入江波光(読み)イリエハコウ

デジタル大辞泉 「入江波光」の意味・読み・例文・類語

いりえ‐はこう〔‐ハクワウ〕【入江波光】

[1887~1948]日本画家。京都の生まれ。本名、幾治郎。初め国画創作協会に加わり、同会解散後は制作とともに古画模写研究に努め、法隆寺金堂壁画の模写に従事。洗練された静澄な画風で、仏画水墨画を多く描いた。

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20世紀日本人名事典 「入江波光」の解説

入江 波光
イリエ ハコウ

大正・昭和期の日本画家



生年
明治20(1887)年9月26日

没年
昭和23(1948)年6月9日

出生地
京都府京都市

本名
入江 幾次郎

学歴〔年〕
京都市立絵画専門学校

主な受賞名〔年〕
国画賞〔大正7年〕「降魔

経歴
幼時、森本東閣に師事。明治40年の第1回文展で「夕月」が入選、第13回新古美術品展で「宵の春」が4等。京都絵画専門学校の卒業制作「北野の裏の梅」も第16回新古美術品展で4等。大正2年京都市立美術工芸学校教諭、7年京都市立絵画専門学校助教授。国画創作協会運動に参画し、同年の第1回国画創作協会展に出品の「降魔」で国画賞を受け、翌年から同人となった。11年教授となり、同年から約1年間渡欧。その間「臨海の村」「彼岸」「羅馬郊外」などを発表。昭和3年協会解散後は画壇を離れ古画の模写などを続け、15年から文部省の依頼で法隆寺金堂壁画の模写に従事したが、完成をみずに死去した。

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百科事典マイペディア 「入江波光」の意味・わかりやすい解説

入江波光【いりえはこう】

日本画家。京都市生れ。本名幾治郎。1905年京都市立美術工芸学校卒後,京都市立絵画専門学校卒業。村上華岳榊原紫峰らと同級。1919年国画創作協会同人となる。1922年―1923年外遊。1928年国画創作協会解散後,仏画古典の研究を続け,1940年以降法隆寺金堂壁画の模写に従事した。また長い間京都市立絵画専門学校で教鞭をとった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「入江波光」の意味・わかりやすい解説

入江波光
いりえはこう
(1887―1948)

日本画家。本名幾治郎。京都に生まれる。京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校を卒業。1918年(大正7)母校絵画専門学校の助教授に就任。この年国画創作協会展に『降魔』を出品して国画賞を受賞、翌年同人に推された。22年に外遊。28年(昭和3)国画創作協会日本画部解散後は画壇を離れ、後進の育成と制作に打ち込んだ。晩年は盛んに古画を模写し、41年から法隆寺金堂壁画の模写に従事した。代表作は『彼岸』『不動』など。

[原田 実]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「入江波光」の解説

入江波光 いりえ-はこう

1887-1948 大正-昭和時代の日本画家。
明治20年9月26日生まれ。大正7年母校京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)助教授。同年第1回国画創作協会展に「降魔(ごうま)」を出品し,国画賞。昭和3年の協会日本画部解散後は画壇をはなれ,教育と古画の模写につとめる。晩年は法隆寺金堂壁画の模写に専念した。昭和23年6月9日死去。62歳。京都出身。本名は幾治郎。

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367日誕生日大事典 「入江波光」の解説

入江 波光 (いりえ はこう)

生年月日:1887年9月26日
大正時代;昭和時代の日本画家。京都市立絵画専門学校教授
1948年没

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