その主要な生産工程に化学反応が利用される工業。鉄鋼産業などの金属冶金(やきん)部門も化学反応がおもなものであるが、化学工業には含まれない。
[馬場政孝]
化学工業は社会的再生産構造のなかで基礎材料、中間材料を生産することが中心的な事業内容である。石炭化学工業や石油化学工業というように出発原料から分類することもあり、また電気化学工業、発酵化学工業、有機合成化学工業のように、基礎となっている技術を基準として、あるいは硫酸工業、ソーダ工業、アンモニア合成工業、油脂工業、皮革工業など、つくられる製品から分類される場合もある。このように化学工業全体を分類する統一的な基準というものはない。
化学工業の最大の消費者は化学工業自身であるといわれるように、ある部門でつくられた基礎材料は他の部門で中間材料に加工され、それらはさらに最終製品となる。基礎材料製造部門としては、石炭乾留工業(おもな製品はコークス、タール)、電解・電炉工業(水素、塩素、ソーダ、カーバイド)、ナフサ分解工業(エチレン、プロピレン)がある。ここで得られた基礎材料は次の中間材料部門の原料となる。中間材料部門としては、アンモニア合成工業(アンモニア)、メタノール工業(メタノール、ホルマリン)、石炭系有機合成工業(アセチレン、ベンゼン、アントラセン)、ソーダ工業(カ性ソーダ、ソーダ灰)、石油系合成化学工業(多くのオレフィン系炭化水素)、硫酸工業がある。ここでつくられたものが今度は、化学肥料工業、プラスチック・合成ゴム工業、紙パルプ工業、染料工業などの最終加工部門の原料となり、ここでの製品が化学工業の最終製品として市場に供される。このように、基礎材料製造部門、中間材料製造部門、最終製品加工部門の区別を基礎とする分類法もある。
[馬場政孝]
(1)機械工業ではプレスや切削など物質の形を変える作業がおもであり、そのために機械が使用されるが、化学工業では物質の性質を変える化学的過程が主要な工程であるから、ここに用いられる労働手段は装置である。
装置というのは、物質を受容する容器と、物質になんらかの物理的操作を加える機構とからなるのが一般的である。物理的操作というのは、粉砕、攪拌(かくはん)、蒸留、蒸発、乾燥、混合、晶出などであり、化学工学では単位操作とよばれている。このような単位操作を行う機構と物質の受容体である容器とが結合して機構的容器たる装置がつくられ、これらがパイプラインで結合されて装置体系を構成し、化学工場の技術的骨格をなしている。
(2)化学工業では、原料は化学変化を受けて生産物に転化するが、このとき複数の副産物が同時に生産される場合が多い。これらの副産物は経済的に価値あるものが多く含まれ、これらを主生産物とともに総合的に利用することが生産コストを引き下げるうえでたいせつな意味をもってくる。数種の生産物がそれぞれ異なった化学工業の原料になるから、これらの異種生産部門間の結合、いわゆるコンビナートがいわば技術的必然として現れる。たとえば、石油化学工業でその出発点をなすナフサ分解では、原料ナフサ(粗ガソリン)は熱分解されてエチレンに転化するが、エチレンの収率は普通20~30%で、あとはプロピレン、ブタジエン、メタン、エタン等が副産される。したがってナフサ分解装置があるエチレン・センターには、プロピレンやブタジエンなどを原料とする化学工場が相互にパイプラインで結合されて隣接し、コンビナートを形成しているのが一般的である。
(3)新製品、新製法というような化学技術の開発がひととおり終わった段階では、その後の技術の発展の方向は、装置の生産性の向上=大型化として実現される場合が多い。生産規模の大型化は生産設備の建設費の相対的な低下をもたらし、ひいては生産コストの低下となり、いわゆるスケール・メリットを生み出す。一般に、反応物質を受容する容器の規模が2倍になれば建設費は1.6倍ですむといわれる(0.6乗の法則)。たとえば、エチレンのコストは年産4万トン・プラントで単位当り2とすれば、10万トン・プラントで1.3であるのに対し、30万トンの大型プラントでは1ほどになるといわれる。
このような大型化は、ナフサ分解装置、アンモニア合成装置において典型的に現れた。このような巨大装置は、巨大であるゆえに小さなきずや漏洩(ろうえい)がプラント全体の運転休止、爆発の原因となり、大きな経済的損失、災害をもたらす危険性をはらんでいる。
(4)化学工業で扱われる原料は一般にガス、液体、粉体などの流体が多く、これらが装置から装置へパイプラインを通じて送られて連続的に処理されてゆく。この工程は比較的自動的に制御しやすく、化学工業のプロセス・オートメーションは、機械工業におけるオートメーションに歴史的に先んじて実現された。このような自動化された生産過程では、直接的労働はおもに計器類の監視労働と装置類の保全労働であり、労働量はきわめて少ない。大規模な自動化された化学工場では固定資本が大部分を占め、資本の技術的構成が高いといわれるゆえんである。工場の建設には莫大(ばくだい)な費用がかかるから、巨大な資本を背景にした独占企業が君臨することとなり、資本系列による支配が行われる。
(5)近代化学工業は、科学としての近代化学に基礎を置いて発達してきたものであり、化学工業部門は電気工業部門と並んで研究開発に依存する傾向がとくに強く、革新的な新製品、新製法の開発によって企業間、国家間の激しい競争が展開されてきた。各企業における研究開発費の、総売上高に占める割合は3~5%にもなり、絶対額、研究者数においても機械工業などを大きく引き離している。
新技術の開発は顕著な創業者利潤をもたらす。その利益を研究開発に投入し、次の新技術を生み出して巨大な独占体を形成してきたのが世界化学工業の歴史である。合成染料やアンモニア合成、合成石油のBASF(ドイツ)、ポリエチレンのICI(イギリス)、ナイロンのデュポン社(アメリカ)などの巨大独占体の形成の歴史は研究開発の歴史そのものである。
[馬場政孝]
近代的化学工業は産業革命時における酸・アルカリ工業とともに出発した。
イギリスの産業革命では、当初、綿糸生産部門で機械化がおこり、この部門の生産性が著しく高まった。綿糸が綿布に仕上げられるためには、漂白、染色という化学的工程を経なければならないが、この工程は天然の物質を使用し、生産性がきわめて低く、多くの日数を要するものであった。漂白の場合、木草灰を溶かした溶液に布を浸すアルカリ処理、天日晒(さら)し、酸敗ミルクによる酸処理、せっけん洗滌(せんでき)を繰り返すのであるが、綿布の場合100日ほどを必要とした。やがて酸敗ミルクにかわって希硫酸が有効であることがみいだされ、硫酸の需要が増大した。硫酸は、従来は錬金術師の需要にこたえるためにガラス容器によって細々とつくられたが、18世紀前半にイギリスのジョン・ローバックにより鉛室法が導入され、しだいに大量に安価に生産されるようになった。無機薬品の大量生産の始まりである。ソーダも食塩より合成する方法(ルブラン法)が開発され、19世紀に木草灰の欠乏に悩むイギリスで普及した。テナントが発明したさらし粉(塩素を石灰に吸収させたもの)が使用されるに及んで、漂白工程は数か月を要したものが数日で済むようになった。ソーダは、19世紀なかば、石炭乾留時の副生アンモニアを利用するソルベー法(アンモニアソーダ法)が開発され、ドイツを中心に普及した。このように繊維の漂白工程と関連して、硫酸とソーダを中心とする無機薬品工業が成立し、化学工業の近代化の導水路となった。
染色においても、長い間インドアイ、セイヨウアカネ、ハリグワなどの天然染料が用いられてきたが、これらは生産量が少なく、高価で、しかもインドアイはイギリスに独占されていた。しかし19世紀後半にドイツのBASF(バーディシェ・アニリン・ウント・ソーダ・ファブリク社)、ヘキスト社によって、アカネ、インドアイと同じ化学構造をもつアリザリン、インジゴ等の合成染料が開発され、コールタールから得られるこれらの合成染料は一気に天然のものを駆逐してしまった。ドイツにおける合成染料の開発は、近代化学とりわけユストゥス・フォン・リービヒによって展開された近代有機化学の理論、実験的方法を基礎としており、石炭を原料とし、科学に基礎を置き、装置等の工場設備群を有する近代化学工業の新しい性格を明瞭(めいりょう)に示すものであった。
20世紀に入ると、BASFでは合成染料の成功によって得た利益を投じてハーバー‐ボッシュ法による空中窒素固定(アンモニア合成)を開発し、高圧技術や触媒技術に新地平を開いた。さらにフィッシャー‐トロプシュ法やベルギウス法による石炭液化が研究され、イー・ゲー・ファルベン社のもとで実現された。
他方、ドイツのヘルマン・シュタウディンガーによって高分子の概念が確立されると、石炭を原料とするカーバイド・アセチレン系の高分子合成技術が新たに発足し、合成ゴム、合成繊維、合成樹脂の開発が行われるようになった。ドイツでは、アセチレンに一酸化炭素、エチレン、水素、青酸、アンモニアなどを反応させることによって、ブタジエン、アジピン酸、カプロラクタム、アクリロニトリル、テレフタル酸などの高分子合成用の原料を製造する方法(レッペ法)が開発され、石炭化学技術体系はほぼ完成の域に達した。しかし、第二次世界大戦後の化学工業は石炭から石油への原料転換が行われ、石油化学工業が全面的に展開するようになった。アセチレンにかわってエチレンがもっとも基本的な出発原料となり、これから合成繊維、合成ゴム、プラスチックスの製造に必要な中間原料がつくられるようになった。
[馬場政孝]
日本の化学工業の出発は、貨幣や紙幣の製造に必要な無機化学薬品を製造する官営の硫酸工場、ソーダ工場の創設とされる。政府は1871年(明治4)大阪造幣局に鉛室法硫酸工場、1880年、紙幣寮(後の大蔵省印刷局、2001年財務省印刷局をへて2003年4月より独立行政法人国立印刷局)にルブラン法によるソーダ工場をイギリス人技術者の指導のもとに建設し、外国技術の移植によって日本の近代化学技術がスタートした。硫酸は造幣局内だけでなく、中国への輸出、東京人造肥料における過リン酸石灰の製造に供され、農業の生産性向上に重要な役割を果たした。
この時代のもう一つの重要な部門は、火薬、爆薬製造である。近代国家形成のための軍事的要請から軍工廠(こうしょう)における自給自足的な火薬製造が課題となり、外国技術の導入を図りながら、1893年海軍におけるピクリン酸系の火薬(下瀬火薬(しもせかやく))、1894年陸軍による無煙火薬の製造の成功など自立化が着々と進んだ。
日本の化学工業は無機薬品の製造から出発したのであったが、しだいに化学肥料部門が特別に肥大化する傾向が現れてきた。イギリスのそれが産業革命における繊維産業と関連した酸・アルカリの需要を満たすものとして、またドイツの場合、合成染料とともに発展してきたのに対し、このような傾向は日本化学工業史の特異な発展形態とみることができる。それは、化学肥料の投入による農業生産力の発展が工業部門の資本蓄積の源泉となった日本産業史の特殊性を背景としている。
明治末期、水力発電の開発が進み、未利用の電力によるカーバイド製造が始められ、野口遵(したがう)は1908年(明治41)に石灰窒素をつくる工場(日本窒素肥料=日窒、現チッソ)を水俣(みなまた)に稼動させた。石灰窒素を変成硫安とすることで農業に大きな市場をみいだし、第一次世界大戦で輸入硫安が途絶したことで野口らは莫大な利益を蓄積し、新興財閥としてその後合成アンモニア、人絹工業へ進出して成功を収める足場を築いた。
他方、三井、三菱(みつびし)などの財閥系資本は、石炭を基礎にコークス製造、都市ガス製造に進出し、明治30年代にはタール分留による有機化合物の製造に着手した。
第一次世界大戦は、主要な基礎化学製品をヨーロッパからの輸入に依存していた日本の化学工業に大きな衝撃を与えた。1914年(大正3)に政府は、ソーダ工業、タール分留精製、電気化学の3業種を重要部門として推進する方策を出した。ソーダ工業ではルブラン法にかわってソルベー法、電解法が導入され、合成染料では硫化染料、アリザリンなどを製造する大小さまざまな合成染料メーカーが出現した。アンモニア合成では日窒がいち早くカザレー法を導入し、この部門は第二次世界大戦後、石油化学工業が登場するまでの期間、日本の化学工業で最重要のものとなった。
第一次世界大戦終了後の戦後恐慌、外国からのダンピング攻勢によって大きな打撃を受けたが、こうしたなかで新たに人絹工業がおこり、東南アジア市場を背景に生産は飛躍的に伸びた。人絹工業は新興の日窒、鈴木商店によっておこされ、1938年(昭和13)には硫安とともに世界一の生産高に達した。
財閥系も石炭コンビナートの建設を進め、日窒、日曹、森、日産などの新興コンツェルンを中心に展開されていた化学肥料、アンモニア合成の部門へも1935年以降進出して、それらを凌駕(りょうが)する地歩を築いた。
太平洋戦争期になると化学工業は急速に軍事化し、同時に生産は、輸入原料や資材の不足、国内民需市場の縮小、空襲による被害などのため大幅に減少していった。アンモニア合成の高温・高圧技術を生かした人造石油の開発も日窒や満鉄によって試みられたが、みるべき成果も出ずに終わった。
[馬場政孝]
廃墟(はいきょ)と化した戦後日本の化学工業は、食糧増産と結び付いた化学肥料、とりわけ硫安の生産、したがってアンモニア合成の再建から始まった。戦後の化学工業の展開は、およそ次のような節目を設けて区分することができる。
(1)1945~1950年 戦後復興―アンモニア合成の再建
(2)1951~1955年 電気化学の再建、石炭系有機化合物の生産、合成繊維の生産開始、アンモニアのガス源転換
(3)1956~1960年 石油化学工業の勃興(ぼっこう)(第一期石油化学計画)
(4)1961~1965年 石油化学工業の発展(第二期石油化学計画)、原料・プロセスの転換
(5)1966~1970年 エチレン・プラント、アンモニア合成装置の大型化、公害の激化
(6)1970年代 不況への対応
(7)1980年代 ヘビー・ケミカルの再構築とファイン・ケミカルの成長
(8)1990年代 スペシャリティ・ケミカルの多品種少量生産化
(9)2000年代以降 模倣から創造への転換
戦後化学工業の発展はドラスティックであり、原料、製品、製法、生産規模、生産設備のどれをとっても以前のものとは大きくさま変わりし、社会的インパクトも深刻であった。この過程は、総合石油化学工業の登場に集中的に現れた。その技術的特徴は、戦前におもにドイツとアメリカで誕生し発展していた高分子合成技術の導入によって、新製品としての合成繊維、合成ゴム、プラスチックスが石油を原料に大量に生産されるようになったことである。石油化学技術が登場する1955年以前では、電気化学、石炭化学、アンモニア合成が化学工業の中心であり、原料および基礎・中間製品の総合利用を目的に形成されていたコンビナートもそのようなものであった。しかし石油精製ガスやナフサ留分を原料とする高分子合成技術が導入されるに及んで、化学工業の中心は短期間に石油化学へ全面的に移行し、製品も、硫安、石灰窒素等の化学肥料、人絹などから、プラスチックス、合成繊維などへ転換し、社会の再生産構造や人々の生活に大きな変化を呼び起こした。このような変化を与えた化学技術はそのほとんどを外国技術に依存し、技術があれば参入できる条件をつくりだし、結果として激しい競争を強いられることとなった。
1960年代後半から1970年代にかけて、公害・環境問題、構造不況、オイル・ショックの直撃を受けるに至り、技術革新も底をついて化学工業は停滞するようになった。
1971~1972年の統計では、硫酸、ソーダ、アンモニア、エチレンなどの基礎化学薬品、プラスチックス材料、化学肥料の代表的な最終化学製品の生産量は、いずれもアメリカに次いで世界第2位であった。これは、石油化学技術の導入以後の激しい価格競争による合理化、装置の大型化の結果である。しかし、日本の場合、化学工業の急成長は、合成繊維、自動車、家庭電気機器などの他産業の高度成長期における生産増加を背景としており、これら諸部門に素材を提供する関係にあった。したがって年産30万トン級のエチレン製造装置、日産1500トンのアンモニア合成装置に代表される巨大装置による大量生産は、成長率の鈍化とともに過剰生産となり、ヘビー・ケミカルを中核とした化学工業は過剰設備を抱えて構造不況業種に定着してしまった。加えて巨大装置の相次ぐ爆発事故、公害問題、石油値上げにみまわれて、高度成長期の花形産業の一つであった石油化学工業も生産を減退させざるをえなくなった。
この間の化学工業における技術革新は、その主要なもののほとんどすべてが外国技術の導入によって実現されてきたわけで、欧米各国にめぼしい革新的技術がなくなると、日本の化学工業も技術革新をてこに新たな展開を図ることが困難になった。
日本は確かに外国技術の導入によって各種の化学工業製品を大量に安価に生産する体制を確立することはできたが、日本でしか製造できない創意的な高品質のものは、この段階では数少ない。そういう製品は、独創的な研究開発によることはもちろんであるが、国民の生活の仕方、文化の水準からの要求によるところも大きい。大量使い捨てを前提とした大量生産というのはもはや過去のものであり、個性的な、多様な、豊かな国民諸個人の生活に対応した、新たな化学工業の展開が望まれるようになった。
[馬場政孝]
この時期は、ヘビー・ケミカルの再構築とファイン・ケミカルの伸長によって特徴づけられる。
1970年代の二次にわたるオイル・ショック(1973年、1979年)や公害問題への対応によって、大型設備を有する素材型化学品製造を中心とする化学工業は大きな打撃を受け、アンモニア製造設備の廃棄、エチレンプラントの縮小や生産集中などを実施して国内生産体制の再編成が行われる一方で、化学工業の内部で加工型化学品を中心とする部門が伸長してくるようになった。
1980年代に従来の素材型化学品の部門では設備の縮小と高効率化・再活性化に向けた企業努力が注がれた。たとえば、石油化学工業の基幹部門であるエチレン製造では、32基あったエチレンプラントがこの過程で14基に減少している。同時に、自動車やエレクトロニクスなどの加工組立産業の発展を背景に、多様化し高級化した需要が素材型加工品の分野にも波及し、これに対応して高機能素材産業への転換が進行して従来からの重厚長大型の構造不況産業からの脱皮が図られた。
他方、素材型化学品に比較して付加価値率と収益が高い加工型化学品のシェアが拡大し、化学工業の成長を牽引(けんいん)するようになった。加工型化学品は、従来の医薬品、印刷用インキ、せっけん・洗剤、化粧品、写真感光材、塗料など多品種の消費財に加え、産業構造の高度化や国民生活の多様化に対応して新たに開発されたファイン・ケミカル、スペシャリティ・ケミカルを含む。これら高付加価値製品群の開発には多額の研究開発費の投入が必要となる。化学工業はヘビー・ケミカルから高収益のファイン・ケミカルへ重点を移すとともに、それによって得られた資金を研究開発に投じ、新技術、新製品を創出して、変容を遂げていった。1980年代末以降、研究開発費は電気機械工業に次ぐ位置を占めるようになり、長い間、外国技術に依存していたこの産業において技術的自立への道が開かれた。技術貿易では、従来は大幅な入超であったものが、輸出入がほぼ均衡するようになり、新素材などの先端部門では欧米企業に対して強い競争力をもつようになった。このような流れは、1980年代に日本の自動車、マイクロエレクトロニクス、電気機器、精密機械などの高度組立加工品が世界市場で強力な競争力を発揮し、強固な技術基盤を築いていった動きと軌を一にしている。
[馬場政孝]
日本は第二次世界大戦後の化学工業において、有機合成化学を中心として外国技術に依存し、その導入・模倣によって成長を遂げてきた。合成繊維、合成樹脂、合成ゴムの原料(汎用化学品)、およびその製品の大量生産が中心であった。こうした化学工業は、二度にわたるオイル・ショックによる原油価格高騰、公害問題、景気低迷による需要減退などにより生産縮小を余儀なくされ、設備廃棄を進めざるを得なくなった。そして、化学工業は斜陽産業になったとまでいわれるようになった。しかし、1990年ごろから様相が大きく変化した。医薬品、塗料、化粧品などのファイン・ケミカルに加え、特定の用途に使用されるスペシャリティ・ケミカルの多品種少量生産が前面に出てきた。この新しい動きの背景にあったのはマイクロエレクトロニクス技術が開拓した新しい市場の形成であった。
日本の企業群は、アメリカのインテル社が開発したマイクロプロセッサー(MPU)の可能性にいち早く注目し、それをNC工作機械、電気機器、オーディオビジュアル機器、光学機器、輸送機械などに応用することで、1980年代なかば以降、ハイテクの分野で世界の先頭にたった。ハイテク製品にはさまざまな化学製品の材料が必要であり、それらは高純度、高機能、高性能といった、汎用化学品にはない特殊な性能が求められる。このような特殊な電子材料において日本の化学メーカーは世界をリードする地位にたつようになり、オンリーワン企業が続出するようになった。
半導体製造では、その製造コストのおよそ半分を占めるシリコンウェハー(シリコン単結晶でできた薄い基板)部門で、信越化学工業、SUMCO(サムコ)などの日本企業のシェアが過半を占める。フォトマスク(回路パターンがエッチングされたガラス板)では凸版印刷、フォトレジスト(感光性樹脂)ではJSR(ジェーエスアール)がトップのシェアをもっている。半導体封止材へのエポキシ樹脂の応用は住友化学が開発し、日本化薬が大きなシェアを占める。液晶関係では、液晶ガラス基板で旭化成、液晶テレビ向LEDと赤色蛍光体では三菱ケミカル、偏光フィルムでは日本板硝子(いたガラス)、TACフィルム(偏光膜保護フィルム)では富士フイルム、LCDスピンレス(液晶ディスプレー塗布装置)では東レ、が世界首位である。また、DVD基板材料では帝人、ハードディスクのガラス基板ではHOYA(ホーヤ)、プラズマディスプレー用ガラス基板とフィルターでは旭硝子(あさひガラス)(現、AGC)がトップのシェアを有している。ここにあげたのは大企業のみであるが、中小企業も含めるとこのような例は枚挙にいとまがないほどである。
半導体や液晶の製品生産では韓国、台湾のメーカーの市場占拠率が高いが、それらのメーカーは材料については日本の化学メーカーに依存しているのが実情である。こうした化学工業全体の変容の結果、パソコン、携帯電話、DVD、光学機器などの情報通信分野の完成品に占める割合は3割に満たないにもかかわらず、その材料となると6割を超える状況となった。また、日本の化学メーカーの付加価値額は世界トップとなった。
かつての有機合成化学の製品は、絹や木綿にかわる合成繊維、木材や金属にかわる合成樹脂、天然ゴムにかわる合成ゴムというように、既存天然材の機能代替が中心であった。しかし、近年の電子材料などの化学製品は旧来の機能代替とはまったく異なり、これらは機能が新たに創造されるようになっている。日本の化学工業が「模倣から創造へ」転換した有様をみてとることができる。こうした転換は、ハイテク製品の生産において日本の組立加工サイドが新たな材料、それもきわめて高品質なものを化学メーカー側に求めたことが主因となってもたらされた。化学メーカー側はこのような求めに対して丁寧に対応し、顧客の満足のゆく製品を開発・提供して、両者の有機的連携が生まれた。さらにこれに装置メーカーが加わり、異業種間に「すり合わせ」が行われて実現したものである。
[馬場政孝]
日本の化学工業は21世紀に入って明らかに従来とは違う高い段階へ踏み出した。日本では昔から稽古事(けいこごと)の習得の過程を「守・破・離」と表現してきたが、いまや「離」に進みつつある、とみることもできよう。この段階は模倣から創造への転換である。もはや外国に模倣すべき基本技術があるわけではなく、これからは独自にニーズをくみ取りながら新しい技術を創造してゆかなければならない。異業種間の「すり合わせ」は日本のメーカーの得意技であるから、何よりも目下進行している新しい技術、新しい市場、新しいニーズとの有機的連携が重要となる。
今後の日本の化学工業に求められるおもなものは、
(1)新技術、とりわけ、情報通信技術のさらなる発展に伴う高機能、高性能、高品質の材料の提供、
(2)循環型社会システムの形成に向けた環境問題への対応、
(3)新エネルギー源への対応(電気自動車用電池、太陽光発電)、
(4)ナノテクノロジーの本格的展開への対応、
などである。
情報技術は今後もいっそう発展してゆくものと思われるが、それに伴って超微細加工技術の進化が必須のものとなる。半導体加工技術において、素子間の結線の線幅はサブミクロンからナノメートルの領域に踏み込むことが予想され、このためにカーボンナノチューブの利用が検討されている。
カーボンナノチューブは、網目状の炭素原子が筒状になったもので、直径はナノメートル単位である。日本の物理・化学者の飯島澄男が、1991年にフラーレン(C60)の研究過程で発見したもので、電気をよく通し、抵抗が小さく、断線がない、といった性質から、金属にかわるLSI(半導体集積回路)のさらに微細な結線材として期待される。
カーボンナノチューブは他のナノテクノロジーの素材と同様、いまだ実用の域には達していないが、鞭毛(べんもう)モーター、マイクロマシンなどのナノバイオテクノロジーとともに有望な新技術であり、これらの発展は化学工業の様相を一段と変え、社会の変化にも通じる大きな可能性を秘めている。ナノテクノロジーを駆使してナノファイバーやナノ積層フィルム、ナノアロイ樹脂なども開発されており、極限の特性をもったこれらの新素材は衣料用、医療用、環境関連、電子材料、自動車用と応用範囲は広い。かつて、MPUの開発・応用が電気機器だけでなく、光学機器、輸送用機器を変え、ひいては社会の情報環境を根本から変えたように、それは大きな影響を与えるものと考えられる。
[馬場政孝]
『渡辺徳二著『化学工業』(1972・日本評論社)』▽『中山伊知郎・有沢広巳監修、渡辺徳二編『戦後日本化学工業史』(1973・化学工業日報社)』▽『飯島孝著『日本の化学技術』(1981・工業調査会)』▽『山本勝巳著『化学業界』(1990・教育社)』▽『化学工業日報社編・刊『戦後50年 化学工業の軌跡と未来』(1995)』▽『化学工学会SCE・Net編『進化する化学技術――オンリー・ワン技術への挑戦』(2003・工業調査会)』▽『日本化学工業協会編・刊『グラフでみる日本の化学工業2010』(2010)』▽『渡辺徳二・林雄二郎著『日本の化学工業』第4版(岩波新書)』
化学工業は,おもな工程に化学変化を利用する製造業である。化学変化には,合成,分解,交換,重合,発酵などがある。この観点からすれば,粘土などを焼結させる窯業も,鉱石を還元して金属をとり出す冶金工業も,発酵を利用する醸造業も化学工業の一種といえる。また人間の生活に化学変化が利用された歴史をさかのぼると,陶器や酒類や金属などの生産にゆきあたる。しかし最近では,これらはおのおの独立した産業として扱われ,一般には化学工業には含まれない。通産省の《工業統計表》では,化学工業は以下の産業から成り立っている。すなわち,化学肥料製造業(化学工業総出荷額の1.4%),無機化学工業製品製造業(6.4%),有機化学工業製品製造業(34.0%),化学繊維製造業(3.8%),油脂加工製品・セッケン・合成洗剤・界面活性剤・塗料製造業(4.6%),医薬品製造業(25.7%),化粧品製造業(6.4%),その他の化学工業(17.8%)となっている。以上合計で,総出荷額は,23兆3625億円,製造業の7.6%を占め,また,従業者数でみても39万人,製造業の3.8%を占めている(1995)。ところでこの分類は,必ずしも統一された基準に基づいていない。そこで,原料や製造技術,製品の化学的組成,加工度,需要分野などの違いによる分類もなされる。たとえば,原料による分類には石油化学,石炭化学,天然ガス化学工業などがあるし,製造プロセスによる分類には発酵化学,電気化学工業などがある。また製品の加工度によって,素材型化学と加工型化学工業(ファイン・ケミカル)とに分けたりする。素材型化学工業と加工型化学工業は,出荷額でみると,ほぼ半分ずつであるが,90年代に入りファイン・ケミカルが上回る傾向にある。以上の分類は,互いに重複している部分もあり,必要に応じて使い分けられている。
化学工業のうち素材型化学工業(石油化学,アンモニア,ソーダ工業など)の製品は,中間財であることが多く,製品の差別性に乏しい大量生産品であるのに対し,加工型化学工業(医薬品,化粧品,染料,塗料,農薬工業など)は,細かな用途に応じた多様な製品を生産している。前者は,大規模な装置を必要とし,操業度を高めることが企業経営上重要であるのに対し,後者では,新製品開発力やきめ細かい販売政策などが経営上重要である。
科学技術を人間の生活に利用した歴史は原始時代にさかのぼるが,近代的な意味での化学工業が発達したのは,産業革命を経て18世紀末になってからである。その歴史は大きく四つの時代に分けることができる。すなわち,(1)イギリス,フランスを中心として酸・アルカリ工業が成立した時期(18世紀後半),(2)ドイツを中心に染料の合成から始まった石炭・タール系有機合成化学工業の成立期(19世紀),(3)アメリカを中心に石油・天然ガスを原料とする高分子化学工業が発達した時期(20世紀前半),(4)石油化学工業の発達した時期(20世紀後半)である。
1760年代に始まるイギリスの産業革命によって繊維工業が急成長したため,18世紀後半には漂白工程の能率向上と漂白剤の安定入手が求められた。繊維の漂白は,それまで,海藻や木炭などの灰汁に浸し,天日にさらし,それから酸敗ミルクで中和するという方法であったが,この時代にはソーダと硫酸が使われるようになった。硫酸は,1749年にイギリスのJ.ローバックが硫黄を原料として鉛室を用いる方法(鉛室法)で大量につくることに成功し,また91年にはフランスのN.ルブランがルブラン法によるソーダの工業化に成功した(ソーダ工業)。こうして18世紀末には,硫酸とソーダという基礎化学品が工業化されることになった。その結果,ガラス工業やセッケン工業なども発達した。
産業革命は,無機化学工業である酸・アルカリ工業の発展を促したが,他方,製鉄業の発達をとおして石炭,コールタールなどを基礎とする新しい化学工業の誕生をもたらした。18世紀の後半以降,製鉄の燃料としてコークスが用いられるようになった。コークスは石炭を乾留して得られるが,その際に石炭ガスとコールタールが副生する。石炭ガスは18世紀の後半には照明用に使われ,需要が増大した。コークスや石炭ガス需要が増大するにつれ,それまで廃物として取扱いに困っていたコールタールを有効に利用することが考えられるようになった。A.W.vonホフマンを中心にコールタールの分析が進み,芳香族炭化水素であるベンゼンが発見された。1856年には弟子の一人であるW.H.パーキンが,ベンゼンからアニリン染料〈モーブ〉を合成するのに成功した。このようにしてアリザリンの合成にも成功した(1868)。以来,コールタールは,染料,医薬,火薬,合成繊維などの原料となり,合成化学工業を大きく発展させていくことになった。
また18世紀末には硫酸の製造転換が起こった。それまでの鉛室法にかわって,亜硫酸ガスを直接酸素と反応させる接触法が開発され,以後,主流となっていった。この結果,硫酸が大量に安く手に入るようになり,インジゴ染料を工業的に合成することが可能になった。こうした染料をはじめとする合成化学工業では,バスフ(BASF)社などドイツの化学会社が研究開発をリードしていった。イギリスは,タール系の有機合成化学工業(有機化学工業)でドイツに先を越され,さらに硫酸の製造でも接触法が主流となるに及び,世界の主導的な化学工業国としての地位を失うことになった。
第1次大戦から第2次大戦にかけては,高分子化学工業が発達した。この時期には,戦争への準備とブロック経済化への対応が各国の主要課題であり,天然資源を化学的に合成する必要があった。ドイツでは石炭を原料として開発,工業化が進められたが,アメリカでは工業化の段階で石油や天然ガスへの原料転換が進んだ。
ドイツは,植民地が少なく,国内には石炭ぐらいしか主要資源をもたないため,これを活用して多くの天然資源を化学的に合成する必要に迫られた。この結果ドイツは,第1次大戦から第2次大戦にかけて,19世紀に成立したタール工業をいっそう発展させるとともに,新たに窒素化学工業,カーバイド-アセチレン工業の発達に力を入れることになった。当時,窒素の供給源は主として天然のチリ硝石に依存していたが,窒素肥料,火薬を自給するためには新しい製法の開発が必要であった。こうした情勢を背景に,1913年F.ハーバーはBASF社のK.ボッシュらと共同で,工業的に空気中の窒素と水素から直接アンモニアを合成することに成功した。すでに1909年にはアンモニアの接触酸化による硝酸合成法が完成していたので,これを合わせることによって,チリ硝石の輸入に頼らず火薬を生産することができるようになった。また,すでに19世紀末にはアメリカで,電気炉によって石炭と石灰石からカーバイドを大量につくる方式が確立していた。そのころ,カーバイドからは肥料用の石灰窒素をつくる程度であったが,20世紀に入るとドイツでは,カーバイドに水を作用させてつくるアセチレンを原料として有機化学工業が発達した。アセトン,酢酸,塩化ビニル,合成ゴムなどが開発され,工業化されていった。
他方アメリカでは,1920年代に入ると石油,天然ガスを原料とする化学工業がスタートした。アメリカでは自動車が普及しはじめていたので,ガソリンを大量に入手するために石油精製業が発達した。このため,その廃ガスを有効に利用することが必要となり,石油化学工業が発達することとなった。20年には,スタンダード・オイル社がアセトンの原料であるイソプロピルアルコールを廃ガス中のプロピレンから生産した。26年には天然ガスからメタノールを合成する方法が発見され,天然ガスを石油化学原料として使う道が開かれた。30年代に入り有機合成技術が急速に発達するにつれて,石油化学は,それまでの中間工業原料だけでなく,一般大衆を対象とする最終製品の製造も始めるようになった。34年にアライド・ケミカル社の前身であるナショナル・アニリン・アンド・ケミカル社が合成洗剤を発売したのがその初めである。アメリカでは,当初石炭系の原料から出発したものでも,つぎつぎに石油系原料へと転換が進んでいった。
この時期に各国で工業化された高分子化合物には,ポリスチレン(1930工業化),合成ゴム(1932),メタクリル樹脂(1936),塩化ビニル樹脂(1938),ナイロン,高圧法ポリエチレン(ともに1939),ケイ素樹脂(シリコーン。1944),フッ素樹脂(1950)などがある。ナイロンを独自技術で開発したアメリカのデュポン社は,世界化学工業界に確固たる地位を築いた。これらの高分子化合物は,ある点では天然物にまさる性質をもち,第2次大戦中広範に軍事用に使われた。
第2次大戦後は,大戦中に軍事用として開発された技術が民生用につぎつぎと転用されていった。原料ではしだいに石油,天然ガスが主流になり,多くの分野で製法転換が進んだ。この要因の一つは,石油の改質技術が向上したため,従来コールタールから製造されていたベンゼンなどの芳香族炭化水素が石油から,割安に,かつ大量に供給されるようになったことである。この時期には,自動車や航空機用ガソリンのオクタン価向上剤として芳香族炭化水素の需要が高まったため,その収率をあげるために石油改質技術が発達した。なかでも触媒の研究が進み,1949年にはプラットホーミング法が開発された。51年には芳香族炭化水素を溶剤抽出するユーデックス法が完成された。このような一連の技術によって,芳香族炭化水素は容易に入手できるようになったのである。またアセチレンも,天然ガスや石油精製廃ガスの低級炭化水素を熱分解することによって,効率よく生産することが可能になった。なお,石油精製において芳香族炭化水素の収率をあげるために進んだ各種触媒の研究は,その後石油化学工業が発達していくうえで,大いに役立つことになった。
他方,石油資源に恵まれないヨーロッパは,戦後も石炭系の原料を使って,石油化学に対抗するため全力を尽くしたが,ついに石炭系化学工業のリーダーであったドイツにおいても,50年代には石油化学への転換が始まった。このように,戦争による化学工業の崩壊と,石炭化学から石油化学への転換を契機として,化学技術と化学工業の主導権はドイツからアメリカへと移っていくことになった。こうして,既存の化学工業部門で石炭系から石油系への原料転換が進み,さらにポリスチレン,ポリエチレン,ポリプロピレンなど,戦前から開発され一部工業化されていた多くの高分子化合物が,さまざまな用途を開拓し,急成長をとげていった。
戦後の特色の一つは,中進国や産油国で化学工業が発達しはじめた点であろう。これら諸国の工場は,いずれも日本や欧米企業の技術援助や資金援助を受け,78年には世界のエチレン生産能力の約1割を占めるまでになったが,今後も拡大していくと思われる。また80年代にはバイオテクノロジーの研究開発が進みつつあり,今後多くの化学工業分野でこの技術が生かされることになろう。
執筆者:富沢 このみ
ヨーロッパの近代化学工業の発展に対し,日本では第1次大戦まで近代化学工業の発展にみるべきものはなかった。たとえばソーダ工業では,1872年に造幣局で鉛室法によって硫酸が生産され,81年には旧式のルブラン法によるソーダ生産が行われた。しかし,それに先立つ1866年には,ヨーロッパでベルギー人E.ソルベーによってルブラン法よりはるかに優れたアンモニア法が工業化され,74年からはイギリスのブランナー・モンド社がアンモニア法ソーダの本格的生産に入っている。染料工業の立遅れもはなはだしく,第1次大戦まで存在しなかったといってもよい。このなかで重要なのは,1906年に開発された,空中窒素固定法の一つであるフランク=カロー法の特許実施権を08年に日本窒素肥料(現,チッソ)が購入し,翌09年水俣工場の完成で石灰窒素の生産を行ったことである。石灰窒素は施肥技術上の困難もあって肥料としての販売が思うにまかせなかったので,これを蒸気で分解してアンモニアをとり出し,このアンモニアを硫酸と化合させて硫酸アンモニウム(硫安)にして販売された。いわゆる変成硫安である。
ところで,第1次大戦によりドイツからの合成染料の輸入は途絶し,イギリスからのソーダ,硫安の輸入も困難となり,いずれも価格が急騰した。この価格上昇の与えた作用は二面的であった。一つは化学工業企業の族生である。ソーダ工業では,技術独占のあったアンモニア法ではなく,電解法ソーダ工業が勃興した。染料では,中小の硫化染料業者の族生がみられる一方,三井鉱山が16年ごろから合成染料の本命インジゴの生産に取り組んだ。窒素工業でも変成硫安製造企業の新設がみられた。しかし他面では,化学工業におけるヨーロッパとの生産力格差は著しく,新規参入等がありながらも供給は伸び悩み,染料価格は大戦中に10倍にもなり,ソーダも7倍になった。これは日本経済の発展を阻害するものであったから,1915年には染料医薬品製造奨励法が制定され,染料工業の育成政策が開始された。大戦後の20年代には,ヨーロッパ化学工業製品の対日輸出が再開され,ソーダ,染料,窒素という近代化学工業の三大部門のいずれもが,ヨーロッパ化学工業との競争に直面した。ドイツでは25年にBASF社等の染料企業6社が合併して巨大独占体イーゲー・ファルベン社が設立され,イギリスでは26年にブランナー・モンド社を中心に4社合同によってICI社(インペリアル・ケミカル社)が設立された。前者は染料,硫安,後者はソーダ,硫安で輸出依存度を高めながら生産を拡大し,日本はその主要輸出市場とされたのである。
染料では,日本でも前記奨励法によって日本染料製造(現,住友化学工業)に特別保護が与えられ,25年からは染料製造奨励法による保護が与えられた。それ以上に大きいのは,1920年には染料関税の大幅引上げが行われ,通商条約の未締結を理由にドイツ染料の輸入制限を行ったことである。これは28年の日独通商条約締結後には斎藤=ワイベル協定に受け継がれ,ドイツの対日輸出自主規制が行われた。こうした条件下で,30年代初頭には日本染料製造,三井鉱山三池染料工業所(後の三井東圧化学,現・三井化学)等によって合成染料国産のめどが立った。ソーダでは,1920年代前半には保護政策は採用されなかったが,ICI社は天然ソーダとの競争上ソーダ灰価格を引き下げ,また苛性ソーダの価格は高めに保った。このため電力過剰に基づく電力料金の低下もあって,電解法ソーダ工業は命脈を保った。他方,旭硝子等はアンモニア法ソーダの開発を続け,20年代末にはその工業化に成功した。そして29年から4年間,ソーダ工業には奨励金が交付された。硫安工業には政策的保護は与えられなかった。農村の利害が政策を左右する力として強かったからである。しかし技術導入が困難であった合成染料,ソーダと異なり,イーゲー・ファルベン社のハーバー=ボッシュ法の技術導入は困難であったが,カザレー法,クロード法,NEC法等のハーバー法バリアントの導入は容易であった。日本窒素肥料は1921年にカザレー法を導入して延岡で工業化に成功,同地に合成アンモニア・硫安工場(現,旭化成工業の前身)を建設,25年には水俣工場でも同方式の工場を建設し,高利潤をあげた。それは水素生産に電解法を用いたもので,この後に相次いで参入した諸企業も過剰電力を利用したものが多い。したがって,20年代に日本に定着しつつあった化学工業は,電気化学工業としての性格が強かったのである。
31年末の金本位制停止と32年以降の関税改正によって,30年代には化学工業は高利潤をあげて急速に発展した。この時代の特徴は,一方で独占組織が結成されたことであり,他方で電気化学工業から石炭化学工業への展開がみられたことである。32年に成立した電力連盟が設備投資を抑制したこともあって,30年代半ばには過剰電力が解消した。このため,たとえば窒素・硫安工業では水素の生産方法として水性ガス法が利用されるようになった。この過程では,三井,三菱,住友等の傘下に石炭鉱業を有する財閥の進出が目立ち,大牟田,新居浜等に石炭を原料とする化学工業コンビナートが形成された。しかも石炭化学工業は,中間製品のアンモニアと石炭乾留のもたらす関連製品を軸に生産の多角化・総合化を実現していった。そうした総合化の進展は,多くをアンモニア合成の高温・高圧技術に負っている。こうした変化と並行して,30年代には有機化学工業も発展したのである。しかし37年以降,戦時経済への傾斜が深められるとともに,化学工業は戦時統制下で生産の主力を軍需物資の供給へと移していった。染料,肥料等を中心とした生産から,火薬,爆薬等の生産へと転換していったのである。
執筆者:橋本 寿朗
戦後の化学工業は,55年以降とそれ以前とに大きく分けられる。まず肥料工業から復興が始まり,次いで,コールタール系,カーバイド系の有機化学工業が発達した。しかし55年以降,石油化学工業が発達しはじめると,新しい化学工業の分野が開ける一方,既存の化学工業で,石油化学工業への転換が進んだ。
政府は,食糧不足による社会不安を解消しようと,化学肥料を石炭や鉄鋼とともに重点産業に指定した。そして,工場施設の賠償指定からの解除,復興金融公庫による復興融資,原料,資材の優先割当てなどが行われた。この結果,化学肥料,とくにアンモニア系肥料は,はやくも1949年には戦前の最高水準にまで生産が回復した。これに対し,肥料以外の復興はかなり遅れ,たとえば苛性ソーダはようやく54年に戦前の生産水準に回復している。肥料は戦前水準に回復するにつれ生産過剰ぎみになってきたが,朝鮮戦争の勃発で輸出が拡大し,一時的に好調となった。しかし戦争の終結とともに国際市況が暴落し,肥料の出血輸出が国会で問題とされた。このため53年には〈臨時硫安需給安定法〉〈硫安工業合理化及び硫安輸出調整臨時措置法〉のいわゆる肥料2法が制定され,各社は肥料工業の合理化にとり組むとともに,肥料に著しく偏った体質を是正するため,脱肥料化に動きはじめた。合理化の柱の一つはガス源転換によるコスト・ダウンで,それまでの電力,石炭,コークス中心から,原油,天然ガスや製鉄廃ガスへと転換していった。
脱肥料化の動きは,アンモニア工業よりも,カーバイド工業でのほうが急であった。カーバイド工業の主製品は,それまで石灰窒素と呼ばれる化学肥料であったが,1950年ころからアセチレン系有機合成化学品へと移っていった。その中心は塩化ビニルや酢酸ビニルであり,酢酸ビニルからは合成繊維のビニロンがつくられた。合成樹脂では塩化ビニルのほかフェノール樹脂,尿素樹脂などが,合成繊維ではビニロンのほかナイロン,アクリル,ポリエステルなどが,つぎつぎと企業化されていった。高分子合成化学については,日本でも第2次大戦中から技術開発に努力してきたが,企業化にあたっては外国からの技術導入が多かった。50年に〈外資に関する法律(外資法)〉が制定され,以降,外国からの技術導入が活発化した。ところで高分子化学工業が急速に発展するにつれ,原料不足に当面することになった。カーバイドは,余剰電力など安価な電力に依存していたためコストが安かったが,需要増加に応じるためには新たにダム建設や火力発電所の建設が必要になり,コスト上昇をまぬかれなくなった。またナイロンの主原料の一つであるベンゼンは,石炭からコークスをとり出す際に副産するコールタールを原料にしているので,需要が拡大したからといって,増産することができなかった。そこで,新たな原料供給源を求める動きが高まりつつあった。
通産省は,55年に〈石油化学工業育成対策〉を省議決定し,税制上の優遇措置を講じるとともに,行政指導を積極的に行う姿勢を明らかにした。第1期の計画では,四つのナフサ分解センター=エチレン・センター(日本石油化学川崎,三菱油化四日市,住友化学新居浜,三井石油化学岩国)を中心とする15社ほどの企業化計画が進められた。
第1期計画は,57年から60年までにほぼ建設を終えて操業を開始した。60年のエチレン生産能力は7万8000tであった。この時期の中心的な採算品目はポリエチレンである。60年から第2期に入り,62年にかけて先発4エチレン・センターの設備拡張が認められるとともに,新たに五つのセンターが認可された。63年のエチレン生産量は35万tに達した。第2期は,それまで日本の有機化学工業の主流であったカーバイド-アセチレン工業やコールタール工業,発酵化学工業から,石油化学工業への転換が急速に進んだ時期である。たとえばブタノール,酢酸などの原料であるアセトアルデヒドは,従来アセチレンを原料としてきたが,エチレンを直接酸化してつくるワッカー法へと原料,製法を転換してきた。塩化ビニルも,アセチレンを原料にしてきたが,エチレンを塩素化し,それを熱分解して塩ビモノマーをつくるEDC法への転換が進んだ。同様にアクリロニトリルではソハイオ法へ,ブタノールではレッペ法へと,65年ころまでに多くの分野で新しい製法が主流を占めるようになった。
第1期計画をつくった当初,政策当局の意図は輸入防止であったが,第2期計画以降では,貿易自由化を迫られていたこともあって,国際競争力の強化が明確に意識されるようになった。通産省は,そのため既存センター拡充優先を打ち出し,また新センターの認可基準を引き上げることによって,群小センターの乱立に歯止めをかけようとした。63年には認可基準として年産10万tが,67年には同30万tが打ち出された。通産省としては,年産30万t体制は原料手配,販売力,資金調達力などの制約上,数社しか達成できまいとの読みがあり,これが石油化学業界の過当競争改善に働くはずであった。しかし個々の企業には,このハードルを乗り越えるか否かが企業の存在を決定するものと受けとめられ,結局9社,270万tが認められた。こうして日本の石油化学工業は,70年代初頭には,国際水準からみても最高の設備をもつに至った。しかしエチレン・センターの建設ラッシュは,誘導品分野への新規参入を誘発し,各分野において多数企業が乱立し,かえって過当競争体質を助長することになってしまった。
上述のように,日本の化学工業は1950年代中ごろ以降,石油化学を中心に成長をとげてきた。しかし70年代に入ると,経済成長率の低下や代替需要の一巡によって需要の伸びが鈍化し,そのうえ2度にわたる石油危機を契機にして,石油化学工業は大きな打撃を受けることになった。すなわち,まず原料コストが上昇したため他素材との相対価格が割高になり,需要が減少した。また国際競争力が低下してしまった。その第1の要因は,天然ガス原料との格差である。すなわち,日本の石油化学工業はナフサを原料としているが,アメリカ,カナダでは割安な天然ガスを原料にしていることである。第2の要因は,国産ナフサと海外ナフサとの価格差である。石油化学企業は,これまで石油業法などによってナフサを自由に輸入することができず,海外のナフサ価格が安くても,割高な国産ナフサを使わざるをえなかった。これに加えて最近では,発展途上国が石油化学工業において自給化を進め,さらに輸出も始めるようになってきた。このため日本の石油化学工業は,輸出が減少する一方,輸入が増大し,内需低迷と相まって生産は大幅に減少している。にもかかわらず,過当競争的な体質のため各社は自社の操業率を高めるために値引きに向かいやすく,しかも安価な輸入品が増えて市況は大幅に下落している。そこで今後については,第1に販売の集約化や過剰設備の処理などで過当競争を是正すること,第2に設備近代化・合理化によるコスト削減,第3に高付加価値製品のシェアを高めること,第4に原料の安い海外へ進出すること,などが必要とされている。
執筆者:富沢 このみ
化学工業による公害には,生産過程で生じる廃物によるものと,生産された化学物質が使用されて生じるものとがある。前者は原理的には他産業の公害と同じであるが,使用される原料や中間製品の危険性が高い場合があるだけでなく,副反応などによりきわめて危険性の高い物質が放出されることがあり,水俣病はその典型である。その他,水銀法電解ソーダ工業や塩化ビニル工業による水銀汚染,無機化学工業による各種の酸性廃棄物やクロムなどの重金属汚染が前者に含まれる。使用後の公害には,PCB汚染を代表例として,各種の農薬や合成洗剤,プラスチック廃棄物などがあり,これが問題となるのは,これらの物質はもともと自然界に存在しなかったため,自然界には分解・浄化の作用が欠けているためであり,新しい化学物質の合成を工業化するにあたっては,慎重な事前審査が必要である。
執筆者:加藤 邦興
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…製造工業のうち生産物の重量の比較的重いもの,たとえば鉄鋼業,非鉄製品製造業,金属製品製造業,機械工業の重工業と,化学工業,石油製品・石炭製品製造業の化学工業とを一般的には総称する。軽工業と対比される。…
※「化学工業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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