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デジタル大辞泉
「前田河広一郎」の意味・読み・例文・類語
まえだこう‐ひろいちろう〔まへだかうひろイチラウ〕【前田河広一郎】
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前田河広一郎
まえだこうひろいちろう
[生]1888.11.13. 宮城,仙台
[没]1957.12.4. 東京
小説家。中学校を中退,1905年上京して徳冨蘆花に師事。1907年アメリカ合衆国に渡り,労働生活を送りながら,合間に小説や評論を書いた。1920年に帰国。雑誌『中外』の編集に携わり,同誌に初期プロレタリア文学の傑作『三等船客』(1921)を発表,文壇で反響を呼んだ。1923年に文芸雑誌『種蒔く人』の同人となり,以後『赤い馬車』(1923),『麺麭(パン)』(1923)を発表。翌 1924年『文芸戦線』同人となり,評論を書く一方で長編『大暴風雨時代』(1924)を発表,初期プロレタリア文学の代表作家となった。ほかに,評論集『十年間』(1930),伝記文学『蘆花伝』(1938)などがある。
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まいだこひろいちろう【前田河広一郎】
1888‐1957(明治21‐昭和32)
小説家。宮城県生れ。県立一中を中退し,1905年上京。徳冨蘆花の紹介で石川三四郎の新紀元社に入社。07年に蘆花の後援で渡米,シカゴで皿洗い,ボーイ,外交員,庭師など数種の職業に従う。在米中社会主義者金子喜一を識り,その妻の主宰する雑誌に英文で小説を発表。20年帰国。雑誌《中外》の編集長となり,21年同誌に短編小説《三等船客》を発表し初期プロレタリア文学の作家として注目された。以後《種蒔く人》の同人となり,さらに《文芸戦線》の中心的な一人として活動し,在米日本人の移民生活を好んで素材として小説を書く。
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「前田河広一郎」の意味・わかりやすい解説
前田河広一郎【まいだこひろいちろう】
作家,評論家。仙台生れ。徳冨蘆花に師事。その後援で渡米,1920年帰国。雑誌《中外》発表の《三等船客》で初期プロレタリア文学の代表作家の一人となった。《種蒔く人》同人。《文芸戦線》創刊に参加。長編《大暴風雨時代》,評論集《十年間》,評伝《蘆花伝》など。
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前田河広一郎 まえだこう-ひろいちろう
1888-1957 大正-昭和時代の小説家。
明治21年11月13日生まれ。徳冨蘆花(ろか)に師事し,その援助で明治40年渡米。大正10年「三等船客」を発表し,のち「種蒔(ま)く人」「文芸戦線」の同人となり,初期プロレタリア作家として活躍。昭和32年12月4日死去。69歳。宮城県出身。著作に「十年間」「蘆花伝」など。
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世界大百科事典内の前田河広一郎の言及
【前田河広一郎】より
…小説家。宮城県生れ。県立一中を中退し,1905年上京。徳冨蘆花の紹介で石川三四郎の新紀元社に入社。07年に蘆花の後援で渡米,シカゴで皿洗い,ボーイ,外交員,庭師など数種の職業に従う。在米中社会主義者金子喜一を識り,その妻の主宰する雑誌に英文で小説を発表。20年帰国。雑誌《中外》の編集長となり,21年同誌に短編小説《三等船客》を発表し初期プロレタリア文学の作家として注目された。以後《種蒔く人》の同人となり,さらに《文芸戦線》の中心的な一人として活動し,在米日本人の移民生活を好んで素材として小説を書く。…
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