北海道の最南端はふつう津軽海峡に臨む松前町
北海道は日本最北部に位置する日本最大の島で、面積は日本の総面積の五分の一強、東北地方六県と新潟県を合せたよりも広い。
北海道は全体としてエイ(北海道ではカスベという)に似た形といわれる。北東はオホーツク海、西は日本海、南は太平洋に囲まれ、北端は宗谷海峡でロシア連邦共和国のサハリン(樺太)島、南端は津軽海峡で青森県に面し、東は根室海峡を挟んで、北方四島の歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島があり、その先はロシア領の千島列島(ロシアではクリール諸島)がカムチャツカ半島まで続いている。
明治二年(一八六九)八月旧来の蝦夷地(蝦夷島)および付属の諸島(歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島を含む)を一括改称して成立した呼称。のち府県と同列の自治体となり現在に至る。慶応四年(一八六八、同年九月明治と改元)四月新政府は旧幕府の箱館奉行に代わる機関として箱館裁判所を置き、蝦夷地および北蝦夷地(樺太)の経営に当たらせることとし、翌閏四月に箱館府と改称した。明治二年五月箱館戦争で榎本軍を鎮圧したのち蝦夷地経営は本格化し、まず同年七月開拓使を設置、次いで八月一五日蝦夷地を北海道と改称し、渡島・後志・石狩・日高・天塩・十勝・根室・胆振・釧路・北見・千島の一一国と八六郡を置いた。北海道の名称は松浦武四郎が提案した六案、すなわち日高見道・北加伊道・海北道・海島道・東北道・千島道のなかの北加伊道を古代に制定された七道に準じて北海道と修正したもので、松浦武四郎は加伊はアイヌの自称であると述べている(「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」松浦家文書)。旧名の蝦夷も音読みではカイである。各郡の名称と区域はほぼ近世の場所のそれらを踏襲した。また郡の数は同九年千島国に三郡を追加し、同一八年根室国
発足当初の開拓使は民部省内に置かれたが、明治二年八月太政官内に移り、翌九月には函館に開拓使出張所、東京に開拓使本庁を置いた。同三年二月樺太開拓使を置き、同年閏一〇月には開拓使本庁を函館に移し、東京に開拓使東京出張所を置き、歴代長官は在京中はここで開拓事務を統轄した。同四年五月札幌の仮庁舎が竣工し、札幌開拓使庁が置かれ、北海道経営の拠点は函館から札幌に移る。翌月函館出張開拓使・根室出張開拓使を置き、次いで同年八月諸藩などの分領支配が廃止され、樺太開拓使も北海道開拓使に併合された。
一方、松前藩は明治二年六月の版籍奉還により館藩と改称、さらに同四年七月の廃藩置県により館県と改称したが、同年九月に廃止され、その所管四郡は弘前県(同月青森県と改称)に移ったが、同五年九月開拓使函館支庁の管轄となり、ここに全道が開拓使の直轄地となった。
明治五年九月札幌開拓使庁を札幌本庁と改称し、函館・根室・宗谷・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
本州と津軽海峡で隔てられ、北緯41度20分以北、日本の最北端の北海道本島と若干の小島からなる地方。国土の約22%を占める。
ロシア領にもっとも近接する千島列島(ちしまれっとう)のうち、南の国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島は、第二次世界大戦前日本人が定住して町村制が施行され、北海道庁の管轄下にあった。この北方四島の返還を国の方針とする現在、本道の公表面積には4島の面積5003.05平方キロメートルが含まれる。本道はロシアに近いだけでなく、アメリカへの最短コースにあたるので戦略的に重視される。オホーツク海に面する国内唯一の地方として流氷がみられ、また温暖な国土のなかでは寒冷な気候条件から山容が緩やかで雄大感があり、開発の歴史が新しく未開の原始景観の残ることと相まって、魅力を高めている。
これら自然のなかで狩猟漁労生活を営むアイヌ民族の天地として、長く蝦夷地(えぞち)とよばれた。和人(中・近世に本州から移住した日本人のこと)の定住は江戸時代には道南の一部に限られ、奥地には交易や漁業の目的で季節的に少数が赴くにすぎなかった。幕末に北太平洋が捕鯨の舞台となり、欧米の外国艦船の出没が機縁となって、松前藩から幕府の直轄下に入った。このころから幕府役人による多くの探検調査が行われたが、その一人松浦武四郎(たけしろう)の建言で、明治維新後の1869年(明治2)北海道と改められた。その後、開拓使、屯田兵(とんでんへい)制、大土地処分などを通じて植民開拓が進み、和人が大多数を占めるに至った。
2020年(令和2)の国勢調査では人口522万4614、面積8万3424.44平方キロメートル、人口密度は1平方キロメートル当り66.6人で全国でもっとも少なく、多くの施策にかかわらず人口の微増、ときに微減状態が続いている。このなかで主要都市、とくに札幌周辺への人口集中が高く、札幌市は全道人口の約38%を占める。逆に炭鉱都市は人口減が目だち、なかでも歌志内(うたしない)市は、2008年(平成20)段階で5000人を割っている。2020年10月現在、35市9総合振興局5振興局129町15村(国後・択捉・色丹の6村を除く)に区画されている。道庁所在地は札幌市。
[柏村一郎]
北海道は緩やかに弧を描く菱(ひし)形の胴体部と、南西部にS字形に延びる半島部が、石狩(いしかり)・勇払(ゆうふつ)低地帯で結ばれ一島を形成している。胴体部は樺太(からふと)(サハリン)から南に延びる蝦夷山系と、カムチャツカ半島から南西に延びる千島弧が、菱形の対角線の位置を占めて会合し山地の骨格となる。蝦夷山系は、宗谷(そうや)岬から南北に細長く比較的低い天塩(てしお)山地が高峻(こうしゅん)な夕張(ゆうばり)山地や日高山脈に続き、襟裳(えりも)岬に終わるのを中軸とし、東には北見山地が北から南へ高度を増して石狩山地に至り、南東の低い白糠(しらぬか)丘陵に続く。その間に中央凹地帯があって北から南へ頓別(とんべつ)平野、名寄(なよろ)盆地、上川(かみかわ)盆地、富良野(ふらの)盆地と続き、南では関東平野と同じ成因の構造盆地とされる広い十勝(とかち)平野が介在する。また千島弧は北海道東部火山地域を形成し、東から中央にかけて知床(しれとこ)、阿寒(あかん)、然別(しかりべつ)、大雪(たいせつ)山、十勝岳の各火山群が並び、カルデラ湖の摩周(ましゅう)湖、屈斜路(くっしゃろ)湖、阿寒湖を擁する阿寒摩周国立公園、オホーツク海に突出する知床半島を中心とする知床国立公園、道内最高峰旭(あさひ)岳(2291メートル)を含む大雪山国立公園をもつ。なお、2005年(平成17)知床半島北部および沿岸海域は、その貴重な自然と多様な生態系により、世界遺産条約に基づき世界遺産(自然遺産)「知床」として登録された。また氷河地形をもつ日高山脈襟裳国定公園、オホーツク海に面し、潟湖(せきこ)のサロマ湖・能取(のとろ)湖や砂丘の続く網走(あばしり)国定公園など、自然景観に富む所が多い。これらに付随して東端に低平な根釧(こんせん)台地、西端に古い火山の暑寒別(しょかんべつ)岳を含む増毛(ましけ)山地がある。後者は日本海に浮かぶ2小島を含め、暑寒別天売焼尻(しょかんべつてうりやぎしり)国定公園となっている。
一方、南西の半島部は新第三紀層が広く覆う渡島(おしま)山地が骨格となり、南に駒ヶ岳(こまがたけ)火山群、北に羊蹄(ようてい)、樽前(たるまえ)などの火山群があり、中に内浦湾を挟む。この地域には支笏(しこつ)湖・洞爺(とうや)湖などカルデラ湖を擁する支笏洞爺国立公園のほか、日本海岸を含むニセコ積丹小樽(しゃこたんおたる)海岸国定公園、駒ヶ岳を中心とする大沼国定公園がある。一般に北海道の山地は緩やかな山容を呈して雄大感を強めるが、これは過去の周氷河気候の影響を示すものと考えられる。平野は胴体部の周辺に多く、また中央凹地帯に盆地が連なる。主要河川は中央高山に発し日本海や太平洋岸に達する。日本海側では上川、富良野両盆地を経て石狩・勇払低地帯に石狩平野を展開する石狩川水系、名寄盆地を北上する天塩川水系があり、太平洋側では十勝平野を流れる十勝川水系があって、いずれも本道の主要農業地帯を形成する。河川下流部には低湿な泥炭地が多いのが特徴で、釧路(くしろ)川下流の釧路湿原、天塩川下流のサロベツ原野などは未開の自然景観で知られ、前者は釧路湿原国立公園、後者は利尻礼文(りしりれぶん)サロベツ国立公園に指定されている。また、別寒辺牛(べかんべうし)川下流にある厚岸湖(あっけしこ)・別寒辺牛湿原や、琵琶瀬(びわせ)湾や浜中湾の海岸線沿いに広がる霧多布(きりたっぷ)湿原も、形成過程は異なるがほぼ原生的な状態で残されており、両者は厚岸霧多布昆布森(こんぶもり)国定公園に指定されている。道内に釧路湿原など13のラムサール条約登録湿地が所在する。なお、道立自然公園に富良野芦別(ふらのあしべつ)、檜山(ひやま)、恵山(えさん)、野付風蓮(のつけふうれん)、北オホーツク、野幌(のっぽろ)森林公園、松前矢越(まつまえやごし)、狩場茂津多(かりばもった)、朱鞠内(しゅまりない)、天塩(てしお)岳、斜里(しゃり)岳の11がある。
[柏村一郎]
日本列島の最北にあって冬の長く厳しい寒さとさわやかな夏、美しく彩られるが短い春と秋など、本州にみられない特徴をもつ。しかしこれらの特徴は、胴体部が典型で、半島部は東北地方の気候に近く相対的に温暖である。胴体部も太平洋、日本海、オホーツク海と異なる海に囲まれるため、低地は年平均気温約6~8℃で差は少ないが、季節的な差は大きい。夏にもっとも低温の地は根室(ねむろ)、釧路で平均17~18℃前後、同じ沿岸の網走や稚内(わっかない)より1℃以上低い。これは、太平洋岸に寒流の親潮と暖流の黒潮が接触し、海霧(ガス)の発生で日射を妨げるからである。反対に冬は晴天に恵まれるが、雪が少ないため地面の凍結が深い。日本海岸は暖流の対馬(つしま)海流の影響で温暖であるが、冬には西風が卓越して降雪をもたらし、背後の山地帯は2メートル余の積雪地となる。オホーツク海岸は2月には流氷が南下して接岸し、根室海峡を経て根室に及ぶ。このため紋別(もんべつ)、網走、根室では2月が最寒月となる。気候的に対照的な太平洋岸と日本海岸に比べ、オホーツク海岸はその中間で、年間の降水のバランスがよく、量も1000ミリメートルを割り、日本で最少の地方である。沿海部に対し、内陸部の盆地は大陸的気候を示し、冬は最寒地、夏は最暖地となる。たとえば上川盆地の旭川(あさひかわ)や十勝平野の帯広では1月平均気温はマイナス8℃前後、ときにマイナス30℃以下になる。旭川の北の美深(びふか)、音威子府(おといねっぷ)、幌加内(ほろかない)町の母子里(もしり)、十勝地方北部の陸別(りくべつ)など、ときにマイナス40℃にも達する最寒の地として知られる。逆に夏は最高温に達し、8月の平均気温は20℃、日中は30℃を超えることもある。
[柏村一郎]
日本列島がまだ大陸と陸続きで日本海が湖であったころ、北方から樺太(からふと)(サハリン)を経由して北海道から本州以南へ、旧北区系の動物が分布を広げていた。2万年ほど前に津軽(つがる)海峡ができたため、哺乳(ほにゅう)類ではヒグマ、シマリス、クロテン、氷期の遺存種ナキウサギなどは本州へ移住することができなかった。一方、南方から本州までやってきたニホンザル、ツキノワグマ、ニホンカモシカなどは北海道には渡れずに終わった。約1万年前には宗谷海峡(そうやかいきょう)ができて大陸と隔てられた。宗谷海峡には、両生類、爬虫(はちゅう)類などの分布から動物分布境界線の八田線(はったせん)が設定され、また津軽海峡には、鳥類などの分布から提唱されたブレーキストン線が引かれている。鳥類ではエゾライチョウ、シマフクロウ、ヤマゲラ、ハシブトガラなど日本では北海道のみにみられるものもいるが、繁殖するもののうち本州との共通種は約70%で、津軽海峡はそれほど明確な境界とはなっていない。昆虫では、たとえば氷期の遺存種とみられる高山ガの珍種クロダケタカネヨトウなどの大雪(たいせつ)山のみの特産種や、国の天然記念物のダイセツタカネヒカゲ、ウスバキチョウ、アサヒヒョウモンなどの高山チョウなど、ユーラシアの北方に同種ないし亜種が分布し、日本では北海道にしかいないものも少なくないが、やはり津軽海峡はかならずしも重要ではない。淡水魚では、世界で北海道のみというドジョウ科のエゾホトケ、キュウリウオ科のシシャモがおり、サケ科のイトウ、オショロコマなど8種が日本では北海道のみに分布している。
[桜井道夫]
北海道は中央を走る脊梁(せきりょう)山脈(日高山脈など)で東西に二分され、東側を亜寒帯林、西側を冷温帯林と大まかに分けられているが、詳しくみると、寿都(すっつ)と長万部(おしゃまんべ)を結ぶ黒松内低地帯(くろまつないていちたい)に植生分布の境がある。これ以南は東北地方と共通した植生をもち、ブナ、ヒノキアスナロなどはここを北限とし、北方種としてのエゾマツなどはここを南限としている。また、北海道では冷温帯落葉広葉樹の代表的樹種であるミズナラ、イタヤカエデ、シナノキ、ウダイカンバ、ヤチダモ、ハンノキなどの林が道内至る所でみられ、これらがエゾマツ、トドマツなどの亜寒帯針葉樹林とモザイク状に混交するために、生態的には亜寒帯と冷温帯の移行帯、つまり針広混交林帯として認識されている。大雪山、日高山脈、阿寒にはエゾマツ、アカエゾマツ、トドマツなどの原生的針葉樹林が残されている。丘陵地や山麓(さんろく)には落葉広葉樹林があり、札幌の藻岩山(もいわやま)や円山(まるやま)には良好な例がみられる。河川下流域にはしばしば広大な泥炭湿原が発達し、ミズゴケやスゲを主とした特異な景観が認められる。釧路湿原、サロベツ原野などがとくに有名である。海岸砂丘はヒオウギアヤメ、エゾスカシユリ、エゾキスゲ、ハマナスなどで彩られる。小清水(こしみず)海岸、浜頓別(はまとんべつ)湖(クッチャロ湖)などの砂丘は原生花園の名で知られるが、これらは放牧による半自然植生である。大雪山や知床、利尻(りしり)、礼文(れぶん)などの高山帯には多くの高山植物が生育する。なかでも大雪山の高山植物は量的にも多く、日本の宝庫とさえいわれ、分布地理上からも重要であるため、研究者がよく訪れる。
[鮫島惇一郎]
北海道の歴史は沖縄の場合と同様に、日本社会のほかの地域とは異なった独自の発展過程を歩んでおり、前近代においてその傾向が著しい。その基本的な特徴を指摘するならば、(1)先土器文化に続く土器文化が紀元前6000年前から13世紀ごろまで存続し、縄文文化→続縄文文化→擦文(さつもん)文化(道北東部ではオホーツク文化が併存)といった継起的発展を遂げ、そのなかからいわゆるアイヌ文化が形成されてきたこと、(2)こうしたアイヌ民族の居住する蝦夷(えぞ)地に、12世紀ごろから和人が渡来し始め、アイヌ民族と対抗しつつ道南地方に和人政権を成立させ、それが商場知行制(あきないばちぎょうせい)(のちに場所請負制へ移行)を経済的基盤とする近世の松前(まつまえ)藩に発展すること、(3)維新後、明治政府はこの地を北海道と改称し、日本資本主義の内国植民地として位置づけ、囚人や土工、一般移民を投入してその開拓を意図したこと、である。それは、北海道が内国植民地から「内地」化する過程でもあった。
[桑原真人]
現在のところもっとも古い先土器時代の遺跡は、剥片(はくへん)を利用した石器をもつ約2万年前の千歳(ちとせ)市祝梅三角山遺跡(しゅくばいさんかくやまいせき)、上士幌(かみしほろ)町嶋木遺跡(しまきいせき)などである。やがて石刃技法でつくられた石器が普及し、続いて湧別(ゆうべつ)技法などによる細石刃文化の段階に達し、次に弓矢の使用をうかがわせる石器が現れて終末期を迎えた。
土器が出現し、明確に縄文時代を迎えるのは約8000年前である。石狩低地帯を境に東北地方からの影響を強く受ける南西部と、北海道的伝統をもつ北東部では、その文化に差異がみられた。初期には貝殻文土器が広く分布し、北東部は平底、南西部は尖底(せんてい)であった。約6000年前から土器の大型化が始まり、尖底土器が姿を消し、やがて南西部では東北地方を本拠とする円筒式土器をもつ文化が、北東部では北筒式土器をもつ文化が発達した。縄文時代の最後である3000~2000年前には本州から渡ってきた亀ヶ岡(かめがおか)式土器が石狩低地帯まで波及し、低地帯の北東側の土器にも影響を与えた。西暦紀元前後には弥生(やよい)文化が北日本に波及したが、北海道では依然として狩猟漁労の生活が続き、縄文土器の系統を継ぐ土器が使用された。それでこの文化を続縄文文化とよんでいる。弥生文化の影響を受けて金属器が使用され、管玉やビーズ玉も入ってきた。続縄文文化の末、7世紀には北方系の海獣猟を中心とした漁労文化であるオホーツク文化が、オホーツク海沿岸から千島(ちしま)列島などの流氷接岸地帯に広がった。金属器とともに石器も多く、多様な骨角器を発達させた。遺跡では、大規模な住居跡、墓地を伴う網走(あばしり)市最寄貝塚(もよろかいづか)が著名である。8世紀ころには、本州文化の強い影響のもとに最後の土器文化である擦文文化が広がった。土師器(はじき)との関連をうかがわせる刷毛目(はけめ)のついた擦文土器をもち、鉄器を使い、石器はみられない。小規模ながら農耕も行われた。オホーツク文化と同じく、12、13世紀に終末を迎えた。
一方、奈良・平安時代の北海道は、中央政府から渡島(わたりしま)とよばれ、渡島の蝦夷は交易のため毛皮類をもって渡来した。出羽(でわ)国がこれを管轄し、私交易を禁じた。平安時代末になると、蝦夷ヶ島、蝦夷ヶ千島とよばれるようになった。
[小林真人]
鎌倉幕府は蝦夷島を重罪人の流刑地とし、津軽安東氏(つがるあんどうし)(安藤氏)を蝦夷管領(かんれい)に任じこれを統轄させた。鎌倉時代の蝦夷島には日の本(ひのもと)、唐古(からこ)、渡党(わたりとう)の3類が住み、渡党は交易のために津軽外ヶ浜に渡来したといい、20隻に及ぶ関東御免津軽船が蝦夷島の産物を積んで日本海を航行した。安東氏の本拠のあった十三湊(みなと)は室町時代に至るまで夷船(いせん)、京船でにぎわった。このような交易活動の活発化に伴い、13世紀には擦文文化が終わりを告げ、近世アイヌ的文化の形成が始まった。
室町時代中期になると、渡島(おしま)半島南部には安東氏輩下の小豪族である館主(たてぬし)が割拠していたが、安東氏の弱体化により1456年(康正2)コシャマインの蜂起(ほうき)に始まるアイヌ民族を巻き込んだ長い戦乱に突入した。この戦乱のなかで、アイヌ民族は木柵(もくさく)と空堀で囲まれた砦(とりで)であるチャシを築き、また、いくつものコタンを統率する首長層も現れた。
[小林真人]
1514年(永正11)上ノ国(かみのくに)の蠣崎氏(かきざきうじ)(後の松前氏)が館主を統一し、徳山(松前町)に新城を築き、1551年(天文20)には東西のアイヌと講和し、対アイヌ交易を城下で行う体制を確立した。1593年(文禄2)に豊臣(とよとみ)秀吉から朱印状を、1604年(慶長9)には徳川家康から対アイヌ交易の独占を認める黒印状を得、近世松前藩が成立した。寛永(かんえい)年間(1624~1644)のころには藩領域を明確にする必要から、蝦夷島を和人地(松前地)と蝦夷地に分け、城下交易を廃止して蝦夷地内にアイヌと交易する商場を設け、これを上級家臣に分与した。商場知行=商場交易制の成立である。1669年(寛文9)のシャクシャインの蜂起が蝦夷地全域に波及するのは、蝦夷地内に縛り付けられたことに対するアイヌの不満が底流にあったからである。
一商場に派遣できる船は夏船一隻に限られていたが、元禄(げんろく)年間(1688~1704)ころから、秋味(あきあじ)、鱒(ます)、海鼠引(なまこびき)など特定名目で船の派遣を許したので、蝦夷地内での漁業も活発化し、点にすぎなかった商場も、漁業を行う場所を含めた空間的な広がりをもつようになった。また、場所の経営を商人が請け負う場所請負制も享保(きょうほう)年間(1716~1736)ころから顕在化し、天明(てんめい)年間(1781~1789)には和人地での鰊漁(にしんりょう)がほとんどできなくなり、和人漁民が蝦夷地に入漁する鰊二八取(にはちとり)漁業が発達し始めた。1789年(寛政1)の国後(くなしり)・目梨(めなし)のアイヌの大蜂起と、翌年の和人地漁民の一揆(いっき)は、場所請負人の横暴に対する抵抗であった。
一方、18世紀も後半になると、ロシア勢力の南下が顕在化し、幕府も蝦夷地に目を向け始めた。天明年間の蝦夷地開拓計画は田沼意次(おきつぐ)の失脚で挫折(ざせつ)したが、1792年ロシア使節ラクスマンが根室(ねむろ)に、1796年英船プロビデンス号が虻田(あぶた)沖に来航したため、1799年幕府は東蝦夷地を仮上知(あげち)し蝦夷地の経営に着手した。1802年(享和2)には蝦夷地奉行(ぶぎょう)(のち箱館奉行(はこだてぶぎょう))を置き、永上知に改めた。さらに1807年(文化4)には松前・西蝦夷地も召し上げ、翌年奉行所を箱館から松前に移し、松前奉行と改称した。しかし、ロシアの脅威が薄れ、蝦夷地経営も思わしくなかったため、1822年(文政5)からふたたび松前藩が松前・蝦夷地の経営にあたった。
1854年(安政1)日米和親条約に伴う箱館開港に備え、幕府はふたたび箱館付近を上知して箱館奉行を置き、翌1855年には松前・江差(えさし)方面を除く松前・蝦夷地を直轄した。1859年には警衛にあたっていた6藩に蝦夷地を分与した。また、幕府は和人の蝦夷地永住を許すなど内陸部の開拓を積極的に進め、1861年(文久1)には山越内関所(やまこしないせきしょ)を撤廃し、和人地と蝦夷地の往来を自由にした。ここに蝦夷地はその存立の意義を失うに至った。
[小林真人]
維新変革により成立した明治政府は、幕領下の蝦夷地を支配した箱館奉行所にかわり、1868年(慶応4)4月に箱館裁判所を設置した。同閏(うるう)4月、裁判所は箱館府と改称されたが、これらはいずれも地方行政機関でありながら、同時に蝦夷地開拓という国家的事業を兼務するという変則的な機構であった。そのうえ、同年10月からの箱館戦争の影響もあり、開拓はほとんど進まなかった。箱館戦争では、榎本武揚(えのもとたけあき)の率いる旧幕府軍が蝦夷地鷲ノ木(わしのき)(森町)に上陸、箱館や松前で新政府軍・松前藩兵と戦い、蝦夷地を占領した。榎本は士官以上の投票で総裁に選ばれ、いわゆる榎本政権が樹立されたが、翌年5月には政府軍に敗れ降伏した。
しかし、蝦夷地開拓を重視した政府は、1869年(明治2)7月、その専掌機関として太政官(だじょうかん)直属の開拓使を設置し、8月に蝦夷地は北海道と改称された。開拓使は、近世以来の場所請負制を開拓の阻害要因とみて廃止の方針を打ち出し(1876年全廃)、北海道の新たな政治的拠点となる札幌本府の建設に着手した。ただし、全道の開拓実施は困難なため、札幌など重要地を開拓使の直轄とするほかは、本州の諸藩や華族・士族に開拓を委任する分領支配の方式がとられた。が、こうした方式では全道の統一的な開拓が不可能となるため、1871年8月までに廃止され、開拓使の直轄となった。この間、渡島半島西部の旧松前藩領は、1869年以後、館(たて)藩から館県と改称され、1871年には青森県の管轄下にあったが、翌年開拓使に移管された。また、当初開拓使管下の樺太(からふと)には、ロシアとの外交関係の緊迫化により、1870年樺太開拓使が置かれたが、翌年開拓使に併合されている。1870年5月、開拓次官に就任した黒田清隆(きよたか)(1874年開拓長官)は、同10月、樺太の放棄と西洋技術の導入を骨子とする北海道開拓に関する建議を行った。これにより、1872年からの10年間に総額1000万円の経費を北海道の開拓事業に投下するという開拓使十年計画が発足することとなった。まず開拓使顧問としてアメリカの農務省長官ホーレス・ケプロンが招かれ、アメリカ人を中心とする多数のお雇い外国人が来道した。彼らの指導の下に、開拓使は、道内の地下資源調査、道路建設、河川や港湾の整備、幌内鉄道(ぽろないてつどう)の建設など開拓の基礎事業に着手した。さらに、士族集団を中心とする移民の招来、屯田兵(とんでんへい)制度の実施、札幌農学校の創設などが行われ、これらの事業に支出された経費は、当初額の2倍以上の2082万円余に達している。十年計画終了直前の1881年には、「明治十四年の政変」の発火点となる開拓使官有物払下げ事件が起こり、払下げ計画は中止された。翌1882年2月、開拓使は廃止され、札幌、函館(はこだて)、根室の3県が設置された。1883年1月には、従来の官営諸事業を総括する農商務省北海道事業管理局も設置された。しかし、この3県1局体制は行政の不統一や開拓の進展を阻害する結果となり、1886年1月には3県を廃止、新たに北海道庁が設置された。初代長官岩村通俊(みちとし)は従来の移民政策に顕著な直接保護を廃止し、行政の簡素化や官営事業の払下げ、殖民地選定(せんてい)事業の実施などのいわゆる間接保護政策を採用し、安上がりの開拓を図った。土地政策でも、1886年の北海道土地払下規制、1897年の北海道国有未開地処分法の公布によって大地積の処分が進行し、道外の華族、政治家、資本家を地主とする大土地所有が各地で成立する契機を与えた。1890年代に入ると、本州方面からの北海道移民が急増したこともあって、北海道は本格的な開拓時代を迎え、こうした状況が1920年(大正9)前後まで続いた。このため、1886年に30万人弱であった道内人口は、1901年(明治34)に100万人を超え、1920年には約236万人に増加した。また耕地面積も、1886年の2万5000余町歩が、1920年には84万余町に達している。
このように、北海道の開拓が内陸部を中心に進行するにつれ、それまで北海道を対象外としていた行政上の近代的諸制度も、逐次適用されるようになった。たとえば、市町村制の施行は、1899年の区制(1922年に市制)、1900年の一級町村制、1902年の二級町村制として、また、衆議院議員選挙法の施行は1902年に、それぞれ実現している。しかし、こうした道民の権利に属する制度よりも、1889年の函館などでの徴兵令施行(全道施行は1898年)にみられるように、その義務的制度のほうが、率先して施行された点に特徴がある。ともあれ、近代的諸制度の北海道への適用は1922年前後を頂点としており、この時期の北海道が内国植民地的性格を払拭(ふっしょく)して「内地」化する一画期となったことを示している。しかしながら開拓の進展の陰では、1899年の北海道旧土人保護法公布に端的に示されるアイヌ民族への差別と酷使、1890年代にとくに過酷だった囚人労働、第二次世界大戦まで北海道の土木事業にはつきもののタコ部屋とよばれる飯場制度など、開拓にまつわる多くの犠牲が存在していたのである。とりわけ、囚人労働、タコ労働と続く北海道の強制労働の系譜は、第二次世界大戦下では、北炭などの炭鉱や鉱山を中心とする朝鮮人・中国人の強制連行として実現するのである。
[桑原真人]
第二次世界大戦前段階において、逐次「内地」化への道を歩みつつあった北海道であるが、北海道会法、指定町村制(二級町村制の後身)などのなかに依然として内国植民地的性格を残していた。しかし、こうした特別の制度は、1946年(昭和21)9月の道府県制の公布によって消滅し、翌1947年5月、地方自治法の施行により、「内地」他府県と同一の地方自治体である北海道が成立した。また、日本は敗戦によってすべての海外植民地を失ったため、国内的にもっとも未利用資源の多い北海道が開発の対象として注目され、1950年に北海道開発法が制定された。その実施機関として北海道開発庁および出先機関の北海道開発局が設置されたが、これは本来一体的に行われるべき北海道の開発行政が、政府と地方自治体とに分離されることを意味し、その是非をめぐってさまざまの議論がなされた。その後2001年(平成13)1月、北海道開発庁は、中央省庁再編に伴い建設省などとともに再編統合され国土交通省となった。同省の内部部局である北海道局は、北海道開発庁が規模を縮小して格下げになったものである。これは、北海道の開発行政から政府が手を引いたとはいえないまでも、道庁の北海道開発行政における主導権確立の第一歩となるであろう。
[桑原真人]
明治以来、北海道は農林水産業、石炭鉱業など、現地資源を開発する第一次産業の発展を基盤にしてきた。この間、国の北海道開発に向けられた資金と指導の影響は大きく、本道産業の官依存傾向は根強い。これによって北海道は米、牛乳、水産物などの食糧基地となり、またエネルギー供給地の役割を担ってきた。しかし歴史が浅いため民間資本の蓄積が不十分で、工業化の点では主要工業は本州資本の進出で成立するなど、地元工業は大いに立ち遅れた。自由貿易を基調に安い海外産物の導入傾向が強まると、国の保護助成で成長した本道産業は根底から揺さぶられるに至った。埋蔵量がありながら採算面で多くの炭鉱は閉山に追い込まれ、良質米の少ない米作は米の生産調整で大幅な減反転作を強いられ、北洋漁業の縮小は本道水産業を直撃し、ひいて造船業の不振となり、さらに鉄需要の減少は歴史ある本道鉄鋼業を縮小させるなど、道内の基幹産業は大きな試練に直面している。
[柏村一郎]
北海道の耕地面積は116万9000ヘクタール(2005)で道総面積の約15%にあたる。うち牧草地45%、畑35%、水田20%で、他府県と大きく異なる。農産物粗生産額では生乳が首位、米がこれに次ぎ、ほかを大きく引き離している。米の主産地は道央石狩川流域の空知(そらち)・上川地方で全道の約4分の3(2007)にあたるが、水田利用再編対策のため本道の減反割当ては全国一高く、主産地でも転作は著しい。とくに道北、道東では水田が姿を消している。しかし価格の安定した作物として、規模も大きく生産費の安い本道米作は基幹農業である。これに対し、酪農は道東の十勝、根室、釧路、網走、それに道北の上川北部、宗谷の各地方が中核であり、とくに気候的制約の多い根室、釧路、道北地方では圧倒的に酪農に依存する。これら地方では農家1戸当りの乳牛保有数は平均100頭(根室では120頭)を超えている。しかし経営耕地面積不足による飼料、とくに濃厚飼料の購入、優良乳牛導入や畜舎関係施設などで多額の借金を抱え経営は楽ではない。また生乳価格安定や本州零細酪農との衝突など問題も多い。畑作は十勝・網走地方が中心で、ジャガイモ、豆類、ビートなど本道の特産品が多い。また小麦や大豆、アズキは水田転換作物として、前記2地方のほか米産地の上川や空知でも増えている。蔬菜(そさい)や果実では地域特化が目だち、富良野盆地のニンジン、羊蹄山麓のアスパラガス、北見・富良野・岩見沢・札幌のタマネギ、夕張のメロン、余市(よいち)・仁木(にき)のリンゴ、ブドウなどがある。農家数は5万1990戸(2005)、1戸当り耕地は19.8ヘクタールで、10ヘクタール以上の農家は54%を占め、専業農家率も52%に達する。耕地面積が広く専業農家の多い点で他府県の農業と大きく異なる。開拓当初アメリカなど西洋の農法を取り入れた伝統は、道東の畑作酪農地帯に強く残り、大型機械施設の導入が盛んで、その物置やサイロ畜舎などが母屋(おもや)を圧して点在する風景は、欧米的な雰囲気を与える。
[柏村一郎]
森林面積は533万9000ヘクタール(2005)で、北海道の65%を占める。うち国有林が55%、私有林が27%、公有林が18%である。地域的には上川・網走・十勝地方にまたがる山地帯が森林地の40%を占めて林業の中心となっている。針葉樹中心の造林が進み、広葉樹6に対し針葉樹4の割合になっているが、全体の70%を占める天然林に限ると、広葉樹の割合はさらに高く、その80%に達する。伐採利用される樹種ではエゾマツ、トドマツ、カラマツが圧倒的に多く、針葉樹のほとんどにあたる。広葉樹ではナラ、ブナその他種類も多いが、いまは総量では針葉樹の半分に満たない。品質はよいためインチ材としてヨーロッパ諸国にも輸出される。林業・狩猟業従事者は安い外国材輸入による不況の影響を受け、1960年をピークに減少し、1990年には8000人を割っている。かつては流送や森林軌道で搬出したが、いまはトラック輸送が中心である。
[柏村一郎]
太平洋、日本海、オホーツク海に四周を囲まれた北海道は、沿岸に寒暖流が交わる水産資源の宝庫である。江戸時代中期以降、本道発展の原動力は水産業であり、沿岸の漁業の町は歴史も古く、内陸開拓の基地でもあった。道南のコンブ、ニシン、道東のサケ・マスなど地先漁業から、日露戦争後の函館(はこだて)を基地とする北洋漁業へと発展したが、第二次世界大戦で水産業は衰退の極に達した。戦後は北洋漁場の縮小により、日本海の武蔵堆(むさしたい)、大和(やまと)堆、オホーツク海の北見大和堆など近海沖合漁場も開発し、漁船の動力化・大型化によって漁況の回復を図るが、国際問題もからんで停滞気味ながらも漁獲量124万余トン(2006)は全国一の水産王国を保持する。魚種はスケトウダラ、サケ、イカ、サンマ、ホッケなど寒流系のものが多い。養殖も1980年代後半より盛んに進められ、古い歴史をもつサケの捕獲採卵や稚魚放流も道東を中心に行われて、北洋サケ・マス漁場の縮小を補うほか、零細漁民のためのコンブ増殖、オホーツク海の特産ホタテガイの養殖など収量増大の努力が重ねられている。古い歴史の道南や日本海沿岸はニシン回遊がとだえて以来、漁業不振による出稼ぎ漁民が増えてさびれた。一方、主要漁場に近く港湾設備の整う太平洋岸の釧路、根室花咲(はなさき)、厚岸(あっけし)、宗谷海峡の稚内、津軽海峡の函館、オホーツク海沿岸の紋別、網走など特定の漁港に漁獲物が集中する。とくに釧路は水揚高全国有数を誇る。しかし日米加および日ロ漁業条約に基づく日本への漁獲割当て交渉で、米ロ200海里水域での自国水産資源保護の強い姿勢により、北洋漁場の漁獲量削減は厳しさを加え、北洋出漁基地である釧路、花咲、稚内、函館などに打撃を与えている。その一方、西日本水域での韓国との漁業交渉の影響で、本道周辺の水域には韓国漁船が活動し、沿岸漁民との紛争を生じるなど、国際関係が本道水産業に強く投影されている。
[柏村一郎]
明治以後の内陸開発で最初に着目され、開発されたのは石炭資源である。石狩炭田の幌内炭山(ほろないたんざん)(三笠市)は小樽(おたる)港と、夕張炭山は室蘭(むろらん)港とそれぞれ結ぶ北海道初期の鉄道建設をもたらし、歌志内炭山(うたしないたんざん)は鉄道の内陸延長に糸口を与えるなど開発を促進した。その後、金鉱、鉄鉱、水銀鉱など局地的開発に資した鉱産資源も出たが一時的であり、石炭ほど長期かつ広範に本道開発に寄与したものはない。しかし海外輸入の安い石油や石炭に押されて閉山、減産を強いられ、最盛期の2000万トン台から2000年度(平成12)には215万トンに低下した。2002年1月、太平洋炭礦(釧路)の閉山を最後に大規模炭鉱はすべて姿を消し、小規模な露天堀り炭鉱が残るのみとなった。石炭は需要の大半を占める電力・鉄鋼業の動向に左右され、いまは一般燃料炭生産のみで、それも電力価格引下げの障害とみられ将来性が薄い。このため炭鉱都市は浮沈の瀬戸際にたたされている。非鉄金属鉱業は小資本が多く、海外市況の好不況に強く左右されて不安定な操業を繰り返していた。半島部に多く、豊羽(とよは)(札幌)の鉛・亜鉛・インジウム、恵庭(えにわ)の金・銀などが近年まで稼動していたが、いずれも閉山となった。
[柏村一郎]
北海道の工業は、農林水産業など本道経済の基幹である第一次産業の基盤のうえに成り立ち、食料品製造業や木材木製品製造業など軽工業が優越する点に特徴がある。2004年度の工業統計によれば、従業員4人以上の事業所数7244のうち、軽工業は約60%で、また従業者数も、約19万のうち、軽工業が65%で、重化学工業を上回っている。さらに出荷額においても軽工業は57%を占め、重化学工業のそれを上回る。いずれの場合においても食料品製造業は首位にあり、ほかを大きく離している。出荷額5兆2630億円の内訳をみると、第1位の食料品は1兆8110億円で、第2位の石油・石炭工業の4630億円の4倍に近い。第3位が紙パルプ工業で4150億円、鉄鋼業は3460億円で第5位。このように重化学工業の面で劣勢であることが、工業集積上の大きな弱点とされている。これを地域的にみると、工業出荷額では室蘭、苫小牧(とまこまい)両市がトップ、政治・教育文化都市といわれる札幌市がこれに続き、他都市を大きく引き離している。これに1970年ごろから企業誘致により本州企業の進出の著しい千歳、恵庭(えにわ)両市などが加わり、1964年指定の道央新産業都市を形成、工業拠点の全国的拡散を目ざした新産都市中でも成功例といわれ、本道工業地域の核心となっている。しかし経済の低成長期に入って苫小牧東部大規模工業基地の開発停滞など問題も多い。
[柏村一郎]
第二次世界大戦後の北海道は人口吸収、未開発資源活用のホープとされ、緊急開拓入植が行われたが不成功に終わった。そこで本格的に開発に取り組むため、全国に先駆けて北海道開発法が1950年に制定され、中央に北海道開発庁(現、国土交通省北海道局)、その執行機関として札幌市に北海道開発局を設け、総合開発が始まった。これまでに第1期(1952~1962)、第2期(1963~1970)、第3期(1971~1977)、第4期(1978~1987)、第5期(1988~1997)、第6期(1998~2007)の各総合開発計画が行われ、第7期総合開発計画(2008~2017)に至る。その第1期は資源開発中心(十勝川水域電源開発、苫小牧(とまこまい)人工港、根釧(こんせん)パイロットファーム、新篠津(しんしのつ)泥炭地開発)で未開地への進出、第2期は工業開発中心(札幌ほか拠点都市育成)で人口の都市集中をもたらした。第3期は大型プロジェクト(道北・道東の大型酪農村、苫小牧東部工業地)に特徴があったが、1973年の石油ショックに遭遇して挫折(ざせつ)した。次いで第4期と第5期では低成長経済に転じ、従来なおざりにされた生活環境整備など社会資本の充実、民間活力の導入助長を行う地味なものになる。この間に石狩湾新港、新千歳空港など交通整備が進められたが、水害防止を目ざした千歳川放水路は自然環境との調整などで停滞する。
[柏村一郎]
北海道の交通は明治以来、道都札幌と首都東京を結ぶルートを基幹とした。鉄道は、最初石狩炭田の石炭搬出を目的とし、開拓の進展につれて内陸に延び、交通の主役を担ってきた。その間に開発や軍事的考慮が優先し国営となった。しかし、採算性重視のため、戦後のとくに1987年の国鉄民営化前後、羽幌(はぼろ)線、湧網(ゆうもう)線、胆振(いぶり)線など多くの赤字ローカル線が廃止された。幹線は函館、宗谷、根室、石北(せきほく)の各本線に室蘭本線が加わるが、北海道は南北東端がかつての軍都旭川に結ばれる形になっていた。第二次世界大戦後、特急の走る幹線は札幌中心に変わった。札幌―苫小牧(とまこまい)間の千歳(ちとせ)線の買収、千歳線南千歳駅と根室本線新得(しんとく)間の石勝(せきしょう)線開通により、札幌―函館間と札幌―釧路間はこれらの路線経由が主ルートとなり、旭川経由の石北本線が加わる。1988年青函トンネルが開通、本州と鉄道で連絡した。電化区間は札幌中心に小樽(おたる)―旭川間、札幌―室蘭間などである。国道は明治初年の札幌―室蘭、森―函館間の札幌本道開削に始まる。第二次世界大戦後は自動車交通の発達で主役となり、札幌中心に苫小牧・室蘭への国道36号、小樽経由函館への5号、旭川への12号が中軸である。高速道路も札樽(さっそん)自動車道(札幌―小樽間)が完成し、これと結んで道央自動車道は(士別剣淵―札幌―大沼公園間)が完成、道央自動車道の千歳恵庭ジャンクションで分岐する道東自動車道は、北見線が足寄インターチェンジまで、釧路線が阿寒インターチェンジまで(2018年)整備されている。航空路は新千歳空港が札幌の入口となり、東京と結ぶほか全国の主要路線を形成する。このほかに丘珠空港も併せて道内主要都市の空港とも連絡する。また旭川、釧路、帯広、女満別(めまんべつ)(大空町)、函館、稚内(わっかない)、紋別(もんべつ)、根室中標津(なかしべつ)の各空港も東京、名古屋などと直行便で結ばれる。函館と青森を結ぶ青函連絡船は本道の海上航路のなかでも主要交通機関だったが、青函トンネルの完成で70年の歴史を閉じた。2016年(平成28)3月に北海道新幹線の新青森・新函館北斗間が開業、木古内駅が設けられた。2031年には札幌までの延長が予定されている。なお、苫小牧、小樽、函館が本州とフェリーで結ばれ、離島航路が国の補助で運航されている。
[柏村一郎]
国による学校教育は、北海道開拓を反映して札幌と函館に始まる。学制制定の前年1871年(明治4)開拓使役人の子弟のため小学校の前身にあたる札幌の資生館と函館学校が開かれた。高等教育機関では1876年開拓指導者養成の札幌農学校、1880年教員養成の函館師範学校、2年後に札幌師範学校ができ、いまの北海道大学と北海道教育大学に発展した。2017年(平成29)現在、このほか国立大学では小樽商科大、室蘭工業大、帯広畜産大、北見工業大、旭川医科大、それに道立札幌医科大、釧路公立大、公立はこだて未来大、札幌市立大、名寄市立大、同短期大がある。私立大学は明治・大正に始まる中等学校を母胎に、第二次世界大戦後形成された北海学園大(札幌市)、藤(ふじ)女子大(同市)をはじめ28大学、短期大学は15ある。札幌には4国公立大学(短期大学含む)、21の私立大学・短期大学が集中して北海道の学都となっている。ほかに国立工業高専が函館、旭川、釧路、苫小牧の4市に分散する。
新聞は1878年『函館新聞』が発刊され、2年後に『札幌新聞』が続き、以後各主要地に地方紙が興亡した。現在は第二次世界大戦時に地方新聞が統合した『北海道新聞』が代表格で、札幌本社のほか、函館、旭川、釧路の支社で発行し、全道新聞発行部数の約216万部の半分以上を占める(2006)。ついで1949年発刊の『北海タイムス』があったが、1998年廃刊した。戦後は全国紙の朝日、毎日、読売各新聞も進出、札幌に支社を設けて発刊している。ラジオ、テレビではNHKが札幌をはじめ主要都市に放送局を置き、全道をカバーするほか、北海道放送(HBC)、札幌テレビ放送(STV)、北海道テレビ放送(HTB)、北海道文化放送(UHB)、テレビ北海道(TVh)、FM北海道などがある。いずれも札幌に本社を置き、放送事業でも札幌は他都市の追随を許さない。文化施設は北海道博物館、道立図書館、道立近代美術館など札幌中心に多いが、函館にも古文献に富む市立函館図書館、考古民族資料に富む市立函館博物館など注目すべきものがある。
[柏村一郎]
北海道は先住のアイヌ民族の世界に本州から和人が移住して、明治以後は積極的に同化政策がとられた。その結果アイヌ民俗文化の減衰は避けられず、各地博物館やいくつかの民族行事、民族舞踊に過去をしのぶ程度であった。しかし最近、少数民族の復権の世界的傾向を反映してアイヌへの法的改善が進められ、従来の「北海道旧土人保護法」(1899)を廃止、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(1997)を制定、その伝統文化の振興普及が講ぜられることとなった。日常語に残るアイヌ語は豊富で、魚類のオショロコマ、チップ、シシャモ、シャケ、海獣のトド、トッカリ(アザラシ)、草の実のハスカップ、ベカンベ(ヒシの実)、そのほかマキリ(小刀)、ルイベ(凍らせた魚)などがあげられる。また地名にはアイヌ語を起源とするものが圧倒的に多い。道内35市のうち札幌をはじめ80%近い市が該当し、山岳河川名の大半がそうである。漢字で表現され和名と思われるものもアイヌ語の意訳であることが多く、狩猟漁労民として自然と接したアイヌが、土地の特徴を適切に表現する民族的叡智を示した結果であろう。近年はアイヌ語についての意識が高まりつつあり、アイヌ語関連学習教材の出版が増えてきている。また寒冷積雪地への対応から、住宅は縁側や雨戸など開放的な構造は用いられず、壁と柱を一体にしたいわゆる枠組工法によるものが多くなってきている。また窓など開口部は二重式がほとんどである。歴史が新しいため民俗芸能や行事は少ない。それでも道南には松前神楽(かぐら)、江差沖揚(えさしおきあげ)音頭、江差追分(おいわけ)など古い芸能が集中する。一方、古くからのアイヌ芸能行事の復興が熱心に進められ、鶴(つる)の舞など「アイヌ古式舞踊」(国の重要無形民俗文化財)やムックリなどアイヌ楽器の保存伝承、また日高振興局管内の平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)アイヌ文化博物館の古い風習の保存活動などが、道央から道東にかけてみられる。熊(くま)の木彫など本来アイヌの授産活動が大衆化とともに変形したものもある。国や北海道の指定文化財は329件ある(2017)。国指定では阿寒湖のマリモ、昭和新山などの特別天然記念物6件を含めて天然記念物は48件と多く、北海道の特性が現れている。史跡は特別史跡の函館市の五稜郭(ごりょうかく)をはじめ各藩陣屋跡など幕末の北辺防衛施設、アイヌのチャシ(砦(とりで))や和人の館(たて)跡などアイヌと和人の抗争を物語る北海道独自のものが多い。重要文化財には明治期の西洋文明を取り入れた洋風建物がよく知られ、札幌を象徴する時計台(旧札幌農学校演武場)や通称「赤れんが」の旧北海道庁本庁舎、札幌の豊平館(ほうへいかん)や旧函館区公会堂など、開国とともに西洋文化の影響を受けて開けてきた北海道を表すものに特色がある。なお、アイヌ民族については「アイヌ」の項を参照されたい。
[柏村一郎]
日本の北方には、歴史的に蝦夷、毛人、えみし、えぞなどとよばれた人々がいた。そうしたなかで、北海道における民話の特色は、先住民族であるアイヌの伝承に認めることができる。現在もなおその伝承者は生存する。
アイヌの伝承は、『ユーカラ』『サコルペ』『ハウキ』などの長編叙事詩に代表される。それらでは、主人公を英雄神や動植物の姿をもつ自然神として語られる。そこで特筆されるのは、これらの物語はいずれも主人公の自伝形式をもって語られる点にある。第一人称発想である。内容は、多く恋と戦いと信仰を主題にしているが、それはいずれも祭りや儀式に直結し、きわめて神聖なものとして処遇されている。同時にまた子供たちの教育や扶育に役だつ働きも与えられている。こうした口語りの物語に通じるのが、教養の第一義とされてきた。これは、文字をもたない民族にあって、民話が人間生活にいかに深くかかわってきたかをよく示す例である。
一方、北海道には本土から伝えられた民話も多い。この地は早くから憧憬(しょうけい)と神秘観の対象であった。人々のそうした心意を反映して、鎌倉時代にはすでに『御曹司島わたり(おんぞうししまわたり)』が成立した。民衆の間に人気のあった源義経(よしつね)が、蝦夷の地へ渡って神オキクルミとして祀(まつ)られたとする伝承もある。
また、北海道南部の海岸部には、江差の繁次郎(しげじろう)を主人公とする笑話が伝えられている。ニシンの漁場として栄えた江差には、ニシン漁の季節労働者のヤン衆(しゅ)が各地から集まってきた。繁次郎話は、そうした人々のなかで生まれた狡猾(こうかつ)で愛すべき男の笑話である。繁次郎話は東北海岸一帯にも分布し、ニシン場を行き交った人々と民話の関係を如実に示している。
なお、第二次世界大戦後樺太(からふと)(サハリン)から移住したウイルタ人の民話も語られ、「テールク」「サフリ」などの古式ゆかしい民話を誇る老齢者も現存する。
[野村純一]
『『新北海道史』全9巻(1969~1981・北海道)』▽『海保嶺夫『日本北方史の論理』(1974・雄山閣)』▽『高倉新一郎・関秀志著『北海道の風土と歴史』(1977・山川出版社)』▽『榎本守恵著『北海道の歴史』(1981・北海道新聞社)』▽『『北海道大百科事典』上下(1981・北海道新聞社)』▽『榎森進著『北海道近世史の研究』(1982・北海道出版企画センター)』▽『桑原真人著『近代北海道史研究序説』(1982・北海道大学図書刊行会)』▽『八木健三・辻井達一編著『北海道――自然と人』(1985・築地書館)』▽『『角川日本地名大辞典 北海道』全2巻(1987・角川書店)』▽『桑原真人編『開拓のかげに――北海道の人びとⅠ』(1987・三省堂)』
基本情報
面積=8万3456.87km2(全国1位)
人口(2010)=550万6419人(全国8位)
人口密度(2010)=70.2人/km2(全国47位)
市町村(2011.10)=35市129町15村
道庁所在地=札幌市(人口=191万3545人)
道花=ハマナス
道木=エゾマツ
道鳥=タンチョウ
日本の最北部に位置し,地理的には,本州に次ぐ第2の大島である北海道本島(面積7万8073km2)と奥尻島,利尻島,礼文島,歯舞(はぼまい)諸島,色丹(しこたん)島など大小の属島からなる。南は津軽海峡を隔てて本州と,北は宗谷海峡を隔ててサハリン(樺太)と対しており,北東に千島列島が連なる。行政的には,都府県と並ぶ地方自治体で,その面積8万3457km2は,施政権の及ばない歯舞諸島,色丹島,国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島(合計5036km2)を含めたものである。面積は全国の約1/5にあたるが,人口は約1/20にとどまり,人口密度は72人/km2(施政権外の地を除く)であって,全国都道府県の中できわだって低い。
かつては蝦夷地(えぞち)とよばれていた。1855年(安政2)江戸幕府は松前藩に松前地方のみを残して他の蝦夷地を箱館奉行支配の直轄地とし,59年にはこれを分割して奥羽6藩(仙台,盛岡,弘前,秋田,会津,庄内)の領地ならびに警衛地とした。68年(明治1)明治政府は箱館裁判所を置き,次いで箱館府と改めて蝦夷地経営に着手したが,まもなく榎本武揚(たけあき)率いる旧幕府軍に占拠されて一時中断,翌年箱館戦争(五稜郭の戦)後に開拓使を新設して本格的な開拓事業に乗り出した。また蝦夷地を北海道と改称して11国86郡に分けた。しかし当初開拓使が管轄したのはこのうち20郡余にすぎず,他は省,府,藩,士族,寺院に分割支配させ,70年には樺太を管轄する樺太開拓使を分置した。翌71年開拓使は樺太開拓使を併合,さらに諸県(旧藩)などの支配地も管轄下に収めた。一方,松前(福山)藩は69年館藩と改称,71年の廃藩置県を経て弘前県(後に青森県と改称)に併合されたが,72年開拓使に移管された。82年開拓使は廃止,北海道にも県制がしかれて札幌,函館,根室の3県となり,開拓関連諸事業は翌年農商務省の北海道事業管理局へ移された。しかしこの3県1局制は成功せず,86年廃されて北海道庁が置かれ,全道を管轄した。1947年地方自治法施行により北海道庁は廃止,北海道は他府県同様,地方自治体となって現在に至っている。なお,1855年2月7日(安政1年12月21日)調印の日露和親条約以来,択捉島以南が日本領とされ,75年日露間の樺太・千島交換条約によって樺太を放棄し千島全島が日本領となった。51年調印のサンフランシスコ講和条約において日本政府は〈千島列島〉の権利を放棄したとされるが,〈北方領土〉の帰属の問題については未解決であり,詳細は〈千島列島〉の項を参照されたい。
北海道の先史時代については,アイヌ文化との連続性,アイヌの歴史がどこまでさかのぼるのかということが,研究の大きなテーマの一つである。これはまた,日本列島の人間の歴史につながる問題でもあり,北海道の遺跡は,それについての鍵をにぎっている。
北海道において,旧石器時代の存在が本格的に実証されたのは,1954年後志(しりべし)支庁黒松内町の樽岸(たるきし)遺跡の調査によってであった。それ以来現在までに白滝遺跡など約700の旧石器時代の遺跡が発見されている。中でも1983-84年の後志支庁今金町のピリカ遺跡と渡島(おしま)支庁知内町の湯の里遺跡における,カンラン岩を材料とした磨製の平玉の発見が注目される。この玉の原材料の産地はシベリア大陸である可能性が強く,日本の旧石器時代人の磨製技術のあかしであるとともに,人間の移動経路を考えるうえで重要な資料である。湯の里遺跡の玉は,脂肪酸検定により,高等動物(ヒトか)を埋葬した墓からの出土であることが判明し,関心を集めている。
縄文時代以降になると,いくつかの時期が重複した遺跡が多くなる。とくに,道東北のオホーツク海岸から道東の太平洋岸にかけての段丘上には,常呂(ところ)遺跡など数十から数百の竪穴住居址群をもつ遺跡があり,なかには縄文早期のころのものさえ含む竪穴住居址群が地表面のくぼみとして観察できるものもある。近年の調査では,縄文時代にも大規模な土木工事が行われていたことを示す遺構が多く発見されている。第1は,苫小牧市静川16遺跡の中期の環壕である。台地上をめぐる環壕は長軸60m,短軸30mの楕円形をなし,壕の総延長は約140m。壕の断面形は上面幅2m,底幅0.5m,深さ1~2mの台形で,排土量は約263m3となり,当時の工具を考えると,この環壕工事には300人以上の人手を要したであろう。第2は恵庭市柏木(かしわぎ)や千歳市新千歳空港遺跡などで発掘された後期の周堤墓(環状土籬)である。周堤墓は道央部に集中して発見されているが,根室支庁標津(しべつ)町にもみられる。そのうち最大規模のものは千歳市キウスにあり,周堤の外径75m,内径34m,堤の高さ5.4mである。この種の遺跡の調査は,ようやく緒についたところであるが,このような土木工事を可能にした縄文人の社会組織とエネルギーについての究明は,考古学の新しいテーマである。
北海道には本州の弥生文化は伝わらず,縄文文化の次には,縄文文化を色濃く残した続縄文文化の時代となる。また,この続縄文文化が本州の土師器を伴う文化の影響を受けて,擦文(さつもん)文化が成立する。続縄文期の江別市江別太(えべつふと)遺跡の柄つき石製ナイフや木器,札幌市北海道大学構内遺跡の擦文文化期のやな(簗)などの発見は,後世のアイヌ文化との連続性を感じさせる。一方,江別市などの古墳群や,北大構内で出土した文字の書かれている土師器などには,本州文化の強い浸透もうかがえる。また,擦文文化にほぼ並行する時期にオホーツク海沿岸に波及したオホーツク文化期では,根室支庁羅臼町の松法川(まつのりがわ)遺跡の火災住居から発見された木器類や木製彫刻の数々には,やはりアイヌ文化との連続性が認められる。
アイヌ文化と直接かかわりがある遺構と考えられているものにチャシ(砦)がある。現在,約400基が確認されており,一見,単純な遺構にみえるが,釧路市フシココタン・チャシ,日高支庁平取町のポロモイ・チャシなどの調査例からみると,動物のイオマンテ(神おくり)の跡やチセ(家)などが検出され,複雑な様相を呈していることがわかってきた。そのほか,渡島半島の海岸沿いに,いわゆる〈道南十二館〉といわれる15~16世紀に渡来してきた和人の居館跡があるが,アイヌと進出和人の関係を考えるうえでも欠くことのできない遺跡で,これについてもようやく調査の目が向けられてきた。
執筆者:狐塚 裕子
北海道は,本州以南とはかなり異なった地理的特徴をもっている。これは単に気温が低いことに起因するだけでなく,ブラキストン線の通る津軽海峡が動物区上の境界となっていることなど,氷期の海面低下とかかわる古地理学上の理由なども加わっている。
年平均気温は平地部で5~8℃,東京との差は7~10℃に及び,最低気温は内陸盆地では-30℃くらいで,旭川では-41.0℃(1902)を記録したことがある。根雪期間は12月から3月に及び,土壌凍結は積雪の少ない東部でとくに著しく最大数十cmに達し,オホーツク海岸や根室海峡では流氷の接岸もみられる。夏季も道東などの太平洋岸では海霧が発生して陸地に進入するため,低温と日照不足により農作物の生育が阻害される。梅雨の現象はほとんど見られず,内陸部の夏は好天が多く,最高気温は30℃を超え,稲など暖帯作物の栽培を可能にしている。だが太平洋高気圧の発達が弱い年には,オホーツク高気圧の流入が支配的となって冷夏となり,広く冷害が発生する。内陸部は日本最大の年間気温較差を示し,最高気温と最低気温の差は60~70℃に達する。全道的に年間降水量は少なく,南部の日高・胆振(いぶり)地方の山地は集中豪雨の多発地であるが,北東部の北見地方の年平均降水量は800mm以下で,日本で最も降水量が少ない。
北海道の地形の骨格は,東北日本弧,サハリン弧,千島弧の会交によって形成されている。北海道本島は地形・地質の違いから石狩-勇払低地帯を境に,南西の半島部と東の北海道胴体部に分けられる。南西の半島部は広義の渡島(おしま)半島の範囲にあたり,本州北部の延長で東北日本弧に沿い,地形・地質も東北地方と似ている。石狩-勇払低地帯の東側の北海道胴体部の地形には,日本の他地域にはほとんど見られない次のような特徴がある。(1)緩慢な地盤運動と氷期の周氷河作用のため,全域を通じて起伏の緩いなだらかな山地・丘陵地が支配的で,広い台地や広大な海岸段丘が発達している。(2)激しい造山運動で形成された日高山脈だけは急峻な山容を示し,その中央山嶺線付近は深成岩,変成岩からなっている。ここは氷期には山岳氷河が発達し,30以上のカール地形が残っている。(3)低地の大部分は,開拓以前には表層に泥炭の発達する湿原だったところで,高度差の少ない低地を石狩川,天塩(てしお)川など日本有数の長流が流れて著しい曲流を示していた。
北海道には火山が多く,これは東北日本弧と千島弧に沿って分布する。そのうち約30が明瞭な火山形態を保ち,最近の噴火活動も活発である。大規模な陥没カルデラが多数存在することが特徴で,屈斜路(くつしやろ),阿寒,支笏(しこつ),洞爺の各カルデラは大きな火山湖をもち,大雪山と十勝岳には,その後の火山活動で埋積された大カルデラがあったものと考えられている。これらのカルデラは大量の溶結凝灰岩などを噴出して広大な台地をつくっていることが多い。
野生動物,とくに鳥獣には本州との共通種は少なく,北方大陸に共通種の存在する特有の動物が多い。ヒグマ,エゾアカシカ,キタキツネ,シマリス,エゾライチョウ,コモチカナヘビ,キタサンショウウオなどはその例である。氷期の遺存動物であるエゾナキウサギ,ウスバキチョウなどが高山帯に隔離分布し,北方大陸とかつては陸続きであったことを証明している。植物分布では津軽海峡は境界とはならず,渡島半島には,東北地方と共通してブナなどで代表される冷温帯植物が分布している。渡島半島基部の黒松内(くろまつない)-寿都(すつつ)低地帯を境に,その北方にはブナ林,ヒバ林は見られず,その南方にはエゾマツ林は分布しない。北海道の主要部は本州の植生とはかなり相違し,亜寒帯樹種のエゾマツ,トドマツなどが冷温帯樹種と混交するなど,温帯と亜寒帯との移行地帯となっている。
明治維新以後,北海道開拓が急速に進んだが,寒冷未開の大原野の開発は,本州での在来技術では困難であった。開拓使はケプロンら主としてアメリカから顧問・技師を招き新技術の導入をはかり,札幌農学校を創設(1876)してクラークら外人教師による農業技術者新指導層の養成を行った。石狩平野の開拓と幌内(ほろない)炭鉱の開発は1882年手宮(小樽市)~幌内(三笠市)間の幌内鉄道(現,函館本線など)が全通して急速に進んだ。移民の来住のため多額の費用が投ぜられたが成果は不十分であったため,入植士族団の成功に範をとり,規律と団結を基礎とする屯田兵制度を採用して成果をあげた。
1886年道庁開設以降の拓殖方針は,資本主義経済の確立期を迎えて,道路,港湾,土地区画測量などの基幹開発を国が行い,民間資本の導入と移民の流入を促進しようとするものであった。道庁開設は拓殖史上の画期となり,当初,太平洋沿岸部と石狩平野南西部にとどまっていた入植地は,石狩平野北部から上川盆地に至る内陸部へ広がった。さらにここから北見,網走に至る上川・北見道路の完成など基幹交通路の開発が進行し,明治末までには根室本線ほか鉄道網が伸長して十勝平野などの開拓を促進した。一方,このような開拓の前進に伴って先住民族であるアイヌの人たちは生活圏と独自の文化を破壊された。これらの人々を対象に,1899年北海道旧土人保護法が制定されたが,1997年に〈アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律〉が制定されて,さきの法律は廃止された。第1次大戦中の輸出農産物の価格高騰により〈開拓前線〉は大きく前進し,この時期に北海道の可耕地の大部分は開拓を終わった。第2次大戦後には,従前の技術水準では困難であった石狩平野の高位泥炭地が開発されて造田が進められ,昭和30年代以降,大規模草地酪農の導入により根釧(こんせん)台地が本格的に開発された。
函館本線,室蘭本線,根室本線などの幹線鉄道網は大正期に敷設を終わり,その後も鉄道網整備が進んだが,現在は利用率の低いローカル線が多く,バス路線への転換などが進められている。幹線道路網は本州に比べて低密度であり,高速自動車道は札幌市を中心に1997年までに長万部~旭川鷹栖間(2008年現在,八雲~士別剣淵間)の道央自動車道,札幌ジャンクション~小樽間の札樽自動車道,十勝清水~池田間(同,千歳恵庭~夕張間,トマム~本別・足寄間)の道東自動車道がそれぞれ完成したにとどまるが,道路網整備は常に重点事業とされ,70年代以降の幹線道路整備と除雪体制確立により道内の交通事情は飛躍的に改善された。本州との旅客交通は,かつてはもっぱら青森~函館間の鉄道連絡船によっていたが,1952年東京~札幌間の定期航空路が開かれ,その旅客数は70年代半ばには連絡船による旅客数を超え,年々差を広げていった。88年のJR津軽海峡線開通後青函連絡船は廃止されたが,空路の優位は変わらない。道内には定期空路を持つ空港が13あり,96年の乗降客数は2200万人,その7割以上は新千歳空港が占め,単一路線の乗客数では千歳・羽田間は世界一であるという。この空港は道外33空港,道内5空港と結ばれ,さらに国際的な拠点空港としての発展が展望されて97年にはヨーロッパと結ぶ定期便も開かれた。東京など本州各地と結ぶ空港には新千歳空港のほか函館,旭川,釧路,帯広,女満別(めまんべつ),中標津(なかしべつ),稚内(わつかない),紋別がある。道内空路は札幌(千歳,丘珠(おかだま))と函館,釧路,中標津,稚内などが結ばれる。
第2次大戦後の開発で特に注目されたものに苫小牧工業港の造成と青函トンネルの建設があった。1963年に開港した苫小牧港は日本最初の掘込み式港湾で,京浜地方などと北海道中核部とを結ぶ近道をつくり,新工業地帯の形成により北海道の工業化を促進しようとするもので,70年代にはさらに新コンビナート形成を目指す苫小牧東部大規模開発事業も着手された。しかし経済環境は一変して東部開発計画は挫折し,石油備蓄基地への転換もはかられた。現在新計画のもとで複合的な開発を目指す基盤整備がはかられている。掘込み式港湾を核とする開発では,札幌市北方石狩市を中心とする石狩湾新港の生産・流通拠点開発が進んでいる。青函トンネルは世界最長のトンネル工事として,1963年の調査坑着工時には大きな期待がかけられていた。88年にJR津軽海峡線が開通したが,着工から1/4世紀を経て,本土との交通の主役はすでに空路とフェリーに移っていた。
開拓は明治政府の政策によって計画的に進められたため,封建時代からの伝統の上に立つ国内の他地域,たとえば東北地方などとは社会・文化面でもかなり異なった性格をもっている。たとえば言語は,道南を中心とする〈浜ことば〉などの方言があり,今日広く北海道で日常用いられる言語には若干の特有語彙があって,〈見ろ〉の代りに〈ミレ〉,〈来られる〉の代りに〈コレル〉を用いるなど,活用形に特色も見られるものの,全国共通語にきわめて近いもので,アクセントもほぼ東京式である。内陸部大都市ではとくに共通語化が進んでいる。文化的伝統は未成熟であるが,農村社会においても共同体的社会規制が少なかったため,早くから自由の天地として進取の気風が育つ傾向が強かった。
→北海道開拓
北海道は,日本の資本主義経済の発達過程で,石炭,木材,農産物など原料の生産地として,また商品の販売地として開発が進められてきた。これは今日までの北海道の経済や産業構成にも深い影響を与えている。産業別就業人口の構成比(1995)は,第1次産業9%,第2次産業24%,第3次産業67%で,全国に比べて第1次・第3次産業が高く,第2次産業でも製造業がとくに低率である。
開拓初期には水産業の占める地位はきわめて高く,1885年においても農業は総生産額の5%を占めるにすぎなかった。開拓の伸長は産業構成にも急速な変化を与え,97年には農牧業は水産業に並び,1900年以降は常に農牧業が首位に立った。このころ工業も地歩を固め,1910年には総生産額では農業の43%,水産業の23%に対して工業は15%となった。明治末は農業の比重が最も高かった時期で,日本の資本主義が独占段階に進むにつれて大工業の立地と炭鉱開発が活発となり,他方,農業開発はピークを過ぎ,20年には工業30%,農業24%,水産業19%,鉱業15%,林業9%となった。第2次大戦前後の鉱工業の伸長,高度経済成長期以降の石炭など鉱業の衰退,林業・水産業の停滞などの変遷があって,80年には工業75%,農業13%,水産業6%,鉱業3.5%,林業2.5%,94年には工業83%,農業12%,水産業3%,鉱業1%,林業1%で,長期的には工業の著しい比重増大と他産業の比率低下がみられる中で農業は相対的に安定している。
農業では1970年代には稲作,畑作,酪農が生産額をほぼ3等分していたが,90年代には稲作,一般畑作,野菜・花きそれぞれ2割,乳用牛を主とする畜産が4割となって,稲作中心の本土農業との相違は一層拡大した。また,1農家当りの経営耕地面積は約13.7haで,都府県平均の10倍以上,1農家当りの生産額では3倍を超え,経営規模の大きなことが北海道の農業の特徴である。専業農家率も著しく高く,都府県では1960年に33%であった専業農家は80年には12%に減ったが,北海道では50%から43%に減っただけで,95年にいたっても,この値は変わらない。自然条件の劣る北海道では1戸当り経営面積の広いことが必要で,早くから規模が大きかったが,60年代以降他府県農業が兼業化の道をたどったのに対し,兼業の機会に恵まれない北海道ではむしろ離農が多く,これによって残存農家の規模拡大が行われたことも今日の大面積経営を成立させた要因である。経営規模が大きかったことは,1900年代から馬耕などの高能率農業を成立させ,60年代以降の農業の機械化,70年代以降の大型機械化の時代にも先進性を発揮した。
早くから商品としての農産物を生産する農業であったこと,農産物加工業との結びつきが強かったことも北海道農業の特色である。新開地での農業経営を成立させるため,開拓使は各種加工場を設立し,原料農産物の栽培を奨励して農産物買上制度を採った。北海道の農業は戦前の亜麻などや現在の牛乳,テンサイなど,大資本が経営する農産物加工業に原料を供給する農業の比重がきわめて高い。北海道のおもな農産物生産高の全国に占める割合(1996)は生乳41%,テンサイ100%,ジャガイモ79%などとなっている。また,明治初期には函館平野にあった〈水稲作付前線〉は北と東へ急速に前進したが,昭和初期の冷害を機として東から作付前線の後退が進み,米の生産制限が行われるようになった1970年代以降では名寄盆地以南の西部北海道と北見盆地などが安定した稲作地域となっている。稲作の前進・後退や酪農・各種園芸作物の急伸などにみられる経営形態や栽培作物の大きな変動が繰り返されていることも北海道の農業の特徴といえる。なお,農村の景観で特徴的なことは,農業集落の大部分が農家が散在する散居村であることである。
北海道は全国有数の林業地帯で,1970年以降の森林面積は560万ha前後で,総面積の7割強,全国森林面積の2割強を占める。国有林率が57%(都府県平均25%)と高く,人工林率が27%(同41%)と低い(1996年現在)。森林蓄積量は全国の17%で,これに比例して木材生産量も全国の17%,約440万m3に達するが,近年は外材依存率が高まり,60%を超えるにいたった。森林蓄積量では広葉樹の比率が高く,これは針葉樹の大半が樹齢の若い人工林で,広葉樹は長い年月を経た天然林が多いことによる。天然林の樹種は,広葉樹ではカンバ,ナラ,シナノキ,カエデなどを主とし,針葉樹ではトドマツ,エゾマツが多く,針葉樹人工林には道外樹種のカラマツが多い。最も重要な生産地は蓄積量の大きい脊梁山地主要部の周辺,網走,上川,十勝,日高の各支庁である。
近世から明治中期にかけて,とくに松前・江差地方で盛んであった春ニシン漁は,明治20~30年代に小樽,余市などでニシン御殿がつくられるほど栄えたが,その後衰退に向かい,1955年以降は激減した。北洋漁業も著しく縮小され,とくに77年の200カイリ漁業専管水域設定は北海道の水産業に大きな打撃を与えた。しかし,北海道は函館,釧路,稚内をはじめ284の漁港,3万6000人の漁業就業者(全国の12%),4万1000隻の動力船(全国の11%。1995年)という数値に示されるように大きな漁業生産力をもっている。寒流と暖流が交錯し魚礁に恵まれた海を控えるという好条件を生かして漁獲高,水産加工品生産額とも他府県を引き離して首位に立ち,北海道への水揚量は178万t,全国の24%を占め,水産加工生産量も106万t,全国の19%に達している。魚種では,1970年代以降,養殖のホタテガイが伸び,近年は生産量でも首位に立っている。毎年の変動はあるが,金額的には,ホタテガイ,サケ,コンブ,イカ,スケトウダラなどが多く,道南のイカ漁,知床半島のサケ定置網,各地のコンブなど地域漁業の根幹をなす特産も多い。ケガニ,タラバガニ,ハナサキガニなども特産品であるが,乱獲による資源の枯渇が著しい。シシャモは太平洋沿岸の限られた地域でのみ漁獲される。近年,孵化事業の成果があがってサケ・マスの河川遡行が増加し,とくに道東の諸河川には大量の回帰が見られるようになり,最近では魚価の低迷を招くほどになった。
石炭産業は北海道の主要産業の一つであった。開拓使は幌内炭鉱の開発を行い,小樽と結ぶ幌内鉄道を建設した。炭鉱と幌内鉄道の経営は民間資本に移され,1889年設立の北海道炭礦鉄道は石狩炭田と室蘭とを結ぶ鉄道を建設し,北海道の石炭産業に独占的地位を占めた。1906年に鉄道が国有化され,また第1次大戦の石炭需要急増期には中小企業と財閥系資本による炭鉱が相次いで開かれた。石狩炭田,釧路炭田,留萌(るもい)炭田,天北炭田などがあり,その推計埋蔵量は全国の半ばに達し,燃料用炭のほか製鉄原料炭の埋蔵もある。しかし1960年代の石炭産業の不況化により炭鉱の閉山が相次ぎ,最盛期(1966)の採炭量2300万tが10年後にはその45%程度に落ち,95年には操業中の大規模炭鉱は釧路の太平洋炭鉱のみとなった。閉山が地域に及ぼした影響は甚大で,最大の炭鉱都市であった夕張市の人口は1965年の8万5071から80年の4万1715,95年の1万7116へと激減。歌志内市は65年の2万7744から80年の1万0178,95年の6867と減り,全国で人口の一番少ない市となっている(2009年現在)。
工業出荷額は,全国の1.9%,都道府県順位で19位にとどまるが,食品工業の出荷額は全国1位であり,食料品,木材木製品,紙パルプなど地方資源型工業が出荷額全体の半ばを占め,北海道の工業が現在も資源立地型の工業を中心としていることを示している。石油精製,窯業土石,鉄鋼業の地位も比較的高く,総じて素材生産・低加工工業の比重が高いが,日本工業の中核を担っている電子工業,輸送機械,石油化学などの立地では立ち遅れている。
開拓使が設立した官営工業は24業種に及び,ビール醸造など民営に移されたのちも発展して今日の工業の基礎となったものも少なくない。明治中期の繊維産業を中心とする日本の産業革命期において,北海道ではまだ本格的な工業発展の条件は整っていなかった。明治末期に至って室蘭の製鉄・製鋼,江別,釧路,苫小牧の製紙など本州大資本による近代工業の立地が進んで,素材生産工業を主軸とする北海道工業化の基礎が形成された。大正期には乳製品やテンサイ製糖などの工業の立地が進み,1938年以降,化学肥料(砂川市),繊維用パルプ(旭川市)などの工場が立地した。北海道の大工場は,道外大資本によるものか乳業など農産加工業で,いずれも一貫生産工場であるため,今日まで成熟した工業地帯の形成は充分には進んでいない。高度経済成長期には苫小牧工業港が完成し,その臨海工業団地にアルミニウム精錬,石油精製など重化学工業の立地がみられたが,同時に製麻,製粉など開拓期以来の農産品工業の一部は衰退した。北海道の現在の工業立地は,地域的には札幌,千歳,苫小牧,室蘭などの道央圏に集積し,出荷額の過半を占めている。最近の企業立地の傾向では,札幌周辺などでの情報関連産業の集積,道央のほか函館,旭川などでの新技術開発・情報ネットワークの形成・頭脳立地構想などが注目される。伝統工業というべきものはないが,家具,陶芸,紬(つむぎ)などに優れたデザインを誇る新しい工芸品工業が育っている。
都府県とは異なった風土をもち,雄大な自然景観の展開する北海道は,優れた観光地に恵まれている。大雪山,阿寒,支笏洞爺,知床,利尻礼文サロベツ,釧路湿原の各国立公園,大沼,網走,ニセコ積丹(しやこたん)小樽海岸,日高山脈襟裳,暑寒別(しょかんべつ)天売(てうり)焼尻(やぎしり)の各国定公園はその代表であり,他に12の道立自然公園がある。自然公園では火山,海岸,山岳の美観が展開し,温泉地が観光基地となっている場合が多い。夏季の観光客が多いのは北海道観光の特徴で,僻遠性をもつ観光地を訪れる観光客も増加を続けている。道内旅客の行楽は秋季に多く,最近は道外からもスキー,雪まつりなど冬季レクリエーションを楽しむ人々が増加している。
北海道は結節点をなす主要都市とのつながりから,道央,道南,道北,道東の4地域に分けられ,道東は,一つの地域というよりも,北見,帯広,釧路を中心とする三つの都市圏の集合で,北海道の長期総合計画では,それぞれを〈オホーツク圏〉〈十勝圏〉〈釧路・根室圏〉と呼んでいる。
(1)道央 札幌市を中心とする地域で,20の市と石狩,空知,後志(しりべし),胆振,日高の各支庁管内の地域を含む。道内人口の半ば以上が住み,北海道の中核をなしている。札幌市は日本の典型的な広域拠点都市で,道庁と北海道開発局の所在地として道行政の中心地であるだけでなく,国の地方諸機関,本州大企業の支社支店,多数の高等教育機関が集中し,北海道の経済・文化の中心であり,卸売販売額でも全道の2/3を占める。戦後の札幌市の人口は,中枢管理機能の高度の集積を核として急速に増加し,全国第5位の人口をもつ大都市に発展した。小樽市はかつて函館市とともに道内商圏を二分した港湾都市で,1970年ころから経済中心としての機能は札幌市に譲ったが,札幌のベッドタウン,観光都市として再生し,道内第7位の人口を保っている。天然の良港をもつ室蘭市は1892年北海道炭礦鉄道(現,室蘭本線)が開通して夕張,岩見沢と結ばれ,港湾が整備されて石炭積出港となり,また明治末の鉄鋼業立地により重工業都市として発展してきた。湾口を結ぶ巨大な白鳥大橋(98年開通)はこの都市に新たな発展を促す契機となろう。苫小牧市は大製紙工場の立地する都市であったが,人工港が戦後に建設され,臨海工業都市となった。これらの諸都市を結ぶ一帯は,1964年道央新産業都市の指定を受け,北海道工業化の拠点となっている。夕張,三笠と岩見沢から芦別に至る函館本線,根室本線沿いには,石狩炭田の開発と関連して発達した都市が多い。
道央の北部は,日本屈指の大平野石狩平野を中心とする地域で,1900年前後から石狩平野の造田が進み,50年以降,泥炭湿原の大規模開発が行われた。稲作農家1戸当りの経営面積は全国屈指の規模を誇り,高度の機械化が達成されている。江別市周辺は古くからの酪農地帯で,北広島市,恵庭市などとともに札幌市のベッドタウンとして都市化が進んだ。また札幌市北郊などのタマネギをはじめ,各地に野菜生産地が分布する。道央南西部の胆振地方は米作と野菜生産を主とし,南東部の日高地方は競争馬の産地として,羊蹄山山麓周辺はアスパラガス栽培の発祥地,余市町は果樹栽培やウィスキーの生産で知られる。
(2)道南 函館市を中心に渡島・檜山両支庁管内を含む。道内唯一の城下町福山(松前町)と江差町など史跡に富む町があり,道内では半島部に位置するため,風土,景観,歴史が道内の他地域とはかなり異なっている。函館市は昭和初めまで札幌市をしのぐ道内最大の人口をもつ都市で,長く北海道の門戸として,また商業中心地,北洋漁業の基地として発展してきた。函館平野などには水田地帯が展開し,各地に酪農・畑作地帯があるが,経営耕地規模は東北地方北部の農村と大差はない。
(3)道北 行政的なつながりでは旭川市を中心とする6市と上川,留萌,宗谷の3支庁管内の地域を含んでいるが,経済・文化的なつながりでは道東の遠紋(えんもん)地方(紋別市,紋別郡)と,道央の北空知地方(深川市,雨竜郡北部)が含まれる。旭川市は上川盆地の中心都市として計画され,1900年第7師団が置かれて軍都として発展し,戦後道北の中心都市に成長した。名寄盆地,上川盆地,富良野盆地と留萌地方の平地部には水田地帯が展開している。上川盆地はトマトなど果菜,富良野盆地はニンジンなどを主とする野菜産地でもある。名寄盆地北部,留萌支庁管内の北部は水田の北限地で,この北に当たる宗谷支庁管内では草地酪農が行われ,サロベツ原野,東天北原野など未開発の湿原や海岸草地が残されている。
(4)道東 帯広,釧路,根室,網走,北見,紋別の6市と十勝,釧路,根室,網走の4支庁管内を含む。この地域は道北の宗谷地方とともに1920年ころまではほとんど水田はなく,30年ころまでの間に急激な造田が行われたが,その後相次ぐ冷害で水田面積は著しく減少した。現在では北見盆地などを除けば水田地帯は限られており,本州と大差ない水田率をもつ西部北海道とは対照的である。道東はさらに帯広,釧路,北見の3市を中心として,それぞれ十勝,根釧,網走の3地方に分けられる。
十勝地方で広い面積を占める十勝平野は軽い火山性土壌に覆われ,かつては豆類単作の大面積経営が展開したが,1970年代以降,根菜(テンサイ,ジャガイモ)が豆類をしのぐようになった。大型農業機械を用いて日本有数の経営規模の大きな畑作地帯となり,防風林に囲まれた大面積の畑が展開する。十勝地方の海岸部,山麓部では酪農が伸長し,支庁別の乳牛飼養頭数では全道で最大である(約21万頭,1996)。帯広市は十勝平野一円の農産物集散地,商業中心地として,また支庁所在地として発展し,典型的な地方中核都市として十勝地方における都市機能を集中している。
根釧台地を中心とする根釧地方は夏季の低温地域で,農業開発が遅れ,釧路湿原など未開発の自然が残されている。1955年以降,別海町の床丹(とこたん)で始められたパイロット・ファーム事業は当時としては大規模酪農のモデルとなり,73年からは隣接地域でより大規模な経営の新酪農村建設も進んで,1戸当り乳牛飼養頭数は根室支庁管内で97.2頭(1996)という,日本で最大規模の草地酪農地域となっている。新酪農村をはじめ広大な草地に大型の畜舎と金属サイロをもつ酪農家が点在する光景が展開している。この地方ではかつては根室が中心都市であったが,大正期には釧路市が伸長し,根釧地方の中心都市となった。釧路市は江戸時代からの船泊りであり,明治以降港湾都市に成長し,漁業基地としての地歩を固め,さらに炭鉱,製紙工場が立地して道東最大の人口をもつ都市に発展した。
網走地方は,多角経営の畑作が行われ,北見盆地など水田率の比較的高い地域もある。かつては世界市場でも屈指のハッカの特産地であったが合成ハッカに押されて衰退した。現在では水田の減少と酪農の伸びが著しく,北見盆地周辺の地域ではタマネギなどの栽培が伸長している。網走支庁所在地は網走市であるが,屯田兵村から発展した北見市は網走地方の中心部に位置し,都市的機能を集積して昭和に入ってからの成長が著しく,この地方の中心都市としての地歩を固めた。
執筆者:岡本 次郎
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日本最北部に位置する道。1868年(明治元)新政府は蝦夷地(えぞち)支配に着手したが,旧幕府軍の占領によって中断。69年箱館戦争終了後に開拓使をおき,松浦武四郎の名称案により,同年8月15日蝦夷地を北海道と改称し,渡島(おしま)・後志(しりべし)・石狩・天塩(てしお)・北見・胆振(いぶり)・日高・十勝・釧路・根室・千島の11カ国,86郡にわけた。行政は1869~82年を開拓使,82~86年を札幌・函館・根室の3県,86~1947年(昭和22)を北海道庁が執行した。1947年に行政官庁としての道庁が廃止され,地方自治体となった。開拓使初期に開拓促進をはかるため,諸藩,華・士族,寺院などが分領支配したが,長くは続かなかった。爾志(にし)・檜山・津軽・福島の4郡は館(たて)藩(旧松前藩)領であり,1871年廃藩置県により館県,のち弘前県,青森県の管轄となり,翌年開拓使へ移管。97年支庁制施行で19支庁を設定,1922年(大正11)までに14支庁となる。当初の行政域は北海道と樺太(からふと)と択捉(えとろふ)島まで,1875年樺太・千島交換条約によりウルップ島以北の千島列島も含む。しかし歯舞(はぼまい)群島・国後(くなしり)島以北は第2次大戦後ソ連(現,ロシア)の占領下にある。開拓使はアメリカ人ケプロンら御雇外国人の指導により開拓計画を進め,洋式の農業や食文化を移入した。幕末から懸案だった樺太問題は樺太・千島交換条約で落着したが,北方警備として全道37カ所に屯田兵を配置した。屯田兵は開拓の中核としても大きな役割をはたした。ロシア関係や開拓の進展のなかで問題となったのはアイヌの人々の生活であり,解決の一つとして99年北海道旧土人保護法を制定し,農民化をはかったが,今日へ問題を残した。当初漁業はニシン漁を主としたが,昭和中期に壊滅し,増養殖に転換した。明治期からの石炭産業は長く経済を支えたが,戦後のエネルギー革命により激減した。農業の主流としての稲作は品種改良によりほぼ全道で生産可能となったが,昭和後期における生産調整により停滞している。道庁所在地は札幌市。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 小学館の図鑑NEO[新版]動物小学館の図鑑NEO[新版]動物について 情報
…大化前代には中央政府の外に立ってこれと敵対関係にある人々をエミシと呼び,おもに〈毛人〉〈夷〉という文字をあて,その意味も〈あらぶる者〉〈まつろわぬ人々〉ということで,特定の地域に住む人々を指すものではなかったが,大化改新以降は,主として北越・奥羽地方に住む人々をエミシと呼ぶようになり,文字も〈蝦夷〉〈夷〉をあてるようになった。その後古代律令制国家による東北エミシ政策が積極的に進められる中でエミシ観念も徐々に変化し,12世紀ころにはエミシの呼称がエゾとなり,その対象地域も東北北端部から北海道・千島にかけた地へと北上しただけでなく,その内容も従来の〈まつろわぬ人々〉から異民族としてのアイヌそのものを強く意識した概念となった。さらに鎌倉期以降は,蝦夷=エゾ=アイヌという概念がほぼ定着するとともに,対象地域も主として北海道以北の地を指すようになった。…
…蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。…
※「北海道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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