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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…南宋では左右の丞相に改称され,元代でも左・右丞相2人を宰相とした。 明代初めには丞相が置かれていたが,丞相胡惟庸の専権が処理されると,丞相を廃して,宣徳年間(1426‐35)から,皇帝の秘書官で教育係の内閣大学士が政治を執行する権力を握り,明代中期以後は宰相職を遂行した。清朝初期は,明の制度を継承して,最高行政機関を内閣とし,内閣大学士が宰相職を執行したが,雍正帝のときに軍機処が置かれ,軍機処の大臣つまり軍機大臣を内閣大学士の中から任命するようになると,重要な政務はすべてここで決裁されるようになり,軍機大臣が宰相の職務を遂行し,軍機処が国政の最高機関になり,内閣は普通事務を取り扱う役所になった。…
…明も初めは丞相を置いたが,太祖が1380年(洪武13)左丞相胡惟庸(こいよう)を謀反の嫌疑で殺してから丞相を置かず,みずから直接六部を指揮した。以後丞相の名が消え,代わって天子の秘書官なる内閣大学士,あるいは清代の軍機処大臣が実質上の宰相の職を行った。史上に最も有名な丞相は三国蜀漢の諸葛亮(孔明),および南宋末の文天祥の2人であろう。…
…明の太祖は中書省を廃して政治を親裁したが,永楽帝のときには翰林院より数人を選び,これを文淵閣に入れて機務に参与させ,また大学士を兼任させた。これより内閣大学士の称がある。その職務は皇帝の行う決裁の原案を作成することで,これを票擬といい,内閣大学士は事実上の宰相であった。…
…明の太祖は中書省を廃して政務を親裁し,輔佐機関として殿閣大学士を設けたが,永楽帝は翰林院より数人を選んで宮中の文淵閣に入れ機務に参与させた(1402)。これが中国の内閣制度の起源で,その後,閣臣に殿閣大学士の官が加えられてから内閣大学士の称が起こった。その職掌のうち最も重要なことは,諸臣の上奏文に対して天子が書き入れる批答すなわち決裁の原案を作成することで,これを票擬という。…
※「内閣大学士」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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