八王子(読み)ハチオウジ

デジタル大辞泉 「八王子」の意味・読み・例文・類語

はち‐おうじ〔‐ワウジ〕【八王子】

記紀神話で、天照大神あまてらすおおみかみ素戔嗚尊すさのおのみことと誓約をしたときに出現した五男三女神。また、それを合わせ祭る神社。
比叡山山王七社の第四社。
過去世に現れた日月灯明仏が出家以前にもうけた八人の王子。

はちおうじ【八王子】[地名]

東京都南西部の市。もと甲州街道の宿場町。絹織物の機業・集散地として発達し、桑都そうとと呼ばれた。現在は精密機器などの工業も盛ん。大学が多く、住宅地。高尾山滝山城跡がある。人口58.0万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「八王子」の意味・読み・例文・類語

はち‐おうじ‥ワウジ【八王子】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 天照大神(あまてらすおおみかみ)素戔嗚尊(すさのおのみこと)と誓約した時に出現したといわれる五男三女神。また、その五男三女神を合わせまつる神社をもいう。
      1. [初出の実例]「御本社の中央は大政所牛頭天皇、東の間は八王子、西の間は稲田姫」(出典:滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)七)
    2. [ 二 ] 仏語。
      1. 二万の日月灯明仏の最後の日月灯明仏が出家しない以前にもうけた八人の王子。この八王子もつぎつぎに出家し、その第八王子が燃灯仏であるという。〔法華経‐序品〕
      2. 山王七社の一つ、第四社。〔伊呂波字類抄(鎌倉)〕
    3. [ 三 ] 東京都西部の地名。中世からの市場町で、江戸時代は甲州街道の宿駅として発展。絹織物の歴史も古く関東五大機業地の一つに数えられ、ネクタイ生産が盛んであった。第二次世界大戦後、大学が進出し、学園都市を形成。大正六年(一九一七)市制。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙 柿の品種の一つ。筆柿(ふでがき)
    1. [初出の実例]「客人にすすむる柿や八王子〈貞利〉 柿づきんかぶれあたまのはち王子〈易延〉」(出典:俳諧・崑山集(1651)一一)

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改訂新版 世界大百科事典 「八王子」の意味・わかりやすい解説

八王子[市] (はちおうじ)

東京都西部の市。1917年市制。人口58万0053(2010)。多摩丘陵西端部と加住(かすみ)丘陵に囲まれた八王子盆地を中心とし,市街地は盆地中央を流れる浅川南岸の段丘上に発達する。かつては谷口集落で,八王子権現社があって,その別当神護寺(神宮寺)にちなみ神護寺村と称したが,のち八王子村と改称。江戸時代には甲州道中の宿場町,市場町としてにぎわった。江戸後期から生糸・織物(八王子織物)の町としての名を高め,明治期には関東の五大機業地の一つに数えられるに至った。第2次大戦中,空襲で市街地の約90%を焼失したが,戦後の織物景気によって復興も早かった。

 現在の主要産業は商工業で,工業は首都圏整備計画による工業団地に電気機器,一般機械,精密機器,輸送用機器,化学などの近代工業が立地し,商業は八王子駅北側と甲州街道(国道20号線)沿いの商店街を中心としている。反面,伝統の織物業の比重は製造品出荷額で全体の1%以下(1995)に低下した。1970年代に入り丘陵部の住宅地化が急速に進み,大量の住宅団地が建設されるとともに,区部からの大学移転が相次いだ。JRの中央本線,八高線,横浜線,および京王電鉄の京王線,高尾線が通り,中央自動車道と圏央道とのジャンクションとインターチェンジがある。市域内の陣馬山高尾山は東京近郊の行楽地である。
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中世には現市域の東部から日野市にかけて東福寺領船木田荘があった。天正年間(1573-92)北条氏照が滝山城から城山に本拠を移して八王子城と称し,八王子権現社を守護神としたのち神護寺村は八王子村となった。これが現在の元八王子である。1590年同城が豊臣秀吉軍によって落城し,後北条氏が滅びると徳川氏が関東に入国し,代官頭大久保長安のもとに関東十八代官と千人頭(八王子千人同心)と組頭を,甲州路と鎌倉街道の交差する横山の地に集住させて江戸防衛の民政・軍事の拠点とした。次いで元八王子から旧城下の定期市を移転させたため,以後,横山は在郷町として発展した。八王子代官は1613年(慶長18)の大久保長安の死後,管轄地を分轄支配したが,元禄年間(1688-1704)に江戸へ引き揚げ陣屋支配が廃止された。

 慶安年間(1648-52)には甲州道中の宿駅に指定され,横山宿,八日市宿が本宿,他に13宿が加宿または脇宿とされ,〈八王子十五宿〉と呼ばれた。六斎市が開設された本宿には,紬(つむぎ),紙,麻,太物(ふともの),肴,塩,穀物などの各座があって活況を呈した。江戸中期以降には常設の店が増え,織物・生糸中心の集荷市に変貌した。

 文政年間(1818-30)に八王子織物は著しく増加し専業化が進み,市場も上方まで広がった。しかし,天保改革により縞買い機屋仲間(はたやなかま)解散を命じられて生産は衰微した。1859年(安政6)の横浜開港を契機に生糸輸出が増加すると,原料の生糸は〈絹の道〉を経て横浜市場へ流れ,織物業は打撃を受けた。しかし〈絹の道〉沿いの鑓水村には各地の生糸商人が集まり反対に活況を呈した。文化・文政期(1804-30)の八王子は,江戸の繁栄と文化の影響を受け地域文化が発展し,西洋医学や国学を志す者も現れた。1827年関東取締出役の下に寄場組合が組織されると八王子十五宿を親村に組合村が結成され,63年(文久3)には八王子農兵隊も結成された。八王子千人同心は66年(慶応2)には千人隊と改称し洋式装備が整えられ,同年武州一揆が起こると農兵隊とともにその鎮圧に当たった。68年(明治1)に東征軍が侵入してくると千人隊も主戦派と帰順派に分かれ,一部は護境隊として東征軍のもとで八王子町の治安維持に当たった。江戸時代の八王子と周辺は天領が多く,幕府側にあったため明治維新による打撃は大きかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八王子」の意味・わかりやすい解説

八王子(市)
はちおうじ

東京都南西部、多摩地区の中心都市。1917年(大正6)市制施行。1941年(昭和16)小宮町、1955年(昭和30)横山、元(もと)八王子、恩方(おんがた)、川口、加住(かすみ)、由井の6村、1959年浅川町、1964年由木村を編入。916年(延喜16)華厳菩薩(けごんぼさつ)が城山に素戔嗚尊(すさのおのみこと)の8人の王子を祀(まつ)ったのが地名のおこりという。市域は関東山地から武蔵野(むさしの)台地に広がり、中心市街地は、山地と台地の接点の谷口に位置する。JR中央本線が通じ、八高線(はちこうせん)・横浜線が分岐、京王電鉄京王線が八王子および高尾山(たかおさん)に達している。中央自動車道の八王子インターチェンジがあり、首都圏中央連絡自動車道の高尾山、八王子西の両インターチェンジがある。また国道16号、20号、411号も通る。

 1521年(大永1)大石定重(おおいしさだしげ)(1467―1527)が加住丘陵の高月城から滝山に城を移し城下町を建設。のち北条氏照(ほうじょううじてる)の居城となったが、武田信玄(たけだしんげん)の攻撃に対して「滝は落ちる」の意を忌み嫌い、天正(てんしょう)年間(1573~1591)元八王子に八王子城を築き、城下町も移した。1590年(天正18)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の関東平定の際、落城した。江戸時代、幕府の直轄地となり、現在の中心市街地に町が開かれ、甲州口の守りとして関東十八代官、その配下の千人同心(八王子千人同心)が置かれた。また甲州街道の宿場町として八日市・横山町に本宿が置かれ、市場町として4のつく日には横山町で、8のつく日には八日市で、月6回の六斎(ろくさい)市が開かれた。周辺は生糸・絹織物の生産地で、その集散地としてもにぎわった。機業は明治後期、力織機の導入とともに中心市街地へ工場が集中し、ネクタイ、男性用着物地、絹毛交織物の特産地を形成してきた。しかし、近年は北八王子、西八王子、狭間(はざま)などの工業団地を中心に電気製品、精密機械などの近代工業が進出するに伴い、機業のうち流通部門は残っているが、生産部門は山梨県の都留(つる)地方へ下請けに出すようになった。多摩地区の中心都市で、JR八王子駅北側から京王八王子駅にかけての一帯には駅ビル、スーパーマーケット、ホテル、銀行などが建ち並んでいる。東京の衛星都市としての性格も強く、多摩ニュータウンの一部をなす南東部を中心に住宅団地が多い。また、1960年代から「学園都市づくり」が推進され、多摩美術大学、中央大学、創価大学、都立大学、帝京大学、杏林(きょうりん)大学、東京工科大学、国立東京工業高等専門学校など、1990年代までに21の高等教育機関が進出した。明治の森高尾国定公園、多摩御陵(大正天皇・貞明(ていめい)皇后の陵墓)、武蔵野御陵(昭和天皇・香淳(こうじゅん)皇后の陵墓)、八王子霊園、小仏(こぼとけ)関跡(国史跡)、都立滝山自然公園などがある。輸出生系を横浜に運んだ「絹の道」が鑓水(やりみず)地区に残り、絹の道資料館がある。北西部の恩方(おんがた)地区は童謡「夕焼小焼」の作詞者中村雨紅(なかむらうこう)(1897―1972)の生地で、「夕焼小焼」の碑や、体験型施設の「夕やけ小やけふれあいの里」がある。廿里町(とどりまち)地区にある多摩森林科学園(森林研究・整備機構森林総合研究所)は森林生物の研究と自然保護の施設である。面積186.38平方キロメートル、人口57万9355(2020)。

[沢田 清]

『『八王子市史』上下(1963、1967・八王子市)』『佐藤孝太郎著『八王子物語』改訂版、3冊(1979・武蔵野郷土史刊行会)』『鈴木樹造著『八王子方言考』(1983・かたくら書店)』


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日本歴史地名大系 「八王子」の解説

八王子
はちおうじ

戦国期から史料にみえる地名。八王寺などとも記された。八王子の地名の起りは、戦国大名北条氏の一族で有力部将であった北条氏照が、天正一〇年(一五八二)頃に居城を滝山たきやま城から深沢ふかざわ山に築いた新城に移し、城の鎮護のため八王子権現を祀ったためという。しかし永禄一二年(一五六九)と推定される五月八日の北条氏康書状(森潔氏所蔵文書)によれば、氏康が江戸城将富永孫四郎に「八王子筋へ、甲衆出張由申候」と甲斐武田勢の侵攻が近いことを報じ、さらに滝山城への移動を命じている。八王子築城と八王子権現鎮座以前、すでに八王子筋と称されていた。


八王子
はちおうじ

現在の八王寺はちおうじ町が遺称地とみられ、同所を含む一帯に比定される。永禄七年(一五六四)八月五日の到津庄清末名坪付注文案(清末文書/豊前国到津荘・津布佐荘史料(九州荘園史料叢書))に「八王子 後田」とみえ、清末公朝は公好に清末きよすえ名内の当地などを譲っている(同年月日「清末公朝知行宛行状」同上)

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百科事典マイペディア 「八王子」の意味・わかりやすい解説

八王子[市]【はちおうじ】

東京都西部の市。1917年市制。関東山地の東麓,八王子盆地と周辺の山地を占める。面積は東京の市で最大。中心市街は中世以来の城下町,江戸時代に甲州道中の宿場町,多摩地区の経済中心として発展。関東五大機業地の一つとして古くから機業が盛んであったが,最近は電気,機械,食品や精密機械の工場が増加している。丘陵部は1960年代からめじろ台などの住宅地化や,中央大学東京都立大学(現,首都大学東京)などの大学の進出が著しい。市南東部は多摩ニュータウンに含まれる。中央本線,横浜線,八高線,京王電鉄,中央自動車道,圏央道が通じ,八王子駅周辺はデパートや大手スーパーが集中し,さらに開発,整備が進められている。高尾山,陣馬(場)山,武蔵陵などの行楽地がある。車人形が伝わる。186.38km2。58万53人(2010)。
→関連項目大山街道高尾[駅]八王子織物八王子千人同心船木田荘

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八王子」の意味・わかりやすい解説

八王子
はちおうじ

アマテラスオオミカミがスサノオノミコトと誓約したときに出現したタキリビメノミコト (オキツシマヒメノミコト) ,タギツヒメノミコト,イチキシマヒメノミコトの3女神,およびアメノオシホミミノミコト,アメノホヒノミコト,アマツヒコネノミコト,イクツヒコネノミコト,クマヌクスビノミコトの5男神をいう。またスサノオノミコトの3女5男をもいう。また,牛頭 (ごず) 天王 (武塔天神) が薩迦陀 (さっかだ) との間に産んだ3女5男をさすこともある。

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世界大百科事典(旧版)内の八王子の言及

【王子信仰】より

…第五所の意)があった。次に《法華経序品》に出ている八王子を,《古事記》《日本書紀》所載の天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との天真名井(あめのまない)での誓約の際に出現した5男3女神に付会することが行われた。それはまず祇園牛頭(ごず)天王の眷属神の形で認められ,ついで山王権現の諸社にも数えられるようになった。…

【東京[都]】より

…内陸部でも昭和初期に武蔵野,三鷹,田無(たなし)を中心に航空機などを中心とする新しい軍需関連の工業が興り,戦時中に府中,立川,昭島,日野にまで拡大した。戦後の60年以降,首都圏整備計画の一環として八王子・日野地区,青梅・羽村・福生(ふつさ)地区に電気,機械,自動車などの近代工業が導入され,新しい工業地帯が形成されている。八王子市の絹織物や青梅市の夜具地生産の伝統工業があり,戦後一時好況期を迎えたが,その後停滞・縮小の状態にある。…

【船木田荘】より

…武蔵国多西郡の浅川流域(現,八王子市および日野市の一部)にあった荘園。九条家領のちに東福寺領となる。…

※「八王子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」