千宗守(初代) せん-そうしゅ
1593-1676* 江戸時代前期の茶人。
文禄(ぶんろく)2年生まれ。千家3代千宗旦(そうたん)の次男。武者小路(むしゃのこうじ)千家の祖。塗師(ぬし)吉文字屋の養子となっていたが,のち家業を娘婿の中村宗哲にゆずり千家に復帰した。京都武者小路に官休庵(かんきゅうあん)をいとなみ,また讃岐(さぬき)高松藩松平家に茶頭(さどう)としてつかえた。延宝3年12月19日死去。83歳。号は一翁,似休斎。
千宗守(4代) せん-そうしゅ
1725-1782 江戸時代中期の茶人。
享保(きょうほう)10年生まれ。3代千宗守の養子。武者小路(むしゃのこうじ)千家4代家元。邸内に一方庵,弘道庵の茶席をつくる。表千家7代千宗左に協力して千家「七事式(しちじしき)」の制定に参加。初代宗守の百回忌をいとなんだ。武者小路千家の中興の祖といわれる。天明2年2月6日死去。58歳。本姓は嵯峨(さが)。号は堅叟,直斎。
千宗守(10代) せん-そうしゅ
1913-1999 昭和後期-平成時代の茶道家。
大正2年4月21日生まれ。昭和16年武者小路(むしゃのこうじ)千家9代千宗守の養子となり,宗守の長女千澄子と結婚。28年10代家元をつぐ。千茶道文化学院や財団法人官休庵を設立し,学問と茶道の融合をはかる。平成元年隠居し,宗安を号す。平成11年8月19日死去。86歳。兵庫県出身。京都帝大卒。号は有隣斎。旧姓は島。
千宗守(11代) せん-そうしゅ
1945- 昭和後期-平成時代の茶道家。
昭和20年7月21日生まれ。武者小路(むしゃのこうじ)千家10代千宗守の長男。母は懐石料理研究で知られた千澄子。昭和55年から欧米で講演や茶会をおこない,平成4年にはローマ教皇庁(バチカン)で献茶式をするなど,茶道の紹介につとめる。平成元年11代家元をつぎ,官休庵理事長となる。京都出身。慶大卒。本名は方一。号は不徹斎。
千宗守(3代) せん-そうしゅ
1693-1745 江戸時代中期の茶人。
元禄(げんろく)6年生まれ。2代千宗守の子。武者小路(むしゃのこうじ)千家3代家元。手造り茶碗(ちゃわん)などを得意とし,利休より伝来の楽(らく)茶碗「木守(きまもり)」の写しをつくり,本歌(原作)を讃岐(さぬき)高松藩松平家におくった。延享2年3月28日死去。53歳。号は真伯,静々斎,静斎。
千宗守(9代) せん-そうしゅ
1889-1953 大正-昭和時代の茶道家。
明治22年10月8日生まれ。8代千宗守の養子。武者小路(むしゃのこうじ)千家9代家元。茶道の近代化,普及につとめた。機関誌「武者小路」を主宰。昭和28年7月21日死去。63歳。京都出身。東京帝大卒。旧姓は久田。号は聴松,愈好斎(ゆこうさい)。著作に「茶道妙境」「茶道風与思記」など。
千宗守(2代) せん-そうしゅ
1658-1708 江戸時代前期の茶人。
万治(まんじ)元年生まれ。初代千宗守の子。武者小路(むしゃのこうじ)千家2代家元。讃岐(さぬき)高松藩松平家につかえる。近衛家煕(このえ-いえひろ)のもとにも出入りした。以後代々高松藩につかえた。宝永5年閏(うるう)1月22日死去。51歳。号は文叔(ぶんしゆく)。
千宗守(8代) せん-そうしゅ
1848-1898 幕末-明治時代の茶道家。
嘉永(かえい)元年生まれ。表千家10代千宗左の次男。7代千宗守の養子。武者小路(むしゃのこうじ)千家8代家元。嘉永6年の大火でやけた屋敷の復興につとめた。能書家としても知られた。明治31年12月12日死去。51歳。号は一叟,一指斎。
千宗守(7代) せん-そうしゅ
1830-1891 江戸時代後期の茶人。
天保(てんぽう)元年生まれ。表千家10代千宗左の弟。6代千宗守の養子。武者小路(むしゃのこうじ)千家7代家元。家督相続後失明したため6代宗守夫人の宗栄が家元職を代行した。明治24年4月14日死去。62歳。本姓は久田。号は全道,以心斎。
千宗守(5代) せん-そうしゅ
1763-1838 江戸時代後期の茶人。
宝暦13年生まれ。4代千宗守の養子。武者小路(むしゃのこうじ)千家5代家元。火災にあった一方庵を四畳半の茶室にたてなおし,半宝庵と名づけた。天保(てんぽう)9年4月16日死去。76歳。本姓は川越。号は休翁,一啜斎(いっとつさい)。
千宗守(6代) せん-そうしゅ
1795-1835 江戸時代後期の茶人。
寛政7年生まれ。裏千家9代千宗室の3男。5代千宗守の養子。武者小路(むしゃのこうじ)千家6代家元をつぐが,天保(てんぽう)6年1月22日養父にさきだって死去。41歳。初名は宗什。号は仁翁(にんおう),好々斎(こうこうさい)。
千宗守 せんの-そうしゅ
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例