公認された娼婦の一般的呼称。売春の起源として、古代寺院で信徒と巫女(みこ)の間に行われた性行為があげられるが、これは宗教的秘儀の性格があるので、公認の売春とはみなさないほうがよい。では、なぜ、かつての多くの社会が公娼を置くようになったのか。理由はいろいろあるが、都市などに集まる男性の数に比べ極度に女性の数が少なかったり、結婚に高額の婚資を男性に要求する社会で、それができずに独身を余儀なくされている男性が多かったり、軍隊や隊商や船乗りなどの男性のみの集団に休日や寄留地で性的解放の必要があったり、その他さまざまな理由から売春を社会的必要悪と認め、公娼が置かれるようになった。政治的権力者にしても、民衆の性的不満が政治への不満に転じる場合がままあるし、治安を乱しやすいので、売春の公認に踏みきったわけである。ただし、社会秩序をあまり乱さないように、特定の指定地域で集娼制をとる場合が多かった。このようにすれば、公娼の監督に都合がよいし、私娼も取り締まることができ、また、性病が伝播(でんぱ)した近代以後は性病検査にも便利であるからである。ただし、これは男性本位の論理で、公娼に売られる女性側の社会問題や、女性に売春させ利益をあげる特権者や業者の道義的問題は、不当にも長い間顧みられなかったことを考慮しなければならない。
公娼の歴史はかなり古く、すでに古代ギリシアに公娼制度があった。創立者はアテナイ(アテネ)のソロン。アテナイの港ピレウスに営業用の独房式小屋が建ち並んでいた。公娼を置く一定の地域を町外れに決め置く世界的傾向は、すでにギリシア時代から行われていたわけである。古代ローマ以後は、一般に公娼は一つのだいじな税源なので、体制側から一種の保護を受け、私娼のほうは風紀上厳しく取締りを受けた。たとえば古代ローマでは、乞食(こじき)女(私娼)が夜歩きするときには提灯(ちょうちん)を持つ命令が出された。中世キリスト教時代にも公娼は領主や教会認可の形で認められた。教皇ユリウス2世、レオ10世、クレメンス7世なども淫売(いんばい)屋を認可した。16世紀に入ると、認可は、中世時代の領主や教会にかわって国家、州、市、町が与えることになる。そしてヨーロッパ、アメリカなど世界各地に公娼がいるようになった。
ついで資本主義の発達に伴い、淫売屋経営もあくどく商売化したために、貧しい婦女子の人権問題や、性病の広がりなどで社会問題となり、ようやくヨーロッパから公娼廃止運動がおこった。すなわち、国家、州、市、町による娼妓(しょうぎ)の公許の廃止、集娼的売春環境の解体、公娼に売春させることによって利益をあげる行為の禁止などが、この運動の目標とされた。第二次世界大戦後はとくにこうした運動が世界的になり、現在ではほとんど全世界から公娼制度は消滅しつつあるとみなしてよかろう。
次に日本の公娼制の歴史をみると、鎌倉幕府が遊君別当(ゆうくんべっとう)を置いた旨『吾妻鏡(あづまかがみ)』にあるが、これが公娼として最古の例証にあたろう。室町幕府も傾城(けいせい)局を設けて税を徴収したと伝えられる。しかし、本格的公娼制は豊臣(とよとみ)秀吉による1585年(天正13)の大坂傾城町の認可をもって、確立されたと考えてよかろう。そしてたちまち京都、大坂、駿府(すんぷ)など全国20余か所の遊廓(ゆうかく)が生まれた。徳川幕府も、女性に比べて男性の数が圧倒的に多い江戸という事情もあって、地域指定の集娼的公娼制を認めた。江戸・吉原(よしわら)は、商人階級の富裕化に伴い、京都の島原(しまばら)と並んで全国の遊廓の代表的存在となった。明治以降は、明治政府の娼妓解放令、1921年(大正10)の国際連盟の婦人売買禁止条件の日本政府による留保付き調印などがあった。これも現実的には徹底を欠き、昭和に入っても公娼は黙認の形で続いた。この公娼制の廃止は、第二次世界大戦後まで持ち越され、1946年(昭和21)の連合国最高司令部(GHQ)の指令で実現した。売春防止法はその12年後、58年に施行された。
[深作光貞]
政治権力が売春を公式に管理する形態を公娼制といい,その制度下における売春婦を公娼という。公娼制は,売春を特定目的のために有用なものと認め,いわば必要悪としてその存在を承認するものである。具体的理由としては,ふつう一般社会の性秩序を守り,性病の伝染を軽減し,さらに直接または間接に税収その他の経済的利益をはかれることなどが挙げられる。それゆえ,公娼制は原理的には私娼の存在を否定するものであり,実施に当たっては集娼制や登録制をとることが多いのも,監督や性病検査などの管理に便利なためである。
日本の公娼制の起源としては,《吾妻鏡》建久4年(1193)5月15日にみえる遊君別当(ゆうくんべつとう)の職名や,室町幕府が傾城局を設けて税金を徴収したという記録があるが,断片的史料で実体は不明である。やや確実となるのは天正年間(1573-92)に豊臣秀吉が大坂,京都に認可した遊郭以後である。どちらも新設ではないが,旧業者を1ヵ所に集めて公認した公娼制であった。江戸幕府はこの制度を継承し,部分的には整備されたが,制度としての進展はなかった。それは,売春に対する認識が浅く,したがって公娼制を維持する努力に欠けた行政の当然の結果であった。私娼を取り締まることはあっても公娼との区別は不明確で,基本的には私娼を容認していた。そのため,飯盛女(めしもりおんな)のような半公認の売春婦を存在させることになった。諸藩で公認されるものの多くは飯盛女形式であったが,温泉場などの湯女(ゆな)のほかにも,茶汲女などの名称で都会地に売春街を公認または半公認することがあった。明治政府は,外圧によって娼妓解放令を発布したが,実質的には公娼制を強化し,量的な拡大をはかった。これに対し,公娼制そのものの不当性と,この制度に付随する人身売買,前借金,管理売春などの不徳義性・暴力性などへの非難があり,廃娼運動へと導かれた。しかし公娼制の存在は,政治・経済・社会などの全般的要因の反映であり,ことに青壮年男子の性欲処理の手段,とくに集団生活者への対策として公娼制が重視されていた状況下では,その廃止は容易でなかった。第2次大戦敗戦後に連合国最高司令官の覚書〈日本における公娼廃止に関する件〉(1946年1月21日付)をうけて,1946年2月2日の内務省令第3号で娼妓取締規則が廃止され,名称としての公娼制は終わった。しかし同日付の警保局長通達は,同20日までに公娼制度に関する関係法令を廃止するとともに売春契約の無効を掲げながら,前借金や年期は抱主の意向にまかせており,完全に脱却できたわけではない。事実,その後も赤線・青線地帯の指定によって準公娼制が存続したが,最終的には1956年5月の売春防止法の公布(実施は1958年4月1日)により終結した。
→売春
執筆者:原島 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…赤線とは特殊飲食店と称された,売春婦を置いて売春をさせる店が集まっていた地域である。太平洋戦争中までは,明治以来,許可された売春婦すなわち公娼を置いて売春をさせる店を一区域内に集めて遊郭といった。黙認されている私娼を集めて売春させる店は明治中期から銘酒屋と称して集落を作らされた。…
…売春婦の異称の一つ。日本では一般に公娼をさすことが多く,ことに明治以後は官制用語となったため,それ以前の遊女と対比して用いられている。しかし明治政府も,1872年(明治5)10月のいわゆる娼妓解放令以前は江戸時代同様に遊女とよんでいたし,以後も大阪府が遊妓と称したように,初めから娼妓に統一していたわけではない。…
※「公娼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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