百科事典マイペディア 「八十年戦争」の意味・わかりやすい解説
八十年戦争【はちじゅうねんせんそう】
→関連項目アルバ公|オラニエ=ナッサウ[家]|乞食団|宗教戦争|フローニンゲン
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…フェリペは父カール以上に新教徒を激しく弾圧し,さらに集権的な統治を推進し,ついにネーデルラント住民の反乱を招いた。貴族の反抗,聖像破壊運動(1566),アルバ公に率いられたスペイン軍の到着(1567)とアルバ公の圧政は,ついに八十年戦争(1568‐1648)を引き起こした。〈海乞食〉(乞食団)の蜂起による反乱側のホラント,ゼーラント両州占拠(1572)を経て,ネーデルラント北部の7州は,1579年ユトレヒト同盟を結成し,81年スペイン人に対する独立を宣言した。…
…翌年約1万の軍隊を率いてブリュッセルに到着したスペインの勇将アルバ公は,乞食団やカルバン派を徹底的に弾圧し,騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を行った。 68年ドイツに亡命していたオラニエ公はネーデルラントに進攻して失敗するが,ここに八十年戦争(‐1648)の幕が切って落とされる。72年,海外に亡命していた〈海乞食zeegeuzen〉の船隊は奇襲作戦でホラント,ゼーラント両州の諸都市を占拠した。…
…また,軍隊はそれぞれの言語別に編成され,高級官僚や高級将校は,両言語を完全に話せることが任用条件とされている。 宗教では,16世紀,八十年戦争(オランダ独立戦争)期にカルバン派や再洗礼派,ルター派などプロテスタントが優位に立ったが,その後再びカトリック化された。現在,人口の90%以上がローマ・カトリックで,八つの司教区に分かれ,ブリュッセル大司教が全体を統括している。…
※「八十年戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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