兵庫(読み)ヒョウゴ

デジタル大辞泉 「兵庫」の意味・読み・例文・類語

ひょうご【兵庫】[地名]


近畿地方西部の県。かつての但馬たじま播磨はりま淡路の3国および摂津丹波2国の一部にあたる。県庁所在地神戸市。人口558.9万(2010)。
兵庫県神戸市中部の区名。工業地。また、その港湾地区。天然の良港で、古代は大輪田泊おおわだのとまりとして知られ、中世には兵庫津とよばれて繁栄。現在は兵庫港があり、神戸港の一部をなす。
兵庫髷ひょうごわげ」の略。

つわもの‐ぐら〔つはもの‐〕【庫】

武器を納めておくくら。兵器庫。〈和名抄

へい‐こ【兵庫】

武器をおさめておく倉。兵器庫。武庫。ひょうご。

ひょう‐ご〔ヒヤウ‐〕【兵庫】

兵器を納めておく倉。兵器庫。へいこ。

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精選版 日本国語大辞典 「兵庫」の意味・読み・例文・類語

ひょう‐ごヒャウ‥【兵庫】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 兵器を納めておくくら。武器庫(ぶきぐら)。兵器庫。へいこ。
      1. [初出の実例]「冝権立軍営守兵庫」(出典:続日本紀‐和銅四年(711)九月丙子)
    2. ひょうごりょう(兵庫寮)」の略。〔運歩色葉(1548)〕
    3. ひょうごわげ(兵庫髷)」の略。
      1. [初出の実例]「女のかみのゆひやうは、みな名所の名におふといふ。まづ兵庫又は島田など、いづれも所の名じゃといふ」(出典:咄本・私可多咄(1671)四)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 兵庫県神戸市兵庫区の地名。奈良時代は大輪田泊(おおわだのとまり)、中世以降には兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた。現在は神戸港の一部となり、重工業が発達している。古名、務古水門(むこのみなと)。輪田泊。武庫。
    2. [ 二 ] 神戸市の行政区の一つ。兵庫港付近の臨海地区は重工業地帯、北部は住宅地で、北西部に鵯越(ひよどりごえ)の地名がある。昭和八年(一九三三)成立。
    3. [ 三 ]ひょうごけん(兵庫県)」の略。

へい‐こ【兵庫】

  1. 〘 名詞 〙 武器を納めておくためのくら。武庫。ひょうご。
    1. [初出の実例]「兵仗を兵庫に蔵め」(出典:公議所日誌‐一七・明治二年(1869)五月)
    2. [その他の文献]〔呉越春秋‐闔閭内伝〕

つわもの‐ぐらつはもの‥【兵庫】

  1. 〘 名詞 〙 武器類を納めておく倉庫。武器庫。やぐら。〔十巻本和名抄(934頃)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「兵庫」の意味・わかりやすい解説

兵庫(県)
ひょうご

近畿地方の西部に位置し、東は大阪府、京都府、西は岡山県、鳥取県に接する。県域は日本海から太平洋に及び、南北169キロメートル、東西111キロメートルに達している。面積は8401.02平方キロメートルで全国の2.2%、第12位にあたる。日本標準時を示す東経135度の標準時子午線は明石(あかし)市天文科学館を通り、西脇(にしわき)市、豊岡(とよおか)市などを通過している。淡路(あわじ)、播磨(はりま)、但馬(たじま)の3国全域と摂津(せっつ)・丹波(たんば)の各一部、美作(みまさか)の極小部から成り立っている。県南には神戸港、大阪国際空港など海外に開かれた交通の拠点があり、阪神工業地帯がある。県の内陸部には高原、盆地が分布し、広い林地がある。県北は冬季積雪が多いが、水産業が活発に行われている。県庁所在地は神戸市。

 県発足当時の1876年(明治9)の人口は約137万人であったが、明治末には200万人を超え、第1回国勢調査の行われた1920年(大正9)には約230万人になった。第二次世界大戦の終わった1945年(昭和20)の人口は280万人でその5年前に比べると約40万人の減少をみたが、1949年には回復した。2005年(平成17)の人口は559万0601(全国第8位)で1876年の約4倍に増加している。阪神間7都市、神戸、芦屋(あしや)、西宮(にしのみや)、尼崎(あまがさき)、伊丹(いたみ)、川西(かわにし)、宝塚の面積は県総面積の約10.8%であるが、ここに県総人口の約57%が集中している。それに反し、但馬、丹波、淡路や、播磨の内陸部では過疎現象もおきている。2020年(令和2)時点で、28市8郡12町からなる。人口546万5002人。

 国際港都神戸を控え、兵庫県在留の外国人は11万1940人(2021)を数える。うち韓国人がもっとも多く、3万6354人、ついでベトナム人が2万3358人、中国人が2万1804人となっている。欧米人のなかではアメリカ人が2136人でもっとも多い。なお、開港時に外国人居留地を神戸に設けるにあたり主力となったイギリス人は603人である。

[藤岡ひろ子]

自然

地形

中国山地の延長が県の中央部よりやや北寄りに東西に走り、播但山地(ばんたんさんち)と丹波高地となっている。この山地を分水嶺(ぶんすいれい)として北に円山(まるやま)川、矢田(やた)川が山陰地方を潤して日本海に注いでいる。また南では明石川、加古(かこ)川、市(いち)川、夢前(ゆめさき)川、揖保(いぼ)川などが瀬戸内海に注いでいる。北部には東西に連なって氷ノ山(ひょうのせん)(1510メートル)、鉢伏山(はちぶせやま)(1221メートル)などの火山がそびえる。一帯は自然林と渓谷美に恵まれ、氷ノ山後山那岐山国定公園(ひょうのせんうしろやまなぎさんこくていこうえん)の一部となっている。丹後半島から鳥取砂丘までの日本海岸は海の際まで山地が迫り、入り江、岩礁、洞門(どうもん)、洞窟(どうくつ)、岩壁、砂浜など変化に富んだ地形が連続し、山陰海岸国立公園に指定されている。国の天然記念物に指定されている但馬御火浦(みほのうら)、香住(かすみ)海岸はとくに景勝地として知られ、海域公園もある。

 瀬戸内側では明石海峡を隔てて淡路島があり、その東は大阪湾、西は播磨灘(なだ)、鳴門(なると)海峡、南は紀伊水道に面している。播磨灘沿岸には、相生(あいおい)湾、坂越(さこし)湾、赤穂(あこう)湾などの小湾入がある。淡路島は瀬戸内最大の島で、東、西、南に断層海岸があり、島の地形、地質ともに六甲山地(ろっこうさんち)の続きをなしている。明石海峡大橋と大鳴門橋(おおなるときょう)架橋により、本州、淡路、四国の連絡が完成した。沿岸の一部は瀬戸内海国立公園に指定されている。第二次世界大戦後、阪神、播磨の海岸の至る所に埋立地が造成され、工業用地、住宅用地に利用されるようになり、自然海岸を失った地域も少なくない。そのなかで、神戸港ポートアイランド六甲アイランドなどは最大の規模の人工島である。

 兵庫県の地質は複雑で、秩父中・古生層、中生層、第三紀層などに分類される。秩父中・古生層は但馬南部、丹波北部、中部播磨に、中生層は但馬・播磨の北部、篠山(ささやま)盆地、淡路南部などに分布している。第三紀層は播磨の東と摂津の南、但馬中部に分布する。六甲山地や但馬の北部や中部、淡路島北部などに花崗(かこう)岩の分布があり、風化が進んでいる。

 県立自然公園には、猪名(いな)川渓谷、清水東条湖立杭(きよみずとうじょうこたちくい)、多紀連山、朝来群山(あさごぐんざん)、音水(おんずい)ちくさ、西播(せいばん)丘陵、但馬山岳、出石糸井(いずしいとい)、播磨中部丘陵、雪彦峰山(せっぴこみねやま)、笠形山千ヶ峰(かさがたやませんがみね)の11がある。

[藤岡ひろ子]

気候

県北の但馬地方は冬には北からの季節風がもたらす影響で、曇りの日が多く多雪である。豊岡(とよおか)市の2002年(平成14)の降雪日数は年間38日、霧の日は77日、年降水量は2048ミリメートルと記録されている。中部の山間地帯では内陸性の冬の低温、夏の高温が特色である。播磨の内陸部などでは霧の発生することが多い。県南地方は夏高温で、冬快晴の多い温和な瀬戸内式気候で、雨が少ないため早くから農耕用水の溜池(ためいけ)が開かれた。姫路市の年平均気温は15.2℃、年降水量は1190ミリメートル(1981~2010)。黒潮の影響を受ける淡路島の南岸では冬も温暖で、スイセンやナノハナも咲き乱れる内海性気候である。

[藤岡ひろ子]

歴史

先史・古代

先史時代の遺跡は県下各地に発見されるが、縄文式土器のもっとも古いものは香美(かみ)町のタツが平(なる)遺跡で出土している。縄文前期のものとしては、神戸市垂水(たるみ)区西舞子(にしまいこ)の大歳山(おおとしやま)遺跡があり、1万近くの石器および弥生(やよい)時代の住居跡が保存されている。縄文後期のものでは神戸市西区の元住吉山遺跡があり、石鏃(せきぞく)、石斧(せきふ)が多い。兵庫県には高地性遺跡として芦屋(あしや)市の会下山(えげのやま)、城山(しろやま)や神戸市東灘(ひがしなだ)区の保久良(ほくら)神社の遺跡があるが、なかでも弥生後期の典型的な遺跡として神戸市灘区の桜ヶ丘遺跡がある。ここでは1964年(昭和39)に銅鐸(どうたく)14点、銅戈(どうか)7点が出土した。県下にはその他の遺跡からの出土も多く、兵庫県は銅鐸文化の中心地とみなされる。弥生後期では1965年に発掘された田能遺跡(たのういせき)(尼崎(あまがさき)市)がある。弥生土器が主体で、当時の生活様式を知る重要な遺跡である。また県下には多くの古墳がみいだされる。条里遺構は川辺(かわべ)郡の猪名(いな)川、武庫(むこ)川の平野、明石川、揖保(いぼ)川流域のほか但馬(たじま)の河岸平野でも確かめられている。

 古代から海上交通の基地となったのは、東から河尻(かわしり)(尼崎市)、大輪田(おおわだ)(神戸市)、魚住(うおずみ)(明石市)、韓(から)(姫路市)、檉生(むろう)(たつの市御津(みつ)町室津(むろつ))の五泊で、各港の間はそれぞれ約1日の行程であった。741年(天平13)全国に国分寺・国分尼寺が配置建立されたが、兵庫県下では、播磨国分寺・播磨国分尼寺、淡路国分寺、但馬国分寺、但馬国分尼寺が置かれた。現在に至るまで法燈(ほうとう)を伝えているのは、播磨国分寺(姫路市、国の史跡)で、天正(てんしょう)年間(1573~1592)に兵火にあったが、現在、高野山真言(こうやさんしんごん)宗の牛堂山(うしどうざん)国分寺と号している。こうして県下には飛鳥(あすか)、奈良時代の仏教文化が早くから伝えられたが、平安末期ごろからは播磨を中心に寺院の創建、あるいはそれ以前に建造されていた堂宇の再建などが進められた。太山(たいさん)寺(神戸市)、鶴林(かくりん)寺(加古川市)、斑鳩(はんきゅう)寺(太子町)、浄土寺(小野市)、一条寺(加西(かさい)市)などがそれで、堂塔は国の重要文化財に指定されたものが多く、仏教文化の隆盛を伝えている。

 律令(りつりょう)体制の崩壊する平安末期には、主要荘園(しょうえん)は寺社領となった。598年(推古天皇6)播磨揖保郡鵤荘(いかるがのしょう)(太子町)は法隆寺領となったが、当時の荘園の範囲を示す牓示(ぼうじ)石が現在も保存されている。また、摂津川辺郡猪名荘(尼崎市)や播磨加東(かとう)郡大部(おおべ)荘(小野市)は東大寺領となり、重源(ちょうげん)により小野に浄土寺が建てられた。丹波多紀(たき)郡大山荘(篠山(ささやま)市)や播磨国矢野荘(相生(あいおい)市)は東寺領、揖保郡福井(ふくい)荘(姫路市)は神護寺領となった。その後、武家の手に渡る寺領もあり、県下では源満仲(みつなか)など多田源氏が摂津国多田荘を領有した。また、播磨守(はりまのかみ)に任ぜられた平清盛(きよもり)は、摂津福原(ふくわら)荘などを所領した。清盛は大輪田泊(おおわだのとまり)に経ヶ島を築き、日宋(にっそう)貿易の拠点とした。さらに港の背後に福原京の建設を構想したが、1181年(治承5)に六波羅(ろくはら)で死去し、実現しなかった。一ノ谷の戦いなどで源氏に敗れた平氏は壇ノ浦の戦いで滅亡した。

[藤岡ひろ子]

中世

南北朝時代の1336年(延元1・建武3)楠木(くすのき)氏と足利(あしかが)氏は湊川(みなとがわ)(神戸市)を舞台に戦い、楠木正成(まさしげ)はこの地で戦死した。

 南北朝時代から室町時代にかけて、但馬は山名(やまな)氏、播磨は赤松氏、また淡路・摂津・丹波は細川氏が守護として領地を支配したが、戦国時代にはこのほか播磨に小寺(こでら)、別所(べっしょ)、浦上の各氏、丹波に波多野(はたの)氏、淡路に三好(みよし)氏らがあってそれぞれ勢力を振るった。1577年(天正5)羽柴(はしば)秀吉は播磨の姫路城に入り、1580年には三木(みき)の別所長治(ながはる)を討ち、また但馬の山名氏を滅ぼした。一方、淡路の三好氏は、織田信長に降(くだ)った。

[藤岡ひろ子]

近世

1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに功のあった池田輝政(てるまさ)が52万石(のち15万石)で姫路城に入った。池田氏がこの地に配されたのは西国(さいごく)一円の要(かなめ)の役割を果たすためであった。輝政は大天守、小天守、渡櫓(わたりやぐら)を備えた姫路城を完成させた。池田氏のあと、本多、結城(ゆうき)松平氏らの譜代(ふだい)大名が入封し、1749年(寛延2)には酒井氏が入り明治まで続いた。1742年(寛保2)城下には6632戸があったという。

 姫路藩のほか、幕藩体制下、播磨には明石藩6万石、龍野(たつの)藩5万3000石、赤穂(あこう)藩2万石のほか、小野、林田(はやしだ)、福本などの小藩、但馬には出石(いずし)藩5万8000石、豊岡藩3万5000石、村岡藩1万1000石、丹波には篠山(ささやま)藩5万石、柏原(かいばら)藩2万石、摂津に尼崎藩4万石、三田(さんだ)藩3万6000石があり、淡路は徳島藩領となった。

 江戸時代を通じて各藩は産業の振興を図った。江戸中期、摂津の伊丹(いたみ)、池田などに酒造がおこり、その後灘(なだ)の村々の酒造業の発達が目覚ましかった。1769年(明和6)尼崎藩領の西宮、兵庫の2町、灘の村々は天領となり、港は江戸送りの酒樽(さかだる)の舟運でにぎわった。このほか、播磨の姫路木綿、赤穂の塩業、龍野のしょうゆ、三木の金物、但馬豊岡の杞柳工業(きりゅうこうぎょう)、浜坂の縫い針などの産業が発達した。また、但馬地域は養蚕が盛んで、丹後の縮緬(ちりめん)機業地に原料を供給した。淡路ではかせ糸の生産が盛んであった。この間、大阪湾岸や播磨灘の一部は干拓され、水田、塩田が整備され、印南野(いなみの)その他の内陸原野は疎水・灌漑(かんがい)の水利事業が進み、水田が拡大した。

[藤岡ひろ子]

近・現代

1871年(明治4)の廃藩置県で、兵庫、豊岡、姫路(のち飾磨(しかま)県)の3県が置かれた。1876年3県が統合し、名東(みょうどう)県に属していた淡路をあわせて兵庫県が成立した。1889年の市町村制施行時には2市(神戸、姫路)26町402村であったが、1953年(昭和28)の町村合併促進法によって町村合併が進み、1999年(平成11)には22市66町、2020年(令和2)10月段階では28市12町となっている。

 1886年神戸には外国人居留地が置かれ、外国人の手による貿易が行われた。運上所(現在の税関)が開かれ、外国商館・銀行が軒を連ねた。居留地は1899年に廃止され、日本独自の貿易が開始された。

 造船、鉄鋼、機械を基幹とする重工業地帯が生まれ、鉄道の普及が農村の開発を推し進めた。第二次世界大戦後は近代的技術による工業が県南部の沿岸地域に発達し、農村への工場の新設も進んだ。農業、水産業もまた近代化の道を進み、都市と農村との生活様式の格差が少なくなった。

 1995年(平成7)1月17日午前5時46分、「阪神・淡路大震災」(1995年2月14日閣議で呼称決定、気象庁命名は「兵庫県南部地震」)が発生した。震源は淡路島北東部の明石海峡で、震源の深さは16キロメートル、地下の活断層のずれによって生じた。この活断層の集中する淡路北から神戸、阪神地域に及ぶ六甲山地の南麓(なんろく)の扇状地は、マグニチュード7.3、最大震度7の直下型地震に襲われた。

 人口密集地では木造住宅の倒壊が著しく、鉄筋コンクリートのビルや高速道路の倒壊もおこった。神戸市兵庫区、長田区では大火災が発生した。地震による死者6434人、全・半壊家屋24万9180棟、焼失家屋7483棟(以上2005年12月消防庁発表)。淡路島北西岸では地表に断層変位が現れ、海岸地帯、ポートアイランド、六甲アイランドなどで激しい液状化現象がおこった。風化した花崗(かこう)岩質からなる六甲山地では、多くの箇所で岩石の崩落や土砂崩れがおこった。また水道、下水道、電気、電話、ガスなどのライフラインが寸断され、鉄道、道路は至る所損傷し、港湾施設が破壊された。被災者は直後、公的施設・広場などに避難したり他府県に移った。警察、自衛隊、ボランティアなど、かつてない大規模の救援活動が行われた。応急仮設住宅の建設数は、4万8300戸に達した。この地震によって兵庫県の産業に与えた損害は農林水産関係の諸施設で約1180億円、商工関係施設約6300億円、建築物1兆7700億円(1997年4月推計)に達した。兵庫県では震災復興本部を設置するなど、復興対策に努め、2000年には「阪神・淡路震災復興計画後期5か年推進プログラム」を策定した。

[藤岡ひろ子]

産業

2000年(平成12)の兵庫県の産業別就業者数の比率は、第一次産業が1.4%で全国平均の約4分の1と低く、第二次、第三次産業の比率がやや高い。10年前に比べると第一次産業の減少、第三次産業の増加が目だつ。第二次産業就業人口の約28%が阪神地域に集中しているのは、阪神工業地帯の活力を示すもので、第三次産業就業人口の約37%が神戸市に集中しているのは、県庁所在地の神戸市が県下の行政機関や会社のオフィスなどの核心地であることを示している。

[藤岡ひろ子]

農業

瀬戸内海に注ぐ河川の流域平野や丹波、但馬の盆地、平野などで水稲の栽培が盛んで、耕地面積の約90%が水田である。2002年(平成14)の県の水稲収穫高は全国の約2.3%の20万4500トンで、これは1972年(昭和47)に比べると約12万トンの減収であり、政府の減反政策を反映している。県内での米自給は困難なため、ほかからの移入を行っている。米以外の農作物のなかでは、淡路島を中心とするタマネギの生産が13万8100トン(2002)で全国第2位、またハクサイ、ピーマンの生産も多い。キュウリ、トマト、ホウレンソウ、ダイコンなどは西播(せいばん)が、タマネギ、レタス、キャベツ、ハクサイ、花卉(かき)、柑橘(かんきつ)類は淡路島が、ナシ、タバコなどは但馬地方がそれぞれ中心となっている。丹波ではヤマノイモ、クロマメなどを特産し、都市近郊の農村では自動車交通の発達とともに花卉、野菜などの促成栽培が行われている。2002年の総農家数は11万2340戸、耕地面積は7万9700ヘクタールで、1戸当り耕地面積は約71アールとなり、全国平均157アールと比べて規模が小さい。販売農家数は7万5650戸で、このうち、専業農家は1万1400戸で約15%にすぎない。

 但馬牛、神戸牛で知られる良質の和牛は、兵庫県の高原地域や淡路島などで飼育されてきたが、現在は乳用牛も増加している。2003年の肉用牛飼育頭数は約6万2500頭で、その飼育法が念入りであることで知られる。乳用牛は約2万8300頭で全国第9位。ブタは約2万8900頭で、淡路島と但馬地方に多い。採卵鶏(さいらんけい)は587万3000羽で、飼育農家は但馬・丹波地域、淡路島に広く分布している。ブロイラーは約281万羽に達し、但馬地域に飼育農家が多い。

[藤岡ひろ子]

林業

2000年(平成12)の林野面積は56万3600ヘクタールで、県の総面積の67%を占める。国有林はわずか5%、民有林が95%を占める。林家数は3万0758戸で、所有林5ヘクタール以下が約80%を占める。但馬・丹波地域には古くから美林が育ち、植物生育のための条件の悪い花崗(かこう)岩・流紋岩質の瀬戸内地方や雨量の少ない淡路では生産が少ない。但馬では古くからスギ、ヒノキの造林地が多く、沿岸や氷ノ山山系にアカマツが多い。この地域には製材工場も多い。丹波地域は天然のアカマツ林、ヒノキの林がある。丹波市ではヒノキ、スギの人工林と天然のアカマツなどがあり、マツタケの生育もよい。播磨では宍粟(しそう)、佐用(さよう)、飾磨(しかま)、多可(たか)の各地域などにスギ、ヒノキが多く、とくに姫路市安富(やすとみ)町地区はスギの挿木、造林、佐用町船越(ふなこし)地区は船越スギで知られる。

[藤岡ひろ子]

水産業

兵庫県は日本海、瀬戸内海、太平洋(紀伊水道)の漁業海域に恵まれ、2000年(平成12)の漁業経営体数は4730、漁業従事者は約7080人である。瀬戸内海ではイカナゴ、シラス、タコ、マイワシなどのほかタイの漁獲に特色がある。日本海側ではスルメイカ、カレイ、マイワシ、ハタハタ、サバなどの漁獲があり、ズワイガニ(マツバガニ)は北海道に次ぐ生産をあげてきたが、1972年(昭和47)の約5000トンに対し、1983年には1300トンに減産したため、毎年放流を行い、保護育成が図られている。なお、2002年は1239トンであった。内水面漁業では揖保川、千種(ちくさ)川、加古川、円山川のアユ漁があり、円山川ではサケ、コイ、フナの放流が行われる。

[藤岡ひろ子]

鉱業

2002年(平成14)の採掘鉱区数は47、試掘鉱区は5ある。歴史的鉱山の廃鉱が多いなかで、かつて多田源氏の財政を支えた川西市の多田銀山も鉱坑跡のみとなった。朝来(あさご)市の生野鉱山は807年(大同2)に発見され、織田・豊臣(とよとみ)時代には奉行(ぶぎょう)を、徳川時代には代官を置いて開発を進めた。錫(すず)、銅、亜鉛、銀、金、タングステンを産出したが、ついに1973年(昭和48)に閉山した。養父(やぶ)市から朝来市にわたる明延鉱山(あけのべこうざん)では全国の80%の錫を産出、朝来市の神子畑選鉱所(みこばたせんこうじょ)で精鉱し、生野精錬所で粗錫とされていたが、1987年に閉山した。

[藤岡ひろ子]

工業

2006年(平成18)の県の製造業事業所数は1万0795で、阪神工業地帯の神戸地域にその20%、阪神南地域に約11%が集中し、鉄鋼、機械、食品、ゴムなどの工業が主体となっている。播磨工業地域のうち、東播地区は金属、繊維、機械、紙など、西播地区では皮革、機械、電子・デバイス、化学、食品、木材が主体となっている。2006年の県の製造品出荷額は14兆4550億円で、電気機械、一般機械が4分の1を占め、鉄鋼、化学、食料品がこれに次ぐ。

 酒造工業は阪神海岸の灘地域の伝統的な地場産業である。六甲山地南麓(なんろく)の扇状地末端部で湧出(ゆうしゅつ)する良質の水が醸造用水となり、また播州米、摂津米は酒造米に適し酒造業を推進させた。特殊な技術を伝える杜氏(とうじ)は丹波、但馬などから迎えられ、技術指導者の養成も行われた。また蔵(くら)の近代化は急速に進み、四季を通じて醸造が行われ、海外に支社が進出する例もある。

 造船業は1956年(昭和31)以来世界第1位の地位を保持し続け、神戸市の川崎重工業、三菱(みつびし)重工業、相生(あいおい)市の石川島播磨重工業(現、IHI)などの造船所が知られたが、現在は下降状態にある。一般機械、電気機器の工場は神戸、阪神地区に集中していたが、1950年代から広い敷地のある播磨地域へ移っている。また、交通の発達に伴い、豊富な労働力を求めて淡路島の洲本(すもと)、一宮(いちのみや)、東浦(ひがしうら)などに機械工場の下請企業が分布するようになった。

 そのほか、在来の工業としては、神戸市のマッチ、加古川・小野市のそろばん、小野・三木市の金物、西脇市の釣り針、篠山(ささやま)市の立杭焼(たちくいやき)、南あわじ市の珉平(みんぺい)焼、たつの市のしょうゆやそうめん、姫路市の皮革工業などが知られている。また、北摂の名塩(なじお)和紙は手仕事による伝統産業である。豊岡では江戸時代に広い商圏をもった柳行李(やなぎごうり)などの杞柳(きりゅう)工業から現在は鞄(かばん)工業に転じている。ビニル鞄の生産は全国の80%を占めている。

[藤岡ひろ子]

貿易

神戸港の貿易額は1995年(平成7)には4兆3397億円で、阪神・淡路大震災の影響を受けて、1991年の54%にまで落ち込んだが、2003年は6兆3880億円と1991年の75%まで回復した。神戸港においては輸出が輸入の2倍以上と大きく上回っている。また、品目別にみると、輸出では、一般機械29.1%、電気機器21.5%、輸送機器9.1%と機械機器で59.7%を占め、化学製品11.8%、繊維・同製品9.5%の順である。輸入は食料品24.4%、機械機器20.7%、繊維製品14.4%、以下化学製品、原材料、金属・同製品の順となっている。地域別では、アジアが輸出の57.6%、輸入の52.1%を占めている。

[藤岡ひろ子]

交通

神戸港は1867年(慶応3)の開港当初は小さな四つの波止場が設けられたにすぎなかった。1906年(明治39)から近代的港湾施設の建設が進み、以後、突堤の構築と海岸の埋立てなど順次港湾を拡大した。第二次世界大戦の結果、港湾施設を連合軍が接収したが、1959年(昭和34)までにすべて解除された。その後、摩耶埠頭(まやふとう)の造成をはじめ、諸施設の拡充が進められた。1981年には海上の人工島ポートアイランド(436ヘクタール)が完工し、1992年(平成4)には六甲アイランド(580ヘクタール)の埋立てが完工した。さらに、ポートアイランド(第二期)(390ヘクタール)の埋立てが進められ、その沖には神戸空港が建設され、2006年開港した。いずれも世界における貨物の海上輸送の近代化に対処する施設の整備を目ざすものである。これらの人工島中央部には多機能をもつ都市づくりが進められており、人工島と神戸の旧市街地との間には、日本最初の自動操縦による新交通システムが導入された。内国航路は四国・九州などへフェリーボートが就航している。大阪国際空港は大阪・兵庫の府県境に位置し、面積317万平方メートル。1994年には年々需要の高まった旅客・貨物便に対応するため、泉州沖の関西国際空港が開港した。1日の平均発着回数は487回(2017年現在)。

 鉄道は、大阪―神戸間の東海道線が1874年に開通し、ついで山陽鉄道(のちJR山陽本線)が1888年兵庫―明石間を走り、1891年には岡山に達した。1912年には山陰本線が完工し、国鉄(現、JR)としては、ついでこの二つの幹線を結ぶ播但線(ばんたんせん)、福知山線、加古川線、姫新線(きしんせん)が開通。その後、三木(みき)線(のち三木鉄道=2008年3月廃止)、北条線(現、北条鉄道)などが開通した。1972年、山陽新幹線の新大阪―岡山間が開業、県内に新神戸、西明石、姫路、相生(あいおい)の4駅が生まれた。私鉄は明治末に大阪―神戸間を走った阪神電鉄に始まり、ついで京阪神急行(現、阪急電鉄)宝塚線、神戸線、伊丹線などが開通、田園都市の発達を促した。昭和初期には国鉄線に並行して山陽電気鉄道の神戸―姫路間が開通した。1958年には、神戸市内に終着駅をもつ阪急、阪神、山陽、神戸各電鉄を神戸市街の地下で連結する神戸高速鉄道が完成した。1987年に神戸市営地下鉄(神戸市交通局)の新神戸駅―西神中央駅間が完工し、さらに西神・山手線(西神中央―新長田―新神戸間)、海岸線(新長田―三宮・花時計前間)も開通している。西部の新しい住宅、学園都市、流通センター、工業団地と都心を結ぶ動脈である。また新神戸駅から六甲山地を北に貫通し谷上駅に達する北神急行電鉄は1988年に開通した。1997年、尼崎駅と大阪環状線京橋を結ぶJR東西線が設けられ、阪神間と大阪都心との結合を便利にした。

 国道は、山陽道を東西に走る2号と内陸部から日本海沿岸へ向かう9号が基幹道路で、そのほか29号、173号、175号、176号などが山陰と山陽を結んでいる。また28号は淡路島を経由して四国と連絡している。1970年には名神高速道路、阪神高速道路が整備され、1975年には内陸部を縦貫する中国自動車道が、1997年には海岸寄りを走る山陽自動車道の本線が全線開通した。2003年には中国自動車道から分岐する舞鶴若狭自動車道(まいづるわかさじどうしゃどう)が福井県小浜市まで、山陽自動車道から分岐する播磨自動車道は播磨新宮インターチェンジまでが開通した。1985年、本州四国連絡橋神戸―鳴門ルートの大鳴門橋(淡路島門崎(とざき)―鳴門市孫崎間)が完成、さらに京・阪・神と四国を結び世界一長い吊橋(つりばし)となる明石海峡大橋(神戸市垂水(たるみ)区舞子(まいこ)―淡路市松帆(まつほ))が1998年に完工した。

[藤岡ひろ子]

社会・文化

教育文化

姫路藩には1749年(寛延2)に設置された藩校好古堂のほかに、1819年(文政2)につくられた仁寿山黌(じんじゅさんこう)がある。実学の精神を尊び、私学的要素をもっていた。仁寿山黌はのち好古堂に合併した。播磨ではほかに赤穂(あこう)藩の博文館、龍野(たつの)藩の敬学館。但馬では出石(いずし)藩の弘道(こうどう)館、摂津では三田(さんだ)藩の造士館、丹波では柏原(かいばら)藩の崇広館などがあり、江戸末期には18を数えた。2018年(平成30)現在、県下の大学は国立大学では神戸大学、兵庫教育大学、県立では兵庫県立大学、但馬技術大学校。ほかに海技大学校、港湾職業能力開発短期大学校がある。市立では神戸市外国語大学、神戸市看護大学がある。私学では神戸女学院大学、関西(かんせい)学院大学、武庫川(むこがわ)女子大学、甲南大学、甲南女子大学など35校がある。短期大学は私立が18校、高等専門学校は国立、公立が各1校ある。ほかに国立の神戸商船大学があったが2003年10月に神戸大学に統合された。

 神戸新聞社は1898年(明治31)に創刊の『神戸新聞』(発行部数56万)を発刊する。放送局はNHK神戸放送局、サンテレビジョン、ラジオ関西、兵庫エフエム放送(Kiss FM KOBE)、関西インターメディアのほか、FMコミュニティ放送が伊丹市や西宮市などにある。

[藤岡ひろ子]

生活文化

県下の民俗芸能は120を超える。淡路人形浄瑠璃(じょうるり)(国の重要無形民俗文化財)は享保(きょうほう)年間(1716~1736)には40座もあったといい、素朴な人形と義太夫(ぎだゆう)系の曲目に特色がある。農村歌舞伎(かぶき)は農山村の生活のなかに深く浸透し、かつては1000棟に上る舞台があった。養父(やぶ)市荒御霊(こうごりょう)神社境内の葛畑(かずらはた)の舞台、神戸市下谷上(しもたにがみ)の舞台、佐用町上三河(かみみかわ)の舞台などが残り、国の重要有形民俗文化財に指定されている。丹波篠山(たんばささやま)市黒岡の春日(かすが)神社の篠山春日能、新温泉(しんおんせん)町歌長神社の歌長大神楽(かぐら)、姫路市家島神社の獅子舞(ししまい)や丹波市青垣の翁三番叟(おきなさんばそう)(国の選択無形民俗文化財)なども由緒ある民俗芸能に数えられる。田楽(でんがく)の系統を伝えるものには三田市貴志御霊(きしごりょう)神社や加東(かとう)市上鴨川住吉(かみかもがわすみよし)神社の神事舞(国の重要無形民俗文化財)がある。農事にちなむざんざか踊りは北但馬地方に多く、養父市大屋町大杉のざんざこ踊は国の選択無形民俗文化財。ちゃんちゃこ踊りは宍粟(しそう)市に多い太鼓(たいこ)踊り。雨乞(ご)い踊りには、阿万(あま)(南あわじ市)の風流大踊小踊(国指定重要無形民俗文化財)、丹波・東播磨地方の百石(ひゃっこく)踊りがある。また新温泉町の但馬久谷(たじまくたに)の菖蒲(しょうぶ)網引き、神戸市須磨区車大歳神社の翁舞も国の重要無形民俗文化財。

 兵庫県の祭事や行事を、月ごとに追っていくと、1月の西宮戎(えびす)(西宮市)、東光寺(加西市)の鬼会(国の重要無形民俗文化財)、2月の長田(ながた)神社(神戸市)の追儺(ついな)、3月の長福(ちょうふく)寺(神戸市)の十三参り、4月は柿本(かきのもと)神社(明石市)の勧学祭、5月の神戸まつり、ペーロン祭(相生市)、旧暦7月の関帝廟(かんていびょう)(神戸市)の施餓飢(せがき)、8月の海上傘踊り(新温泉町)、10月の海(かい)神社(神戸市)の海上渡御(とぎょ)、坂越(さごし)(赤穂市)の船祭(重要無形民俗文化財)、11月の広済(こうさい)寺(尼崎市)の近松祭、12月の義士祭(赤穂市)などがあげられる。

[藤岡ひろ子]

文化財

兵庫県の国や県、市町指定の文化財は1500件を超え、まさに文化遺産の宝庫である。また、埋蔵文化財包蔵地として確認されているものも1万5000か所にわたっている。そのうち、姫路城は1993年(平成5)ユネスコの世界遺産のリストに、「文化遺産」として登録された。建築物のうち、国宝に指定されているものに次のものがある。藤原時代の遺構としては加古川市の鶴林寺(かくりんじ)太子堂があり、加西市の一乗寺三重塔も堂々たる水煙をもつ相輪(そうりん)に平安末期の手法が伝えられている。鎌倉時代では、大仏様建築の典型を示す小野市浄土寺浄土堂(阿弥陀(あみだ)堂)、天台宗形式の神戸市太山寺(たいさんじ)本堂がある。室町時代のものに加東市の朝光寺本堂、鶴林寺本堂がある。江戸時代では姫路城の壮大な大天守と三つの小天守などが国宝に指定されている。このほか、三木市東光寺本堂、神戸市石峯寺(しゃくぶじ)三重塔、姫路市円教寺(えんきょうじ)の諸堂、たつの市新宮町宮内(しんぐうちょうみやうち)の天満神社本殿、太子町斑鳩寺(はんきゅうじ)三重塔、宝塚市波豆八幡神社(はずはちまんじんじゃ)本殿などが国の重要文化財に指定されている。神戸市の旧居留地の十五番館は商館の唯一の遺構で国指定重要文化財。山手地域には開港後建てられた外国人住宅約30戸が保存され、その一帯は「神戸市北野町山本通」として国の重要伝統的建物群保存地区に指定されている。旧ハッサム邸、旧トーマス邸、旧ハンター邸などの明治建築がある。民家建築としては、神戸市の室町時代の建造と伝えられる箱木千年(はこぎせんねん)家、たつの市揖保川町地区の大地主だった広大な永富家住宅(江戸末期)、芦屋市の旧山邑家住宅(大正期)などが国指定重要文化財。

 美術工芸品では、「絹本着色聖徳太子及天台高僧像」(一乗寺)、木造阿弥陀如来(にょらい)及両脇侍(きょうじ)立像(浄土寺)などや、神戸市灘区桜ヶ丘出土の銅鐸(どうたく)・銅戈(どうか)15点が、国宝に指定されている。

[藤岡ひろ子]

伝説

古くは『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』をはじめ、『播磨鑑(かがみ)』『播磨巡覧記』など、書誌に載る伝説はすこぶる多い。神戸市六甲山麓石屋川西岸はかつての菟原(うばら)郡の地で、処女(おとめ)塚、求女(もとめ)塚があり、「菟原処女(うないおとめ)」をめぐる菟原男(うばらのおとこ)と茅渟男(ちぬのおとこ)との妻問いの悲劇を物語る。処女塚の付近にある本住吉神社は、神功(じんぐう)皇后が守護の神々を祀(まつ)った社(やしろ)という。周辺には皇后ゆかりの伝説地が多い。神戸市須磨(すま)区の一ノ谷は源平合戦の主戦場であった所、「鵯越(ひよどりごえ)の坂落とし」の伝説地である。須磨区須磨寺の寺宝「青葉の笛」は熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれた平敦盛(あつもり)の遺品と伝え、付近には敦盛塚、首塚などがある。世阿弥(ぜあみ)の作という『松風』は須磨の伝説に基づいたもので、須磨寺の近くに松風村雨(まつかぜむらさめ)堂がある。流人(るにん)の中納言在原行平(ちゅうなごんありわらのゆきひら)が「立ち別れ稲葉の山の峰におふるまつとし聞かばいま帰り来む」(古今集)の歌を残して帰京し、行平に恋慕した「松風・村雨」の姉妹が堂を建て悲恋の半生を送ったと伝えられる。但馬地方には平家落人(おちゅうど)伝説が多く、美方(みかた)郡香美町御崎(みさき)を中心にして丹生(にゅう)、鎧(よろい)、畑、土生(はぶ)などの海岸線に平教盛(のりもり)、小宰相局(こさいしょうのつぼね)などの伝説が根づいている。御崎の平内(へいない)神社は教盛、伊賀平内左衛門宗長(むねなが)を祭神とするという。同地には教盛の墓がある。姫路城は「お菊井戸」で有名で、ゆかりの井戸がいまも城内に残っている。お菊の怪談は諸国にある皿屋敷伝説と同じモチーフで、『播州(ばんしゅう)皿屋敷』『番町皿屋敷』となって知られている。姫路市十二所神社内にお菊を祀ったお菊神社が現存する。姫路城の天守櫓(やぐら)には小刑部姫(おさかべひめ)という妖怪(ようかい)が住み着き、年に一度だけ城主と対面したという。姫路市慶雲(けいうん)寺には、近松門左衛門の浄瑠璃(じょうるり)『おなつ清十郎笠物狂(かさものぐるい)』などの作品で知られた「お夏清十郎」の比翼塚(ひよくづか)がある。また同市の書写山(しょしゃざん)円教(えんきょう)寺は、幼いころこの寺で修行した「弁慶」の伝説で知られている。山内には鏡(かがみ)井戸、力石、学問所などがある。赤穂(あこう)市坂越浦(さこしうら)に浮かぶ生島(いくしま)は「うつぼ舟」に乗せられた秦河勝(はたのかわかつ)が漂着した島という。推古(すいこ)天皇に仕えていたが、天皇の怒りに触れて流罪になりこの島で死んだ。河勝の死後、朝廷では怨霊(おんりょう)に悩まされたので神に祀ったという。島内に河勝の墓もある。たつの市御津町室津(むろつ)は古くから開けた海駅。室津の遊女室君花漆(むろぎみはなうるし)と書写山の性空上人(しょうくうしょうにん)にまつわる伝説地で、室君が建立した見性(けんしょう)寺がある。同じく室津の浄運(じょううん)寺には遊女友君と法然(ほうねん)上人との伝説が残っている。淡路島は狸(たぬき)伝説が多い。そのなかでも「芝右衛門(しばえもん)狸」は本家といわれていて、洲本(すもと)市三熊山(みくまやま)にその祠(ほこら)があり、参詣(さんけい)者が多い。芝右衛門狸は芝居好きで、大坂へ芝居見物に出かけたが、犬に襲われて最期を遂げたという。墓は田井の福田(ふくでん)寺にある。同島南あわじ市に「お局塚(つぼねづか)」とよぶ古塚がある。平通盛(みちもり)の妻小宰相局の墓で、夫の後を追って四国へ向かう途中、夫の悲報を聞いて入水したと伝えられている。

[武田静澄]

『八木哲浩・石田善人著『兵庫県の歴史』(1971・山川出版社)』『『兵庫県史』全6巻(1974~1982・兵庫県)』『兵庫県社会文化協会編・刊『兵庫県の民俗』(1976)』『宮崎修二朗・足立巻一著『日本の伝説43 兵庫の伝説』(1980・角川書店)』『『日本地名大辞典 兵庫県』(1988・角川書店)』『石田善人・落合重信・田中眞吾・八木哲浩監修『兵庫県風土記』(1994・旺文社)』『『日本歴史地名大系29 兵庫県の地名』全2冊(1999・平凡社)』



兵庫
ひょうご

兵庫県神戸市のほぼ中央にある兵庫区の港湾部。和田岬に抱かれた古くからの天然の良港で、奈良、平安時代は摂播五泊の一つ大輪田泊(おおわだのとまり)として知られた。港の北方、会下山麓(えげさんろく)一帯は平氏の福原荘(ふくはらのしょう)で、この地に別業をもつ平清盛(きよもり)は港を重視し、経ヶ島を築造するなどして宋船(そうせん)も出入りできる要港にした。一時福原に都が置かれたのも、清盛が港に着目したためである。室町初期に八部(やたべ)郡の郡家周辺の集落が南に延び、港と結ばれて兵庫の町が形成された。中世には兵庫津とよばれ畿内(きない)の重要港であった。浜本陣が置かれ西国街道も迂回(うかい)してここを通過した。江戸時代は大坂の外港として西廻(にしまわり)海運の中心であり、人口約2万人の町が形成された。1858年(安政5)兵庫港の開港が決まったが、生田(いくた)川尻(じり)の神戸浦に新港が設置(1867年開港)され、以来、繁栄を奪われ、内国貿易中心の港となった。一方、港湾背後の沖積地には、明治以降、鐘紡(かねぼう)(のちカネボウ)、三菱(みつびし)造船(現、三菱重工業)、川崎車輛(しゃりょう)(現、川崎重工業)、三菱電機、川崎造船(現、川崎重工業)などの大工場が進出した。現在、神戸市の工業の中心地となっている。JR山陽本線が通じ、兵庫駅から和田岬線を分岐する。そのほか、市営地下鉄海岸線、国道2号などが通じている。

[藤岡ひろ子]

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改訂新版 世界大百科事典 「兵庫」の意味・わかりやすい解説

兵庫[県] (ひょうご)

基本情報
面積=8396.13km2(全国12位) 
人口(2010)=558万8133人(全国7位) 
人口密度(2010)=665.6人/km2(全国8位) 
市町村(2011.10)=29市12町0村 
県庁所在地=神戸市(人口=154万4200人) 
県花=ノジギク 
県木=クスノキ 
県鳥=コウノトリ

日本列島のほぼ中央部,近畿地方西部の県。東経135°の日本標準時の子午線が明石市を通り,北緯35°と東経135°の交差標識が西脇市にある。東は大阪府,京都府,西は岡山県,鳥取県に接し,北は日本海,南は淡路島を隔てて紀伊水道に面する。南北約170km,東西約110kmにわたり,本州では北端の青森県,西端の山口県を除けば,太平洋と日本海にまたがる唯一の県である。

兵庫県はかつての播磨国,但馬(たじま)国,淡路国の全域と摂津・丹波両国の一部にあたり,幕末には尼崎藩,三田(さんだ)藩,姫路藩明石藩竜野藩赤穂藩,三日月藩,三草藩,安志(あんじ)藩,小野藩,林田藩,篠山(ささやま)藩出石(いずし)藩,柏原(かいばら)藩,豊岡藩,村岡藩と天領,旗本領,飛地などが入り組んでいた。1868年(明治1)摂津の旧天領に兵庫裁判所(すぐに兵庫県となる)が設置され,播磨,但馬,丹波の旧幕府領には久美浜県が置かれた。生野にも但州府中裁判所が置かれ,すぐに久美浜県に編入されたが,69年再び分離されて生野県となった。また1868年福本藩が置かれたが,70年鳥取藩に併合された。71年の廃藩置県により兵庫,久美浜,生野の3県に加えて各藩もそれぞれ同名の県となった。同年11月の府県統廃合の際,但馬,丹後および丹波の多紀,氷上,天田の3郡は統合されて豊岡県となり,播磨地域では10県および生野県と兵庫県の一部を併合して姫路県(すぐに飾磨(しかま)県と改称)が置かれた。また摂津でも兵庫県に尼崎県,三田県,豊崎県が新たに編入された。その後76年兵庫県,飾磨県,豊岡県(丹後および丹波天田郡は除く)の3県と名東(みようどう)県から分離された淡路島が統合されて,現在の県域が確定した。

先土器時代の遺跡には,太島(ふとんじま)遺跡(姫路市)がある。組合せ石器用とみられる切出し形の細石器からなる井島Ⅰ群石器の単純遺跡である。縄文時代では大歳山(おおとしやま)遺跡が前期末の東海,近畿,中国,四国に分布する特殊突帯文土器を主とする大歳山式土器の標式遺跡である。ここには弥生時代の集落址と後期古墳もあったが,1968年調査途中で開発が強行され,大部分未調査のまま宅地化された。日笠山貝塚(高砂市)は縄文前期~晩期の遺跡で,中心は中・後期である。晩期の滋賀里期かと思われる男性人骨1体が出土している。

 弥生時代では,田能(たのう)遺跡(尼崎市)が標高6mの低地に立地し,前期から古墳時代前期にかけての集落址と,弥生中期から古墳時代初期の墓地址からなる。集落址は円形竪穴住居址,平地住居址,高床住居や倉庫と思われる柱穴,流水溝,塵芥処理用土壙など,墓地では方形周溝墓,組合せ式木棺墓,土壙墓,小児用壺,甕棺墓などがあり,銅剣鋳型も出土している。奈カリ与遺跡(三田市)は中期後半の高地性集落址で井戸も調査されている。会下山(えげのやま)遺跡(芦屋市)も中・後期の高地性集落址。住居址,祭祀場址などからなる。加茂遺跡(川西市)も中・後期の集落址で,住居址,方形周溝墓,壺棺墓のほか石器製作址もある。大中(おおなか)遺跡(加古郡播磨町)は弥生後期と古墳時代前期の集落址。弥生後期の円形,扇形,六角形の住居址がある。小孔をあけた内行花文鏡片の出土が注目される。桜ヶ丘遺跡(神戸市灘区)では銅鐸と銅戈とが伴出した。

 古墳時代では,池上口ノ池遺跡(神戸市西区)が台地上に営まれた古墳時代初頭の集落で,焼失住居が多いことが注目される。万籟山(ばんらいさん)古墳(宝塚市),求女塚(もとめづか)古墳(神戸市東灘区,灘区)は前方後円墳,森尾古墳(豊岡市)は楕円形で,いずれも4世紀代の古墳である。五色塚古墳(神戸市垂水区)は4世紀末の前方後円墳。西野山古墳(赤穂郡上郡町)は京都府久津川車塚古墳出土鏡と同笵の三角縁四神四獣鏡が出土した5世紀前半の円墳。雲部車塚古墳(篠山市。車塚古墳)は県東部における5世紀半ばの大型前方後円墳として著名。西条古墳群(加古川市)は多くは5~6世紀の方墳と円墳30数基からなる。この中には石室状石組中から内行花文鏡や鉄剣(戈 ? )が弥生終末期の土器と伴出した例もあり注目された。焼山(やけやま)古墳群(小野市)は6世紀代を中心とする帆立貝式小型前方後円墳と円墳約90基からなる。墳丘に2個以上の木棺を直葬するものが多い。歴史時代では,7世紀後半(白鳳時代)の伊丹廃寺(伊丹市)や平安時代末の須恵器の登窯群からなる緑ヶ丘古窯址群(相生市)などがある。
淡路国 →摂津国 →但馬国 →丹波国 →播磨国
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山陽・山陰両道が貫く兵庫県は,古代から畿内と西国を結ぶ回廊の役割を果たし,淡路島との間の明石海峡は畿内と畿外をくぎる境界とされた。また奈良時代以後,神戸港の前身の大輪田泊(おおわだのとまり)が畿内の西の玄関口として栄えた。西日本から攻めのぼる軍勢もこの地で決戦することが多く,源平が争った一ノ谷の戦,官軍と足利軍が激突した湊川の戦などがその例である。江戸時代中期になると灘の酒,兵庫の海運,姫路の木綿,赤穂の製塩,但馬の養蚕・製糸など各地に特色のある産業が興り,生野銀山,多田銀山などの開発も進んだ。明治初期の兵庫県の人口は137万で,面積,人口とも西日本有数の大県となったが,このように県域を広くとったのは開港場神戸を控え県力の充実を図ったことに由来する。開港時一寒村にすぎなかった神戸はその後急速に発達し,1889年の市制施行時に人口は13万に増え,横浜と並ぶ日本の二大貿易港としての地位を確立した。一方,陸上交通も大阪~神戸間の鉄道が1874年に営業を開始し,89年に東海道本線が全通した。また民営の山陽鉄道(後の山陽本線)が,88年に兵庫~明石間を結び,1901年には下関まで全通した。山陰本線の整備はかなり遅れたが,12年に県下全線が開通した。さらに昭和40年代半ば以降山陽新幹線と中国自動車道が開通し,98年4月には明石海峡大橋が完成して東西の回廊的役割はいっそう強化されている。

県域の8割以上を丹波高地の一部,播但(ばんたん)山地,六甲山地などの山地,丘陵地が占め,まとまった平野は播磨灘沿岸に播磨平野,大阪湾沿岸に大阪平野の一部があるにすぎず,日本海側には平野は発達していない。しかし,鳥取県境に氷ノ山(ひようのせん)(1510m)など標高1000mをこえる山が連なるほかは脊梁山地に当たる高い山脈はなく,播但山地を横切る生野峠,遠阪峠も標高350m内外と低い。また瀬戸内海に注ぐ加古川と日本海に流れる由良川の分水界は氷上(ひかみ)盆地の石生(いそう)にあるが,その標高は94.5mと本州の分水界で最も低く,南北の交通を妨げる自然の障害は少なかった。しかし気候的には,山陽側が瀬戸内式気候区に属し,年降水量は1100~1200mmであるのに対し,山陰側が日本海岸気候区に属し,年降水量2600~2700mmと対照的である。とくに冬季の地域差が著しく,日本海側の山間部は近畿地方で最大の多雪地帯をなし,スキー場が多いのに対し,播磨灘沿岸は晴天が多く,灌漑用の溜池が発達し,かつては赤穂塩田に代表されるように製塩が盛んな地域であった。1月の日最低気温の平均値では,県内で最も暖かくスイセンが花盛りの淡路島南部と,最も寒い播磨地域北部の山間盆地とでは,その差が6℃にも達する。夏季の気温の地域差は少なく,山地以外は暑さが厳しい。揖保(いぼ)川,市川,加古川などが形成する肥沃な播磨平野は県最大の穀倉地帯をなすが,平地の乏しい淡路島では耕して天に至る棚田が発達している。尼崎市から姫路市に至る沿岸部は人口密度の高いひとつづきの大都市地域となっているが,県内には過疎地域,豪雪地域,離島地域に指定される地域が多く,自然条件や交通条件に恵まれない僻地も多い。

 このように兵庫県は瀬戸内海側と日本海側,平野と山地,過密と過疎の対比が複雑で,しばしば日本の縮図といわれる。また畿内に属する摂津の西半,山陽道に属する播磨,山陰道に属する丹波の一部と但馬,南海道に属する淡路を合わせて1県とした不自然な成立ちのゆえに県としてのまとまりが弱い。このため,産業の発展と地域の変容については各地域ごとにみていくことにする。

(1)神戸・阪神地域 かつての摂津国の一部にあたる。大阪平野の一部以外は六甲山地,北摂山地などの山地,丘陵からなり,ここには神戸市を中心に芦屋,西宮,尼崎,伊丹,宝塚,川西,三田の8市と川辺郡猪名川町が含まれ,人口の合計は約300万(1995)に達する。大阪府の西に隣接してその影響を強く受けてきた地域で,県全体の1割の面積に6割近い人口が集中し,県の政治・経済・文化の中心をなしている。現在の都市のうち近世までは城下町の尼崎,宿場町・門前町の西宮,港町の兵庫だけが都市的要素をもつにすぎなかったが,開港を契機に神戸港には海運・貿易関係の機能が発達し,明治20年代後半には全国一の貿易港となった。他方,神戸には1886年官営造船所が払い下げられて川崎造船所が発足し,のちの重工業化のさきがけとなった。しかし,最も早く栄えたのは明治10年代に始められたマッチ製造業で,第1次大戦後には世界市場でも屈指の産額をあげていた。重工業部門では第1次大戦の好況期に造船,機械などが発展し,その生産は軽工業部門を圧倒するようになった。神戸市以外の阪神地域の工業化は,大正末~昭和初期に尼崎市の臨海埋立地へ大阪市から鉄鋼などの大工場が進出したのに始まり,その後工業化が内陸へ広がった。一方,西宮・芦屋両市は阪神,阪急など郊外電鉄の発達に伴って大阪市の衛星都市として整備され,昭和10年代にこの地域の沿岸部一帯の市街地化はほぼ完了した。

 第2次大戦の戦災で市街地の多くは壊滅的打撃をうけたが,高度経済成長期には急速に宅地化が拡大した。とくに六甲山が背後に迫る神戸市では,山を削って住宅団地を建設する一方,海面を埋め立てて港湾や工業用地を造成する工事が大規模に行われ,埋立地に製鉄所や輸入食料品の加工工場などが立地した。一方,沖合に1966年に着工し81年完成した人工島ポートアイランド(436ha)と,ほぼ10年遅れて着工した六甲アイランド(480ha)は,日本最大のコンテナー埠頭や住宅団地,ホテル,ビジネス地区もある海上都市となっている。しかし,これまで神戸市の繁栄を支えてきた港湾に関係の深い産業は,素材産業や海運の不況などの影響で衰え,先端技術産業やファッション産業の育成など新しい分野への転進が課題となっている。神戸の東に隣接する芦屋は日本を代表する住宅都市で,良好な住宅地はさらに東の西宮,北の宝塚まで広がり,最近では川西や三田の市街化が著しい。

(2)播磨地域 かつての播磨国にほぼ相当する。播磨平野と播但山地南半部からなり,県面積の4割を占めている。姫路市を中心に,明石,相生(あいおい),加古川,たつの,赤穂,西脇,三木,高砂,小野,加西(かさい),加東の12市と周辺の町が含まれ,人口の合計は約190万(1995)で,県全体の1/3を占める。この地域は山陽道の要地にあたり,江戸時代には東から明石,姫路,竜野,赤穂の城下町が発達し,高砂,飾磨(しかま),室津などは港町として著名であった。播磨平野は,近世には河川改修,新田開発が進んで穀倉地帯となったが,平野東部の加古川左岸は水に恵まれず,古くから溜池の多い地域である。内陸の三木,小野,西脇,加西などの都市は近世以来農産物の集散や地場産業で栄え,現在も東播の加古川中流域の播州織物,刃物,釣針,そろばん,こいのぼりなど,西播のたつの市のしょうゆ,そうめん,姫路市の皮革など特色ある伝統産業が立地している。また近代工業は,明石市から姫路市に至る海岸線が埋め立てられて製鉄,石油精製などの大工場が立地している。この地域では1937年日本最初の本格的な消費地立地型の製鉄所が姫路市広畑に建設されたのを契機に重化学工業化が進み,高度経済度成長期には工業整備特別地域に指定されて一段と発展した。昭和40年代半ば以降,中国自動車道の開通などにより,内陸部でも工業団地や学園都市の開発が進んでいる。

(3)丹波地域 かつての丹波国の一部に相当する。丹波高地南半部からなり,篠山(ささやま),氷上などの小盆地や竹田川などの河谷によって分断されたこの地域は古くから酒造りの杜氏(とうじ)の出稼ぎで知られてきた。篠山・丹波両市の全域が含まれ,面積は県域の1割を占めるが,人口は11.9万(1995)で2%にすぎない。民謡《デカンショ節》で名高い中心の篠山市の旧篠山町は山陰道の要地で近世には青山氏6万石の城下町であったが,後背地が狭く,1899年開通の阪鶴鉄道(現,福知山線)からもはずれて市に昇格しておらず,城下町の面影をよくとどめている。南西端の同市の旧今田(こんだ)町には瀬戸,常滑(とこなめ),備前などと並ぶ古陶丹波立杭(たちくい)焼の特産がある。

(4)但馬地域 かつての但馬国にほぼ相当する。播但山地北半部からなり,豊岡,養父(やぶ),朝来(あさご)の3市ほか周辺の町が含まれる。面積は県域の1/4を占めるが,人口は約20万(1995)で4%にすぎない。円山(まるやま)川下流の豊岡盆地は古くから但馬の穀倉であるとともにこの地域の行政・文化の中心をなしてきた。江戸時代,豊岡,出石はともに3万石の城下町として栄えたが,明治末以降,山陰本線の主要駅となった豊岡と鉄道を拒否した出石との差がしだいに開いた。積雪の多いこの地方で近世以来盛んであった柳行李の生産は第2次大戦後衰えたが,これに代わった豊岡市のビニルかばんは全国最大の産地である。海岸部は山陰海岸国立公園に指定され,温泉,スキー場など観光資源が多い。

(5)淡路地域 大阪湾と播磨灘を分ける位置にある淡路島は,津名丘陵と諭鶴羽(ゆづるは)山地,洲本平野(三原平野)からなり,洲本,淡路,南あわじの3市が含まれる。面積は県の7%,人口は約16万で3%を占める。中心の洲本市は近世,徳島藩稲田氏の城下町だったところで,明治以降も島の中心をなしている。全体として平地が乏しく用水が不足しがちであるが,棚田による米作や,戦後発展した花卉,果樹の栽培,酪農など大阪市場指向型の先進的農業地帯となっている。

1995年1月17日未明,明石海峡の海底を震源とする直下型地震が発生し,淡路島北部および神戸市須磨区東部から西宮市に至る南北2km,東西20kmの震災の帯とよばれる震度7の地域を中心に死者約6500,家屋全半壊20万棟,被害総額約10兆円という未曾有の災害を招いた。この現代大都市を直撃した日本ではじめての地震によって,高速道路の倒壊やライフラインの途絶など災害に対する大都市のもろさや危機管理体制の不備が問われたが,同時にコミュニティの結びつきやボランティアの重要性などへの認識が高まった。震災後約2年で産業基盤や都市の基盤となる交通,通信,電気,上下水道などの復興はほぼ終わったが,人口や地場産業の回復は容易ではない。
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兵庫 (ひょうご)

神戸市兵庫区の兵庫港を中心とする地域の呼称。中世には兵庫三箇荘があって,港には兵庫南北両関が置かれた。兵庫の名は古代には見えないが,《平家物語》巻九〈樋口被討罰〉に,四国の屋島から攻め上った平家の軍勢が,福原の旧都に居住し西は一ノ谷に城郭を構え,東は生田の森を大手の木戸口とし,その間の〈福原,兵庫,板宿(いたやど),須磨〉に10万余騎でこもったとある。南北朝期の《太平記》や《梅松論》では〈兵庫〉〈兵庫島〉の名は要港としても戦場としてもしばしば登場し,楠木正成が戦死した湊川の戦の主戦場も兵庫・湊川一帯であった。兵庫とは,元来,兵仗武器を収める庫のことだから,ここにそのような武器庫があったことから兵庫の名がおこったと考えられるが,その確証がないままに古代の務古水門(むこのみなと)との関連を説くものもある。務古水門は武庫川河口の港らしく,したがって武庫と兵庫とは別と考えるべきであろう。兵庫三箇荘を喜田貞吉は妙法寺川に沿って上・中・下3荘が並んでいたと考えたが,福原荘,輪田荘と入り組みながら東から西へ上・中・下3荘が並んでいたらしく,西には須磨荘があった。その範囲は兵庫区,北区を中心に長田区の一部を含む地域らしい。
執筆者: 織田信長のもとで摂津の大名となった荒木村重が信長に反して没落したあと,1580年(天正8)村重討伐に功があった池田恒興に摂津の〈諸所多く〉とともに,兵庫津が与えられた。恒興は兵庫の地に一城を構え,城の周りに溝渠(こうきよ)を,町の外郭に惣構の都賀堤(とがのつつみ)を築いた。近世にはこの都賀堤に囲まれた内側の町場が地子方(じしかた),外方が兵庫地方(じかた)といわれた。前者は町屋の地区で,岡方と海に面した北浜,南浜の3地区(三方(さんぽう))に分かれており,後者は田園地帯であった。1617年(元和3)以来尼崎藩領となったが,150年を経て1769年(明和6)幕府領となり,そのまま明治に至った。古い都市だけに1605年(慶長10)には町数はすでに39町1村を数え,1788年(天明8)には43町1村,以後は1町増えただけで明治に至った。人口は享保年間(1716-36)1万9766人,1769年2万1912人,1864年(元治1)1万9556人であった。近世,この町の岡方地区は東の西宮駅と西の明石駅(大蔵谷)を結ぶ西国街道(中国路)の宿場町であり,本陣,問屋場があった。神戸(こうべ)村方向から南下した西国街道は,湊川を渡ってまもなく湊口惣門から市中に入り,いわゆる本町筋を通って札場がある南仲町に至り,その四つ角から西方に折れて柳原口惣門に至り,町を出はずれて農地の中を須磨,明石へと向かったのである。

 町の海辺は湊川河口から和田岬までわずかに湾状をなし,佐比江,築島舟入江,須佐之入江などの入江があった。この海辺の北浜・南浜地区は西日本の経済的発展と,北前船さらには松前航路の開拓によって,物資集散の港町として繁栄した。延宝(1673-81)ころには穀物仲買125株,干鰯(ほしか)仲買54株をはじめとする多くの問屋があり,幕府領となった1769年以降も諸問屋仲間121株,穀物仲買121株,干鰯仲買54株,干魚塩魚仲買70株などの問屋仲買株が見られ,商業取引の盛況をうかがわせる。この港町としての繁栄の中で,街道の本陣とは別に,海上交通にかかわる浜本陣が南浜地区に生まれたことが特筆される。西国大名たちの蔵米(くらまい)や国産物を売買する御用達(ごようたし)をつとめる問屋が,取引のある大名やその藩地から来る船頭らを宿泊させる業務をつとめたものである。久留米藩,府内藩の浜本陣は壺屋喜右衛門,臼杵藩のそれは網屋三太夫,松山藩は網屋佐左衛門というふうに,17藩の浜本陣があった。寛文年間(1661-73)には4軒であったが,明和年間には10軒となっており,1862年(文久2)には8軒を数えた。池田恒興が築いた城の地域は尼崎藩領時代には陣屋となった。幕府領になると,ここに大坂奉行所所属の勤番所が置かれたが,1868年(明治1)正月には維新政府のもとで兵庫鎮台,2月に兵庫裁判所が置かれた。次いで5月には兵庫県庁が置かれた。敷地が狭いため,県庁は9月には早くも神戸村に近い坂本村に移った。68年1月1日(慶応3年12月7日)神戸開港とともに都心は神戸に移ったわけで,兵庫は取り残されて〈神戸の兵庫〉に甘んじなければならなくなった。
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百科事典マイペディア 「兵庫」の意味・わかりやすい解説

兵庫[県]【ひょうご】

近畿地方西端の県。瀬戸内海上の淡路島,家島諸島なども含む。県庁所在地は神戸市。8400.96km2。558万8133人(2010)。〔沿革〕 かつての播磨(はりま)国但馬(たじま)国淡路国の3国と,摂津国丹波国2国の一部にあたる。兵庫の名は阪神地方の古称〈武庫(むこ)〉に由来するといい,古事記,播磨国風土記等により古代から開けたことが知られている。神戸港は古く大輪田泊といい,畿内の西の要衝であったため,源平,南北朝などの争乱の地となった。江戸時代には姫路藩以下大小19藩,天領などに分かれていた。1871年兵庫,姫路,豊岡,名東4県となり,1876年兵庫県に統一。〔自然〕 北は日本海,南は瀬戸内海に面し,日本標準時子午線(東経135°)が明石市を通る。中国山地丹波高地が中央を占め,円山(まるやま)川が北流して豊岡盆地を,加古川,市川,揖保(いぼ)川などが南流して播磨平野を展開する。丹波高地の南端六甲山地の東には武庫川,猪名川の沖積した武庫平野がある。淡路島は地塁で断層海岸をめぐらす。気候は山陽型と山陰型に分かれ,山陽型の瀬戸内海側は降水量が少なく,特に淡路島は冬も温暖。山陰側の日本海側は冬の降水が多く,長期の積雪をみる。〔産業〕 産業別人口構成は第1次2.5%,第2次27.1%,第3次68.2%(2005)。阪神工業地帯,播磨工業地帯の発展により,工業県の性格が強い。農業は米,野菜,果樹,花卉(かき)の栽培が盛ん。淡路島のタマネギ,早咲スイセン,ナツミカン,但馬地方の二十世紀ナシ,阪神周辺部のイチゴなどが特に知られる。酪農も活発で,肉牛から乳牛に転換しつつあるが,神戸肉となる但馬牛肥育は有名。林業は但馬,丹波地方で盛ん。水産業では瀬戸内海の明石ダイ,タコ,サワラ,日本海のカレイ,マツバガニ,タラなどの漁獲があるが,一般に零細。鉱業では生野,明延,中瀬(なかぜ)などの鉱山から銀,銅,スズ,亜鉛,アンチモンなどを産出したが,閉山。工業は阪神・播磨両工業地帯を中心に大規模な近代工業が発達。特に鉄鋼,機械,電機,車両,繊維,ビール,化学,ゴム,皮革工業が盛ん。先端技術産業をめざす西播磨テクノポリスの建設により中国自動車道沿いの播磨内陸部の開発が期待されている。神戸港は横浜港と並ぶ国際貿易港。伝統産業として酒(灘),金物(三木),醤油(龍野),陶器(丹波),そろばん(小野)などがある。六甲山淡路島などは瀬戸内海国立公園,日本海岸は山陰海岸国立公園に属し,北西部の山地は氷ノ山後山那岐山国定公園の一部。須磨,姫路,赤穂,玄武洞,宝塚,甲子園,城崎(きのさき)温泉,有馬温泉などの史跡や観光地も多い。1993年姫路城が世界遺産条約の文化遺産リストに登録された。〔交通〕 南部には神戸を接続点として東海道・山陽両本線および新幹線,北部には山陰本線が通じ,これらを連絡して播但線,加古川線,福知山線が通じる。神戸を中心に阪急,阪神,山陽,神戸の各私鉄路線が発達し,これらが相互乗入れする神戸高速鉄道も完成。名神高速道路,中国自動車道,山陽自動車道も通じ,本州・淡路間の明石海峡大橋は1998年に完成。伊丹には大阪国際空港があり,1994年北部に但馬空港,2006年ポートアイランド沖に神戸空港が開港した。 1995年1月兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が神戸市,芦屋市,西宮市,淡路島の北淡町(現・淡路市)などを襲い,死者6281人,負傷者3万4900人,倒壊・焼失家屋23万6004戸という大きな被害をうけた。
→関連項目近畿地方

兵庫[区]【ひょうご】

兵庫県神戸市中央部の区。山陽本線,神戸電鉄,神戸高速鉄道,市営地下鉄各線が通じる。北部の六甲山麓は住宅地域で,中部の湊川新開地は商業地域として発展。湊川公園南東の福原は福原遷都の地。南部の和田岬周辺には三菱重工,川崎重工の大工場や電機工場,中央卸売市場,ノエビアスタジアム神戸がある。1867年開港された兵庫港は,のちに新設された神戸港の内港となった。1973年区を分区。1995年1月の兵庫県南部地震では死者540人,倒壊・焼失家屋1万8695戸という大きな被害をうけた。14.68km2。10万8304人(2010)。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「兵庫」の解説

兵庫
ひょうご

神戸市の地名。古代は摂津国八部(やたべ)郡に属した。行基(ぎょうき)が整備した摂播五泊の一つ大輪田泊(おおわだのとまり)。平安末期に平清盛が経ケ島を築造し,鎌倉時代に重源(ちょうげん)が修復して日宋・日明貿易の拠点となった。中世は西国物産の中継地で兵庫関がおかれ,応仁・文明の乱で軍事拠点となったため日明貿易は堺に移り荒廃した。近世は西廻海運の中継地として栄えたが,兵庫開港の際,居留地造成の余地がなかったため神戸港がこれにかわった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「兵庫」の解説

兵庫
ひょうご

摂津国の港町で,現在の神戸港西部にあたる
『平家物語』に大輪田泊とみえる。別名兵庫島とも呼ばれ,日宋貿易のために平清盛が大規模な築港を行った。室町時代,勘合貿易の拠点となる。戦国時代には堺に繁栄を奪われたが,豊臣秀吉および江戸幕府の直轄地(幕領は1769年)となってから再び繁栄。近世西廻り航路の要港となり,1867年開港。

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普及版 字通 「兵庫」の読み・字形・画数・意味

【兵庫】へいこ

武庫。

字通「兵」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の兵庫の言及

【米問屋】より

…1729年にはその商域などにより,下り米問屋・関東米穀三組問屋・地廻米穀問屋の3種に区分された。下り米問屋は東海地方以西の57ヵ国からの下り米を引き受ける問屋で,この下り米の多くは大坂や兵庫などの上方諸都市を経由して回送されたものであった。関東米穀三組問屋は関八州と陸奥の9ヵ国からの商人米を担当し,堀江町・小網町一丁目・小舟町の河岸の3町に居住する米問屋が所属した。…

【ナタネ(菜種)】より

…これらの事実から,ナタネないしその加工品たる水油の,全国的商品としての位置の高さが察せられる。大坂に積み登されるナタネは,17世紀には大坂島之内の人力絞り油屋で絞られていたが,18世紀に入ると,瀬戸内海を東上するナタネを,灘目,兵庫で買い取って,六甲山系の川々に建設された水車によって絞る絞り油業の展開がみられた。1743年(寛保3)ごろにはナタネは大坂へ20万石,灘目,兵庫へ18万~19万石が登されていたとする史料があるから,18世紀初めころから急速に灘目の水車絞り油業が台頭し,大坂の人力絞り油業に迫るに至ったことがわかる。…

※「兵庫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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