八十年戦争(読み)はちじゅうねんせんそう

百科事典マイペディア 「八十年戦争」の意味・わかりやすい解説

八十年戦争【はちじゅうねんせんそう】

1568年―1648年にわたる,スペイン王政からのオランダ独立戦争。スペイン国王フェリペ2世の専制支配や新教の弾圧に対するオラニエ公ウィレム1世,エグモント伯ら大貴族抗議に始まり,やがて下級貴族やカルバン派などが結集した。1568年ころ公然たる反乱を起こし,ユトレヒト同盟成立を経て1581年独立宣言オラニエ公ウィレム,その遺児マウリッツ指揮のもとに戦いを続け,1609年実質的な独立を達成した。1648年ウェストファリア条約によってオランダ共和国は正式に承認された。三十年戦争の一局面をなす。
→関連項目アルバ公オラニエ=ナッサウ[家]乞食団宗教戦争フローニンゲン

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世界大百科事典 第2版 「八十年戦争」の意味・わかりやすい解説

はちじゅうねんせんそう【八十年戦争 Tachtigjarige Oorlog[オランダ]】

スペインの絶対主義支配に対する属領ネーデルラントの反乱に始まり,その北部(オランダ共和国)の事実上の独立を経て,スペインによるその承認に至った事件(1568‐1648)の伝統的呼称。オランダ独立戦争ともいう。 スペイン国王フェリペ2世(在位1556‐98)の中央集権政策に対して身分的,地域的諸特権を擁護する貴族や都市反抗,また厳酷なカトリック政策に対する新教徒寛容派の反抗はすでに1560年前後に始まった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八十年戦争」の意味・わかりやすい解説

八十年戦争
はちじゅうねんせんそう

オランダ独立戦争

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八十年戦争」の意味・わかりやすい解説

八十年戦争
はちじゅうねんせんそう

オランダ独立戦争」のページをご覧ください。

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世界大百科事典内の八十年戦争の言及

【オランダ】より

…フェリペは父カール以上に新教徒を激しく弾圧し,さらに集権的な統治を推進し,ついにネーデルラント住民の反乱を招いた。貴族の反抗,聖像破壊運動(1566),アルバ公に率いられたスペイン軍の到着(1567)とアルバ公の圧政は,ついに八十年戦争(1568‐1648)を引き起こした。〈海乞食〉(乞食団)の蜂起による反乱側のホラント,ゼーラント両州占拠(1572)を経て,ネーデルラント北部の7州は,1579年ユトレヒト同盟を結成し,81年スペイン人に対する独立を宣言した。…

【オランダ共和国】より

…翌年約1万の軍隊を率いてブリュッセルに到着したスペインの勇将アルバ公は,乞食団やカルバン派を徹底的に弾圧し,騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を行った。 68年ドイツに亡命していたオラニエ公はネーデルラントに進攻して失敗するが,ここに八十年戦争(‐1648)の幕が切って落とされる。72年,海外に亡命していた〈海乞食zeegeuzen〉の船隊は奇襲作戦でホラント,ゼーラント両州の諸都市を占拠した。…

【ベルギー】より

…また,軍隊はそれぞれの言語別に編成され,高級官僚や高級将校は,両言語を完全に話せることが任用条件とされている。 宗教では,16世紀,八十年戦争(オランダ独立戦争)期にカルバン派や再洗礼派,ルター派などプロテスタントが優位に立ったが,その後再びカトリック化された。現在,人口の90%以上がローマ・カトリックで,八つの司教区に分かれ,ブリュッセル大司教が全体を統括している。…

※「八十年戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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