改訂新版 世界大百科事典 「劉師培」の意味・わかりやすい解説
劉師培 (りゅうしばい)
Liú Shī péi
生没年:1884-1919
中国,清末・民初の学者,革命家。江蘇省儀徴県の人。字は申叔,号は左盦(さあん)。《春秋左氏伝》を家学とし,清朝考証学の有力な学派を形成した揚州学派の復興を志した。1903年(光緒29)上海で章炳麟(しようへいりん)らと知り,民族革命にめざめ光漢と改名し,《攘書》等の革命パンフレットを出版した。04年《警鐘日報》の主筆となり,光復会に加入するとともに,05年には《国粋学報》の同人となり,国学の発揚に力を尽くした。《警鐘日報》発禁後,蕪湖に逃れ皖江(かんこう)中学で教鞭をとるかたわら,《白話報》を発刊した。07年初め日本に亡命,中国同盟会に加盟して機関誌《民報》に論陣を張ったが,孫文の革命方式に懐疑的となり無政府主義に傾斜し,同年6月ごろ妻の何震と《天義》を創刊した。〈人類均力説〉などユニークな論説を展開する一方,社会主義講習会,亜州和親会を組織して,日本の社会主義者とも交わり国際連帯を模索した。08年,中国のアナーキズム雑誌の先駆をなす《衡報》を創刊したが,両江総督の端方に買収されて浙江の革命党人を売り,その幕客となった。11年四川の資州で端方が部下に殺された後,成都に逃れ四川国学院に奉職。辛亥革命ののちは太原で閻錫山(えんしやくざん)の顧問を務めたり,籌安(ちゆうあん)六君子(ほかに楊度,厳復,孫毓筠(そんいくいん),胡瑛,李燮和(りしようわ))の一人として袁世凱の帝制を擁護したりして初期の革命家のおもかげはない。17年蔡元培によって北京大学教授に招聘されたのち,五・四の新文化運動に対抗して《国故月刊》を創刊したが,まもなく没した。革命家としてはその晩節を汚した劉師培であったが,伝統学術の面では,経学等の諸学に後世に残る業績をあげ,それらは《劉申叔先生遺書》に収められている。
執筆者:森 時彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報