1861~65年、米国を二分した内戦。北部の「アメリカ合衆国」と、合衆国から分離した南部の「アメリカ連合国」が奴隷制存続を巡って交戦し、国家分裂の危機に陥った。リンカーン大統領の下、存続反対派の北部が勝利し、奴隷制は廃止されたが、60万人以上の軍人が戦死し、深い傷痕を残した。現在の米国は「南北戦争以来の分断」と言われる。
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1861~65年のアメリカ合衆国の内戦。当時34州を数えた合衆国が「南部」11州と「北部」23州とに分かれて、文字どおり国を二分して同胞が相争った南北間の内戦であった。したがって、この戦争は「諸州間の戦争」War between the Statesとよばれることもある。
[本田創造]
戦争による戦死者数は南北両軍あわせて61万余に及び(ちなみに第二次世界大戦でのアメリカ軍の戦死者数は40万余)、また機関銃が初めて実戦化されるなど、大規模な近代戦の様相を呈した。この戦争が合衆国に与えた衝撃と影響は深甚かつ広範であったが、とりわけ黒人奴隷制度が廃止され、400万の黒人奴隷が奴隷身分から解放されたことの歴史的意義は、きわめて大きい。
[本田創造]
18世紀後半の独立戦争(「アメリカ独立革命」)は、多くの点で先進的性格をもっており、「第一次アメリカ革命」ともよばれるにふさわしい数々の成果を収めた。しかし、それにもかかわらず、革命の指導権を握ったのが北部の大商人と南部のプランター(プランテーション経営者)であったという歴史的制約のために、新たに誕生した近代的民主共和国のなかに、前近代的な一つの制度を残すことになった。この革命は、植民地時代から存続していたこの国の黒人奴隷制度を廃棄することができなかったのである。南北戦争に先だつ数十年間に植民地時代の主要商品作物であったタバコにかわって、綿花生産を中心にした黒人奴隷制度が南部で以前とは比較にならぬほど大発展を遂げることを可能にした歴史的条件は、こうして独立革命そのもののなかに求められる。おりからイギリスでは産業革命が飛躍的に進展し、原綿需要は増す一方で、ホイットニーの綿繰機の発明と、従来の海島綿(かいとうめん)にかわる新品種の陸地綿の導入とは、南部が綿花生産地域としてイギリスのこの需要にこたえる直接的契機となった。
他方、北部においては、対英戦争(一八一二年戦争)後、19世紀も進むにつれて、木綿工業や鉄工業が発達し、これらの産業を基軸にして合衆国でも産業革命が進行し、自立的な独自の資本主義が北東部(ニュー・イングランドおよび中部の諸州)で急速に展開し始めていた。北西部の独立自営農民層を基盤にした商業的農業の発達は、運河や鉄道などの運輸・通信機関の伸長によって北東部と結び付き、これらの二大地域に地域間分業に支えられた資本主義的再生産圏が成立する。北東部の工業の急速な発展を支えたのがその後背地として広大な国内市場を提供した北西部で、その北西部の農業の発展は農産物市場としての北東部の工業に依存していたのである。北東部と北西部との間に種々の地域的利害対立が存在したにもかかわらず、現実にそのような相互依存関係が成立したのは、これらの二大地域が基本的には自由労働に基づく社会発展の道を歩んでいたからである。
こうして、19世紀前半の合衆国では、各州それぞれに別個の州憲法をもちながらも、合衆国憲法という統一原理のもとに組織された一つの共和国=国家的領土内に、南部には黒人奴隷制度を基礎にした前近代的社会が、北部には資本主義を基盤にした近代的社会が、それぞれ同時併存し、ことごとに社会・経済・政治的諸利害が地域対立として顕在化した。1820年のミズーリ協定成立、28年および32年の関税法制定、45年のテキサス併合、46~48年のメキシコ戦争、「50年の妥協」成立、54年のカンザス・ネブラスカ法制定とそれに続くカンザスの内戦、57年のドレッド・スコット判決などの一連のできごとは、南北間の軋轢(あつれき)の代表的なものである。
このような時代的背景のもとに、1848年には奴隷制度に反対する諸勢力が結束して自由土地党を結成したが、この党のスローガンは「自由な土地、自由な言論、自由な労働、自由な人間!」であった。続いて「50年の妥協」とカンザス・ネブラスカ法に対する闘いのなかから、より強大な奴隷制反対政党である共和党を誕生させ、56年の大統領選挙には早くもジョン・フレモントを大統領候補に擁立、プランター=奴隷所有者の利益政党である民主党と闘った。そのときの共和党のスローガンは「1フィートの新しい土地も奴隷制に明け渡すな。国外での侵略的政策をやめよ。奴隷貿易の再開を非難せよ。自由土地法を制定せよ!」であった。そして、59年10月の奴隷解放論者ジョン・ブラウンによるバージニア州(現ウェスト・バージニア州)のハーパーズ・フェリー襲撃・占領は、そこに南北戦争の発火点をみいだしてもよいできごとであった。
[本田創造]
1860年秋の大統領選挙で共和党のリンカーンが当選すると、サウス・カロライナ州がただちに合衆国を離脱し、翌61年の2月1日までにミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの南部6州がこれに続いた。そして、同年2月4日には、これらの諸州の代表がアラバマ州のモントゴメリーに集まって討議のすえ、9日には合衆国と敵対する南部連合(アメリカ連邦ともいう)Confederate States of Americaを樹立し、ジェファソン・デービスを大統領に選出して、公然と奴隷制度を認める憲法を制定した。続いて、4月12日の未明、南軍がサウス・カロライナ州にあった北軍のサムター要塞(ようさい)に砲撃を浴びせ、内戦の火ぶたが切って落とされた。これに対しリンカーンは、初めて7万5000人の志願兵を募集し、また南部の海上封鎖を命じた。その後まもなくバージニア、ノース・カロライナ、アーカンソー、テネシーの4州が南部連合に参加し、ここに南北戦争が本格的に開始される。ただし、奴隷州でありながら、ケンタッキー、メリーランド、デラウェア、ミズーリの諸州は、合衆国にとどまった。また、バージニア州の西部は南部連合への参加を望まず、その結果、戦争中(1863.6)に独立してウェスト・バージニア州として合衆国に加盟する。
サムター要塞の攻撃に成功した南軍は、首都ワシントンを攻略して、一気に勝利をわがものにしようと軍を進めた。これに対し北軍は、この戦争を合衆国の統一を護持するための「防衛戦争」と受け止め、1861年7月に入って、ようやく常備軍の拡大、非常支出、50万の義勇兵募集などの戦時非常態勢の措置を講じた。両軍の最初の激戦となった7月の第一次ブルランの戦いで、数のうえで南軍をやや上回る北軍が大敗し、戦争の短期終結は困難であることが明らかになった。以後、戦争は長期化して互いに一進一退を繰り返し、北軍による南部沿岸一帯の封鎖のもとに、東部地域、中部山岳地域、西部ミシシッピ川地域を主戦場に多くの戦闘が展開されたが、戦局が北軍の優勢に転じ始めるのは62年9月のアンティタムの戦いのころからである。リンカーンはこの機を逃さず、9月22日奴隷解放予備宣言を発し、それは翌63年1月1日に奴隷解放宣言となって、この戦争での北部の大義を全世界に明らかにした。また63年11月19日に激戦地ゲティスバーグで彼が行った戦没者慰霊のための演説は、民主主義の理想を掲げたものとして有名である。
1863年の末ごろまでに北軍はミシシッピ川地域をほぼ制覇したが、北部の軍事的勝利を確実にしたのは、1年後の64年暮れにシャーマン将軍が敢行したアトランタからサバナに至るジョージア進撃作戦の成功であった。65年4月2日に南部連合の首都リッチモンドが北軍の手に帰した1週間後の4月9日、南軍のリー将軍がアポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏し、4年にわたる内戦は終わりを告げた。
南北戦争を北部の勝利に導いた要因は多岐にわたるが、従来ややもすれば見落とされてきたのは、この戦争において果たした黒人の役割である。戦場だけに限っても、18万6000人余の黒人兵が正式に陸軍に籍を置き数々の戦闘に参加したが、そのうち13万3000人が奴隷州の出身であった。また、3万人の黒人兵が海軍で軍務に服した。そして彼らの死亡率は、白人兵と比べて35~40%も高かった。
[本田創造]
南北戦争は南北両地域間の武力抗争として戦われたが、その本質は前近代的な南部の黒人奴隷制度と北部の産業資本との矛盾・対立の暴力的爆発であった。それはマルクスの表現によれば、「二つの社会制度の間の、奴隷制度と自由労働制度の間の闘争」であり、またビアードは、「階級構成、富の蓄積と分布、産業発展の過程、および建国の父祖から受け継いだ憲法上の広範な変革を巻き起こした社会戦争であり、北部と西部の資本家・労働者・農民が、南部のプランター貴族を国家権力の座から追放した社会的大変革であった」と述べている。結局この戦争は、植民地時代以降、2世紀半近くにわたって強固に存続していた黒人奴隷制度を廃止し、以後、アメリカ資本主義が新たに開放された南部を包摂しつつ単一の広大な国内市場を基盤にして、全国的規模でいっそう発展することを可能にした歴史的条件を用意したという点で、世界史的意味でのブルジョア民主主義革命であった。南北戦争が「第二次アメリカ革命」ともよばれるゆえんである。また黒人に関して、彼らはこの戦争によって奴隷制度のくびきから解放され、法のもとでの自由を確かに獲得したが、それがどこまで真の自由たりえたかは別個の問題である。
[本田創造]
『山本幹雄著『南北戦争――その史的条件』(1963・法律文化社)』▽『山岸義夫著『南北戦争研究序説』(1973・ミネルヴァ書房)』▽『本田創造著『南北戦争・再建の時代』(1974・創元社)』▽『菊池謙一著『アメリカの黒人奴隷制度と南北戦争』(1984・未来社)』▽『長田豊臣著『南北戦争と国家』(1992・東京大学出版会)』▽『エドマンド・ウィルソン著、中村紘一訳『愛国の血糊――南北戦争の記録とアメリカの精神』(1998・研究社出版)』▽『本間長世著『正義のリーダーシップ――リンカンと南北戦争の時代』(2004・NTT出版)』▽『クレイグ・L・シモンズ著、友清理士訳『南北戦争――49の作戦図で読む詳細戦記』(学習研究社・学研M文庫)』
1861-65年の間に,アメリカ合衆国の南北両地域の間で行われた戦争。奴隷問題を焦点とする南北対立の中で,南部11州が連邦を脱退してアメリカ南部連合を結成し,連邦側はそれを阻止し,連邦を守ろうとして南北戦争が起こった。南北戦争は今日ふつう〈内乱Civil War〉と呼ばれているが,戦争中,連邦側は〈反逆戦争War of the Rebellion〉と呼び,南部連合側は〈独立戦争War of Independence〉と呼んだ。このほか連邦側の呼び方に〈大反逆〉〈連邦を救う戦争〉〈連邦のための戦争〉〈解放戦争〉〈奴隷解放の戦争〉があり,南部連合側の呼び方には〈第2次アメリカ独立革命〉〈連合の戦争〉〈脱退戦争〉〈北部からの侵略戦争〉〈憲法擁護戦争〉〈諸州間の戦争〉などがある。今日でも南部人の多くは〈諸州間の戦争War between the States〉という表現を好む。
南北戦争の原因は複雑だが,その基本的なものとして,南北両セクションの形成,奴隷論争,西部領地における奴隷制度可否の問題があげられる。1812年の第2次英米戦争以来,アメリカは商工業中心の北部と,奴隷制綿花栽培を中心とする農業地域の南部とにしだいに分かれ,両者の間に経済的・政治的・社会的対立を生んだ。しかも奴隷制度を必要としなくなった北部や中西部諸州は,1830年代から南部奴隷制度,ひいては南部社会や南部文明を批判し,非難しはじめた。これに対する南部の奴隷制度擁護論はしだいに感情的となり,南部は孤立した閉鎖社会の性格を濃くしていった。南北対立をさらに深刻にしたのは西部への領土拡張だった。西部へ領土が拡大するにつれて州が増えていったアメリカは,北部自由州と南部奴隷州の数のバランスをとるため,重要な妥協を繰り返してきた。しかし米墨戦争の結果,48年領土が一挙に太平洋岸まで広がると,西方領地における奴隷制可否をめぐる南北の妥協は困難となり,対立が激化した。
1850年代に入ると,南北両地域の対立を増す事件が相次いだ。悲惨な南部奴隷の姿を描いた52年の《アンクル・トムの小屋》の出版,新領地での南北両派の衝突を招いた54年のカンザス・ネブラスカ法,奴隷制支持派に有利な57年のドレッド・スコット事件判決,59年奴隷のいっせい蜂起を計画したジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃,そして最後に60年の大統領選挙で奴隷制反対の共和党のリンカンが当選すると南部諸州は連邦から脱退,アメリカ南部連合を結成した。南部連合に加わったサウス・カロライナ州は州内にあった連邦サムター要塞を包囲し,これに対してリンカンは救援を決定,それを機に61年4月12日南軍が要塞砲撃を開始したことによって,南北戦争が始まった。
→奴隷
戦争開始時,連邦側はこの戦争が短期間に終わるものと考えていた。当時,連邦23州の人口は約2100万,南部連合は白人550万,黒人奴隷350万だった。工業・食料生産,鉄道敷設距離でも連邦は圧倒的だった。連邦側は,大兵力の集中,大量補給が重要な要件となる近代戦に対処するだけの経済力をもっていたのである。これに対し南部の経済力の劣勢は明らかだった。しかも南部連合大統領J.デービスは,誕生まもない不統一の連合を率いなければならなかった。しかし南部連合はR.E.リーや〈石の壁〉のあだ名で知られたT.J.ジャクソンのように勇敢で知略に富んだ軍人に恵まれていた。それゆえ開戦当初,南部の首都リッチモンドをめざして進撃した北軍が,61年7月21日ブル・ランの戦で惨敗するに及んで,連邦はにわかに大軍の動員に乗り出した。
戦争はほとんど北軍の南部進攻という形で行われた。その戦局は三つに分けられる。(1)海上からの南部封鎖,(2)リッチモンドとワシントンをめぐる東部攻防戦,(3)アパラチア山脈以西の戦線,とくにミシシッピ川を確保し,さらに南部中心地に侵入しようという西部戦線がそれである。開戦と同時にリンカンは5500kmに及ぶ南部海岸線の封鎖を命令し,ヨーロッパ貿易に大きく依存する南部連合に打撃を与えた。東部戦線ではリッチモンドをめざす北軍が,リー将軍の指揮する南軍に再三妨害された。リー将軍は62年春北部に侵入したが,9月半ばアンティータムの戦で阻止された。早くから北軍に有利に展開した西部戦線では,北軍はオハイオ川から南下してミシシッピ川流域に入ったが,近代戦の性格を理解するU.S.グラント将軍が西部戦線の指揮をとるに至って戦局は急速に展開し,63年末北軍はテネシー州のチャタヌーガに入った。東部では再び北部に侵入したリー将軍を迎えうって,63年7月1~3日ゲティスバーグ会戦が行われた。そのころすでにミシシッピ川は全域にわたって北軍に制圧され,W.T.シャーマン将軍はアトランタからジョージア州の海岸部に向かって徹底的な破壊作戦を行い,さらにカロライナへ北上した。この破壊作戦は,戦後も長く南部人の恨みをかった。
一方,ひき続く激戦の背後では,南北ともに慎重な外交戦略を展開していた。南部連合にとってはヨーロッパ,とくにイギリスに南部独立を承認させること,連邦にとってはそれを阻止することが,外交の優先課題だった。1862年9月イギリスが南部承認の気配をみせると,9月23日リンカンは軍総司令官の権限で63年1月1日を期し占領地域の奴隷を解放する〈奴隷解放予備宣言〉を発した。リンカンはこの卓越した政治行動によって,イギリスその他のヨーロッパ諸国の南部承認を中止させ,また北部内の自分への批判者にこたえることができた。
1865年4月9日,グラント将軍に追われたリー将軍とその軍隊は,バージニア州アポマトックスで降状,南北戦争はここに事実上終了した。リンカンがフォード劇場で撃たれたのは4月14日である。南部連合は誕生4年目に消滅した。残された課題は,脱退した南部11州をどのようにして連邦に復帰させるか,解放された黒人をいかに扱うか,の再建の問題であった。
南北戦争はアメリカ建国以来今日までにアメリカ人が経験した最大の戦争である。あしかけ5年のこの戦争で死んだ将兵は,南北合計で62万3000人に達したが,これは独立戦争から第2次大戦に至るアメリカの他の戦争の戦死者の合計よりも多い。第2次大戦の戦死者は41万人を割る。物質的損失も巨大だった。とくに大部分の戦闘が行われた南部では,アトランタ,コロンビア,リッチモンドなどの都会が荒廃し,5000マイル(約8000km)の鉄道も寸断された。このように南北戦争が巨大な犠牲をアメリカ国民に強いた悲惨なものになったのは,この戦争が人類史上初めてともいえる近代的総合戦だったからである。南北とも大軍を必要とし,徴兵制によって市民を動員した。この戦争では軍用電信,潜水艦,地雷,要塞用鉄条網,機関銃その他の近代兵器が使われた。鉄道輸送による大軍の展開,補給線の確保は,従来の戦争の様相を一変させた。射程距離の長い正確な旋条つきライフルの使用は,両軍の殺傷力を著しく高めた。こうした戦争技術の革新にもかかわらず,両軍の戦術は広い戦場で陣形を組み,最後に銃剣攻撃をするという,旧態依然たる18世紀的なものだった。そういう密集陣形への砲火の集中が,多大な損害を生んだのである。
南北戦争はアメリカ合衆国の分裂を阻止した重要な戦争であったが,それは同時に兄弟どうしの戦争であり,アメリカ国民に数多くの傷跡を残すことになった。
執筆者:井出 義光
南北戦争はアメリカ経済の発展にとっても大きな意義をもった。歴史家ビアード夫妻は南北戦争を〈第2次アメリカ独立革命〉と呼び,経済史家H.フォークナーは,南北戦争が産業革命を推進し,北部資本主義の発展をもたらしたと述べた。南部奴隷制度は廃止され,保護関税であるモリル関税(1861),ホームステッド法(1862),国法銀行法(1863)が成立し,大陸横断鉄道(1869完成)の建設が認められた結果,北部産業資本の主導の下に国内市場が統一され,西部開拓が進展することとなった。
もちろん,南北戦争が直接的に経済成長を促進したわけではない。北部の工業はそれ以前から発達しており,戦争はむしろ一時的に生産を阻害した。また南部農業は,奴隷を使用してはいたが,効率的で生産性も高く,経済的には繁栄していた。したがって,南北戦争は南部の経済を破壊し,その後の停滞の原因をつくり出したのみならず,アメリカ経済全体の成長を戦争中は遅らせた。それゆえ,南北戦争がアメリカ経済の発展を阻害したという見解もあるが,これは正しくない。南北戦争前の南部経済は,イギリスを中心とする経済圏に属し,農産物輸出による経済発展のコースをたどろうとしていた。イギリスから独立したアメリカ国民経済を形成し,工業化によって経済発展をはかろうとするコースは,南部の敗北によって実現可能となった。その後のアメリカが,工業国として世界経済の中心たりえたのは,南北戦争の結果,後者の方向で経済が発展したからであった。
→南部再建
執筆者:岡田 泰男
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アメリカ合衆国を脱退して新国家を建設した南部11州と,この脱退を認めようとしない合衆国との間で1861~65年に起こった内乱。1812年戦争以後商工業地域として発展を遂げた北部と,黒人奴隷を使役して綿花栽培を行う南部とは奴隷制の是非をめぐって意見を異にするに至った。40年代の領土拡大は西方領土への奴隷制導入の可否をめぐって南北間の意見の対立をさらに深めた。南部はリンカンの大統領当選を機に脱退へと踏み切り,61年4月12日,南軍のサムター要塞攻撃によって戦争が始まった。南北戦争は史上初の近代的総力戦であり,地雷,甲鉄艦などの新兵器や鉄条網,塹壕(ざんごう)が戦場に登場し,電信,鉄道輸送が威力を発揮した。戦死者は南北あわせて62万人を数えた。戦争中にリンカンにより奴隷解放宣言が出されただけでなく,合衆国政府により保護関税法とホームステッド法が制定され,大陸横断鉄道の建設が認可されたため,北部産業資本はこれ以後国内市場を拡大し,南部を組み込んだ形で国民経済を発展させることができるようになった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…地域間移動についてみると,全体的傾向は西への人口移動である。この動きは,合衆国の西方への版図拡大に伴うものであり,歴史上西漸運動の形をとって,ことに南北戦争後から1890年ころのフロンティア消滅までの間に顕著にあらわれた。移住民の主体は白人であるが,彼らの開拓に伴って先住民インディアンも西方への移動を余儀なくされた。…
…それに対し,通商,国防海運,漁業,郵便,通貨,航空,度量衡など全州共通事項を連邦の専属権限とし,州権限に規定されない事項を含む立法の一般権限を連邦政府に与えている。それは,カナダ連邦の創設期がアメリカ合衆国の南北戦争と重なったため,当初カナダの連邦政府権限をできる限り包括的なものにしようとする意向が強く働いたためであった。しかしその後,とくに大恐慌以降の政府の機能拡大にともない,各種行政の管轄をめぐる連邦と州との権限争いが司法判断に求められることになった。…
…その後,逆にフェデラリスツが野党として,州権論によって1812年の第2次英米戦争への協力を拒んだ。さらに,南部プランター層が少数派としての自己の利益擁護のために,州権論を発展させ,連邦法の無効宣言の理論,さらにその論理的帰結としての連邦よりの脱退の理論を展開して,南北戦争(1861‐65)に入った。南北戦争後には連邦政府の経済規制を好まないビジネス層によって州権論は利用された。…
…1812‐14年の第2次英米戦争は,合衆国がイギリスからの経済的自立を達成する最初の契機となった。この傾向は1861年にはじまる南北戦争の遠因ともなり,また南北戦争によって決定的に強められもする。中・南米でも,ナポレオンによる本国スペインの占領を契機として,1810年ごろから植民地の独立運動が盛り上がった。…
…その中でも,A.リンカンのポートレートは特に有名である。61年,南北戦争が勃発するや撮影隊を編成し各戦線に従軍し,湿板法により8000枚もの写真を撮影した。ブラディの名前で発表されたが,実際には助手のガードナーAlexander Gardner(1821‐82)やオサリバンTimothy H.O’Sullivan(1840‐82)によるものが多い。…
※「南北戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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