元号(読み)げんごう

精選版 日本国語大辞典 「元号」の意味・読み・例文・類語

げん‐ごう ‥ガウ【元号】

〘名〙 中国、日本などで、ある時点から起算して年数を計算するための特定称号。「大化」「昭和」の類。一般には天皇が元号を制定する特権をもつとされて従ったが、これを拒否して私年号偽年号を用いる者もあった。また、明治以前は天皇一代に何度改元することが多かったが、明治以後一世一元と定めた。年号。→元号法
皇室典範(明治二二年)(1889)一二条「践祚の後元号を建て一世の間に再び改めざること明治元年定制に従ふ」 〔漢書‐李尋伝〕

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デジタル大辞泉 「元号」の意味・読み・例文・類語

げん‐ごう〔‐ガウ〕【元号】

年号」に同じ。「元号が改まる」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元号」の意味・わかりやすい解説

元号
げんごう

起算点(元〈はじめ〉)を定めて年数を数える紀年法の一つで,一定の年数につけられる名称をさす。年号ともいう。中国,武帝が前140年を建元元年と定めたのが元号の始まりとされ,その後近隣諸国でも使用されるようになった。現在元号を使用している国は日本だけである。日本で初めて元号が制定されたのは孝徳天皇即位の 645年で,「大化」と名づけられた。聖徳太子の時期の「法興」や天武天皇持統天皇期の「白鳳」など正史に記されていない,いわゆる私年号逸年号)もある。元号が永続的に使用されるのは 701年の「大宝」からである。改元は,かつては代始めという理由のほかに,めでたいことの前ぶれ(祥瑞)の出現を祝ったり,「辛酉,甲子の年には異変が起こる」という中国の讖緯説に基づく辛酉革命・甲子革令説をうけて変事に備えたりするために行なわれていた。一世一元となったのは中国では,日本では明治以後である。日本では武家政権の時代でも改元の権限は朝廷に保留され,天皇が決裁し,詔書をもって公布された。天皇践祚ののち,ただちに元号を改めることは旧皇室典範などで規定されていたが,第2次世界大戦後,法的根拠を失い,慣例的に「昭和」が使用された。1979年元号を政令で定めるとした元号法(昭和54年法律43号)が制定され,これに基づき 1989年に「平成」,2019年に「令和」の元号が定められた。元号の文字の典拠は長らく儒教の経典(→四書六経)や史書,文集などの中国の古典であったが,令和は日本の古典『万葉集』が典拠であるとされた。

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百科事典マイペディア 「元号」の意味・わかりやすい解説

元号【げんごう】

歴史上の年を数えるために主権者が定めたもの。年号。元は〈はじめ〉の意。中国では漢代から一般に使用。皇帝の交代または治世方針の改正の際に改元する。近隣諸国も中国の支配下にある時は同じ元号を使用。日本では645年を大化1年と定めたのが最初。大宝律令で採用が明文化され,明治維新で一世一元の制を採用。1947年に新たに制定された皇室典範には元号に関する規定がないため,元号は主要な法的根拠を失ったが,1979年元号法が成立し,新しい法的根拠をもつに至った。中国や近隣諸国ではそれぞれ革命その他ですでに廃止されている。→大化改新
→関連項目改元天皇

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「元号」の解説

元号
げんごう

年号とも。紀年法の一形態。紀元前140年に前漢の武帝によって立てられた建元(けんげん)に始まる。日本では645年の大化(たいか)が最初の元号である。その後断絶があったが,701年の大宝(たいほう)以後は連続して,現在の平成に至る。明治改元以後は一世一元の制が定められ,践祚にともなう改元に限定されたが,それ以前は,祥瑞(しょうずい)・災異・三革(辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)・戊辰(ぼしん)の年)などさまざまな理由で頻繁に改元された。改元の手続きとしては,紀伝道から提出された複数の候補をもとに,大臣・参議らが陣の座において新元号を決定,天皇により改元詔書が公布されるのを常とした。1868年(慶応4)の明治改元の際,一世一元が定められるとともに,これら改元手続きは大幅に簡略化され,皇室典範(明治22年発布),登極令(明治42年公布)の制定をへて制度的完成をみた。しかし戦後,新たに定められた憲法・皇室典範には,元号に関する条項が設けられず,その法的根拠は失われた。このため1979年(昭和54)に元号法が制定され,元号制定に関する権限は内閣に属することとなった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「元号」の解説

元号
げんごう

紀年の一種
年号ともいう。中国の歴史書に始まり,その影響をうけた東洋諸国で行われた。日本では大化改新の「大化」を最初とするが,それ以前にも一部には法興 (ほうこう) などの年号が用いられたらしい。大化以後,奈良時代の四字年号,室町時代の私年号,南北朝の両朝別の年号などあるが,多くは,天皇代替りや,干支 (えと) によって改元された。明治時代以後一世一元制となる。年号には本来,年号使用者は年号制定者の支配に服するという歴史的な意味があるため,民主主義国家として年号の存廃が政治問題化している。1979年,元号法が制定され,元号制定の権限は内閣に与えられた。

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世界大百科事典 第2版 「元号」の意味・わかりやすい解説

げんごう【元号】

一般には年号と呼ばれる。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で,前漢の武帝のときに始まる。
[元号使用の始まり]
 日本では645年(皇極4)蘇我氏の討滅を機に孝徳天皇が即位してまもなく,この年を大化元年と定めたのが最初である。大化以前において法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や《伊予国風土記》逸文の道後温泉の碑文などによって法興という年号のあったことが知られるが,これは公式に定められたという徴証がなく,逸年号もしくは広い意味で私年号というべきであろう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「元号」の意味・わかりやすい解説

元号
げんごう

年号

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世界大百科事典内の元号の言及

【陰陽道】より

…聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法制定に陰陽道をとりいれ,国史編纂には国家の起源にこれを利用するところがあった。大化にはじまる元号制定は中国にならい,祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてる陰陽道思想)によったもので,これは奈良朝を通じ踏襲されたが,平安朝に入るころから災異改元(天災地変など凶兆とみられる現象をもって新しい年号に代える陰陽道思想)に転じ明治維新までつづいた。白村江の戦以後,百済からの亡命や大陸留学者の帰還によって帰化人系陰陽家が多数活躍し,角福牟(ろくふくむ),僧法蔵,同行心,同道顕らが知られるが,朝廷では僧侶は還俗のうえ仕えさせたので,行心の子僧隆観は金財(たから),僧義法は大津首意毘登(おおつのおびといびと)と改めている。…

【改元】より

…年号(元号)を改定する国家行事。日本における年号の使用は645年の大化に始まるが,その後断続があり,継続的に使用されるのは8世紀初頭の大宝,慶雲以降であって,改元行事もこのころから制度化したと考えられる。…

【紀年法】より

…なお東南アジアでは今日もなお太陰太陽暦が使用され,その年初は現行太陽暦と一致しない。
[元号]
 以上の紀年法のほか,日本ではなお元号が使用されている。中国では殷・周の時代に王の即位年数で年を数えることが行われた。…

【天皇】より

…家康が法度を作って,天皇をはじめ公家の権限,行動を強く規制しても,朝廷がこれになんら抵抗できなかったのも当然である。天皇にわずかに残された権能である官位授与権,元号制定権,暦制定権すら,形式的・名目的な範囲を出なかったし,朝廷内部の公卿,廷臣らの支配さえ,幕府の干渉をまぬがれることができなかった。しかし泰平がうち続き,文運が興隆するなかで,学者の間に,天皇の立場の過去と現在を調和させる試みとして,武家は天皇から政権を委譲されたものとする大政委任説があらわれた。…

【東国】より

…このように東国の範囲は,幕府と朝廷,鎌倉と京都との間の力関係に応じて多少の変動はあったが,おおよそ三河・信濃・越後以東については東国とする意識が強かったとみられる。
[東国と西国]
 佐藤進一が第2次大戦前すでに〈東国行政権〉と規定した,鎌倉幕府のこの地域に対する権限は,国衙に対する支配権,国の境あるいは2本所間の境相論(さかいそうろん)の裁判権,棟別銭(むなべちせん)賦課を含む交通路支配権などの統治権的,地域的な支配権であり,元号の制定,官位の叙任権は王朝の手に掌握されていたとはいえ,これを東国国家と規定することは十分に根拠があるといってよい。事実,元号については,頼朝のときの治承5,6,7年,幕府最末期の元徳3,4年など王朝の元号と異なる元号(異年号)が使用され,官位についても,幕府は御家人たちに強い規制を加えていたのである。…

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