特定の年代に付ける名称。中国をはじめとする漢字文化圏で広まり、日本は645年の「大化」が最初。701年の「大宝」から制度化され途切れずに続いている。奈良時代には「
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一般には年号と呼ばれる。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で,前漢の武帝のときに始まる。
日本では645年(皇極4)蘇我氏の討滅を機に孝徳天皇が即位してまもなく,この年を大化元年と定めたのが最初である。大化以前において法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や《伊予国風土記》逸文の道後温泉の碑文などによって法興という年号のあったことが知られるが,これは公式に定められたという徴証がなく,逸年号もしくは広い意味で私年号というべきであろう。650年(大化6)白雉と改元されたが,654年(白雉5)孝徳天皇の没後年号はとだえ,天武天皇の末年に朱鳥の年号が定められたが,これもあとが続かず,701年(文武5)に至り,対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。この建元と同日に新たに制定された令(いわゆる大宝令)の一部が施行された。大宝令では公文書に年を記す場合には必ず年号を用いることが規定されていたから,行政上年号は欠くことのできないものであった。こうして年号は律令制度の確立とともに公式紀年として認められることとなり,以後断絶することなく現代に及んでいる。なお,白雉から大宝に至る7世紀の後半に白鳳,朱雀の年号があったと言われるが,白鳳は白雉の,朱雀は朱鳥の別称と考えられる(これには異説もある)。
文武天皇から平成の今上天皇に至るまで,代数にして84代(北朝を加えると89代)の間に年号は244(このうち北朝の年号は17)を数える。代数に比べて年号の数がかなり多いのは,天皇一代の間に幾たびも改元される場合が多いからである。後醍醐・後花園両朝の場合のように,改元8回に及んだ例もある。
改元の理由としては,代始,祥瑞,災異による場合のほか,讖緯説(しんいせつ)に基づく辛酉(しんゆう)および甲子(かつし)の年の改元が挙げられる。代始改元は,孝徳天皇の即位の直後に大化の年号を定めたのに始まり,奈良時代には即位と同時に改元が行われた場合が少なくないが,平安時代からは806年の平城天皇の大同の改元の場合を除き,皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け,翌年に改元するのを原則とするようになった。次に祥瑞改元は,祥瑞を天意のあらわれとみて改元するもので,大化6年(650)2月穴門(長門)国司より白雉が献ぜられたので白雉と改元したのを初めとして平安時代にかけて行われ,とくに奈良時代には代始改元にもその半面に祥瑞改元の意味をもった場合が少なくない。しかし祥瑞改元が行われるのは平安時代前期までで,以後これに代わってあらわれるのは災異改元である。これは祥瑞を天意のあらわれとみるのと同じく,災異を天の誡めとみる考え方に基づいている。災異改元は,奈良時代には恵美押勝の乱や凶作などを理由に行われた天平神護の改元(765)の一例があるが,これがしきりに行われるのは水災・疾疫による延長の改元(923)からで,以後地震,暴風,火災,飢饉,兵乱その他災異による改元がしばしば行われ,江戸時代にまで及んでいる。次に辛酉および甲子の年の改元は,901年(昌泰4)の辛酉の年に当たり,讖緯説の辛酉革命,甲子革令の思想に基づき改元の必要を説く文章博士三善清行の意見(意見十二箇条)によりこの年を延喜と改元したのが始まりで,次の辛酉の年961年(天徳5)に応和と改元したのについで,964年(応和4)の甲子の年には康保の改元が行われ,以後若干の例外はあるが,江戸時代の末に至るまで辛酉および甲子の年には改元するのが恒例となった。
それでは改元はどのような手続によって行われるであろうか。平安時代中ごろの場合についてみると,まず大臣は改元について天皇の仰せを承り,式部大輔,文章博士らに年号の勘申を命ずる。勘申者は中国の経史から佳字を選び,出典を付して提出する。これを年号勘文(かんもん)という。年号勘文は奏上された後まず公卿たちの審議にかけられる。公卿たちは年号の案の一つ一つについて審議し,先例や文字の吉凶などを論難し,陳弁してその優劣を論争する。これを難陳(なんちん)という。こうして審議を尽くしてその結果を奏上し,勅裁を経て年号が決定され,詔書によって改元が公布される。なお,年号は2字が通例であるが,奈良時代には天平感宝,天平勝宝,天平宝字,天平神護,神護景雲などの4字年号が行われたことがある。
公卿の審議の結果を天皇が勅裁して改元が行われるという上記の手続の形式は後世まで引き続き行われるが,中世以降武家政治の時代になると,武家側の意向が改元の上にも及んでくることは避けられなかった。鎌倉時代に元仁の改元(1224)の後まもなく幕府より異議が出されたため,翌年嘉禄と改元したごときはその一例である。また,室町時代には年号案の選定から改元の施行日にまで幕府が容喙(ようかい)したこともあり,武家側の要請により改元したことも一再にとどまらない。なお,中世の中ごろ,南北朝時代には両朝それぞれに年号を定め,それぞれの朝廷を奉ずる人びとの間で用いられるという異例の事態が60年近く続いた。さらにこの時代には北陸方面で活動した南朝系の人びとの間に白鹿という私年号が用いられたこと,また,南北朝合一後に南朝の遺臣の間に天靖という私年号が用いられたことが知られる。ちなみに公式の年号ではなく,民間において私的に用いられたいわゆる私年号は主として中世に見られるもので,とくに戦国時代に多い。なお,古代の年号として,列滴(孝霊朝),璽至(応神朝),善記(継体朝),僧聴(宣化朝)その他の多くの年号が《二中歴》《如是院年代記(建仁寺年代記)》《和漢年契》その他の諸書に見えているが,これらは平安末期以降において僧徒らによって創作された架空の年号と考えられている。
江戸時代においても,幕府側の意向が改元を左右した例は幾つか見られるが,正徳の改元(1711)の場合のように,朝廷の内定した年号を無視して幕府が正徳の年号を主張したため,改めてこの年号を勅定して改元が行われた例もある。後になると幕府の介入は少なくなるが,改元に幕府の同意を必要とする慣例は幕末まで続いている。
明治の改元(1868)に当たり,旧制を改めて一世一元の制が定められた。一世一元の制は中国では明・清両朝において行われたが,わが国でも江戸時代に中井竹山の《草茅危言》や藤田幽谷の《建言論》などで論ぜられたところであった。明治元年9月8日の改元詔書には〈今より以後旧制を革易し,一世一元以て永式と為す〉とあり,同日の行政官布告に〈自今御一代一号に定められ候〉と明記されて全国民に伝えられた。年号の選定も旧来の難陳の儀は廃止され,議定松平慶永が年号勘文の中から二,三の佳号を選び,その中から天皇が賢所の神前で籤を抽いて明治の年号を決定した。のち,1889年(明治22)2月制定された皇室典範第12条に〈践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ビ改メザルコト明治元年ノ定制ニ従フ〉と規定され,1909年(明治42)2月公布された登極令第2条に〈天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム,元号ハ枢密顧問官ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス〉,第3条に〈元号ハ勅書ヲ以テ之ヲ公布ス〉と定められ,年号に関する法制上の根拠が整備された。大正の改元(1912)はこれに基づいて行われたもので,明治改元の詔書では旧来の形式を踏襲して〈慶応四年を改めて明治元年と為す〉とあるのに対し,大正改元の詔書では〈明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス〉と述べて改元を日によって限ったのは,一世一元制の趣旨により厳密にかなうものと言えよう。政府は改元と同日に内閣告示を発して新元号の称呼を〈大正(タイシヤウ)〉と明示した。これらのことは昭和改元の際にも同様に行われた。戦後皇室典範や登極令が廃止され,1947年(昭和22)新たに制定された皇室典範には元号に関する規定がないため,元号は主要な法的根拠を失い,明治元年の行政官布告がその根拠とされたが,1979年(昭和54)6月元号法が国会で成立し,元号は新しい法的根拠をもつに至った。元号法では,元号は政令によって定めること,元号は皇位継承の行われた場合に限り改めることが規定されている。なお,昭和の元号はこの法律に基づいて定められたものとする旨が付則に記されている。
→異年号 →紀年法
執筆者:後藤 四郎
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年号とも。紀年法の一形態。紀元前140年に前漢の武帝によって立てられた建元(けんげん)に始まる。日本では645年の大化(たいか)が最初の元号である。その後断絶があったが,701年の大宝(たいほう)以後は連続して,現在の平成に至る。明治改元以後は一世一元の制が定められ,践祚にともなう改元に限定されたが,それ以前は,祥瑞(しょうずい)・災異・三革(辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)・戊辰(ぼしん)の年)などさまざまな理由で頻繁に改元された。改元の手続きとしては,紀伝道から提出された複数の候補をもとに,大臣・参議らが陣の座において新元号を決定,天皇により改元詔書が公布されるのを常とした。1868年(慶応4)の明治改元の際,一世一元が定められるとともに,これら改元手続きは大幅に簡略化され,皇室典範(明治22年発布),登極令(明治42年公布)の制定をへて制度的完成をみた。しかし戦後,新たに定められた憲法・皇室典範には,元号に関する条項が設けられず,その法的根拠は失われた。このため1979年(昭和54)に元号法が制定され,元号制定に関する権限は内閣に属することとなった。
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…聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法制定に陰陽道をとりいれ,国史編纂には国家の起源にこれを利用するところがあった。大化にはじまる元号制定は中国にならい,祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてる陰陽道思想)によったもので,これは奈良朝を通じ踏襲されたが,平安朝に入るころから災異改元(天災地変など凶兆とみられる現象をもって新しい年号に代える陰陽道思想)に転じ明治維新までつづいた。白村江の戦以後,百済からの亡命や大陸留学者の帰還によって帰化人系陰陽家が多数活躍し,角福牟(ろくふくむ),僧法蔵,同行心,同道顕らが知られるが,朝廷では僧侶は還俗のうえ仕えさせたので,行心の子僧隆観は金財(たから),僧義法は大津首意毘登(おおつのおびといびと)と改めている。…
…年号(元号)を改定する国家行事。日本における年号の使用は645年の大化に始まるが,その後断続があり,継続的に使用されるのは8世紀初頭の大宝,慶雲以降であって,改元行事もこのころから制度化したと考えられる。…
…なお東南アジアでは今日もなお太陰太陽暦が使用され,その年初は現行太陽暦と一致しない。
[元号]
以上の紀年法のほか,日本ではなお元号が使用されている。中国では殷・周の時代に王の即位年数で年を数えることが行われた。…
…家康が法度を作って,天皇をはじめ公家の権限,行動を強く規制しても,朝廷がこれになんら抵抗できなかったのも当然である。天皇にわずかに残された権能である官位授与権,元号制定権,暦制定権すら,形式的・名目的な範囲を出なかったし,朝廷内部の公卿,廷臣らの支配さえ,幕府の干渉をまぬがれることができなかった。しかし泰平がうち続き,文運が興隆するなかで,学者の間に,天皇の立場の過去と現在を調和させる試みとして,武家は天皇から政権を委譲されたものとする大政委任説があらわれた。…
…このように東国の範囲は,幕府と朝廷,鎌倉と京都との間の力関係に応じて多少の変動はあったが,おおよそ三河・信濃・越後以東については東国とする意識が強かったとみられる。
[東国と西国]
佐藤進一が第2次大戦前すでに〈東国行政権〉と規定した,鎌倉幕府のこの地域に対する権限は,国衙に対する支配権,国の境あるいは2本所間の境相論(さかいそうろん)の裁判権,棟別銭(むなべちせん)賦課を含む交通路支配権などの統治権的,地域的な支配権であり,元号の制定,官位の叙任権は王朝の手に掌握されていたとはいえ,これを東国国家と規定することは十分に根拠があるといってよい。事実,元号については,頼朝のときの治承5,6,7年,幕府最末期の元徳3,4年など王朝の元号と異なる元号(異年号)が使用され,官位についても,幕府は御家人たちに強い規制を加えていたのである。…
※「元号」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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