写真とは、光学的な映像や、放射線、粒子線の痕跡(こんせき)を可視的な画像として固定する技術の総称であり、またそれによって得られた画像をさす。英語のフォトグラフphotographにあたり、語義はギリシア語で「光で描く」ことを意味し、イギリスの科学者ジョン・ハーシェルが、写真術の発明者の一人フォックス・タルボットの発明した紙ネガを用いる写真印画に対して、1830年代末に命名したもの。タルボットはそれ以前から化学反応を応用して光でものの影を写し取る試みを行っており、それをフォトジェニック・ドローイングphotogenic drawing(フォトジェニックは「光に由来する」の意)とよんでいた。なお、フォトグラフィphotographyは写真を制作する行為、すなわち写真術をさす。写真という訳語は、幕末の洋学者大槻玄沢(おおつきげんたく)(磐水(ばんすい))がその著書『蘭説弁惑(らんぜいべんわく)』の下巻所収の「磐水夜話(やわ)」(1788)のなかで、写生の道具として紹介したカメラ・オブスキュラcamera obscura(ラテン語で「暗い部屋」の意)に、写生と同義語の写真という語を当てて「写真鏡」と命名したことに由来する。
写真は一般的にはレンズによって形成された像を、感光性のあるハロゲン化銀乳剤を塗布したフィルムに投影し光化学反応で潜像を得て、それに現像、定着などの化学処理を施し可視像とし、さらに印画紙へ転写する。また1990年代以降、発達が目覚ましいデジタルdigital(デジタルは「数」の意)写真は、ハロゲン化銀乳剤のかわりに感光性の半導体素子で光学像をデジタル信号に読みかえ、コンピュータによる電子的な処理を経て画像を得る技術で、応用範囲が広く、ハロゲン化銀を用いる写真技術にとってかわりつつある。
写真の活用と応用の範囲はきわめて広く、一般的な記録や記念、視覚表現のためのみならず、科学の基礎研究から工業、土木、医学、天文学、宇宙等の諸分野で学術的な利用がされている。こうした専門性の高い写真の活用は、1990年代以降、コンピュータによる画像処理技術と結び付き、またさらにデジタル写真の普及と相まって、より多様化し、その可能性を拡張しつつある。
今日、われわれは写真という視覚伝達手段が存在しない社会を、想像することさえ困難である。ことばや文字の歴史に比べると、19世紀前半に発表された写真の歴史はきわめて浅い。しかし、現代の現実的な文化状況を顧みると、ことばや文字と写真をはじめとする映像表現は、対等といえるほど重要な手段となっている。こうした事実を踏まえて、写真という手段の文化的な意義を改めて問うてみると、写真術が実用化されるはるか以前から、人類には視覚を共有したり、自らのまなざしを他者に伝えたり、リアリティーのある視覚像を時代を超えて伝えたりしたいといった願望が存在したことがわかってくる。すなわち、写真の誕生が19世紀であったのは史実であるが、写真的なるものへの願望は、ことに西欧社会では古代からはぐくまれていたのである。それが実現するにはルネサンス、そして産業革命や市民社会の形成という時代のプロセスを必要とした。
一方、近代市民社会が成立した18世紀には、市民階級の絵画所有熱を背景にして各種の版画技術が出そろって絵画の複製が行われ、写真術はむしろ新しい版画技法の誕生として熱烈に歓迎された。自由と平等を理念とする近代市民社会の成熟があってこそ、写真は誕生したといえよう。
複製手段としての写真術は、外的世界の客観的な記録ならびに再現の機能に支えられつつ、やがて印刷術と結び付いてメディアとしての体勢を整え、のちにグラフ・ジャーナリズム時代を開花させる。カメラは、異なった時・空間に生起するあらゆる社会事象を人々にかわって体験的に目撃し、迅速かつ広く大衆社会に伝達する。かくして世界はレンズの前に開かれ、大衆は現にそこに投げ入れられたような瞬間を意識するようになる。このような現在意識と現実の共有感覚は、われわれの日常意識に深く浸透している。
他方、写真に写された事象はすべて過去に生起したものの、その一瞬の凍結だといえる。そこで、フィルムはしばしば記憶を貯蔵する鏡とされ、レンズは外へ向けられた窓の働きをしているといえる。事実、カメラはどのような場所にも不意に現れ侵入する。しかも自由なカメラ・アングルはそれまでの固定した視点を解放し、対象は新しい意味とイメージを提示する。レンズは遠くのものを引き寄せるばかりでなく、近くのものにも限りなく接近し、ついにかなたの天体からウイルスの素顔までもとらえる。さらに、目に留まらぬ運動をする物体の瞬間的なビジョンをすばやく固定し、動きに対する肉眼の印象のあいまいさを指摘してやまない。
このようなカメラの適用範囲の広さと裸の目としてのレンズの率直な観察力を背景にして、1930年代にグラフ・ジャーナリズム時代が訪れる。史上最大の発行部数を誇ったアメリカの代表的なグラフ雑誌『ライフ』の創刊にあたって発行者ヘンリー・ルースは、「生活や世界を見る。大事件を眼前にする。貧しい人たちの顔と、おごれる人たちの姿を見る。新奇な事象――機械、軍隊、群衆、ジャングルの中と月の表面の影――を見る。人間の創造物――絵画、塔、そして発明・発見――を見る。1000マイルも隔たったもの、壁の背後と部屋の中に隠されているもの、接近しては危険なものを見る。愛する女性や多くの子供たちを見、かつ見ることに喜悦する。見、かつ驚く。見、そして教えられる」と創刊の趣意書に書き、視覚文化時代の到来を告知したのであった。
けれども、このような「写真の時代」への楽天的な姿勢はすぐに訂正されることになる。グラフ・ジャーナリズムは発行部数を伸ばすにつれて機構的に巨大化し、システム化された編集は個々の写真家の発表活動や個性を統制し画一化したばかりでなく、『ライフ』のようにアメリカの世論を代弁する役割をもつようになると、国益のためにイデオロギー的にならざるをえず、しばしば政治的情況に内容が揺れるようになる。あるいは、大衆に迎合してセンセーショナルな編集に堕することも多く、数多くの人権上の問題がそこに発生した事実は、今日もなお、マス・メディア社会が抱える大きな問題として、論議や研究が行われ、ついには、メディアをどう読み解くかという知的な技術「メディアリテラシー」という学問分野の誕生にまでつながってゆく。
またテレビの出現は最初に映画を脅かしたばかりでなく、速報性や報道の臨場感においても写真に大きな影響を及ぼし、改めて写真の記録性に反省が強いられるようになった。『ライフ』が最盛期850万部の発行部数を誇りながら、1978年復刊したとはいえ、1972年いったん休刊を余儀なくされたのも、こうした事実が背景にあった(2000年5月廃刊)。
しかし写真は、映画、テレビと共存し、静止した映像の特色を生かしつつ、印刷媒体では活字文化と車の両輪の役割を果たしており、報道、広告・宣伝、芸術的表現、学術において、依然として大きな役割を占めている。
[重森弘淹・平木 収]
日本のカメラの普及率は、すでに一家に2台以上に達するといわれる。とくに1960年代中ごろ以降、操作の簡便なカメラが普及し、1980年代には使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)も日常化し、初心者にも自由に使えるようになった。それらの使用目的の大半が記念写真や気軽なスナップ写真であることはいうまでもない。また、動画像についても小型ビデオカメラの発達が受け手としてのみの受容意識を変えたが、その点、写真は誕生期からアマチュアが創造の担い手となっており、また送り手でもあったことに注目しておく必要があろう。
記念写真が重要なのは、個人・家族・集団の貴重な時間、つまり思い出に防腐処置を施す意味があるからであり、また分身として礼拝されたり護符の役割を果たすからである。そこで記念写真は個人にとってしばしば視覚の物的な痕跡(こんせき)ですらある。一方、記念写真は私的な記憶でありながら、時間の経過とともに、時代の客観的記録として資料的価値をもつようになることも事実である。ときには公式的な写真記録や、報道写真以上に、個人的な動機から撮影された記念写真に記録的な真実味のあふれていることがある。1970年代以降、パーソナル・メディアとしての写真のあり方が再考されるようになり、改めて個人のアルバムの発掘が盛んとなった。個人のアルバムも特定の目的に沿って一定の文脈によって再編集されることで、民衆史の視覚的な資料として再評価の対象となりだした。個人の生活にとっていまや記念写真は欠くべからざるメディアといってよく、また私的な記憶を超えた再生産性に注目しなければならない。
[重森弘淹・平木 収]
他方、写真は芸術の手段でもある。写真は当初、もう一つの版画として、いいかえれば芸術の複製手段として歩み出したが、やがてその独自の複製技術によってのみ可能な表現領域を開拓し、複製芸術として自立するのである。しかし、写真は初期、先行芸術としての絵画に強く影響されたのも事実で、19世紀は全体的に「絵画的写真」の時代でもあった。
20世紀に入って、カメラの機能に忠実な表現、換言すれば機械的リアリズムにのっとった表現方法を自覚するに及んで、写真芸術も革新される。むろん、20世紀の各芸術ジャンルと密接に交流し、相互に影響を与え合いつつ今日に至っている。写真はマス・メディアとしての報道写真や広告写真、さらに各種の学術写真(科学・応用写真)を含む一方、純然と芸術としての写真創造の伝統を伝えている。
写真の対象は、報道、広告を問わず、人物、風景、自然、都市、風俗など、およそ人間と人間にかかわりのあるもの、レンズの及びうるものすべてにわたっている。報道や広告の写真が、その目的のためのコミュニケーションを第一義とする表現とするならば、芸術としての写真は、題材を共有しつつも、美的表象と芸術的鑑賞の対象として創作されるものである。
しかしながら、コミュニケーションや学術的な目的を第一義として撮影された写真も、「芸術としての」という文脈上から、鑑賞対象として作品視されることもしばしばあるところが特徴的である。事実、天体写真などの科学的な記録や、ドキュメンタリーの場合でも、それがわれわれの美的感性を喚起し、また人間性の真実を提示しているものは、芸術としての文脈上から、美術館に展示されることも少なくない。これは要するに、写真の記録性が新鮮なリアリティーを根底に内包しているからである。そこでこのリアリティーが他の芸術ジャンルの表現傾向に強い影響をも及ぼす原因になっている。その半面、なお「芸術としての」という文脈が流動的で確定していないことも示しており、はたして写真は芸術や否やといった議論が現在もときにおこる要因ともなっている。
1980年代以降、日本でも公共美術館での写真コレクションが始まり、写真と美術館の関係はきわめて重要な意味をもつようになった。1983年(昭和58)個人の写真家の展示館として世界最初といってよい土門拳(どもんけん)記念館が作者の郷里山形県酒田市に開設された。続いて1988年には川崎市市民ミュージアム、翌1989年(平成1)には横浜美術館がそれぞれ写真部門を設けて新規に開館し、1995年には東京都写真美術館も開館した。また東京と京都の二つの国立近代美術館も写真作品の収集と展示に着手するに至った。
今日、マス・メディアとしての写真とは別に、純粋に表現的創作的な方向を目ざす写真をシリアス・フォトとよび、ギャラリーがその主たる発表舞台となっている。これらシリアス・フォトの担い手には、専門作家のほかにアマチュアも多い。
19世紀には、欧米諸国の場合も、アマチュアが芸術写真を担ってきた。1世紀以上続いているアマチュア団体もあり、現在も数多くのグループ結社がある。コンペも盛んに行われ、写壇なるものを形成している。
[重森弘淹・平木 収]
写真術が実用化されたのは19世紀前半のフランスやイギリスにおいてであるが、その写真術とは一朝一夕に考案されたものではなく、きわめて長い胎動期を経てようやく実用化をみた技術なのである。写真という技術を分析的にとらえると、光の像を結ぶ光学系(レンズやピンホール)と、その像を確保するための外光を遮る暗箱、そして光の像、すなわち映像を受け止めて、それを消えない画像に転化する感光材(フィルムなど)の三つの要素から成り立っている。写真の発明、あるいは実用化とは、この三つの要素が組み合わさり映像を恒久的に保存できるようになったことを意味する。そしてその欲望ないし欲求は、実はルネサンス期からのものであり、またそうした欲求の原点には、古く古代ギリシアにまでさかのぼる科学的な思惟(しい)が深く関係している。写真とは、西洋における精神史のたまものなのである。
古代ギリシアのアリストテレスは、史上初めて光の結像現象、つまり映像について記述したが、その記述は彼の哲学思想とともに古代ローマからビザンティン、またイスラム文化へと継承され、中世にはイギリスのスコラ学者ロジャー・ベーコンが光学の研究に手を染めている。そうした知の延長上に、ルネサンス期のイタリアで建築家のフィリッポ・ブルネレスキが設計上の必要性から、そしてレオナルド・ダ・ビンチが絵画制作の完璧(かんぺき)さを期して人間の肉眼と光学像の関係に着目し、ともに幾何学的な遠近画法を考案した。そうした人間の視覚の科学的な探究が、やがてナポリのジョバンニ・バッティスタ・デラ・ポルタGiovanni Battista della Porta(1538―1615)の提案したデッサンのための暗い箱カメラ・オブスキュラ(ピンホール・カメラ)へとつながってゆく。17世紀の前半には画家たちは今日のカメラの原型であるカメラ・オブスキュラを実際に用いていたし、18世紀末には「写真鏡」の名で日本へも輸入され、西洋画の先駆者である司馬江漢(しばこうかん)もそれを用いていた。
ゆえに17世紀から19世紀にかけては、今日のフィルムに相当する物質がなかっただけで、カメラとその使い手は存在したのである。肉眼の視覚のように描きたいという欲求は、やがてヨハン・ハインリヒ・シュルツェJohann Heinrich Schulze(1687―1744)らの錬金術的な光の化学と出会い、ニエプスやダゲール、タルボットの実用的な写真技術の完成へと発展したのである。
他方、古代人は、ある種の物質に光が当たると、その表面が変化する現象を知っていたが、おそらく光に対するアニミズム信仰を抱いていたと考えられる。1727年シュルツェは、その変化する物質が銀塩類であることを証明した。またイギリスのトマス・ウェッジウッドThomas Wedgwood(1771―1805)は、19世紀の初め硝酸銀溶液を塗布した紙や皮革上に、ガラスに描いた油絵や線画をのせて露光する日光印画を作製している。
一方、近代市民社会の成立に伴う大衆の肖像熱にこたえて、フランスではシルエットをなぞるフィジオノトラースという装置が18世紀末に考案された。イギリスではウィリアム・ハイド・ウォラストンが、プリズムを応用した「明るい部屋」を意味するカメラ・ルシダなるデッサン補助用具を1806年に考案している。
[重森弘淹・平木 収]
1822年(1826年説もある)7月、フランスのニエプスは、アスファルトを塗布した金属板に像を残すことに成功し、1826年夏に「書斎からの眺め」を撮った。カメラ・オブスキュラを使用し、定着された最初の風景写真であった。彼はこれを「太陽の描く絵」を意味するヘリオグラフィと名づけた。
同じフランスで、役者が出てこない風景のみの舞台を見せる見世物小屋ジオラマ館の興行師であったダゲールは、その原画にカメラ・オブスキュラを利用していたことから写真の研究に進み、1829年ニエプスと研究契約を結んだ。4年後ニエプスは死去し、そこでダゲールは独力でダゲレオタイプ(銀板写真)を完成した。1839年8月フランス科学学士院で正式の発明品として認められ公表された。
ダゲレオタイプは、銀板もしくは銀を塗布した金属板にヨウ素蒸気を当てたもので、映像はきわめて鮮明であった。欠点としては、鏡像同様に左右逆像であること、複製ができないこと、露出に20分以上要したことなどがあったが、新しい発明品としてまたたくまに全世界に迎えられた。
一方フランスの財務省官吏イポリット・バイヤールHippolyte Bayard(1801―1887)も同じころ、すでに写真研究を始めており、硝酸銀溶液を塗布した塩化ナトリウム紙に、カメラ・オブスキュラを使って映像を完成したが、ダゲレオタイプの発表に衝撃を受け、科学学士院に申請したものの受理されなかった。そこで1840年溺死(できし)人を演じたセルフ・ポートレートを発表し抗議した。
イギリスのタルボットは当初カメラ・ルシダを使ってスケッチしていたがうまくいかず、結局カメラ・オブスキュラと紙の感光材を用いて撮影し、没食子(もっしょくし)硝酸銀を用いて潜像から現像する方法を1840年に完成した。いわゆる現代のネガ・ポジ法の原型である。タルボットはそれ以前の方法をフォトジェニック・ドローイングとよんだが、新しい完成手法について、ギリシア語の「美しい」を意味する「カロス」と、「描く」意の「タイプ」を合成してカロタイプと名づけた。また、友人ジョン・ハーシェルの示唆でフォトグラフィの語も生まれた。タルボットは芸術的才能もあり、1844年から1846年にかけて作品集『自然の鉛筆』を刊行した。カロタイプによる24枚のオリジナル・プリントで、建築、風景、植物、グラスなどを題材としており、とりわけデザイン的な処理をした静物作品は秀作である。イギリスのデビッド・オクタビアス・ヒルと助手のロバート・アダムソンRobert Adamson(1821―1848)は、このカロタイプによる肖像写真を制作して優れた作品を残した。
[重森弘淹・平木 収]
1850年代はダゲレオタイプやカロタイプによる肖像写真(ポートレート)が大衆的な人気を博した。多くは画家から転向した写真家が欧米の各地でスタジオを開いた。ダゲレオタイプの肖像写真家としてもっとも著名なのはアメリカのアルバート・サンズ・サウスワースAlbert Sands Southworth(1811―1894)とジョサイヤ・ジョンソン・ホーズJosiah Johnson Hawes(1808―1901)の共同スタジオによるもので、性格描写を目標とした彼らの作品は人物の風貌(ふうぼう)を堂々と撮っている。
イギリスのフレデリック・スコット・アーチャーは、ダゲレオタイプとカロタイプの欠点を改良し、ガラス板に感光剤を塗った湿式コロジオン法を発明した。露出時間も6秒に短縮され、かつネガから多くのプリント作製が可能となった。湿式コロジオン法を応用してフランスのアンドレ・アドルフ・ウジェーヌ・ディデリAndré Adolphe Eugène Disdéri(1819―1890)は名刺サイズを考案し、量産システムに成功した。ナポレオン3世は、イタリアへ出発する軍隊を彼のスタジオ前で止め、兵士たちに肖像を撮らせている。
イギリスの上流夫人マーガレット・カメロンは、48歳から写真を始め、晩年は当時を風靡(ふうび)した絵画ラファエル前派に影響された寓意(ぐうい)的な作風に堕したが、それ以前のポートレートは19世紀写真史のなかでもっとも高い評価を受けている。彼女は湿式コロジオン法を使ったが、少量の光で7、8分の露出時間をかけた。そのために映像はぶれがちで、職業写真家たちから非難を受けたにもかかわらず、とりわけクローズ・アップ像は当時もっとも新しい手法であり、人物の性格を生き生きと表象していた。彼女自身、人間の「永遠の内容」を再現したいと願っていたが、とりわけ「ジョン・ハーシェル卿(きょう)」(1869)や「トーマス・カーライル」(1867)は傑作中の傑作である。
同じころ、教師で『不思議の国のアリス』の著名な作家ルイス・キャロルはおびただしい少女像を撮り、日常的なポーズで無邪気さを強調し、1970年代以降、写真史上再評価されるようになった。
フランスのナダール(本名ガスパール・フェリックス・トゥルナシオン)は風刺画家であったが、パリにスタジオを開き、社交場的な人気も博した。ドラクロワ、ドーミエ、コロー、アングル、ミレー、マネ、モネといった画家、ロッシーニ、ワーグナーなどの音楽家、ユゴー、大デュマ、ボードレール、ジョルジュ・サンドなどの作家のほか、女優サラ・ベルナールらをモデルにして傑作を残した。当代きっての個性の強いモデルたちに向かって、ドラマチックな照明と精密なピントで迫り、モニュメンタルな風貌にまで仕上げた。もともと風刺画家として世相に旺盛(おうせい)な興味をもっていたので、地下墓地や下水工事の光景を、アーク灯による最初の人工照明撮影を行って撮ったり、1858年には熱気球を飛ばして史上初の空中撮影を試みたりして、ますますパリ市民の注目を集めた。エチエンヌ・カルジャÉtienne Carjat(1828―1906)も、ナダール同様、ボードレールらを撮影し、正攻法的な表現ながら威厳のある個性をとらえたが、ナダールの人気には及ばなかった。
[重森弘淹・平木 収]
イギリスでは写真史初期、ラファエル前派などの影響もあって、絵画的なタッチと寓意的な内容の芸術写真が主流となった。とりわけオスカー・ギュスターブ・レイランダーOscar Gustave Rejlander(1817―1875)やヘンリー・ピーチ・ロビンソンはその代表であった。前者は「人生の二つの道」(1857)で30枚のネガから合成印画をつくったが、テーマは勧善懲悪的なものであった。古典主義の画家が歴史画を描くときのようにモデルに俳優を動員しており、画面に登場するヌードとしては写真史上もっとも初期のものと思われる。またこの作品は78.7センチメートル×40.6センチメートルという大きなもので、ビクトリア女王に買い上げられている。後者も、5枚のネガから合成した少女の「臨終」(1858)を完成させた。
レイランダーやロビンソンに対して、ピーター・ヘンリー・エマーソンは、自然主義思潮に共鳴し、彼らの作品を「文学的詭弁(きべん)と美術的時代錯誤の典型」として排し、著書『自然主義的写真術』(1889)を出し、そのなかで、写真は独立した芸術であり、人間の視覚に忠実な映像であるべきこと、合成や修整は許されないことを説いた。またその実践として白金印画40枚の作品集『ノーフォークブローズの生活と風景』(1886)を発表している。彼自身バルビゾン派の絵画を支持していた。やがて過度にぼかす軟焦点描写が行われるようになったことに怒り、『自然主義写真の死』(1890)を著して写真界から引退した。
一方、軟焦点派のフレデリック・エバンズFrederick Henry Evans(1852―1943)らは、1893年ロンドンで「サロン展」を開き、その影響がたちまち欧米に広がった。いわゆるサロン写真の名称はここに端を発している。
フランスでは1880年代にアマチュア中心のパリ・カメラ・クラブが結成され、ゴム印画によるロベール・ドマシーRobert Demachy(1859―1936)や、やや寓意的な内容に即したコンスタン・ピュヨーÉmile Joachim Constant Puyo(1857―1933。通称カミーユ・ピュヨー)らがピクトリアリスト(絵画的写真家)として活躍した。
[重森弘淹・平木 収]
近代市民社会の成熟期に生まれた写真はもともと都市的なメディアであった。ダゲールは都市の光景としてもっとも早く「タンブル大通り」(1839)を俯瞰(ふかん)したし、タルボットも「オックスフォードの街」(1843)を深い空間描写でとらえている。パリ市は1865年におりからの大改造都市整備にあたってシャルル・マルビルCharles Marville(1816?―1878/1879)をその公式記録写真家に任命し、克明かつ膨大にパリの変貌過程をとらえた。アンリ・ビクトール・ルニョーHenri-Victor Regnault(1810―1878)、シャルル・ネーグルCharles Negre(1820―1880)らも同様であった。
アメリカでは、発展期のニューヨークをエドワード・アンソニーEdward Anthony(1840?―1901)が、建設中のアトランタをジョージ・バーナードGeorge N. Barnard(1819―1902)が撮るなど、都市への関心は、都市を構成するあらゆる要素、建物、風俗、社会問題に広がり、現在まで継承されている。
[重森弘淹・平木 収]
1840年代から1870年代にかけては旅行と冒険の時代でもあり、旅行家や冒険家にとってカメラはなくてはならぬ武器であった。フランスの作家マキシム・デュ・カンMaxime Du Camp(1822―1894)は1849年作家仲間のフロベールとともにエジプト、ヌビア、パレスチナを旅してカロタイプ法による写真を撮っている。イギリスのサミュエル・ボーンSamuel Bourne(1834―1912)は1863年から1866年にかけて3回ヒマラヤを土地の風俗生活を含めて記録した。
[重森弘淹・平木 収]
アメリカでは絵画的写真が成長するいとまもなく南北戦争が始まり、まず肖像写真家としても著名であったマシュ・ブラディが写真馬車で戦場を駆け巡り、7000枚に及ぶ白熱的な記録を残し、彼の助手で、のちに独立したアレクサンダー・ガードナーも、『戦争のスケッチブック』(1866)を完成した。なお初期の戦争写真としてはイギリスのロジャー・フェントンRoger Fenton(1819―1869)のクリミア戦争の記録(1855)がある。
南北戦争後、中断していた西部開拓が再開され、従軍写真家の多くは開拓に伴う調査隊に従事して写真記録にあたった。このうちガードナーはユニオン・パシフィック東部線建設を記録している。ティモシー・オサリバンTimothy H. O'Sullivan(1840―1882)は政府の未開地調査に同行し、コロラド、ニュー・メキシコに分け入り、またウィリアム・ヘンリー・ジャクソンWilliam Henry Jackson(1843―1942)は当時地図にもなかったイエローストーン地方と巨大な間欠泉を発見、カールトン・エモンズ・ワトキンスCarleton Emmons Watkins(1829―1916)は西部ヨセミテ渓谷(1863)を雄大に記録した。
[重森弘淹・平木 収]
写真史では、写真独自の表現美学を自覚した20世紀初頭をもって近代写真の時代の始まりとする。アメリカのアルフレッド・スティーグリッツはドイツに留学中、エマーソンに認められ、帰国後、修整・加筆などの絵画的手法に頼らず、写真の機能を美的に使うストレート・フォトグラフィを提唱し、近代写真の表現的コンセプトを確立した。1897年から1902年にかけて『カメラ・ノーツ』誌を刊行してピクトリアリズムと闘い、1902年ドイツでおこったアカデミズムからの個性的独立を図る美術運動セセッション(分離派)に倣って、フォト・セセッションをおこした。翌年機関誌『カメラ・ワーク』を発刊、1905年「291ギャラリー」(当初は「リトル・ギャラリー」)を開設した。この運動にはエドワード・スタイケン、ガートルード・ケーゼビアGertrude Käsebier(1852―1934)、クラーレンス・ホワイトClarence Hudson White(1871―1925)、フランク・ユージンFrank Eugene(1865―1936)、ポール・ストランドらが参加した。フォト・セセッションは一種の新しい絵画主義であったが、スティーグリッツ自身、ハンドカメラによる独創的なスナップショットや純粋造形手法の導入、また太陽と雲を題材にした精神的世界の隠喩(いんゆ)的象徴化を試み、それらの作品群は画期的なものであった。また、ストランドはストレート・フォトグラフィのもっとも忠実な実践者として、以後の写真的リアリズムに大きな影響を与えた。スタイケンもまた、スティーグリッツの後継者として、ポートレート、ファッションに大きな足跡を残し、第二次世界大戦後は初代のニューヨーク近代美術館写真部長として展覧会「ザ・ファミリー・オブ・マン(われらみな人間家族)」をプロデュースするなど巨匠として君臨した。
カリフォルニアの写真家エドワード・ウェストンは、事象の生命的本質に迫るためには肉眼以上に見るレンズの機能を可能な限り利用しなければならないとし、事実、形態を極度に単純抽象化して、しばしばオブジェ的な表現に到達し、写真的リアリズムの結晶ともいえる作品を数多く残した。この影響下から、大型カメラの最小絞りを駆使して、そこに写真的リアリズムの手法的根拠を求めようとする「F64グループ」が結成(1932)され、アンセル・アダムズやイモジェン・カニンガムらがこれに参加した。アダムズはオリジナル・プリントの達人で、西部一帯の風景を雄大に撮り続けたし、カニンガムも即物的表現で、精密なリアリズム描写を行った。
[重森弘淹・平木 収]
1910年代末から1920年代にかけて写真は画期的な機械芸術として同時代のアバンギャルド芸術から同伴を求められてさまざまに交流し、表現的にも目覚ましい前進や実験的手法が試みられた。まずフランスのウジェーヌ・アッジェは、画家の下絵として販売すべくパリの街角を率直な視線でとらえた写真を制作し、晩年にマン・レイによって発見されたが無名のまま没した。マン・レイはアッジェの徹底した記録手法のかなたに浮上する超現実主義的なイメージに驚いて、『シュルレアリスム革命』(1926)の表紙にこれを掲載した。以後、アッジェは近代写真最大の巨匠の一人として評価されている。
写真はダダイズム、シュルレアリスム、構成主義、新即物主義、抽象主義などに表現的なコンセプトから接近した。まずチューリヒのダダイスト、クリスチャン・シャッドChristian Schad(1894―1982)は、印画紙上に物体を置いて露光させるシャドグラフという抽象的な手法を開拓(1918)した。ダダイスト、マン・レイも同様の手法によるレイヨグラフを1921年に、構成主義者モホリ・ナギも同様に同年フォトグラムを成功させた。ダダイスト、ジョン・ハートフィールドは政治風刺画家ゲオルク・グロッスなどと同志的に結び、フォトモンタージュ手法によって激しくナチスを攻撃した。
モホリ・ナギは、ドイツの造形学校バウハウスで教鞭(きょうべん)をとりつつ、『絵画・写真・映画』(1925)で、写真を「光の造形」とする理念を唱えたが、これは光と影による抽象主義的造形を志向するものであった。抽象主義的な傾向としては、すでにイギリスのアルビン・ラングドン・コバーンの非対象写真(1904)が先駆的な作品としてある。モホリ・ナギはさらに、印刷された写真と文字の組合せによるタイポフォトを実践し、グラフィック・デザインに多大な影響を与えた。ドイツのフランツ・ローFranz Roh(1890―1965)とヤン・チヒョルトJan Tschichold(1902―1974)はモホリ・ナギに共鳴し、著書『フォト・アウゲ(写真眼)』(1929)で、写真を、クローズ・アップ、仰瞰(ぎょうかん)、俯瞰(ふかん)、長時間露出、高速度撮影、ネガティブ・フォト、X線、リアル・フォト、フォトグラム、フォトモンタージュ、タイポフォトに分類し、機械芸術としての写真表現のあり方を強調した。日本の新興写真は『フォト・アウゲ』に示唆されたものであった。
1925年ドイツの反表現主義美術運動として組織されたノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)は、客観主義的な立場から徹底した即物的描写で、対象の呪物(じゅぶつ)的イメージを浮上させたために、魔術的リアリズムともいわれた。写真ではアルバート・レンガー・パッチュが、日常的な事物にまで題材を拡大し、また鮮烈なピント、極端なクローズ・アップを駆使して『世界は美しい』(1928)を出版し、この題材の日常への広がりや客観的記録主義が、やがてフォト・ルポルタージュのコンセプトへ発展することになる。
[重森弘淹・平木 収]
1920年代において明確となった機械芸術としての自覚、科学分野への寄与、日常的なものへの題材の拡大などが、写真の社会に対する発言力を自信づけることになる。一方、写真は新しい視覚として、とくに事物の瞬間的ビジョンをいかにとらえるかという欲求がすでに19世紀末から胎動していた。コダック社によるハンドカメラ(1888)の発売もそうであったし、イギリス出身のエドワード・マイブリッジの連続写真も例外ではなかった。彼は1872年から、12台ないし24台のカメラで馬のギャロップの連続写真を撮り、その動態のビジョンに、それまでの馬の絵画描写ではまったくとらえられなかった瞬間のあることを提示した。それにより、カメラの目の視覚の確かさが立証されたばかりでなく、運動=時間への大衆の関心が高められた。この連続写真をもって映画の原型とする考え方もある。フランスのエティエンヌ・ジュール・マレーも高速度連続写真を開発している。
1925年エルンスト・ライツ社(現、ライカ・カメラ社)から35ミリフィルム(映画のスタンダード・フィルム)を利用したライカが発売された。ついで距離計連動式(レンジ)ファインダー方式やレンズ交換可能な改良が施され、このスナップ・カメラの出現によって写真表現も画期的な変化を迎えることになる。ドイツのエーリッヒ・ザロモンは、帽子にライカを潜ませて国際連盟会議で撮影して驚かせ、「キャンディッド(公平率直な)・フォト」と称された。フランスのアンリ・カルチエ・ブレッソンも終始ライカで、現実の偶然なイメージをとらえ、作品集『決定的瞬間』(1952)は衝撃的な影響を与えた。
写真の印刷を可能にした網版が1880年に発明され、新聞の高速印刷にも採用されて、写真のマス・メディア化の方向が明確となった。1929年にはドイツのウルシュタイン社が日刊写真新聞『ウルシュタイン・テンポ』を発刊、また同社はすでに週刊誌『ベルリーナ・イルストリールテ・ツァイトゥンク』を出版しており、ようやくグラフ・ジャーナリズム時代の幕が開かれることになる。1936年アメリカでは『ライフ』が、翌年には『ルック』が創刊され、さらにその翌年にはフランスの『パリ・マッチ』も出て、フォト・ルポルタージュも形式的、内容的に充実する。『ライフ』はフォト・エッセイというストーリーを展開する形式も創造した。『ライフ』の写真家、マーガレット・バーク・ホワイトは文明批評的な視点からのルポルタージュを発表し、アルフレッド・アイゼンシュタットAlfred Eisenstadt(1898―1995)も創刊以来、激動する世界史の現場の目撃者として終始した。
1929年、ニューヨークのウォール街の大恐慌に際して、農政安定局(FSA)資料部長ロイ・ストライカーRoy E. Stryker(1893―1975)は、アメリカ南部農業の実態をカメラ・キャンペーンによって啓蒙(けいもう)する構想の下に、まずウォーカー・エバンズとドロシー・ラングを起用し、ついでアーサー・ロスタインArthur Rothstein(1915―1985)をディレクターに据え、画家・写真家のベン・シャーン、ゴードン・パークスGordon Parks(1912―2006)、カール・マイダンスCarl Mydans(1907―2004)らを加え、1937年から約7年間に20万枚に及ぶ貴重な記録を残した。エバンズはそれ以前、初期移民たちのビクトリア風様式の住宅記録者として知られ、また第一次世界大戦後は地下鉄乗客のスナップをしたりして、1930年代以降もっとも影響力のあった写真家として注目される。
アメリカには西部開拓の記録以後、急激な都市化に伴うさまざまな都市公害に取り組むドキュメンタリーの精神的伝統があり、デンマーク移民のジェイコブ・オーガスト・リースは、自身がスラム街に転落した体験からその実態をカメラでキャンペーンしたし、ルイス・ウィックス・ハインは、移民の追跡や幼児労働の実態、エンパイア・ステート・ビルディングの建設過程の記録などで大きな功績を残した。
都市の風俗については、フランスのブラッサイの1930年代のパリの生態や、ブダペスト、パリ、ニューヨークと移りつつ洗練されたスタイルで撮り続けたアンドレ・ケルテスAndré Kertész(1894―1985)、パリ下町の人情をユーモラスに記録したロベール・ドアノー、都市の建築を精密に記録したアメリカのベレニス・アボット、パリの上流階級をその階級出身者の目で撮ったジャック・アンリ・ラルティーグ、ニューヨークの暴力を徹底して記録したウィージーらがいる。
また不況時代の典型として「家庭のイギリス人」(1936)を撮ったビル・ブラントBill Brandt(1904―1984)や、1920年代ドイツのあらゆる階層人を記録したアウグスト・ザンダーの名も逸することはできない。
[重森弘淹・平木 収]
戦争写真家として名をあげたハンガリー生まれのアメリカ人、ロバート・キャパや、アンリ・カルチエ・ブレッソン、子供の生態記録で知られるデビッド・シーモアDavid Seymour(1911―1956)らは、1947年パリで写真通信社マグナム・フォトスを結成し、第二次世界大戦後のグラフ・ジャーナリズムに斬新(ざんしん)なフォト・エッセイを提供して報道写真界に大きな影響を与えた。そのメンバーには、ヒューマンなドキュメントで知られるアメリカのウィリアム・ユージン・スミスや、カラーの魔術師エルンスト・ハースErnst Haas(1921―1986)、ハーレムのフォト・エッセイなどで知られたブルース・デビッドソンなどの俊秀がそろった。しかし、グラフ・ジャーナリズム自体は、テレビの影響などで苦難の時代を迎えた。
他方、注目されるべき写真家として、スイスからアメリカに移住したロバート・フランクや、ニューヨークからパリに移ったウィリアム・クラインがいる。フランクは人種のるつぼであるアメリカ社会に人間の運命を淡々と見つめた『アメリカ人』(1958)で以後の写真界に決定的な影響を与えたし、クラインはニューヨーク、ローマ、モスクワ、東京と都市のダイナミズムを文明批評的にとらえて、都市が写真にとって最大のテーマであることを示唆した。さらに、文明社会人の肉体的・精神的なひずみを真正面から撮ったダイアン・アーバスも神話的な存在となった。
広告、ファッション分野では、アメリカのアービング・ペンとリチャード・アベドンが圧倒的な才能を示し、また両者とも人物写真に優れた批評的観察と格調のある様式を確立している。
シリアスな分野では、厳しい抽象的表現でアメリカのハリー・キャラハンやアーロン・シスキンが知られる。また私的で内省的な『自画像』(1970)を制作したリー・フリードランダーがいる。いずれにしても第二次世界大戦後は、対象現実を既成の思想的尺度で図式化したり、ストーリー的に再構成するより、私的で相対的な視点に深まりをみせている。それだけ写真家にとって対象世界の構造が複雑でみえにくいものとなっているのであろう。
[重森弘淹・平木 収]
1848年(嘉永1)オランダ船でダゲレオタイプが長崎に入り、1857年(安政4)9月17日、薩摩(さつま)藩士市来(いちき)四郎(1828―1903)らが藩主島津斉彬(なりあきら)を撮影したのをもって日本最初の写真とする説が有力となった。その後、蘭学(らんがく)を奨励した各藩で写真術への道が模索された。またペリー艦隊によって伊豆下田(しもだ)にダゲレオタイプがもたらされ、それに触発されて横浜の下岡蓮杖(しもおかれんじょう)は、アメリカ人写真家ウンシンから湿式コロジオン法を学び、1862年(文久2)同地に写真館を開設した。また同年、長崎の医学伝習所で蘭医ポンペに化学を学んで化学書『舎密局(せいみきょく)必携』を著した上野彦馬(ひこま)も、時を同じくして「上野撮影局」を開業した。さらに安政(あんせい)末、木津幸吉(1830―1893)がロシア領事に湿板術を学んで1864年(元治1)箱館(はこだて)に写場を開いた。
[重森弘淹・平木 収]
明治初期には早くも写真は大衆に普及し始め、東京では内田九一(くいち)、横山松三郎(まつさぶろう)らが活躍している。他方北海道では、田本研造(たもとけんぞう)とその一派による開拓記録が、写真史上白眉(はくび)の質の高さに達していた。
明治中期になるとゼラチン乾板(かんぱん)時代に入り、著名な写真師が東京で集中的に活躍する。江崎礼二、武林盛一(もりかず)(1842―1908)、北庭筑波(きたにわつくば)(1842―1887)、中島待乳(まつち)(1850―1938)、丸木利陽(まるきりよう)(1854―1923)、小川一眞(かずまさ)らである。このころからアマチュアによる芸術写真の時代が始まり、1889年(明治22)会長榎本武揚(えのもとたけあき)による日本写真会が写真師団体として、また会長尾崎紅葉のアマチュア団体が1901年(明治34)東京写友会として創立された。イギリスの絵画的写真も紹介され、秋山轍輔(てつすけ)(1880―1944)が1904年ゆふづつ社を結成し、ピクトリアリズムの代表的技法となったピグメント法を研究した。大阪では、同年有力なアマチュア団体浪華(なにわ)写真倶楽部(くらぶ)が創立され、現在まで続いている。さらに現在まで続いているものに、秋山轍輔らの東京写真研究会(1907年結成)があり、カーボン、ブロムオイル印画などを盛んに展示している。
[重森弘淹・平木 収]
淵上白陽(ふちかみはくよう)の日本光画芸術協会(1920)、西山清(1893―1983)によるプレザント倶楽部(1922)、鈴木八郎(1900―1985)らの表現社(1923)、福原信三(しんぞう)の日本写真会(1924)などの有力団体が続々と結成され、また『カメラ』(1921)、『写真芸術』(1921)、『フォトタイムス』(1924)などの写真雑誌が発刊された。福原信三はこの時代の代表的なアマチュアで、写真を刹那(せつな)の芸術とする『光と其諧調(そのかいちょう)』(1923)を発表して新しい絵画主義を唱え、また野島康三(のじまやすぞう)と国画会を結成した。
[重森弘淹・平木 収]
野島も福原とともに傑出した存在で、芸術的香気の高い月刊写真雑誌『光画(こうが)』を創刊(1932)する一方、1931年(昭和6)から1933年にかけて造形的に純粋堅固なヌードの秀作を次々に発表した。『フォトタイムス』誌主幹の木村専一(せんいち)(1891?―1938)は新興写真研究会を結成(1930)してヨーロッパのアバンギャルド写真を紹介し、日本にもモダニズムが開花する。批評家伊奈信男(いなのぶお)は、『光画』にエッセイ「写真に帰れ」(1932)を発表し、機械芸術としての写真の芸術性を明確にした。
モダニズムに敏感であったのは関西で、上田備山(びざん)(1887―1984)の丹平(たんぺい)写真倶楽部(1929)、中山岩太(いわた)の芦屋(あしや)カメラクラブ(1930)が結成され、浪華写真倶楽部の安井仲治(なかじ)と小石清(1908―1957)がもっとも注目すべき写真家であった。とりわけ安井は1930年代の都市風俗を繊細鋭利なリアリズムで追求し、小石は都会人の精神的ストレスを超現実主義的手法でとらえ、中山も超現実主義的作風で都会的幻想を展開した。
他方、ドイツでルポルタージュを学んだ名取洋之助(なとりようのすけ)は日本工房を設立(1933)し、アート・ディレクター制による集団制作によって、『NIPPON』など水準の高い海外向けのグラフィックな宣伝誌を発刊し、日本の報道写真や広告写真に大きな影響を与えた。『光画』や日本工房に参加した木村伊兵衛(いへえ)はライカの名手として知られ、軽妙な文芸家の肖像で登場した。また、堀野正雄(1907―1998)は機能主義美学にたって機械的建造物の構造美に迫り、渡辺義雄(よしお)は新即物主義的な作風で建築や都市風俗を撮った。土門拳(どもんけん)は日本工房に参加後、社会的リアリズムを踏まえつつ、古寺、仏像、人物、社会問題などを撮って民族の伝統とその課題に迫り、第二次世界大戦後、木村伊兵衛とともに写真界の指導的地位にたった。濱谷浩(はまやひろし)は戦中から戦後にかけて、民俗学的な対象に本格的なカメラを向けた最初の写真家であった。
[重森弘淹・平木 収]
第二次世界大戦敗戦後の日本の写真界は、戦前、戦中の思想、言論、出版などの統制が解かれたこともあり、大きくさま変わりする。敗戦の混乱からの復興が始まった1940年代後半から1950年代前半にかけて、写真界は現実を直視しようとする出版ジャーナリズムを舞台にいち早く復活した。続いて高度経済成長期とよばれる1960年代から1970年代、産業や流通の活性化を反映して広告写真が隆盛となり、その活況と並行し芸術意欲に促された秀逸な写真作品も多く生み出された。ことに1960年代末の若者たちの政治的な反抗や学園紛争が多発した時代には、従来の写真表現にはみられない自己同一性を探る作品も多く制作された。1980年代に入ると日本経済がいわゆるバブル期を迎えるのと相まって、アートとしての写真という概念が広く一般化し、やがて写真を収蔵展示する美術館の相次ぐ出現をみる。また同時に現代美術と写真の関係がきわめて緊密なものとなっていった。この三つの時期をより具体的にとらえ直せば、以下のようになる。
(1)第二次世界大戦後復興期――第二次世界大戦前よりその手腕に高い評価があった木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩は、それぞれ戦時下で軍政にプロパガンダ(宣伝)写真の制作を強要された苦い経験を自ら克服し、新しい姿勢で写真活動に復帰した。木村は洒脱(しゃだつ)な作品を雑誌『アサヒカメラ』などを舞台に発表し、土門は自らアマチュア写真を指導するとともに、グラフ・ジャーナリストの信を問う「絶対非演出」のリアリズム写真の制作に励んだ。また濱谷は戦中の疎開先で撮影した『雪国』(1956)を発表、日本人の暮らしの美学を示した。戦後の出版ブームに歩調をあわせた林忠彦(ただひこ)は俗にいう「カストリ雑誌」でたくましく復興する戦後を描き、秋山庄太郎(しょうたろう)や大竹省二(しょうじ)は新しいファッションや芸能、芸術の世界へと分け入り、三木淳(みきじゅん)は『ライフ』誌のスタッフ写真家として国際的に活躍した。そして1950年代末には前出の写真家たちの次代を担うさらに新しい世代が動き始める。シカゴのニュー・バウハウスで学んだ石元泰博(いしもとやすひろ)の個展(1954)が開かれたり、川田喜久治(きくじ)、佐藤明(あきら)(1930―2002)、丹野章(たんのあきら)(1925―2015)、東松照明(とうまつしょうめい)、奈良原一高(ならはらいっこう)、細江英公(ほそええいこう)が自主的な制作活動の拠点としてのグループ「VIVO(ビボ)」を結成(1959)し、全員が活発な写真表現を展開するなど、いずれも後進に大きな影響を与える。
(2)高度経済成長から自我の模索の時代へ――1960年代には、日本の国際社会復帰の証(あかし)である東京オリンピックの開催を契機に、外来の新しい文化が堰(せき)を切ったように流入し、印刷技術の飛躍的な向上も手伝って、ファッション性豊かな雑誌が次々と創刊された。そうした雑誌では、立木義浩(たつきよしひろ)、篠山紀信(しのやまきしん)、横須賀功光(よこすかのりあき)(1937―2003)、早崎治(1933―1993)らが活躍。またテレビ時代に突入したとはいえ、なおも社会的な影響力を大いにもっていたグラフ・ジャーナリズムの面では、『岩波写真文庫』で名取洋之助に鍛えられた長野重一(しげいち)が秀逸な作品を生み、富山治夫(とみやまはるお)(1935―2016)は風刺のきいた時評写真を撮り、桑原史成(くわばらしせい)(1936― )と英伸三(はなぶさしんぞう)(1936― )は社会の現実、ことに底辺の現実へ鋭いまなざしを注いだ。この時代はまたアメリカのロバート・フランクやパリのウィリアム・クラインに触発されて人間の運命や自我の本質を問う作品、都市とその生命感のダイナミズムを問う作品も制作されるようになる。こうした流れのなかで、高梨豊(たかなしゆたか)、中平卓馬(なかひらたくま)、森山大道(だいどう)らは『プロヴォーク』(「挑発」の意)を1968年に刊行、若者を中心に自己同一性追求を軸とする新しい写真意識の世代層が形成されるに至った。この世代は、雑誌『カメラ毎日』に紹介されたアメリカの同時代写真家展のタイトルと呼応してコンポラ(コンテンポラリーcontemporaryの略)写真家といわれ、その活動と影響は1970年代を貫通し、1980年代にまで至るのである。
(3)バブル期から模索の時代へ――1980年代にはコンポラの余波を残しながらも、日本写真界は新たな展開期に突入する。出版文化は盛況で写真家の活躍の場は多く、また大都市では、カメラ、写真感光材料メーカーの設けたギャラリーが写真作品発表の場として活況を呈した。1970年代末に現れた、写真作品を絵画作品同様、芸術品として展示販売するツァイト・フォト・サロン(1978年創立)やフォト・ギャラリー・インターナショナル(PGI。1979年創立)などは、印刷メディアから写真作品を独立させ、写真家の意識を変革させる一助となり、そうした動きは、写真美術館の設立を求める気運となって、1980年代末以降、川崎、横浜、東京などに相次いで写真部門をもつ美術館が開館した。なかでも1992年(平成4)に開館した奈良市写真美術館は古都の美を撮り続けた入江泰吉(いりえたいきち)の記念館であり、酒田市の土門拳記念館に続く写真家個人をたたえる施設として設けられた。こうした時代には鑑賞性の高い写真が好まれ、植田正治(しょうじ)や杉本博司(ひろし)、柴田敏雄(しばたとしお)らは完成度の高い作画力とユニークな視点で、内外で高く評価された。そして1980年代、1990年代を貫いてもっとも際だったのは荒木経惟(のぶよし)である。彼はその旺盛(おうせい)な制作活動と展示、出版で、都市、エロス、死生観を世に問い、「アラーキー」の異名とともに現代日本を代表する写真家となった。さらに現代美術と重なり合う写真表現の場が目覚ましい成果を示したのもこの時代である。自身の変幻を写真にする森村泰昌(やすまさ)(1951― )はその代表であり、国際的な名声を博している。また写真機材の低廉化もあって若い女性と高齢者の写真ファンやアマチュアが増加するのが1990年代であり、HIROMIX(ヒロミックス)(1976― 。本名利川裕美(としかわひろみ))、蜷川実花(にながわみか)(1972― )ら若い人気女性写真家も登場した。1990年代末からはデジタル技術の応用が写真界全般に浸透し、写真の実体的な概念が大きく変わりつつある。
[重森弘淹・平木 収]
『重森弘淹著『写真芸術論』(1967・美術出版社)』▽『『写真大百科事典』全10巻(1981~1982・講談社)』▽『『世界写真全集』全12巻(1982~1984・集英社)』▽『日本写真家協会編『日本写真史1840―1945』(1983・平凡社)』▽『『日本写真全集』全12巻(1985~1988・小学館)』▽『伊藤俊治著『20世紀写真史』(1988・筑摩書房)』▽『セゾン美術館・山岸享子編『世界芸術写真史 1839―1989 W・H・フォックス・タルボットからシンディー・シャーマンまで』(1990・リブロポート)』▽『飯沢耕太郎著『日本写真史を歩く』(1992・新潮社)』▽『大島洋編『写真家の誕生と19世紀写真』(1993・洋泉社)』▽『ナオミ・ローゼンブラム著、大日方欣一他訳『写真の歴史』(1998・美術出版社)』▽『日本写真家協会編『日本現代写真史1945―95』(2000・平凡社)』▽『ジル・モラ著、青山勝他監訳『写真のキーワード――技術・表現・歴史』(2001・昭和堂)』▽『ジャン・A・ケイム著、門田光博訳『写真の歴史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『小久保彰著『アメリカの現代写真』(ちくま文庫)』▽『ヴァルター・ベンヤミン著、久保哲司訳『図説 写真小史』(ちくま学芸文庫)』