鎌倉後期,モンゴル襲来のときの執権。父は北条時頼,母は同重時女。幼名正寿。7歳で将軍宗尊(むねたか)親王の手で元服,相模太郎時宗と称す。幼少より時頼の正嫡として執権となるべく育てられ,60年(文応1)小侍所(こさむらいどころ)別当,61年(弘長1)安達(あだち)義景女(泰盛養女)の堀内殿と結婚,左馬権頭従五位下,64年(文永1)連署,65年従五位上相模守。68年高麗使藩阜の来訪ののち,3月に18歳で執権に就任した。71年モンゴル使趙良弼が筑前今津に至り,時宗は鎮西に所領をもつ御家人に鎮西下向を命じ,翌年には一族の名越時輔,教時らを誅した(二月騒動)。74年10月元軍が来寇(文永の役),その後も時宗は翌75年(建治1)には元使杜世忠を竜ノ口に斬るなど一貫して対モンゴル強硬政策をとり,高麗進攻計画,防塁築造,非御家人の軍役動員などをすすめ,幕府を事実上の全国政権たらしめてゆくと同時に,舅の安達泰盛,得宗被官(御内人(みうちびと))の平頼綱らによる寄合(よりあい)を政治の中心におき,西国の守護職や重要所領を北条一門で独占する,いわゆる得宗専制を強化していった。81年(弘安4)には再度の元軍の来寇を退け,幕府の権威も大いに強化された。時宗は若くして蘭渓道隆,大休正念に深く師事し,79年にはその招きで無学祖元が来朝し建長寺の住持となった。82年には円覚寺を建て祖元を開山とした。さらに日蓮や一遍らとの交渉もあった。84年4月4日没。法名は法光寺殿道杲,廟所は円覚寺内仏日庵で法体座像がある。
執筆者:工藤 敬一
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(福島金治)
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鎌倉幕府第8代執権。時頼(ときより)の子、母は北条重時(しげとき)の女(むすめ)。幼名を正寿といい、相模(さがみ)太郎と称した。左馬権頭(さまごんのかみ)、相模守(かみ)などを歴任。法名道杲(どうこう)。1257年(正嘉1)7歳で元服、将軍宗尊(むねたか)親王の一字「宗」を与えられて時宗と名のる。64年(文永1)連署(れんしょ)となり、翌年相模守となる。66年、宗尊親王を陰謀のかどによって将軍の地位から追い、京都に送還、かわって親王の子惟康(これやす)王(3歳)を将軍に迎えた。これは、将軍在位15年、25歳になっていた親王と、御家人(ごけにん)ないし北条氏の傍流の者とが反得宗(とくそう)勢力として結集することを懸念して、北条嫡流(得宗)がとった処置であった。2年後の68年3月、時宗は北条政村(まさむら)にかわって執権となり、政村が連署となった。この年の初め日本の服属を求める蒙古(もうこ)の使者が来朝しており、これを退けた幕府は、蒙古の来襲あるを予測し、国防の強化に努めた。74年(文永11)の蒙古軍侵攻(文永(ぶんえい)の役)は九州の武士が撃退したが、再襲に備えて北九州沿岸に石塁を築かせ、さらに異国征伐の遠征軍派遣を計画した。81年(弘安4)再度蒙古軍が来襲(弘安(こうあん)の役)したが、このときも撃退に成功、なお防備の強化に専念した。84年(弘安7)病により出家、4月4日死去した。時宗は禅に深く帰依(きえ)し、建長寺(けんちょうじ)の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の没(1278)後、宋(そう)から無学祖元(むがくそげん)を招いて師事し、82年(弘安5)祖元を開山として鎌倉に円覚寺(えんがくじ)を創建した。
[田辺久子]
『関靖著『史話北条時宗』(1943・朝日新聞社)』
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1251.5.15~84.4.4
鎌倉中期の幕府執権。父は時頼,母は北条重時の女。相模太郎と称する。1263年(弘長3)父時頼が死去し,翌年執権の北条長時が死去したため,とりあえず一門の長老北条政村が執権になり,時宗は連署となる。68年(文永5)元から国書が届き,その対応を迫られるなか,執権に就任。72年には名越(なごえ)教時ら北条一門の反時宗派を討ちとった。74年と81年(弘安4)の2回にわたり元軍の襲撃をうけ,防戦の指揮にあたった。その後も警備体制の強化をはかった。82年鎌倉に円覚寺を建立し,中国からの渡来僧無学祖元(むがくそげん)を住持に招いた。
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…この間,北条義時は伊豆の武士を確実に統制し,以来北条得宗(とくそう)が伊豆国の守護となった。北条時宗はモンゴル襲来にあたり,三嶋明神に祈禱を求め,三薗(御園)の地頭職を廃して三島東大夫の私領としてこれを寄進している。北条氏滅亡直後,高時の遺児時行が信濃で挙兵(中先代の乱)すると伊豆の武士たちも時行に従った。…
…山号は瑞鹿山。北条時宗が弘安の役直後の1281年(弘安4)に建て,翌年無学祖元を開山に迎えて開堂の法要を営んだ。中国の径山(きんざん)を模した左右対称の宋風の伽藍配置で,本尊は盧遮那仏。…
…1272年(文永9)2月におこった北条一族の内紛。北条時頼の庶子時輔(ときすけ)は六波羅探題南方として京都にいたが,異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満をもち,謀反を企てた。これを察知した時宗は機先を制して,時輔の与党とみられた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち,さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせた。しかし事件後,時章は謀反計画に無関係であったことが判明し,その討伐は誤りであったとして討手は処刑され,時章の子公時は所領を安堵された。…
※「北条時宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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