精選版 日本国語大辞典 「内裏」の意味・読み・例文・類語
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宮城(大内裏)の中で天皇の住む一画。皇居。難波(なにわ)宮、藤原宮、長岡宮、平城宮などは発掘調査されているが、平安宮はほとんど未調査である。しかし各種の古図や江戸時代の有職故実(ゆうそくこじつ)家裏松光世(うらまつみつよ)(固禅(こぜん))が残した詳細な考証書『大内裏図考証(だいだいりずこうしょう)』などによって殿舎の配置・規模などはある程度わかる。内裏は平城宮までは朝堂院(大内裏の正庁)の真北にあり、長岡宮、平安宮では朝堂院のやや東に移された。これは公的な朝堂院と、天皇の私的な居所を分離したものであろう。しかし、律令(りつりょう)体制の変質によって、この平面の変化がかえって内裏を政治の中心的な場とし、朝堂院は儀式の場としての性格を強めることになった。
平城宮の内裏として確認されているのは、宮城東寄りの壬生(みぶ)門――朝堂院の北に位置し、第二次内裏といわれた所である。築地(ついじ)回廊に囲まれた、1辺約180メートルの正方形の地域で、南側には東西9間、南北5間の正殿(平安宮の紫宸(ししん)殿にあたる)などを回廊で囲んだ一画があり、公の宴などが催されたりした場所である。北側は正殿より少し小さめの殿舎の周囲に建物が配され、天皇が起居する私的な区画であった。正殿などの殿舎は檜皮葺(ひわだぶ)きで板敷きのものが中心となっていた。内郭(築地回廊が囲む区域)の外側をさらに築地で囲み、これを外郭という。広い意味の内裏はこの全体を含み、内郭と外郭の間に、天皇の日常生活と関係の深い官衙(かんが)(官庁)があった。
長岡宮(京都府向日(むこう)市)では、朝堂院の東方に内裏が確認されている。平城宮と同様外郭が存在しており、内郭は1辺約160メートルの正方形で築地回廊に囲まれ、その南中央に正殿が位置していた。正殿などの柱は抜き取られて、平安京の造営に使用されたらしい。
平安宮の内裏は大内裏の中央東寄り、朝堂院の北東にあった。築地の外郭は東西113丈(約342メートル)、南北100丈(約303メートル)ともっとも大きい。東部に築地回廊で囲まれた内郭、その北に蘭林坊(らんりんぼう)、桂芳(けいほう)坊、華芳(かほう)坊、西に中和院(ちゅうかいん)、内膳司(ないぜんし)、采女町(うねめまち)があった。内郭は東西57丈(約173メートル)、南北72丈(約218メートル)で、南側中央に位置する紫宸殿と、その南にある4殿が公的な部分であり、北側に清涼(せいりょう)殿など天皇の私的な殿舎があった。その北が皇后・女御(にょうご)などの居所がある後宮で、建物は檜皮葺き、素木(しらき)(白木=木地のままの木材)造、板敷きであった。このように南北に公私を分け、左右対称に殿舎を配する形態は平城宮でもみられたが、各建物を廊で結んだのが平安内裏の特色である。
794年(延暦13)の平安遷都でつくられた内裏は、約160年後の960年(天徳4)に全焼、ただちに木工寮(もくりょう)、修理職(しゅりしき)と27か国に造営を分担させ、翌年完成した。その後、火災の頻発により、一条殿などの里内裏(さとだいり)が現れ、平安後期になると天皇は日常は里内裏に住み、儀式のときに内裏に帰るようになり、初めから里内裏として造営される邸宅もあった。
鎌倉時代も同様で、本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されていない。建武(けんむ)の新政で大内裏再建が計画されたものの中止され、南北朝以後は鎌倉末期につくられた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が、内裏として固定する。ここは規模も小さく、構成なども平安内裏とはかなり異なっていた。近世に入って規模が拡大され、江戸後期の1788年(天明8)の火災後、紫宸殿、清涼殿などが平安内裏を復原して造営され、1854年(安政1)に焼亡したがすぐ再建され、1869年(明治2)の東京遷都まで皇居であった。現在の京都御所がこれである。
[吉田早苗]
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大内(おおうち)とも。宮城内での天皇の御在所。平安宮では建礼門を正門とし,紫宸(ししん)殿を正殿とする一郭。平城宮までは天皇は毎日大極(だいごく)殿に出御して政務をみるのが原則だったが,長岡宮以降,日常はのちの紫宸殿にあたる内裏正殿で政務をとるようになった。これは長岡宮・平安宮で内裏と朝堂院(正殿は大極殿)が分離した配置になることと対応している。平安宮では,天皇が政務後私的な生活を送るのは,当初は仁寿(じじゅう)殿であったが,10世紀以降,清涼(せいりょう)殿が天皇の日常政務の場兼私的生活の場となり,紫宸殿は儀式の場へと移行した。平安中期には,平安宮内で日常的に利用されるのは内裏を中心とした部分だけとなっていった。鳥羽朝以降,天皇は日常は里内裏に住み,儀式・祭祀のときのみ内裏に遷御するようになり,内裏は荒廃していった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…天皇がつねに居住しているところ。禁中,内裏(だいり)も同じ意味である。六国史においては,内裏が主として用いられ,〈定策禁中〉のように,禁中が数回見えるのみで,禁裏という語は用いられなかったが,時代が下るにしたがって,禁裏御倉や禁裏供御人などしだいに用いられるようになり,とくに江戸時代になると,幕府の役職名にも〈禁裏附〉(公家では〈附武士〉とよんだ)のあるごとく,多用されている。…
…天皇の住居。古くは宮,宮室,内裏,禁裏,禁中,禁闕,内,御所などのほか,大宮,大内,九重,百敷(ももしき)などの美称もあり,〈皇居〉の語も平安時代には記録に見える。東京遷都に際し,江戸城を東京城と改称,ついで皇城と公称したが,明治宮殿完成後は宮城を公称と定めた。…
…こうした類例は,しばしば見られたことであり,いわゆる悪王の存在は,王権の基礎に不可欠の要素と考えられている。【宮田 登】
【近代の天皇】
[名称の確定]
天皇は,徳川将軍が〈タイクン(大君)〉といわれたのに対し,〈ミカド(御門)〉〈ダイリ(内裏)〉と呼ばれていたと幕末に来日したヨーロッパ諸国の外交官が記録している。ミカドやダイリという呼称は天皇を直接に称号をつけて呼ぶことができないがため,天皇というものに対する略称であった。…
…平安京の宮城。平安京の中央北部を占め,築地塀で囲まれた内部には,内裏(だいり)と諸官衙が群立していた。この場所は,平安遷都以前,当地方の豪族,秦河勝(はたのかわかつ)の屋敷があったと伝え,紫宸殿(ししんでん)前の梅にその伝承を残している。…
…710年(和銅3)から784年(延暦3)まで営まれ,途中8年ほど中絶し,恭仁(くに)京(京都府相楽郡)等に都が遷されたことがあるが,70年にわたって存続した。南北約1km,東西1.3kmの広さをもち,その中に天皇の御在所であり日常生活の居所であった内裏(だいり),公の儀式,政治の場である朝堂院(ちようどういん)があり,さらに百官と総称された官司の建物があった。したがって平城宮は天皇の居所であると同時に,当時の律令国家の中央政府機構の所在地であった。…
※「内裏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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