精選版 日本国語大辞典 「公害」の意味・読み・例文・類語
こう‐がい【公害】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
普通、公害とは、企業の生産活動によって、地域住民に、健康や生活環境の損失・侵害をもたらすことをさす。さらに狭義の具体的な項目として、日本は行政上、典型7公害をあげ、「事業活動その他の人の活動に伴つて生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下及び悪臭によつて、人の健康又は生活環境に係る被害」(公害対策基本法2条)としている。
この公害対策基本法は、1967年(昭和42)に問題の深刻化に対し施行されたものであり、当時、その第1条2項に「……生活環境の保全については、経済の健全な発展との調和が図られるようにするものとする」という、いわゆる調和条項が加えられていた。当時の現実の行政面では、事実上、日本経済の発展が第一で人の健康はむしろ二の次であり、公害もそのごく狭い範囲のものだけを「公害」とみなすといった風潮が強かった。
しかし現実には、同法施行前後に被害は全国的に拡大深刻化するとともに、人間生活の基礎をなす動物や植物とか土壌に被害が出、直接目の前で人命が損なわれなくても、それへの危険な前兆ともいうべき事態が広まってきた。たとえば、東京を例にすれば、第二次世界大戦前は当時の省線(現、JR)山手線の外側に出れば見られたホタルが、昭和30年代には、その生息する限界が西へ退行し、昭和40年代の公害対策基本法公布のころには八王子の西へ行かないと見ることができなくなった。また昭和40年代後半、光化学スモッグで、人体の異常は認められなくとも、関東の周辺県のサトイモ、タバコなどの葉が枯れるといった事態が出ている。
1993年(平成5)11月、公害対策基本法にかわる形で環境基本法が成立、施行された(公害対策基本法は廃止)。同基本法は、従来個別に行われていた公害対策や自然環境保全(自然環境保全法)の枠を超え、人類の将来を見通し国際規模で環境問題に対処しようとするものである。
[柴田徳衛]
(1)公害に共通な特質の第一は、その被害が金銭で評価しにくい場合が多いことである。近代の経済現象はすべて価格に換算され、生産活動の総和たるGDP(国内総生産)の額が指標となり、また各企業は利潤を最大にするよう生産営業活動をする。ところが、大気・海洋の汚染、気温の変化といった現象は、経済的価格に反映しにくく、その日の株式価格の相場変動にも反映しがたい。一般に価格のないもの、価格に反映しない事象は、価値のないつまらないものと見捨てられがちであるが、公害は反対に重大・深刻ながら価格現象にはすぐ反映しない。さらに、いちばん身近な人体への影響については、もちろん水俣病(みなまたびょう)や四日市喘息(ぜんそく)のような深刻な病気が発生して、金額としても大きな損失をもたらしたものもあるが、それに至らぬ半健康・不快感ともいうべき形の公害の被害が広がりつつある。ごく微量の有害物質に長期にさらされて気分が優れない、騒音でいらいらする、耳には聞こえない超低周波によって圧迫感がし不快な船酔い現象がもたらされる、カラオケなどによる近隣騒音の迷惑等々は、金銭では評価できないが、大きなマイナス現象である。
(2)第二に、公害の被害には不可逆的損失(元に戻すことのできない損失)、換言すれば補償が不可能な類(たぐい)の損失が多い。水俣病、四日市喘息で生命を奪われた犠牲者たちはその最大の例である。そのほか一般の事象は、原因を除けば結果も消えると考えられるが、公害の場合、たとえばある程度以上の緑を失うと、原因を除去しても、その地域山林の治山治水能力は失われ、生物多様性の減少が進む事態が多い。また周辺の自動車走行や工場排煙による大気汚染が原因で、インドのタージ・マハル宮殿、ギリシアのアテネの神殿、ローマの遺跡などの大理石などが傷み始めている事態は、500年、1000年と受け継がれた人類の芸術品や文化財が、公害被害で取り返しのつかない損失を招いている例である。
(3)第三には、その影響・被害が、年月が経過するほど複雑・広域化していることである。複合汚染、二次汚染といった現象が広まっている。前者の例として、大気中の窒素酸化物と炭化水素が強い日光にさらされ、有害度の高いオキシダントを発生させて光化学スモッグをおこし、広い範囲の動植物に被害をもたらすことがあげられる。また生態系の営みにおいて、一つの河川汚濁が周辺の植物、さらにそれに依存する動物、流入する湖や湾内の魚類へと連鎖的に公害をもたらす。したがって、公害の被害は、かつては工場煙突の周辺に住む住民、排水口近くの魚類が受けたが、1970年代になってからは光化学スモッグのようにむしろ緑が多く光線の強い周辺地帯や、赤潮における瀬戸内海沿岸のように広範囲に広がるケースが増えている。北欧の酸性雨の場合は、ヨーロッパ大陸の工場の煙がバルト海を越えてスカンジナビア半島一帯を襲い、樹木を枯らし、多数ある湖沼の魚を殺す結果をもたらした。
このように原因と結果が複雑・広範囲になればなるほど、被害に対する責任の所在が不分明となってくる。
(4)第四として、公害の発生が、生産過程から流通、消費の過程に広がりつつあることである。工場の生産過程において公害の規制を厳格にしても、その大量の製品が運搬され、消費される過程で公害を引き起こす例が増えている。著しい例は空き缶公害である。このほか新しいタイプのごみ(固形廃棄物solid waste)公害が、全国的、全世界的に広がっている。河川、海岸でのペットボトル、発泡スチロールなどプラスチック製品の投棄も多い。廃棄物の焼却によるダイオキシン発生等の問題も広がっている。
(5)第五の特質として、その国際化があげられる。先の第三にあげた特質の広域化と関連し、海外ではドナウ(ダニューブ)川の上流の汚染が、ハンガリーからクロアチア、セルビア、ブルガリア、ルーマニア等と下流の流域諸国に影響を及ぼすといった例が多い。1974年3月には、バルト海沿岸諸国が初の多国間公海汚染防止協定を結んでいる。大陸諸国から離れ、孤島の形にある日本は、そうした隣接国とのかかわりが薄かったが、別の次元での公害の国際化問題に直面させられている。それは多国籍企業活動の発展である。先進国の巨大企業が、国境を越え、労働力の安く豊富に供給される地域、公害規制の緩い国で工場の生産活動をする傾向が強い。本国で厳しい公害の規制をしながら、海外とくに開発途上国で公害を発生させる、いわゆる公害の輸出現象が広まるのである。日本の企業も東南アジアへの進出に伴い、こうした問題をしばしば指摘されよう。
[柴田徳衛]
19世紀以来の技術進歩は著しかったが、その世界的な発展傾向を極端に圧縮し、短期間に達成させたのが日本である。戦後のいわゆる焼け野原から、1955年(昭和30)ごろを転機に、技術革新の道を突進し、世界の最先端技術を入れて、石油コンビナートを建設した。そうして利益の集中・集積を図りながら生産性向上を第一とし、そのため港湾、高速道路、新幹線、空港が急速に建設された。つまり各種公害の発生源が、特定地域に集中して設立されたのである。日本は人口の極度の集中地域に急激な公害を集中的に発生させ、被害は世界に例のない激烈な形で出てきた。
実質人口密度の低い先進国では、生産技術にそれほど公害対策を加味せずにすんだかもしれないが、日本は先進生産技術をそのまま輸入し、自国の実状に即しての公害対策をおろそかにしてきた。こうして水俣病に代表される世界に類のない悲惨な被害を大規模長期間にわたり生じさせてきた。しかも被害者が零細漁民、農村主婦といった、いわゆる低所得者層に集中したこと、また加害の側に人権を守り尊重する配慮が欠けていたところに、日本的公害の悲劇を大きく長期化させた背景がある。ここでは、公害の問題は社会的貧困の問題と深く絡んでいる。
産業革命の口火を切ったイギリスには、個人の権利を妨げ、不快・不便や損害を加える行為としての「ニューサンス」nuisanceという概念があり、とくに社会一般に危険を及ぼす可能性のあるものを公的ニューサンスpublic nuisanceと称し、19世紀後半には法律的にもいろいろ取り上げるようになった。具体的には交通妨害、有害な煤煙(ばいえん)、採光のじゃまなどがこの公的ニューサンスにあたる。しかし日本では、こうした概念に基づいて公害問題を取り上げることは大きく後れていた。
「公害」にあたる英語として、environmental pollution(環境汚染)がよく使われる。しかし、日本の公害は、環境を汚染するのみならず、それを破壊する激烈さをもつし、地盤沈下なども含まれるため、むしろenvironmental disruption(環境破壊)と表現したほうが適切である。さらに戦後の日本的公害の特色に注目すれば、むしろ原語のままkogaiと表現して海外に訴えるのがもっとも適切ともいえよう。なお公害と異なる語に事故、災害などがあるが、日本の現実ではそれらが重なる例が多い。
[柴田徳衛]
公害の世界における歴史は、さかのぼれば300余年前の17世紀に求められる。ロンドン市民の健康をその死亡原因から求めたジョン・グラントJohn Graunt(1620―1674)の『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』Natural and Political Observations Mentioned in a Following Index, and Made upon the Bills of Mortality(1662)は、「多数の人々はロンドンの煤煙(ばいえん)を、不愉快であるだけでなく、その息苦しさのため、まったく堪えられず」とし、健康への悪影響を指摘している。そして19世紀に入り、先の産業革命前後からの下水道の後れによる水質汚濁はコレラなどの伝染病を多発させ、ヨーロッパ諸都市に多くの被害をもたらした。その後、工場からの亜硫酸ガスなどで多くの被害を出した例として、1930年ベルギーのミューズや、1948年アメリカのペンシルベニア州ドノラでのケースがあり、また石炭燃焼と気象条件が重なり2週間で平常の同じ時期より4000人も多い死者を出した1952年末のロンドン・スモッグなどは、公害の歴史上有名な事件となっている。
[柴田徳衛]
日本においては、明治以後「富国強兵」「殖産興業」のスローガンのもと、いわゆる上からの経済発展を強行しただけに、公害の被害も早くから出た。その原点とよばれるものが、足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒事件である。通信・軍用に必要な銅を産する古河(ふるかわ)財閥経営の足尾銅山は、明治10年代から操業を急発展させたが、それに伴って鉱毒が大量に渡良瀬川(わたらせがわ)に流入し、流域のとくに谷中(やなか)村など広範囲の田畑に被害をもたらした。明治30年代、田中正造を中心に農民たちが反対運動を重ねたが、政府はこれを弾圧し、問題の足尾銅山、同製錬所がやっと閉じたのは、1973年、1974年(昭和48、49)であった。このほか別子銅山(べっしどうざん)の公害事件、大阪市の煤煙(空中浄化)問題などが続くが、企業城下町主義――市経済を支える工場の煙がたくさん出るおかげで市民は豊かになれるとか、戦争に勝つためがまんすべしとかいった論理で、公害の規制は大きく後れた。事実こうした公害現象は日本各地にあったが、鉱山の被害にあたる「鉱害」の語はあっても、一般の辞典には昭和30年代末まで「公害」なる用語は登場してこなかった。
[柴田徳衛]
日清(にっしん)・日露そして第一次世界大戦と、戦乱のたびに日本の重化学工業は大きく発展し、各種公害を引き起こしたが、第二次世界大戦中の米軍空襲などにより国土は焦土と化した。新しい生産活動が本格化するのは、朝鮮戦争を経て1956年(昭和31)経済白書の「もはや戦後ではない」の宣言から、1960年末の「所得倍増計画」発表にかけてのことである。
[柴田徳衛]
1950年代なかばから海浜を大規模に埋め立て(欧米ではこうした例は少ない)、世界最先端の技術を集めた工場群をもっとも能率よく配列し、大型石油タンカーで原油を搬入し、精油、発電、鉄鋼、石油化学などの生産活動を集中一貫して行うコンビナートの建設が続いた。こうしてエネルギー源が石炭から石油に大きく転換し、工場の立地も、石炭などの産出地から、近くに大都市をもつ港湾を建設しうる地が選ばれ、大阪湾の堺泉北(さかいせんぼく)や伊勢湾(いせわん)の四日市、京浜工業地帯、京葉工業地域などに数多くのコンビナートが建設された。日本の金融機関は、そうした重化学工業の設備投資に重点的にその資金を回し、また財政面では関連施設として、いわゆる産業基盤とよばれる鉄道(新幹線)、道路(高速道路)、港湾、工業用水施設などの整備・拡充工事が進められた。
こうして生産性の向上にあらゆる努力が払われたが、その過程で広がる公害への規制は軽視された。生産が本格化し、1956年(昭和31)あたりからの神武(じんむ)景気、1960年前後の岩戸景気といわれる一方で、水銀、カドミウム、亜硫酸ガス、一酸化炭素、粉塵(ふんじん)などが工場周辺の住民を襲うようになった。
[柴田徳衛]
それ以前から公害による発病はあったが、1950年代後半に入り表面化してきたものに水俣病(みなまたびょう)、イタイイタイ病がある。前者はアセトアルデヒド工場の水銀触媒から生成する微量のメチル水銀が不知火海(しらぬいかい)(熊本県・鹿児島県)あるいは阿賀野川(あがのがわ)(新潟県)に排水され、魚を経るなどして(食物連鎖を通じ)人体に吸収され、大規模な被害を生じさせた。後者は富山県神通川(じんづうがわ)中・下流で神岡鉱山から排出されたカドミウムが米に蓄積濃縮され、とくに女性に無数の骨折を生じさせる悲惨な被害をもたらしたもので、法的認定患者は100人を超えた。
先のコンビナートの操業本格化に伴い、周辺住民にもたらされた被害は発作性の呼吸困難であり、代表的なものは「四日市喘息(ぜんそく)」である。そのほか中小工場や事務所、ホテルなどから排出される有害物質が重なり、大都市はいずれも公害の中心となってしまった。その後の経過として、たとえば水俣病については、認定が棄却された多数の未認定患者により訴訟が起こされるなど大きな社会問題となったが、1996年(平成8)までには和解が成立し、かなりの数までの被害者については決着をみた。
[柴田徳衛]
地下水汲(く)み上げによる地盤沈下も、越後平野(えちごへいや)、濃尾平野(のうびへいや)、阪神地方に広がった。東京の東部でも工業活動と正比例するスピードで沈下が進み、東の区部面積の20%以上が、満潮時には水面以下となったため、満潮時に地震・台風などが襲えば、大量の犠牲者を生じるおそれが出てきた。
こうして1960年代も後半になると、国民の多くが、不快をはるかに超え、生存への危機感すら抱くに至った。1967年(昭和42)に入り、ようやく公害対策の憲法ともいうべき「公害対策基本法」が施行されたが、先に述べたように「経済発展との調和」条項が置かれ、多くの規制は努力目標的なものにとどまって実効をあげえなかった(同基本法は、1993年環境基本法となった)。
[柴田徳衛]
国の弱い公害規制に対し、その枠を破ったのは、住民の声を背景とした地方自治体が公害発生源の企業と結んだ協定である。先例は1964年(昭和39)に横浜市が開いたが、有名なのは1968年9月に東京都と東京電力とが結んだ火力発電所の公害防止協定である。その年4月に発足した東京都公害研究所(現、東京都環境科学研究所)が技術・情報の研究を進め、また協定成立に至るまで都が世論に訴えたことなどにより、亜硫酸ガスの排出量の大幅削減、低硫黄(いおう)分石油の使用、都の立入検査を認めること、情報の公表(東京都公害研究所刊行の『数字でみる公害』各年版など)など、当時としては画期的な項目を協定として結ぶことができ、成果をあげた。以後、他企業もこれに倣い、東京に青空が少しずつ戻り始めた。
さらに東京都は1969年7月に公害防止条例を公布し、その前文で、「人間は自然の資源と法則を利用して文明をつくり、自然の与える恩恵をうけてその用に供してきた。しかし、文明は、また、自然を破壊し……公害をもたらした。すなわち、公害は、人間がつくりだした産業と都市にその発生原因が内在し、あきらかに社会的災害である」とし、第一原則として「すべて都民は、健康で安全かつ快適な生活を営む権利を有するのであって、この権利は、公害によってみだりに侵されてはならない」をたてた。産業発展との調和を強く批判したものである。
[柴田徳衛]
1970年(昭和45)を契機として新しいタイプの公害が広がり始めた。同年7月18日朝、東京、杉並区の立正高等学校で突然発生した光化学スモッグである。それは青天の強い太陽光線による窒素酸化物と炭化水素の複合汚染により有害オキシダントが発生し、グランドで走る生徒四十数人が倒れる被害を生じたものであり、以後、都心よりはむしろ緑の多い近郊地帯に多発した。問題となった窒素酸化物の発生源としては自動車の排出ガスが大きな比重をもつ。生産台数の急増にしたがって世界的に普及率を急増させてきた自動車が、交通事故や騒音・振動だけでなく、大気汚染の大きな要因となってきたのである。
ロサンゼルスなどで早くからこの問題に苦しんできたアメリカは、1970年に大気清浄法Clean Air Actを強化した修正法(通称マスキー法)を通じ、自動車排出ガス規制に目標年次をたて実現に乗り出した。日本も続く1972年にアメリカと同じ規制実現計画を定め、一酸化炭素、炭化水素等については成果があがった。しかし、肝心の窒素酸化物の排出量を1976年までに走行1キロメートルにつき0.25グラム以下に規制するという目標は、1974年春ごろになって日米の大手自動車メーカーがともに、達成は技術的に困難と主張し始めたために実現が阻まれた。
子供たちにとくに集中する光化学スモッグ被害に苦悩する母親をはじめ、広く住民団体が自動車メーカーに規制実現を求める運動を展開したが、メーカー側の技術論議の前に、運動は進展を阻まれた。住民の健康を憂える東京都をはじめ川崎、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸の七大都市の首長が集まり、1974年8月には技術分野と公害行政の専門家たちによって「七大都市自動車排出ガス規制問題調査団」が結成され、10月、同調査団から規制は技術的に可能との報告書が出された。専門家による科学的解明と、それに裏づけられた自治体、住民団体の運動は事態改善の大きな圧力となった。業界筋は、こうした公害対策の強化は生産コストを高め、自動車販売台数を減らし、失業の増大、不況を招くと反対し、一時は規制が緩和されたが、やがて成果の著しい改善を示した自動車が広く生産されるに至った。この過程で排出ガス規制の技術研究が大きく進み、結果として燃料消費の少ない経済性の高いエンジンが開発された。こうして日本の自動車業界そして財界から「公害をより強く規制する製品を産出してこそ初めて市民は歓迎してその製品の販売は促進され、業界自身の真の発展が図れる」という声が出た。こうした自動車排出ガス、とくに1995年(平成7)に6万余トンもあった窒素酸化物の排出量も大きく減じ、光化学スモッグの被害もほとんど解消した。
[柴田徳衛]
住宅密集地沿いに高速道路が走り、騒音・振動や大気汚染などの被害が広がっている。工場からの有害排出物質と自動車排出ガス、それに騒音・振動の加わる都市型被害を受けた大阪西淀川の公害患者112人が、1978年(昭和53)に国、阪神高速道路公団と企業10社を相手に提訴した(大阪西淀川公害訴訟)。大阪地方裁判所は1991年(平成3)に企業側の責任を認める判決を出し、その後1995年3月に企業側が責任をとる形の和解が成立した。そこでは国と公団は非を認めず和解に応じなかったが、結局1998年7月に至り大阪高等裁判所で、原告と国・公団は和解し、国や公団は排出ガス対策の強化を約束し、原告側は賠償金の請求を放棄した。そして「あおぞら財団」が結成され、公害で荒廃した地域の再生を進めることとなった。
西の大阪に対し、東の京浜コンビナートの中心たる川崎南部では、京浜国道、首都高速道路、産業道路などが集中し、そこに昼夜を分かたずに重量トラックや大型タンクローリーなどが走り大きな騒音を発して、深刻な自動車公害が起こった。そこで1982年3月に原告119名による第一次提訴が、汚染物質排出の日本鋼管、東京電力など企業11社と、道路建設管理主体としての国、首都高速道路公団とを被告として起こされ、以後第二次から第四次の提訴が続いた(川崎公害訴訟)。その後幾多の経緯を経て、1998年8月に横浜地方裁判所川崎支部から判決が出され、環境基準を上回る二酸化窒素や浮遊粒子状物質による大気汚染が現在も続いており、自動車排出ガスのみでも健康被害を起こすとし、国・公団はその責任があるとした。
川崎公害訴訟の原告側は、裁判を機会に研究者による川崎の新しい時代の発展への道、よりよい環境創造の方向を求める川崎環境研究プロジェクト(KEP)の展開を支えることとなった。単にこれまでの苦しい過去にのみかかわらずに、新しい21世紀の地域発展の道を求めようというのである。
[柴田徳衛]
「もはや戦後ではない」と経済白書でいわれた1956年(昭和31)あたりから、洗濯機、冷蔵庫、掃除機の電化製品が家庭に普及し始め、これらが家庭の「三種の神器(じんぎ)」とマスコミにはやされた。さらにたいへん貴重とされたテレビの受信契約数が、1958年に100万を超え、掃除機が白黒テレビにかわった。こうして従来家庭になかった「耐久消費財」が、以後爆発的に各家庭に普及した。以上に述べた耐久消費財は、普及し始めてから10年後の1970年にはすでに日本の全家庭に対し、電気冷蔵庫89.1%、同洗濯機91.4%もの普及率に達していた(経済企画庁「消費動向調査」)。
ここにさらにやっかいな化学製品が登場してきた。プラスチックである。その国内消費量が、10年ごとに倍増以上の勢いで増え続けてきた。
急増する耐久消費財は、相当期間家庭で使用された後、ごみとして廃棄される。新品として1960年前後からすさまじい勢いで各家庭に普及するとともに、10年前後を経た後にそのままごみとして同じくすさまじい勢いで排出されてきたのである。それが具体的な姿で現れたのが、1971年9月末から東京で始まった「江東(こうとう)ごみ戦争」であった。
経済の高度成長は、大量生産・大量消費の経済を招き、それまでの「節約の美徳」の考えを「使い捨て」促進へと変えてしまった。ごみ排出量は加速度的に増加するとともに、プラスチックなどの処理困難物や、冷蔵庫やベッドといったような大型耐久消費財――「粗大ごみ」の廃棄も増加してきた。焼却工場からの残灰、下水処理場の汚泥といった廃棄物処理後の都市系ごみも増えるし、建設廃材や残土の量も都市化が進むほど増大する。他方、都市化が進むほど、住宅の過密化、交通渋滞、用地難が進み、ごみ収集、運搬、処理の各段階で困難が重なっていった。
問題の根本は、経済のあり方が価格のある物の生産を増大させ、それをより多く消費(浪費)させることに重点が置かれ、価格のつかないごみをじゃま物と軽視してきたこと、自分の家からだけ早くごみを持ち去ればよいとした考え方、他人の迷惑や地域全体のことの軽視……など日本経済のあり方自体、民主主義のあり方自身に根ざしていた。
1971年東京の江東区に端を発したごみ処理問題は、全国にたちまち波及した。また焼却処理場の建設、清掃施設の整備などごみ関係の行政も進んだ。しかし家庭ごみに対して産業廃棄物の比重が大きくなり、危険な有害物質がそこに含まれていることが表面化した。1975年の東京・江東方面での六価クロム鉱滓(こうさい)投棄問題を機に、政府も廃棄物処理法を改正して国会に提出した。その後、廃棄物処理法は何度も改正され、排出事業者責任の徹底や国の役割強化などがなされている。
[柴田徳衛]
原子力公害をめぐる問題について、1974年(昭和49)9月の原子力船「むつ」の放射線漏れ事故や、海外では1979年3月に起こったアメリカ、ペンシルベニア州ゴールズボローにあるスリー・マイル島原発事故Three Mile Island nuclear power plant accident(TMI事故)が注目を集めた。さらに世界を震撼(しんかん)させた大きな事故としては、1986年4月のチェルノブイリ(ウクライナ)原子力発電所の4号炉爆発事故がある。ここで大量の放射性物質が放出され、周辺30キロメートルの住民が退避することとなった。日本国内でも各地の原子力発電所で、規模の差こそあれ放射能汚染水漏れ、火災、故障などの原子力発電所事故が続出している。1999年(平成11)9月には茨城県東海村の核燃料工場が臨界事故を起こした。
2011年(平成23)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた福島第一原子力発電所事故は、冒頭に示した公害の定義に照らせば、公害ととらえることができる。その被害の大きさからみると、過去に類のない公害である。電力を生産する過程で事業主は起こりうる重大な事故・災害を「可能性小」だから「想定外」とし、それに必要な施設・装置(つまり必要経費)を省略し、取り返しのつかない大事故につながったと解するほかない。いまの通念としては、「公害」とは工場の煙突から黒い煤煙を排出して周辺に迷惑をかけることといったイメージが強い。マス・メディアの用法としての原子力災害は、公害とよぶのにあまりに巨大なのではないか。そのため、社会的には「公害」とよばずに、原子力発電における大事故と位置づけられてもいる。
これまで原子力発電は、地球温暖化を加速させる二酸化炭素を出さない「地球に優しいエネルギー」とされてきた。しかし「事故は起こりうる」のであり、そうした観点で今後日本として、自然界における再生可能なエネルギーの比重をできるだけ大きくしていくための議論がなされている。原子力発電に今後も依存し続けるのか、それとも太陽光発電、地熱発電、水力発電、風力発電のような自然の再生資源に重心を移すのか、選択を迫られている。ある日突然全部の原子力発電所を閉鎖廃止するのは困難だろうが、ここでは自然エネルギーの活用、具体化の研究・実現の方途を求めたい。もちろんそれらの実現には、休耕・放棄農地活用のための農地法や漁業法における水利権等々の法律的権利調整、つくられた電力の送電線設置やその買取価格の問題などの解決が大事となる。原発事故からの復興において、事故による社会的な損害をどのように補償するか、また今後の安全重視のためのエネルギー対策などについて、国(行政)の果たす役割は重要である。
[柴田徳衛]
水俣病(みなまたびょう)をはじめとした日本における公害の教訓は、一度公害を引き起こすと回復は困難であり、問題の解決に半世紀以上も要すること、複合的な被害であるため完全な解決はありえないこと、などであった。日本は、この失敗の教訓を積極的に世界に発信し、同様の失敗が世界で繰り返されないようにすべきであった。しかしながら、被害者の視点に立った失敗の検証が不十分であったため、日本の教訓や経験が世界の公害防止に十分に役にたったとはいいがたい。
[山下英俊]
水俣病に類似した産業公害としては、中国吉林(きつりん/チーリン)省第二松花江(しょうかこう/ソンホワチヤン)の水銀汚染、カナダのオンタリオ州ケノラ地区の水銀汚染などが知られている。前者は、アセトアルデヒド工場からの有機水銀の流出により、吉林省・黒竜江(こくりゅうこう/ヘイロンチヤン)省で軽症水俣病患者が報告されている。後者は、パルプ工場付属のカ性ソーダ工場からの水銀により、先住民の居住地区の水域の魚が汚染され、それを食べた住民から水俣病にみられる神経症状が確認されている。被害を受けたカナダの先住民と日本の水俣病患者との交流が行われた。また、韓国慶尚南道(けいしょうなんどう/キョンサンナムド)温山(おんさん)コンビナートでも、環境汚染による健康被害が報告されている。原因物質が複合的であり、汚染への曝露(ばくろ)も多経路によるため、従来の公害と異なり、その因果関係を証明することが困難となっている。
[山下英俊]
先進国の企業が環境規制の緩い途上国に工場を立地し、そこで公害を引き起こす事例も多い。いわゆる公害輸出である。ボパール事件や、ARE事件などがその代表といえる。前者は、アメリカのユニオン・カーバイド社がインドのボパールに立地した農薬工場から、1984年に猛毒のイソシアン酸メチルが漏洩(ろうえい)し、周辺住民に重大な被害をもたらした事故である。事故直後の死者は2500人、中毒患者は20万人ともいわれている。後者は、三菱(みつびし)化成(現、三菱ケミカル)が出資してマレーシアに設立した合弁企業エイシアン・レア・アース(ARE)社が、1982年(昭和57)からイポー近くのブキメラ村で、スズの廃鉱石からできるモナザイト(モナズ石)という鉱石からレア・アース(希土類元素)の生成・抽出を開始した。その際に発生する廃棄物に放射性物質のトリウムが含まれていた。ARE社は、操業当初、ほとんどなんの対策もとらないまま、工場裏の池に捨てていた。このため、周辺環境を汚染し1980年代後半には住民への健康被害も明らかとなった。地元住民が操業停止を求める裁判を起こし、日本でも「公害輸出が裁かれた初のケース」として報じられた。こうした経緯を受け、1994年(平成6)にARE社は工場の閉鎖を明らかにした。
また、石綿産業においては、1970年前後に石綿の有害性が関係者の間で認識されるようになるのと並行して、日本の石綿企業がアジアに生産拠点を移転させる動きがみられた。たとえば、日本アスベスト(現、ニチアス)は、1971年に韓国の釜山(ふざん/プサン)に現地企業との合弁で第一アスベストを設立した。系列の奈良県の竜田工業から、石綿のなかでも毒性の強い青石綿(クロシドライト)を原料とする製品の製造技術を第一アスベストに供与し、同時に国内での生産を中止したという。現在では、竜田工業および第一アスベストの周辺に居住していた住民の間に、石綿への曝露が原因となって発病する中皮腫の患者が確認されている。また、1990年に、今度は第一アスベストがインドネシアに工場を移転した。2008年(平成20)時点で、インドネシアの工場ではいまだに石綿製品が製造されており、生産設備や環境対策は40年前の日本と大差ない状況であったという。石綿の有害性に関する情報格差と、石綿への曝露から健康被害の顕在化までの時間差が利用され、3世代にわたる公害輸出が行われた事例といえる。
[山下英俊]
軍事活動に起因する環境破壊も深刻である。軍事活動は、軍事基地建設、軍事基地での活動、戦争準備(軍事訓練、軍事演習)、実戦という四つの局面で環境破壊をもたらす。軍事基地建設による環境破壊が懸念される事例としては、沖縄の米軍普天間(ふてんま)基地の代替施設建設問題があげられる。移転先とされた沖縄県名護(なご)市辺野古(へのこ)の沖合いのサンゴ礁は絶滅危惧種のジュゴンの餌場(えさば)となっている。基地建設が強行されれば、沖縄のジュゴンを絶滅に導く危険性がある。
軍事基地は、それ自体が特殊な化学工場のようなもので、さまざまな汚染物質が大量に存在している。しかも、汚染物質に関する情報が軍事機密として秘匿される。基地内の汚染の実態が明らかになるのは、米軍基地の返還など特殊事情によることが多い。たとえば、1995年(平成7)に返還された沖縄の恩納(おんな)通信基地では、浄化槽にたまっていた汚泥に水銀、カドミウム、ヒ素、PCB(ポリ塩化ビフェニル)などが高濃度で含まれていた。返還跡地の汚染が住民に健康被害をもたらした事例としては、フィリピンの米軍クラーク空軍基地、スービック海軍基地があげられる。前者は1991年に、後者は1992年に返還され、軍事利用から民間利用への転換が進められている。しかし、地元の環境NGOの調査によると、2002年8月時点で両基地周辺の汚染被害者の総数は2457名に及び、白血病、癌(がん)、腎臓(じんぞう)性疾患、呼吸器障害など多様な症状がみられるという。
軍事演習や実戦においても、航空機騒音による公害(米軍横田基地など)や、劣化ウラン弾の使用による環境汚染と健康被害など、さまざまな被害が指摘されている。
[山下英俊]
大気汚染に関しては、日本など先進国においては、まず工場などの固定発生源の対策が進み、ついで自動車(移動発生源)の対策が進められている。しかし、アジアの大都市においてはいまだに深刻な汚染状況となっているところもある。たとえば、2006年の中国北京(ペキン)の二酸化硫黄(いおう)濃度(年平均値)は52マイクログラム/立方メートルとされるが、これは同時期の東京よりも1桁(けた)大きい(2006年度平均で0.002ppm。二酸化硫黄1ppm=2860マイクログラム/立方メートルで換算すると5.7マイクログラム/立方メートル)。東京の1970年代前半の濃度に匹敵する値である(1973年度の一般環境大気測定局平均で0.020ppm。換算すると57.2マイクログラム/立方メートル)。これは石炭に強く依存したエネルギー供給構造が大きく影響していると考えられる。なお、2000年代なかば以降、長崎、熊本などこれまで光化学オキシダント注意報の発令されたことがなかった地域で注意報が発令されるようになった。この原因として、中国から風に乗って運ばれてくる大気汚染物質の影響が疑われている。
[山下英俊]
中国やインドなど、急速な経済成長を続けるアジア地域は、旺盛(おうせい)な資源需要を自国内の供給でまかなうことができず、天然資源だけでなく再生資源(廃棄物)も国外から大量に輸入するようになった。たとえば、2007年の統計では、中国は鉄くずを339万トン、古紙を2256万トン、廃プラスチックを691万トン輸入している。おもな輸入元は、アメリカ、ヨーロッパ、日本である。
こうした再生資源貿易に伴い、一方で、輸入品の不適正処理・不法投棄、廃棄物の不法輸出といった問題が発生している。たとえば、中国広東(カントン)省汕頭(スワトウ)市貴嶼鎮(きしょちん)は、中国における代表的なリサイクル拠点であり、年間100万トンものリサイクルが行われているとされる。しかし、小規模な私営企業や個人による家内工業が中心であるため、技術水準に問題があり、不適正処理が行われ、従業員や住民の健康被害が生じている。汕頭大学医学院教授霍霞(フオシア)の研究グループの調査によると、貴嶼の幼児の血中鉛濃度の上昇、作業従事者のポリ臭化ジフェニルエーテルによる汚染などが明らかになっている。また、廃棄物の不法輸出については、1998年12月に台湾からカンボジアに水銀を含む有害廃棄物が不正輸出された事件や、1999年(平成11)12月に日本からフィリピンに古紙の名目で医療系廃棄物が輸出された事件、2004年(平成16)4月に日本から中国に輸出された廃プラスチックに基準を上回る廃棄物が混入していた事件など、後を絶たない。
従来は、製品の廃棄段階で有害物質を適正に処理するという方針で政策体系がつくられてきた。しかし、国内でも廃棄物の不法投棄の発生を十分に抑えることができていない。加えて、再生資源貿易の進展により海外への流出が増加している。こうした現状を踏まえると、廃棄段階で適正処理を担保する制度の構築は困難であると考えるべきである。むしろ、汚染の原因となる有害物質を、製品の設計・生産段階から排除する方向へ、政策体系を移行してゆくべきであると考えられる。規制対象物質を含んだ製品の域内での販売を禁止したEU(ヨーロッパ連合)のRoHS(ローズ)指令などが、その具体例といえる。
[山下英俊]
『柴田徳衛著『日本の清掃問題』(1961・東京大学出版会)』▽『都留重人編『現代資本主義と公害』(1968・岩波書店)』▽『東京都公害研究所編・刊『公害と東京都』(1970)』▽『東京都公害研究所編・刊『数字でみる公害』(1971~1987)』▽『東京都環境科学研究所編・刊『数字でみる環境』(『数字でみる公害』を改題、1988~1994)』▽『K・W・カップ著、柴田徳衛・鈴木正俊訳『環境破壊と社会的費用』(1975・岩波書店)』▽『清水誠編『戒能通孝著作集8 公害』(1977・日本評論社)』▽『柴田徳衛著『日本の都市政策』(1981・有斐閣)』▽『田尻宗昭著『羅針盤のない歩み』(1985・東研出版)』▽『日本環境会議・「アジア環境白書」編集委員会編『アジア環境白書』(1997、2000、2003、2006、2010・東洋経済新報社)』▽『原田正純著『いのちの旅――「水俣学」への軌跡』(2002・東京新聞出版局)』▽『村山武彦著「アジアにおける公害輸出の事例――3世代にわたるアスベスト工場の移転」(『環境と公害』38巻4号所収・2009・岩波書店)』▽『庄司光・宮本憲一著『恐るべき公害』(岩波新書)』▽『庄司光・宮本憲一著『日本の公害』(岩波新書)』▽『原田正純著『水俣病』(岩波新書)』▽『田尻宗昭著『四日市・死の海と闘う』(岩波新書)』
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環境破壊ともいう。15世紀以来の西洋世界の拡大は,香辛料,森林資源(船材,製鉄用燃料),農地を求めた地球環境問題の始まりであった。その後19世紀に産業革命をへて,高度工業化社会となった先進諸国は,資源・エネルギー大量消費型の生産・生活様式をとり,20世紀の地球温暖化に拍車をかけた。公害はオゾンホール,酸性雨,砂漠化・土壌汚染(ダイオキシン,ゴミ問題),海洋汚染,大気汚染など生活や生命に直結する。1956年のロンドン大スモッグでは,約4000人の死者が出た。農薬問題を警告したR.カーソン『沈黙の春』(62年)や,72年国連人間環境会議は,世界への問題提起となった。石油危機,86年チェルノブイリ原発事故後の,92年国連環境開発会議(地球サミット)では,アジェンダ21など重要議案が採択された。
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
人間の社会活動に伴う生活環境の破壊,およびこれによって生じる健康被害をいう.法律的には,公害対策基本法により次のように具体的,限定的に定義されている.すなわち,事業活動,そのほかの人の活動に伴って生じる相当広範囲にわたる大気の汚染,水質の汚濁,土壌の汚染,騒音,振動,地盤沈下,および悪臭によって人の健康または生活環境にかかわる被害が生じることをいう.地震,暴風のような自然災害はもちろん公害ではない.職場における労働災害,自動車事故,薬害,添加物による食品害などは公害類似現象で,公害としばしば混同されるが,上記の定義により公害とは区別される.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
…そこで今後については,第1に販売の集約化や過剰設備の処理などで過当競争を是正すること,第2に設備近代化・合理化によるコスト削減,第3に高付加価値製品のシェアを高めること,第4に原料の安い海外へ進出すること,などが必要とされている。【富沢 このみ】
【化学工業の公害】
化学工業による公害には,生産過程で生じる廃物によるものと,生産された化学物質が使用されて生じるものとがある。前者は原理的には他産業の公害と同じであるが,使用される原料や中間製品の危険性が高い場合があるだけでなく,副反応などによりきわめて危険性の高い物質が放出されることがあり,水俣病はその典型である。…
…このほか,地域暖冷房または工場などで,総合熱経済の向上を図るため,動力と発電設備を組み合わせた熱併給発電も行われている。内燃力発電【宮原 茂悦】
[火力発電所の公害]
火力発電所は大量の燃料を燃焼させるため,大気汚染源の主要なものの一つであり,多くの事件を引き起こしてきた。歴史的にみると,すでに1890年ごろまでに日本で最初の電力会社である東京電灯会社と大阪電灯会社の火力発電所が市民の苦情を受けており,ことに煙の都とまで呼ばれるようになった大阪では第2次大戦前を通じて問題が絶えなかった。…
…鉱業の費用は主として鉱山の開発費と輸送費であり,これらは製品価格が変動してもあまり変わらないからである。(6)鉱業の社会的な問題点は,採鉱,選鉱,製錬に伴い,人体や植物に有害な物質が流出する場合が多く,公害問題を引き起こすおそれがあることである。このため近隣に人家などがあるところでは鉱業を行うのはむずかしい。…
…しかしその効率性はまた多くの欠陥を伴っていた。日本の公害問題はコンビナートの成長ときりはなせない。せまい地域にエネルギー多消費の巨大工場が集中することは大気汚染,廃棄物問題を深刻にする。…
…また,一部の薬品や食品添加物による健康障害も顕在化するにいたった。1960年代になって住民はこれらの公害に対して連帯して抗議するようになった。公害発生企業に対する直接抗議行動,開発計画の再検討や差止めを要求する陳情や訴訟,加害企業の責任を明らかにして正当な補償を求める交渉や裁判などを行った。…
…ただ,財政規模は小さかったとはいえ,財政支出の内容は,財政投融資の対象とともに産業基盤向けの比重が高く,その反面福祉,民生向けの比重は低かった。
[公害の発生]
高度成長は国際水準の重化学工業を確立させ,所得水準の上昇と完全雇用を実現したが,その裏面で深刻な社会問題を発生させた。とくに〈所得倍増計画〉による1960年代の工業立地が,太平洋,瀬戸内の臨海地帯に集中したことから,いわゆる太平洋ベルト地帯を中心に空気・水質の汚濁,悪臭,騒音・震動等の公害が頻発した。…
※「公害」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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