百科事典マイペディア 「北畠氏」の意味・わかりやすい解説
北畠氏【きたばたけうじ】
→関連項目伊勢国|大河内|曾禰荘|蘇原御厨|浪岡[町]
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鎌倉・南北朝時代の公卿(くぎょう)。姉小路(あねがこうじ)氏(飛騨(ひだ))、一条家(土佐)と並んで三国司家といわれた。村上源氏の流れで、5代源通親(みなもとのみちちか)の孫中院雅家(なかのいんまさいえ)が、京都の居住地によって北畠を家名とした。その曽孫(そうそん)親房(ちかふさ)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に重用されて大いに家名をあげ、親房の子顕家(あきいえ)とともに南北朝時代に南朝の重臣として活躍し、親房は後村上天皇(ごむらかみてんのう)から准后(じゅごう)の宣を受けた。親房の子顕能(あきよし)は南朝から伊勢(いせ)国司に任じられ、一志(いちし)郡多気城(たげじょう)を築いて南朝方として活躍し、以後子孫は伊勢国司を世襲した。顕能の孫満雅(みつまさ)は、1428年(正長1)南朝の後胤(こういん)小倉宮(おぐらのみや)を奉じて挙兵し、敗死している。大河内(おおかわち)氏など一族も伊勢国内に多く、戦国末期まで勢力を維持したが、1576年(天正4)織田信長に滅ぼされた。
[熱田 公]
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…しかし南北朝の動乱の中では守護の権限が一国全体に行きわたるというのは困難であった。伊勢においても守護すなわち幕府側の勢力範囲は主として北部に限られ,雲出(くもず)川以南の一志,飯高,飯野,多気,度会各郡の南伊勢は南朝方の北畠氏によって掌握されていた。北畠氏が南伊勢に進出したのは当時大湊(おおみなと)が軍事上とくに重要であったことと関連すると思われる。…
…坂内(さかない)川が山間部から伊勢平野に流れ出す所に位置。中世後期,伊勢大和国境付近の一志郡多気にこもった伊勢国司北畠氏が,大河内および田丸に平野部を管掌する行政基地をおいたため,政治軍事上の要地として史料上に散見する。とりわけ北畠満雅の弟顕雅を祖とする大河内氏が,いわゆる三御所(大河内,坂内,田丸御所)の一つとして永禄年間(1558‐70)までここに居住し,北畠本宗家と濃密な関係を維持したため,行政上はむしろ大河内が本城の観を呈した。…
…堂上公家。村上源氏の嫡流。家格は清華。江戸時代の家禄700石,笛の家。村上天皇皇子具平親王の子資定王が源姓を賜り源師房と改名,藤原道長の女婿となって右大臣に昇る。その子に俊房・顕房があり,後三条・白河両天皇の藤原氏抑圧策によって,俊房は左大臣に,顕房は右大臣に昇進した。俊房の系統は振るわなかったのに対し,顕房の系統は,その女賢子が関白藤原師実の養女となって白河天皇の皇后となり,堀河天皇を生んだため,実質的に天皇の外戚となったこともあって大いに繁栄した。…
…大半が室町~戦国期の文書である。沢氏は南北朝期から南軍として史料上に散見し,伊勢国司北畠氏の与力,のちには被官として,その文書中に北畠氏およびその家臣の発給文書を大量に残している。北畠氏との関係は戦国末年の北畠氏の滅亡まで継続し,その間,伊勢に飯高(いいたか)郡神戸六郷,一志(いちし)郡小阿射賀(こあざか),多気(たき)郡御糸(みいと)などの分領を宛て行われ,軍役を奉仕している。…
…南北朝期から戦国末年にかけて,それぞれの国の国司として,領国経営を行った三家の総称。1548年(天文17)の述作という《運歩色葉集(うんぽいろはしゆう)》や《貞丈雑記(ていじようざつき)》などでは,飛驒国司姉小路氏,伊勢国司北畠氏,阿波国司一宮氏を三国司と称し,また合戦記ながら史料的価値も比較的高いとされる《足利季世記(あしかがきせいき)》では,姉小路氏,北畠氏に加えて土佐一条氏を挙げている。また江戸初期に成立した《甲陽軍鑑(こうようぐんかん)》などでは,伊勢,伊予,奥州を称するなど,諸書によって異同がある。…
…中世の伊勢国司北畠氏の本城。現三重県一志郡美杉村上多気・下多気に城跡が残る。…
…1336年(延元1∥建武3)10月に伊勢の南軍である度会家行らが北畠親房・顕信とともに城に入り,以後42年(興国3∥康永1)に落城するまで南軍の拠点であった。その後北畠氏は多気(たけ)城に移るが,玉丸城も同氏の支配下にあり,北畠氏の家臣愛洲(あいす)氏,さらに北畠氏の庶流田丸氏の居城となる。田丸氏は田丸御所とも呼ばれ,その居城は大河内氏の拠る大河内(おかわち)城とともに,北畠氏の南勢支配の最重要拠点であった。…
…村上天皇皇子具平(ともひら)親王より出た村上源氏で,内大臣久我通親の子大納言通方を始祖とする堂上公家。家格は大臣家。2代通成,4代通重,5代通顕,8代通守など,勅撰集入集の歌人が輩出したが,その後も近世初頭の通勝・通村父子など歌人として著名である。6代通冬の日記《中院一品記》,10代通秀の日記《十輪院内府記》のほか,近世歴代の家記も多く残り,京都大学に所蔵されている。また通勝は古典にも造詣が深く,細川幽斎の委託をうけて《源氏物語》の注釈書を集成した《岷江入楚(みんごうにつそ)》55巻を著している。…
※「北畠氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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