた。畿内(きない)を意味する腹裏(ふくり)(河北、山西、山東)は中書省の直轄であったが、その他の地域には行中書省が設けられた。これは、初め中書省の出張所として臨時に置かれたものであるが、のちには皇帝に直属する常置の地方官庁となった。略して行省(こうしょう)といい、現在の行政区画「省」はこれに由来する。河南江北、陝西(せんせい)、四川、甘粛(かんしゅく)、遼陽(りょうよう)、江浙(こうせつ)、江西、湖広、雲南、嶺北(れいほく)の10行省が置かれ、それぞれ地方行政全般に広い権限をもった。もとより、各長官はモンゴル人を任命するのが原則であった。また路以下の官庁には、ダルガチ(達魯花赤)とよぶ独特の官が置かれた。これは断事官とも訳され、地方行政全般について決定権をもつ最高責任者であり、次官以下の漢人官僚を監視する目付役でもあった。

 元朝は伝統の官吏登用試験である科挙を廃止して、高級官僚の任用は世襲、恩蔭(おんいん)、推挙制などの門閥主義によった。門閥といっても貴族社会のそれとは異なり、朝廷と特別な関係をもっているかどうかが基準となった。それ以外に官吏になる道は胥吏(しょり)(事務員)から昇進することであったから、知識人たちは従来の士大夫(したいふ)的教養を捨てて、低級な仕事と軽蔑(けいべつ)してきた吏学を学んで胥吏となった。しかし科挙の復活を望む声が士大夫の間に強く、そこで仁宗の1314年、初めて実施されたが、合格者の数は少なく、官制上に大きな意義はもたなかった。

 人民はすべて職業によって軍、站(たん)、匠、民をはじめ、僧、道、儒、医などのいずれかの戸籍に登録され、それぞれの職能に応じて各種の負担が義務づけられていた。その大部分を占める民戸のうち、漢人は税糧(丁税もしくは地税)として粟米(ぞくまい)を納めるうえに、力役にかわる科差として糸料と包銀を納めた。南宋滅亡後、世祖は科差を江南にも施行しようとしたが成功せず、結局、この地域では、南宋に引き続いて両税法が行われた。

[竺沙雅章]

経済・社会

アジア、ヨーロッパにまたがる大帝国がつくられ、しかもジャムチ(駅站)が全国に設けられて交通の安全が保証されたので、東西の陸上交通は頻繁になり、遠隔地間の商業が著しく発展した。また杭州、泉州などを出口にして、南海、インド洋を通る海上交通も盛んになった。遠隔地商業の主役を務めたのは、色目人系のオルタク(斡脱(あつだつ))商人であった。オルタクとは、宮廷や諸王の営利事業を委託された特定の商人組合をいい、その商人たちは高利貸を業とし、支配階級と結び付いて、徴税の請負も行っていた。南北に分裂していた中国が統一されたので、国内商業もいっそう活発になり、江南を中心にして諸産業の発達、商業都市の勃興(ぼっこう)を促進することになった。江南の米や物資を輸送するために大運河が整備され、海岸に沿って北上する海運も始められた。

 元朝では銅銭はほとんど鋳造されず、紙幣(交鈔(こうしょう))の一本建てという、他の時代にはみられぬ独特の通貨政策が行われた。すなわち、元朝成立早々の中統元年(1260)に銀を準備金として「中統元宝交鈔(中統鈔)」を発行し、さらに至元24年(1287)「至元通行宝鈔(至元鈔)」を発行して、至元鈔1貫を中統鈔5貫にあてた。両鈔は民間における信用が高く、下落しながらも元末まで紙幣としての機能を果たした。もっとも、末期には乱発されて、交鈔50貫でも1斗の粟(ぞく)にかえられぬという悪性インフレを起こし、元朝滅亡の一因となった。

 モンゴルの王公貴族は、初めて漢地に侵入したときから広大な封地(投下)を与えられたが、南宋滅亡後は江南の肥沃(ひよく)な田土も彼らに分賜された。しかも土地所有の制限がなかったので、大地主、寺院、道観などの江南における土地兼併は宋代以上に激しかった。一方、世祖は建国すると、漢地に社制を施行した。これは、戦乱で荒廃した華北の農村を復興し、農業生産力を高め、農民生活の安定を図るために設けられた自治組織であって、50戸を1社とし、社ごとに農事に明るい年長者を社長に任命して、勧農と教化とにあたらせた。のちに江南にも拡大されたが、しだいに形式化して、勧農の実をあげることができなくなった。

[竺沙雅章]

衰亡

元朝の最盛期は世祖フビライ・ハンの治世35年の間であって、その後はしだいに衰亡の道をたどった。衰退の原因の一つは、帝位継承をめぐる宮廷の内紛であった。元朝になって以後も、クリルタイは形式上は残っており、後継者はこの会議で決定されたから、皇帝の死後には宗室、重臣の間でかならず相続争いが起こり、その結果、第3代武宗から第10代寧宗までの26年間で実に8人の皇帝がかわっている。そうした政情不安につけこんで、私利私欲をたくましゅうする権臣が現れて、政治の混乱に拍車をかけた。そのうえ歴代皇帝はチベット仏教(ラマ教)を狂信して、大規模な法会を行い、五台山などに盛んに寺塔を建立して乱費を重ね、国家経費の3分の2はチベット仏教への布施にあてられたとまでいわれる。当然、財政は赤字となり、その補填(ほてん)のために紙幣を乱発して経済界を混乱させた。さらに天災が相次いで大量の流民が発生し、モンゴル至上主義に対する民族的反感も急激に高まって、各地に反乱が続発した。その中心勢力を形成したのは、「弥勒仏(みろくぶつ)下生」を説く白蓮(びゃくれん)教徒であった。彼らは頭に紅(あか)い布を巻いたので「紅巾(こうきん)の賊」とよばれた。こうして華中地域に群雄が蜂起(ほうき)して大混乱となったが、そのなかから朱元璋(しゅげんしょう)が頭角を現し、群雄を次々に倒して、明(みん)朝を建て、北伐してついに元を滅ぼした(1368)。

[竺沙雅章]

文化

モンゴル支配は中国の伝統文化にも大きな影響を及ぼした。東西交通が盛んになった結果、西方文化が中国に伝えられたが、宗教ではイスラム教が漢人の間にも広がるようになり、在来のネストリウス派キリスト教に加えてカトリックも伝来し、モンテ・コルビノは世祖のとき大都にきて、初めてカトリック教会を建てた。モンゴル人自身はチベット仏教を信じ、これ以後、チベット仏教は彼らの宗教になった。また在来の宗教では、道教は、金代におこった全真教が華北に、伝統ある正一教(せいいちきょう)は華中を本拠にして栄え、仏教では禅宗の隆盛がみられた。それにひきかえ儒教には概して冷淡であった。モンゴル軍が初めて華北に入ってきたとき、一時的ではあったが、儒者たちは一般人民と区別なく捕らえられて奴隷にされた。かつては社会の指導者として尊敬を集めていた彼らの地位は低下して、当時、「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八民、九儒、十丐(かい)」といわれ、儒者はわずかに丐すなわち乞食(こじき)よりは上であるとされた。一面、このように儒者、士大夫の地位が低下したことによって、従来なら高尚な士大夫文化の陰に隠れて表面に現れなかった下積みの文化が、この時代には台頭し、庶民を対象にした演劇や芸能、とくに雑劇とよばれる戯曲(元曲)が発達した。その作者たちは、作家組合(書会)のメンバーとか俳優であった者など、おおむね下層の知識人であった。また『西遊記』『水滸(すいこ)伝』などの口語小説の原型もこの時代につくられた。一方、江南が初めて異民族の支配下に置かれたことは、この地方の士大夫に大きな衝撃を与え、鄭思肖(ていししょう)のように元朝を憎悪し抵抗の姿勢を崩さなかった者、王応麟(おうおうりん)、馬端臨(ばたんりん)などのように、新王朝には仕官せずに、もっぱら学問に打ち込み著述に専念する者がいた。士大夫はこれまで政治家になって国を治めることを目的に学問してきたが、元朝では科挙が廃止され、官僚になるには胥吏から身をおこさねばならない。それを潔しとしない江南の士大夫たちは、政治を離れて詩文や書画の世界に没入した。その結果、蘇州(そしゅう)などにはひたすら文学、芸術を追求する新しい型の「文人」層が生まれ、明代に受け継がれて、自由奔放な市民文化が咲き乱れた。東西交通が活発になった結果、多くのイスラム商人やキリスト教宣教師たちが中国を訪れて、西方の天文学、暦学、地理学、医学などを伝え、それを吸収して、授時暦をつくった郭守敬(かくしゅけい)のような学者が現れた。またマルコ・ポーロらは東方事情をヨーロッパに伝え、それが地理上の発見の契機を与えた。

[竺沙雅章]

『『吉川幸次郎全集14 元雑劇研究』(1958・筑摩書房)』『愛宕松男著『世界の歴史11 アジアの征服王朝』(1969・河出書房新社)』『『岩波講座 世界歴史9』(1970・岩波書店)』『田村実造著『中国征服王朝の研究 中』(1971・東洋史研究会)』『安部健夫著『元代史の研究』(1972・創文社)』『前田直典著『元朝史研究』(1973・東京大学出版会)』『マルコ・ポーロ述、愛宕松男訳注『東方見聞録』(平凡社・東洋文庫)』『竺沙雅章著『征服王朝の時代』(講談社現代新書)』



元(中華人民共和国の通貨)
げん

中華人民共和国の法定通貨である人民幣の略称および単位。人民元ともよばれ、RMB(人民幣の原語読みrenminbiの略号)または¥(元の原字は圓=円、中国語の発音はユアンyuan)の記号で表記される。1元=10角=100分と定められている。ただし、口語では一般に、1塊=10毛=100分が用いられる。人民元が中国人民銀行のみが発行する中国唯一の法定通貨であることの法的根拠は、「中華人民共和国中国人民銀行法」の「第三章人民幣」である。

 新中国成立以前には、国民政府の支配地域では金円券や銀円券が流通し、中国共産党支配地域では解放区ごとに各種通貨が発行されていたが、人民政府樹立に伴い解放区において1948年1月から通貨の統一が実施され、同年12月中国人民銀行の設立とともに新紙幣すなわち人民幣が発行された。1949年10月の新中国成立直後は、膨大な財政支出の大部分を紙幣の増発に依存せざるをえず、元の価値の下落と物価の動揺を招いた。陳雲(ちんうん/チェンユン)、薄一波(はくいっぱ/ポーイポー)らを責任者とし、1950年3月、「三平」政策(物財、財政、信用の三つの面における均衡化)に基づき、「財政・経済の統一工作」が実施され、中国人民銀行による現金管理の強化が図られた結果、通貨は安定に向かい、農村での流通も拡大され、1951年末までに人民幣による全国的に統一された通貨体制が確立された。その後、1955年3月に1万分の1のデノミネーションが実施され、現在に至っている。

 現在、もっとも多く流通している人民元紙幣は、1999年10月1日から建国50周年を記念して発行された第5版セットおよび2005年8月31日に出されたその改訂版であり、額面は6種(100元、50元、20元、10元、5元、1元)である。硬貨は、現在、1元、5角、1角、5分、2分、1分の6種が流通している。

 元の対外為替(かわせ)レートは、解放直後には、各地区の物価の不統一から不同であったが、1950年7月8日に中国人民銀行総行(本店)が為替レートを公布することにより全国統一レートが実現した。以来、元レートは中国人民銀行により決定されてきたが、1979年3月に国務院直属の機構として、外国為替を集中管理する国家外国為替管理局が設置され、中国外国為替管理暫行条例(1980年2月公布、1981年3月より施行)に基づき、同局が為替レートを決定することとなった。以後、外貨の統一管理政策の下で、外貨市場は存在せず、元の交換レートは、国家が決定し、調整を行う方式が維持されてきた。改革開放政策が開始された1979年になり、外貨留保制度(輸出企業に対し、獲得外貨使用権の一部を留保することを認めた制度)が実施されたことに伴い、留保外貨を企業が相互に融通することが認められ、新たに設置された「外貨調整センター」が仲介機能を果たすこととなった。この結果、徐々に上海(シャンハイ)など大都市を中心に外貨調整市場が形成されたが、その範囲は、各調整センターの管轄地域内での限定的な取引にとどまり、全国的な市場ではなかった。調整市場における取引は、調整為替レートによって行われたため、人民元は、公定為替レートと調整為替レートが併存する二重為替レート制がしばらく続くこととなった。なお、1980年以来、中国国内における外国人旅行者、外国人居留者、および外国企業は、中国銀行が発行する「外貨兌換(だかん)券」のみを使用することが許され、人民幣の使用、保有は禁じられていた。外貨兌換券は公定レートによって外貨と交換された。しかし、外貨兌換券を使えば、人民元では買えない外国製品の購入が可能であり、また外貨への交換も可能であることから闇(やみ)レートによる闇交換の横行という問題があった。

 1994年、中国では、当時副総理兼中国人民銀行行長であった朱鎔基(しゅようき/チューロンチー)の指示の下、財政、金融、貿易、労働、企業体制など広範にわたる大改革方針が打ち出されたが、その一環として外貨管理体制の改革が実施された。改革の主内容は以下のとおりである。

(1)外貨決済の禁止 国内での決済は、すべて元で行い、外貨決済を禁止。また、「外貨兌換券」も廃止。

(2)銀行に外貨を集中 企業の外貨保有を認めず、獲得外貨はすべて銀行(国家外国為替管理局から外国為替業務取扱いを認可された外為(がいため)指定銀行)に売り渡し、外貨の必要時には、実取引の裏付けのある有効な証憑(しょうひょう)に基づき銀行から外貨を購入する。

(3)銀行間外貨市場の創設 外貨取引センターを設立。国内銀行、外国銀行支店、一部のノンバンクを構成メンバーとする会員制取引所で、本部を上海に設置し、特定の大・中都市に置かれた出先センターとコンピュータのネットワークで結ばれている。これにより、中国で初めて全国統一のインターバンク(銀行間)外貨市場が創設された。

(4)全国単一交換レートによる人民元の管理フロート制への移行 需給動向による市場相場を基礎とした管理された変動為替相場制度の採用。具体的には、中国人民銀行は、前日の外国為替市場における各取引の成約金額と成約価格を加重平均して算出した価格を、当日の公表人民元為替レートの中値(基準為替レートと通称される)として発表する。各外為指定銀行は、この基準為替レートに基づき、定められた変動幅のなかでおのおの取引に適用する為替レートを公表し、企業や個人との間で人民元と外貨の売買を行う。

 この外貨管理制度改革の実施は、1996年4月1日から、新たに「外国為替管理条例」が施行(1996年1月29日公布、1997年1月14日改定)されたことにより、法的に裏づけられた。

 この間、人民元の対米ドル公定交換レートは、1989年12月に21.2%、1990年11月に9.6%それぞれ切り下げられた。1994年1月に前記の改革が実施され、為替レートが一本化された際に、それまでの1米ドル=5.81元から8.7元と33.2%の大幅切下げを経た後、管理フロート制の下で、緩やかな元高の傾向にあった。

 しかし、1997年7月に発生したアジア通貨危機の影響が中国経済にも浸透するなかで、元切下げの噂(うわさ)が広がり国際的に波紋をよんだが、中国政府は繰り返し元切下げを行わない旨の声明を出す一方、中国人民銀行がドル買い・元売り介入を実施し、1米ドル=8.28元前後に維持する政策をとった。前記のとおり、人民元は、1994年以降、外国為替市場の設立により、二重為替レート制から管理された市場レートに一本化された管理フロート制に移行したものの、この段階では、実質的にドル・ペッグ制(ドルに対しては固定相場制)になった。

 その後、21世紀に入ると、アジア通貨危機の沈静、中国の経済的躍進および外貨準備の急速な積み上がりなどの状況のなか、人民元レートは過小評価されているという見方が広がり、切上げへの国際的な圧力が増大した。

 こうした背景の下、2005年6月天津(てんしん/ティエンチン)にて開催されたアジア・ヨーロッパ財務相会議では、人民元問題に注目が集中したが、席上、首相の温家宝(おんかほう/ウエンチアパオ)は、人民元為替管理改革の三原則―「主体性(中国が自ら決断する)」、「制御可能性(為替レートの乱高下を防止する)」、「漸進性(改革を徐々に進めていく)」―を表明した。2005年7月21日、中国は、人民元の約2.1%の切上げ(1米ドル=8.28元から8.11元へ)と同時に、実質ドル・ペッグ制から管理フロート制への再移行を発表した。人民元レートは「市場の需給を基礎に、通貨バスケットを参考にして調整」されるという内容で、当面前日比0.3%を変動の上下限とするとされた。いわゆるBBC方式―Band(変動幅)、Basket(通貨バスケット)、Crawling(為替レートを方向性をもって微調整)―に沿った管理フロート制といわれている。通貨バスケットは、米ドル、ユーロ、日本円等11種類の通貨によって構成するとされるが、通貨の比率は発表されていない。

 このような管理フロート制への移行後の人民元レートの推移をみると、移行直前の1米ドル=8.28元から、上昇の趨勢(すうせい)をたどり、2007年以降そのペースが速まり、2008年4月には、1米ドル=6元台にまで達している。米ドルが主要通貨に対し急落した事情もあるが、為替への介入等によるマネーサプライ増から中国国内のインフレが進行しつつあり、中国政府としても、従来の「管理」重点により切上げを抑えてきた政策姿勢から、インフレ抑制手段として人民元の切上げを重視する方向への転換を迫られてきたことがうかがわれる。今後、中国がどのような経済状況の下で、どのようなタイミングで「管理フロート制」から「完全フロート制」へ移行するかが注目される。

[平野勝洋]

『金融制度調査会編『中国の金融制度』(1960・日本評論新社)』『戴相龍編著『中国金融読本』(1999・中央経済社)』『関志雄・中国社会科学院世界経済政治研究所編『人民元切り上げ論争――中・日・米の利害と主張』(2004・東洋経済新報社)』『大久保勲著『人民元切上げと中国経済』(2004・蒼蒼社)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「元」の解説

元(げん)
Yuan

1271~1368

モンゴル帝国の第5代皇帝クビライ(世祖)が1271年建国,モンゴル高原から進出し,79年南宋を滅ぼして中国を統一し,大都(北京)に遷都して中国風の専制的官僚支配を行った異民族王朝。クビライは対外的にはモンゴル,満洲,中国を中心部とし,チベット,朝鮮を属国とする元朝最大の領土を支配した。対内的にはモンゴル至上主義,遊牧優先の原則に立ち,特に中国に対しては民族的身分制を立て,(1)モンゴル人,(2)色目人(しきもくじん)を支配階級に,(3)漢人(朝遺民),(4)南人(蛮子(まんじ)=南宋遺民)を被支配階級とした。中央官制では皇帝とモンゴル貴族が絶対権を持ち,地方官制は宋,金の制を受けつつ分権的に統治し,統一維持のために駅站(えきたん)(ジャムチ)・運河などの交通制度,社制などの郷村制度,交鈔(こうしょう)などの貨幣制度を整え,パクパ文字などで国粋保存を図った。しかしカイドゥ(海都)の乱を契機にハン位の相続が不安定となり,宮廷貴族の専横や,モンゴル至上主義による誅求が財政・社会不安を生み,白蓮(びゃくれん)教徒の乱が滅亡をもたらした。元の文化は国際的・現実的で,キリスト教,イスラーム教が流布し,チベット仏教が興り,自然科学も発達した。一方,儒教,詩文などの中国文化は不振で,むしろ元曲,南曲などの俗文学が栄え,また文人画が興って南画山水画が大成された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「元」の解説


げん

1271〜1368
モンゴル族が中国に建てた王朝
チンギス=ハンに始まるモンゴル帝国は,オゴタイ=ハンのとき金を滅ぼして(1234)華北を支配。モンケ=ハンは華北の経営を弟のフビライに委ねた。モンケの没後,フビライは大ハン(元の世祖)となり,都を大都(現在の北京)とし,国号を元と定めた(1271)。1279年に南宋を滅ぼし,中国最初の異民族による統一王朝となる。フビライ=ハンは対外積極策をとり,東アジアの大部分を支配下に収めたので,東西交流は非常に盛んとなった。ハイドゥの乱以後,イル−ハン国を除く3ハン国は大ハンの支配から事実上離れていったが,モンゴル帝国としてのゆるやかな連合は維持されていた。巨大な中国を支配するに際し,元はこれに同化されないように,中国文化を軽視し,科挙を一時廃止するなどの配慮をした。元は住民をモンゴル人・色目 (しきもく) 人(西域諸国人)・漢人(金朝治下の中国人・女真人)・南人(南宋治下の中国人)の4つの身分に分け,中国人を圧迫してモンゴル人の支配を維持しようとした(実際には,このような厳格な身分制度はなく,こうした区別は1315年に再開された科挙の合格枠に適用された程度にすぎない,ともされている)。しかし連年の征戦,ラマ僧への供養 (くよう) ,色目人財政官の不正や唯一の通貨である交鈔の乱発などによる財政破綻,漢民族の反抗などによって国力は衰弱し,1368年明の朱元璋に滅ぼされた。モンゴルに逃れた子孫の北元はしばらく勢力を保った。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元」の意味・わかりやすい解説


げん
Yuan; Yüan

モンゴル人が中国を征服して建てた王朝 (1271~1368) 。モンゴル帝国第4代皇帝モンケ (憲宗) の死後,帝位継承争いのなかから中統1 (1260) 年世祖フビライ・ハンが即位し,大都に遷都。至元8 (71) 年国号を大元とし,南宋を征服,満州,チベットを併有,高麗を属国とし,東アジアをほぼ統一する大帝国を建設。政治機構は宋,金のそれに類似し,大領土支配のため自治的機能をもつ行省を,直轄地を支配する中書省の出先として設けた。支配民族のモンゴル人,色目人 (西方人) ,被支配民族の漢人 (金国人) ,南人 (南宋人) の順位の身分制を設けて支配し,官庁の長は前2者が占めた。また,駅伝制度ジャムチ (站赤) を整え,大領土支配を円滑にし東西交渉の繁栄を招き,紙幣である鈔 (しょう) を法貨とした。至元 31 (94) 年の世祖の死後約 30年元朝の盛期は続いたが,皇位継承争いと権臣の悪政によって乱れ,至正 28 (1368) 年8月順帝は,紅巾 (→紅巾軍 ) 出身の明の太祖 (→洪武帝 ) により漠北に追われて元朝は滅びた。


げん
element

数学用語。要素,元素ともいう。集合をつくっている個々の対象をいう。 aが集合 Mの元であることを表わすのに,記号 aMを用い,aMに属すると読む。要素という表現は,行列や行列式にも用いられる。行列あるいは行列の要素 (成分) とは,それらを構成する個々の数あるいは文字をさす。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「元」の解説


げん

モンゴル人が中国に建てた王朝(1271~1368)。チンギス・ハンが創建したモンゴル帝国が第5代フビライ・ハンのときに4大ハン国に分裂,世祖フビライは都をカラコルムから大都(現,北京)に移し,国号を大元とした。1279年南宋を滅ぼし,各地に遠征してモンゴリア・中国本土・中国東北地方などを支配,チベット・朝鮮を属国とした。1274年(文永11)と81年(弘安4)の2度日本に侵攻したが失敗した(元寇)。ハン位をめぐる抗争や交鈔(こうしょう)(紙幣)乱発による社会不安の増大に加え,1351年白蓮(びゃくれん)教などの指導による紅巾(こうきん)の反乱がおこり,68年明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)によって中国本土から追いはらわれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「元」の解説


げん

モンゴル帝国第5代皇帝フビライが建国した中国の王朝(1271〜1368)
中国本土・満州・蒙古・チベットにわたる大帝国を形成。都は大都(現北京)。東西交通路が整備され,東西文化が交流したが,1368年明に滅ぼされた。フビライの時代の日本来襲(元寇 (げんこう) )は失敗したが,その後日本との通商はとだえず,建長寺船・天竜寺船の派遣,僧一山一寧 (いつさんいちねい) の渡来などがあった。

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占い用語集 「元」の解説

暦上の基準となる「はじまり」を指す言葉。紀年法では元年のことであり、元号は元年から始まる一連の時代につけられた呼び方。暦を作成する計算のために設けられる暦元のことを指す場合もある。

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事典・日本の観光資源 「元」の解説

(和歌山県紀の川市)
美しい日本のむら景観100選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【マジャパイト】より

…この土地に生えていたマジャという木の実が苦かった(〈パイト〉は〈苦い〉の意)という故事から,マジャパイトという地名が生じた。翌年中国の元の大軍が,先年クルタナガラ王から受けた侮辱に報復するためにジャワに到着したとき,ビジャヤは巧みな外交折衝により元軍と提携してジャヤカトワンを討ち,次いで元軍に敵対した。元軍は征服を断念して去り,ビジャヤはマジャパイト王国初代の王クルタラージャサ・ジャヤワルダナ(在位1294‐1309)として即位した。…

【モンゴル襲来】より

…1274年(文永11)と81年(弘安4)の2度にわたって行われたモンゴル(元)軍の日本来襲。蒙古襲来,蒙古合戦,元寇,また文永・弘安の役ともいう。…

【元素】より


【化学元素と単体】
 特定の原子番号(陽子数または核荷電数)によって規定される,物質構成の究極因子(原子種)を元素という。現在,原子番号から107に至る107種の元素が知られている(表1-I,II,III,IV,V)。別の意味で元素(原素と書くこともある)という語が用いられる場合との,用語としての混同を避ける意味で,とくに化学元素chemical elementと呼ぶこともある。実在する物質(分子種)のなかで,特定の元素が示す性質は,さまざまな形をとって多種多様に発現するが,それらの性質の根源は,すべて原子番号によって規定され,ある元素に固有の諸性質は,そのすべてが原子番号に帰着される。…

【四大】より

…また密教では認識作用の〈識大(しきだい)〉を加えて〈六大〉とし,一切万有・全宇宙の構成要素とする。【井ノ口 泰淳】
[西洋]
 西洋では四大とは,〈四大元素four elements〉すなわち土,水,火,空気を指す。アリストテレスの哲学では,四大は乾,湿,熱,冷という四つの基本性質と配合され,土は乾と冷,水は湿と冷,火は乾と熱,空気は湿の熱の組合せに対応する。…

【集合】より

…数学で記述を整理し明確化するために,19世紀後半に導入された概念。素朴には,〈思考の対象として明確な意味をもつもので指定した範囲内にあるものを集めたものを集合といい,その集められたものをその集合の元または要素という〉といえばよいが,多少の補足が必要である。 まず,われわれは物を区別したり,まとめたり,ときに応じて適宜処理している。…

※「元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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